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伝説の小劇団の公演旅行は、小さな嘘をきっかけに思わぬ悲劇を生む――。

夜、僕らは輪になって歩く

ダニエル・アラルコン/著、藤井光/訳

2,376円(税込)

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発売日:2016/01/29

読み仮名 ヨルボクラハワニナッテアルク
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 382ページ
ISBN 978-4-10-590123-3
C-CODE 0397
ジャンル 文芸作品、評論・文学研究
定価 2,376円

内戦終結後、出所した劇作家を迎えて十数年ぶりに再結成された小劇団は、山あいの町をまわる公演旅行に出発する。しかし、役者たちの胸にくすぶる失われた家族、叶わぬ夢、愛しい人をめぐる痛みの記憶は、小さな嘘をきっかけにして、波紋が広がるように彼らの人生を狂わせ、次第に追いつめていく――。ペルー系の俊英が放つ話題作。

著者プロフィール

ダニエル・アラルコン Alarcon,Daniel

1977年、ペルーの首都リマに生まれ、3歳で渡米。コロンビア大学で文化人類学を、アイオワ大学で創作を学び、英語とスペイン語で執筆する。初長篇『ロスト・シティ・レディオ』は各紙誌で激賞され、PEN/USA賞などを受賞。第二長篇となる『夜、僕らは輪になって歩く』はPEN/フォークナー賞の最終候補作となった。グランタ誌およびニューヨーカー誌は、最も優秀な若手アメリカ作家の一人として彼の名を挙げている。サンフランシスコ在住。

藤井光 フジイ・ヒカル

1980年大阪生まれ。同志社大学准教授。訳書にウェルズ・タワー『奪い尽くされ、焼き尽くされ』、テア・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』、セス・フリード『大いなる不満』、ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』等。著書に『ターミナルから荒れ地へ』。

書評

透明な語り口と深まる〈謎〉

野谷文昭

 舞台は、地政学的にはペルーを思わせるが、内戦状況などからすると中米でもありうる。著者のアラルコンは三歳の時に米国に移住しているから、読者はこの架空の国をことさら出身国ペルーと重ねる必要はないだろう。とはいえ、作品にリアリティーを付与するために、彼はペルーで盛んにリサーチを行い、刑務所を見学したりルポルタージュを手掛けたりしていて、それを溶け込ませることで作品に厚みを与えていることは確かだ。
 だが、書き出しから、舞台が重なる前作の『ロスト・シティ・レディオ』とはずいぶん調子が違っている。どこかボラーニョの『2666』の第一部を思わせる軽みと、語る歓びのようなものが伝わってくる。時系列で言えば、内戦が終わって最も悲惨な時期が過ぎ、偽りとはいえ平和と日常が戻ってきたことで、前作に張りつめていた緊迫感と恐怖感が薄らぎ、そして何よりも「旅芸人の記録」や「バイバイ・ブラジル」のように旅回りの一座の活動が語られていることが原因だろう。動きがあり、笑いがあり、また演じられる劇が枠小説として効果を上げているのだ。さらにこの旅は、バルガス=リョサが得意とする、都市と「国の最深部」を結ぶ働きもしている。
 前半は、政府軍の弾圧によって解散した伝説の劇団を再建し、自作の戯曲を再演しようとする座長のヘンリーの行動を中心に首都で、後半はわずか三人の劇団に加わった若者ネルソンの身に起こることを中心として、主に「T」という田舎町で物語は展開する。演じられる劇は独裁者小説のパロディーのような『間抜けの大統領』で、ヘンリーが、街外れに住む友人を訪ねようとしてオペルを運転しているときにそれを思いついたというのだが、『百年の孤独』誕生のエピソードを踏まえたこの話は、パロディーが通じる読者への目配せであると同時に、物語の虚構性を露にしてもいる。どうやら著者はためらわず面白さを優先させる自信を得たようだ。
 しかし、予想に違わず、公演は順風満帆とはいかない。様々なトラブルに見舞われ、劇団の存続すら危ぶまれる始末だ。とりわけ、ヘンリーと獄中生活を共にした若者ロヘリオが、刑務所が爆破されたときに死んだことが大きい。それが彼の身内に衝撃をもたらし暴力事件を生む。あるいはイクスタという女性を巡るネルソンと画家のミンドの確執が、劇団の運命を左右する。ネルソンが、ロヘリオの死を認めない老母のために息子の替え玉を務めるといった話や、元恋人で妊娠したイクスタの子の父親が誰かという話は謎めいている。ネルソンは、たとえ強制されたにせよ、なぜ息子役を演じたのか、なぜ自分のものではない赤ん坊の父性にこだわったのか。これが元で殺人事件が起きるのだから何とも不可思議だ。このあたりはガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』で語られる謎(ミステリー)と性格が似ている。しかも、あろうことかネルソンは、その殺人事件の犯人として投獄されてしまう。ここに働く力学の不条理さを著者はラテンアメリカ特有のものとして描きたかったのだろうか。
 この物語は『予告』に似て、「T」という田舎町の年代記(クロニクル)にもなっているが、語り手は一体何者なのか。注意深く読まなくても、読者はかなり早い段階で、「僕」が語り手であることに気づくはずだ。彼は物語の内容のほぼすべてを知っていて、それを読者に語って聞かせている。これも『予告』の「わたし」と似ている。しかも「僕」は「T」出身のジャーナリストで、登場する人物たちの多くと知り合いなのである。その立場を利用して、彼はインタビューを行う。こうして集めた人々の証言や記憶を「僕」はモザイクのように組み合わせていく。様々な過去が時系列に沿わず、行きつ戻りつしながら、より大きな物語を作っていく。アラルコンは先行する〈ブーム〉の作家たちをあまり意識していないようだが、この作品はむしろラテンアメリカの先行する作家や作品のエッセンスを巧みに吸収し、その上で創作した新たな物語として読むことが可能だ。これを分析した謎解き本が出てもおかしくない。だがこの作家の、接続詞や関係代名詞を用いないために速度があって淀みがなく、しかも透明感を感じさせる語り口は、〈ブーム〉の作家たちよりも先に述べたボラーニョに近い気がする。
 物語の中で印象的な場面は少なくないが、私が感動したのはヘンリー、ネルソン、ベテラン俳優のパタラルガが再会して祝杯を挙げ、『間抜けの大統領』をパロディーのように演じるところで、この歓びに溢れる場面があるからこそ、最後の悲劇が一段とその悲劇性を増すことになるのだ。

