カリブー―極北の旅人―

星野道夫が動物を撮った写真の特徴は遠景と近景の間の行き来にある、と以前から思っていた。
他の動物のことは知らないが、人の眼は指で摘んだ花の雌しべから二十キロ先の山並みまでを見ることができる。この機能は生理の祝福と言っていいし、星野はそれを精一杯使い切った。
このことは作品一点を抜き出したのではわからない。ある状況である動物を対象に撮影された一連の写真をまとめて見てはじめて明らかになる。主題となった動物にぐっと寄ったものと、広大な背景の中に小さく、しかしくっきりとその姿が見えるものの両方があって、その間の視覚的なダイナミックな往復が快楽なのだ。
『カリブー―極北の旅人―』では、とりわけ遠景が美しい。手前の地面から遠い山並みまでを写し込んだ奥行きのちょうどいい位置に、一列縦隊で行くカリブーの群れがいる。
写真集を見る時、読者の目は一枚の写真の上にどのくらい留まるだろう？　ライオンがシマウマを襲う瞬間のようなドラマティックな写真では停留時間は短いような気がする。よくぞこの瞬間を撮ったと感心はするけれど、それを読み取ると視線は次へ滑ってゆく。そこまで読んでくれればいいとしか撮影者は言っていない。
星野のカリブーの写真では、見る者の眼は一点ごとの上に長く長く留まる。遠い山のなだらかな稜線と、その手前の広大な雪原。そこを横一列で行く彼ら。空間だけでなく時間においてもこれは遠景である。百分の一秒ではなく数日分の時の流れが写し込まれている。この場所の、カリブーがいない長い時間が重なって見える。
そこで、自分がこの光景に憑依されていることに気づく。今現在の自分の心を取り巻く世間がすべて遮断され、そんなことはすべてどうでもいいと思われて、雪の荒野を辿り続ける彼らの思いがどっとこちらに流れ込む。抵抗する暇もないうちに彼我が入れ替わってしまう。
たぶん彼らカリブーは遠い山を見てはいないだろう。自分の前を行く仲間の尻が視野に入っているかぎり心配することはない。先頭を行く者が何に頼って針路を定めているのか知らないが、その後に続く自分たちはただ足を運べばいい。やがて宿営地に着いて、交尾、出産と育児の日々が始まる。それを具体的に想像する知力はないが、それでも本能が用意する映像が彼らを前へ前へと促す。
そこまで考えて、ああ、感情移入しすぎているなと思う。ふっと我に返って、憑依から解放される。自分に憑いていたのはカリブーの魂ではなく、雪原と遠い山並みの方だった。本当は自分はここで、自分の部屋で、写真集を開いていたいのではない。アラスカで寒さに身をさらし、降り積もった粉雪を再び煽る強い風に抗して立っていたかった。カリブーたちの一頭になって雪原を歩いていたかった……
なんだ、まだ憑依されているじゃないか。
こうして、一枚の写真からいつになっても解放されない。しかし、人生には捕らわれている安楽というものがあるのだ。星野の写真を媒介にして、カリブーの安楽を人は共有できるらしい。