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濃密な恋と、絶望、そして優雅な立ち直り方。鼓動さえ伝わってくる、待望の短篇集。

  • 受賞第130回 直木三十五賞

号泣する準備はできていた

江國香織/著

1,512円(税込)

本の仕様

発売日:2003/11/20

読み仮名 ゴウキュウスルジュンビハデキテイタ
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 255ページ
ISBN 978-4-10-380806-0
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品、文学賞受賞作家
定価 1,512円

大丈夫、きっと切り抜けるだろう。――体も心も満ち足りていた激しい恋に突然訪れた破局、その哀しみを乗り越えてゆくよすがを甘美に伝える表題作、昔の恋人と一つの部屋で過ごす時間の危うさを切り取る「手」、17歳のほろ苦い恋の思い出を振り返る「じゃこじゃこのビスケット」など、詩のように美しく、光を帯びた文章が描く、繊細で、透明な12の物語。

著者プロフィール

江國香織 エクニ・カオリ

1964(昭和39)年東京生れ。1987年「草之丞の話」で「小さな童話」大賞、1989(平成元)年「409ラドクリフ」でフェミナ賞、1992年『こうばしい日々』で坪田譲治文学賞、『きらきらひかる』で紫式部文学賞、1999年『ぼくの小鳥ちゃん』で路傍の石文学賞、2002年『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』で山本周五郎賞、2004年『号泣する準備はできていた』で直木賞、2007年『がらくた』で島清恋愛文学賞、2010年『真昼なのに昏い部屋』で中央公論文芸賞、2012年「犬とハモニカ」で川端康成文学賞を受賞した。小説以外に、詩作や海外絵本の翻訳も手掛ける。

書評

波 2003年11月号より 曖昧なナイフ  江國香織『号泣する準備はできていた』

井上荒野

 十二の短編の主人公たちは、よく回想する。失った恋、過ぎていった恋のこと。少女時代の記憶。「前進、もしくは前進のように思われるもの」の弥生は、米国人の娘をホームステイに迎える朝、自分が娘と同じ十九だった日々を回想し、「じゃこじゃこのビスケット」は、物語りそれ自体が、「何ひとつ、ちっとも愉快ではなかった。美しくもなく、やさしくもなかった。……でたらめばかり信じる十七歳だった」頃の回想である。
回想される記憶は、主人公たちの「過去」ではないのだと思う。何かもっとべつの、切り離された、ある種の異世界としてそれらは思い起こされている。「過去」よりももっとくっきりとした、けれども「過去」よりもずっと戻りがたい場所として。それはときに主人公を苛む。たとえば「熱帯夜」の千花にとっての、恋人の秋美と過ごした沖縄の日々の記憶がそうだ。「人が一所にとどまっていられない――愛においてさえ――というのは、何て残酷なことだろう」いまだ秋美と熱愛中であるにもかかわらず、千花はそう考える。もっとも、千花はじめ、主人公たちは、そこへ戻りたがってもいないようだ。戻ることをあきらめた、というよりは、戻れないことをちゃんと知っているように思える。
戻れない。
その実感は、この短編集を流れる深い川だ。「洋一も来られればよかったのにね」のなつめは、義母との小旅行中、かつての恋人、ルイのことを思う。「あの頃のなつめは、情事を止めさえすれば家に帰れるのだと漠然と思ってもいた。しかし、無論、恋におちるということは、帰る場所を失うということなのだった」
あるいは「こまつま」の美代子。デパートを歩き、夫や子供たちのためにあれこれ見つくろうことを楽しむ彼女は、信二という恋人の思い出を持っている。「……それは信二への思慕ではなくて、信二の隣にいた若い自分への思慕だ。その女は、デパートで夫のパジャマや息子の靴下を買い、娘のためにシュークリームの行列に並んで悦に入るような女ではない」
戻れない彼女たちは、ではどこへ行けばいいのだろう? たとえば美代子は、買い物のあと、一人レストランに入り、ふとグラッパを注文してみる。日常への、ささやかな造反。――が、ラストシーンで私たちはあざやかに足をすくわれる。「美代子はにっこりする。なんでもないじゃないの」変わらないことに安堵するのだ。これはまさに江國香織流のどんでん返しとも言えるだろう。私たちは途方に暮れる。この女はどこに行こうとしているのだろう? かくしてメビウスの輪が出現する。
そうメビウスの輪だ。江國香織の小説には裏がない。今回の読書で私はあらためてそのことに気づいた。
世の中の、たいていの小説には裏がある。たとえば、ある女の幸福な一日が描かれているとすれば、その小説は、「じつは幸福ではない女」の物語であったり、「本当は不幸なのにそのことに気づかないふりをしている女の物語」であったりするわけなのだ。何気なく挟み込まれる描写や、あるいは示唆に満ちたラストシーンが、そのことを読者に伝える。
が、江國香織の小説にはそれがない。どこまで読んでも表しかない。どこまで読んでも裏側に行けない。戻れない女たちの行き先を、安易に用意したりはしない。彼女たちは戻れない。江國香織はそれだけを書く。裏側などないのだということ。今いる面を、ずっと歩き続けなければならないということ。幸福でもなく不幸でもないまま、あるいは幸福であり不幸でもありながら。戻れない場所の記憶を手放すこともできずに。
「こまつま」の美代子は言う。「愚かで孤独な若い娘と、暇で孤独な主婦たちと――。かつて自分は後者だったし、さらに溯れば前者だったこともある」それでは今彼女は何者なのか? あるいは、「前進、もしくは……」の弥生は、空港にあらわれた米国人の娘に脈絡もなく告げる。「ゆうべ、夫が猫を捨ててしまったの」と。それで彼女は前進したのか? 彼女たちにはわからない。そのことが、「わからない」ということが、読者にはっきりと知らされる。曖昧さが、くっきりと鋭いナイフになって、私たちの胸を貫くのである。

(いのうえ・あれの 作家)

判型違い(文庫)

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