(のや・ふみあき 名古屋外大教授・ラテンアメリカ文学)
波 2016年2月号より

短評

▼Noya Fumiaki 野谷文昭
俳優三人だけの劇団が復活し、スペイン内戦直前に活動したロルカのバラッカのように、内戦後のペルーらしき国の辺鄙な場所を巡るというだけで、わくわくしてしまう。しかも出し物は「間抜けの大統領」。その劇団の受難と、俳優として参加した若者の受難を記録したクロニクルを、喜劇に笑い、三角関係に胸を痛め、冤罪に憤りまがら読むうちに、宿命に翻弄される人々が愛おしくなる。エピソードは奔放に羽ばたきながらも、タイトルを生んだ刑務所の様子など、取材に基づく重みがあり、読み終えたあと、言いようのないやるせなさがいつまでも残る。

▼Yiyun Li イーユン・リー
想像力とは記憶の一形態である、とナボコフは言ったが、この小説はその完璧な実例だ。アラルコンの記憶は移ろいやすい日常の細部をしっかりと捉え、そして彼の想像力はひとときも曇ることなく、大勢の人物が織り成す強力な物語を創造する。これは類いまれなヴィジョンと知性によって書かれた作品である。

▼The Guardian ガーデイアン紙
心温まるロード・ノヴェル、呪われたラブストーリー、そして解決されない殺人のミステリーが、語り手によって検分され、巧妙に織り上げられていく。見事である。

▼The New York Times ニューヨーク・タイムズ紙
このぞくぞくするような本は、野心あふれる政治的作品だが、その力の源となっているのは個人的なものごとである。ごくまれに現れる抽象性は、破壊的なまでの鮮明さを持った具体性に、あっという間に凌駕される。

▼The New York Times Book Review ニューヨーク・タイムズ・ブック・レビュー
巧みに構成され、読むものを魅きつける。語りは重層的で、きらめくようなニュアンスに溢れている。

訳者あとがき

 二〇〇七年に第一長篇『ロスト・シティ・レディオ』(邦訳は二〇一二年刊行)を発表した後、ダニエル・アラルコンはさして間を置かずに第二長篇の執筆に取り掛かった。前作と同じく、内戦を経験した南米の架空の国を物語の舞台としたその新作は、内戦の記憶が消えつつある時代に、小劇団に加入した一人の若者の旅路を描くという構想のもと、二〇一〇年にはいったん完成していた。
 その過程で、二〇〇八年から二〇〇九年にかけ、アラルコンは長篇から派生した短篇を複数発表している。いずれも、ペルーを思わせる架空の国の首都を舞台に、ネルソンという名前の若者がみずからの経験を語る形式になっている。そのクオリティに疑いはなく、「ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ」をはじめとするアンソロジーにも再録されている。第二長篇の刊行は時間の問題かと思われた。
 ところが、アラルコンは完成したはずの物語に不満を覚えるようになる。自身の第一稿を読み返した彼はまったく納得できず、それを破棄して一から書き直すことを決意した(残した原稿はわずか十一ページだったという)。その過程で、物語の構成はまったく新しいものに変わっていった。チリの作家ロベルト・ボラーニョによる『野生の探偵たち』や、ドイツの作家ハインリヒ・ベルの『女のいる群像』といった小説からヒントを得て、二〇一二年の終わりにようやく、アラルコンは新作の完成を宣言した。それもつかの間、その後もさらに改稿を重ね、二〇一三年にようやく、本書『夜、僕らは輪になって歩く』が刊行された。七年間の、本人いわく「恐ろしく非効率的な」執筆期間を経ての完成だった。
 本書はアメリカで『ロスト・シティ・レディオ』以上の注目を集め、合衆国においては主要な文学賞の一つであるPEN/フォークナー賞の二〇一四年の最終候補作に選ばれた(受賞したのはカレン・ジョイ・ファウラーのWe Are Completely Beside Ourselves)。本書により、アラルコンは注目の若手作家から、アメリカ文学の重要な担い手としての地位を固めつつあると言っていい。

 アラルコンの前作『ロスト・シティ・レディオ』は、場所も年代も特定できない設定を大きな特徴としていた。一九八〇年代にペルーを襲った内戦をモデルとしていることは推察できても、小説は寓話的であり、どの土地でも、いつの時代でもありうる物語として書かれていた。それは複数の文化や国家の中間で育ったアラルコンなりの選択だった。
 一方『夜、僕らは輪になって歩く』には、もう一回り具体性をもった設定が用いられている。物語冒頭の舞台となる首都は、やはり名前を明かされないが、内陸部がアンデス山脈であることは明記され、ペルーの土着言語の一つであるケチュア語への言及も見出される。加えて、本書には二十一世紀という明確な時代設定がある。
 二〇〇一年、かつての内戦時に活動していた伝説の演劇集団「ディシエンブレ」が復活することになり、主人公である若い俳優ネルソンは、かつての劇団の中心人物だった劇作家ヘンリー・ヌニェスと俳優のパタラルガによるオーディションを受け、三人目の役に選ばれる。彼ら三人は、内陸部の山岳地帯を回って、『間抜けの大統領』を再び上演する旅行に出る。十五年前、上演が政治的に問題視されてヘンリーが半年以上投獄されるきっかけになった劇が、こうして復活することになる。
 国を揺るがした内戦の記憶は過去のものになり、再建された首都からは戦争の痕跡が消し去られている。内戦中には禁止されていた内陸地方への旅も、今ではごく当たり前の日常になっている。そうして変化した社会のなかで、ネルソンは自分の人生や夢、恋愛と向き合う。
 兄のフランシスコはアメリカに移住したが、ネルソンは母国に残らざるをえなかった。さらに、恋人のイクスタとの関係がうまく行かないまま、彼は地方への公演旅行に向かう。初めて首都を離れ、見たこともない風景を次々に目の当たりにし、まったく知らなかった人々と出会い、演技に打ち込む日々が続く。しかし、ふとした偶然から、劇団のリーダーであるヘンリーが旅程を変更したことをきっかけに、その旅は予想外の展開を迎えることになる……。
『ロスト・シティ・レディオ』はラジオが中心となって進行していた。一方、劇団の旅路を辿る本作においては、「演じる」という主題が物語全体に行き渡っている。ネルソンをはじめとして、登場人物はそれぞれの人生において、結婚や恋愛関係におけるすれ違いを経験し、常に演技をすることで、自分の置かれた境遇からの逃避を図る。そして、小説は同時に家族劇でもあり、それぞれの登場人物が経験する他者との軋轢、潰えた人生の夢などが、『間抜けの大統領』という劇、そしてネルソンという一人の若者の経験を通して浮かび上がり、胸を締め付けられるような感覚を生み出している。同時に、演劇を中心として、芸術と社会、虚構と現実との関わりといった主題が、若者の旅路に常に寄り添うようにして展開されている。

 前作においてすでに、アラルコンの硬質でジャーナリスト的な文体は確立されていた。実際、彼は敬愛する作家として、ポーランドのノンフィクション作家リシャルト・カプシチンスキの名前をたびたび挙げているだけでなく、フィクションの創作と並行して、優れたノンフィクション作品をいくつも発表しており、現在はニューヨークのコロンビア大学大学院でジャーナリズム分野の教鞭をとっている。
『夜、僕らは輪になって歩く』においても、そうしたアラルコンの文体は十二分に発揮されている。ネルソンの少年時代、そして芸術学校での人間関係、ディシエンブレ加入、そして公演旅行など、さまざまなエピソードが、鮮やかで鋭い文章によって描き出されていく。
 もちろん、本書においてその文体は、語り手である「僕」の存在とは切り離せない。当初、『夜、僕らは輪になって歩く』は、主人公である若者ネルソンによる一人称で書き進められていた。しかし、執筆中にふと紛れ込んできた、誰か分からない「僕」による語りの声を無視できなくなったアラルコンは、最終的にはその視点から小説を再構成することを選んだ。こうして導入された一人称の語り手は、物語においてネルソンが経験する出来事に接近したかと思えば離れ、微妙な距離を保ちつつ、語りが進むにつれて次第に存在感を増していく。「僕」の言う「事件」とは何なのか? どうして彼は、ネルソンの人生を辿り、ネルソンの家族や友人、ディシエンブレの俳優たちに取材を行っているのか? 彼は何を演じているのか? そうした疑問が、物語を前に進めていき、小説全体を包み込む謎を生み出している。

 本書のタイトルは、フランスの批評家・映画作家であるギー・ドゥボールの映像作品からヒントを得たものだという。そして、小説中においては、監獄での受刑者たちの様子を描写する表現に登場している。アラルコンは故郷であるリマの刑務所を足繁く訪れ、受刑者たちの物語を聞いていたという。刑務所内で一夜を過ごしたこともあり、また、二〇〇九年には三か月にわたって受刑者たち相手に創作の指導を行うなど、刑務所で多くの時間を過ごした経験が、劇作家ヘンリーの投獄体験をはじめとして、小説にも存分に盛り込まれ、物語の外枠を成している。
「輪」というモチーフは表現面にとどまらない。復活した劇団がかつての旅路を辿り直すという公演旅行の計画や、首都から内陸部へ、そしてまた首都へという旅路、登場人物たちが過去を再訪する行動。物語はいくつもの「輪」を形作りながら進行していく。
 一人の若者による、ささやかな冒険の顛末は、こうして、社会の変化や、自己と他者の関係、さらには芸術のもつ意味など、実に多面的な小説として結実している。『夜、僕らは輪になって歩く』は、読み返すたびに、新たな「輪」を見せ、新たな魅力を発見させてくれるだろう。

 小説本体の翻訳に際しては、前作に引き続き、企画から翻訳のチェックまで、新潮社出版部の佐々木一彦さんが併走してくださった。ともすればアラルコンの文体の硬質さを意識するあまり、必要以上に読みづらくなりがちな訳文をうまくほぐしてくださったことに感謝申し上げる。また、作者アラルコンは、サンフランシスコまで押しかけた訳者の僕に、小説に込めた思いを丁寧に伝えてくれた。
 なお、小説の冒頭に置かれたエピグラフにある、ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』と、ウジェーヌ・イヨネスコ『無給の殺し屋』からの引用については、既存の日本語訳を参照したが(それぞれ木下誠訳、諏訪正訳)、ドゥボールからの引用箇所に関しては、アラルコンの小説の主題に合わせて、訳者の判断で表現を一部変更した。
 また、本書の刊行が実現できたのは、合衆国でもまだ注目度が低かった時点から、『ロスト・シティ・レディオ』という小説を支持してくださった読者の方々の後押しあってのことである。こうして、アラルコンの第二長篇をお届けできることを本当に嬉しく思う。本書で初めてアラルコンに出会う読者の方が、『ロスト・シティ・レディオ』も手に取ってくださるなら、訳者としてこれ以上幸せなことはない。
 最後に、いつも僕を支えてくれる家族に。僕が翻訳したなかでアラルコンの小説が一番好きだと言って励ましてくれた妻と、南米といえばビクーニャが好きだという娘に、愛と感謝をこめて、本書の翻訳を捧げたい。

  二〇一五年十二月 京都にて

藤井 光

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