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もしも二人に、別の物語があったなら……
一枚の絵をめぐる哀切のラブストーリー。

階段を下りる女

ベルンハルト・シュリンク/著、松永美穂/訳

2,052円(税込)

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発売日:2017/06/30

読み仮名 カイダンヲオリルオンナ
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
装幀 Takao Ono/装画、新潮社装幀室/デザイン
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 236ページ
ISBN 978-4-10-590139-4
C-CODE 0397
ジャンル 文芸作品
定価 2,052円

旅先の美術館で突然再会した一枚の絵。一糸まとわぬ姿で軽やかに階段を下りてくるのは、忽然と姿をくらませた謎の女。40年の時を経て、ほろ苦い記憶が甦る。あの日、もし一緒に逃げることができたならば――。その想いを、物語にして伝える時がやってきた。人生の終局の煌めきを美しく描く、ベストセラー作家の新境地。

著者プロフィール

ベルンハルト・シュリンク Schlink,Bernhard

1944年ドイツ生まれ。小説家、法律家。ハイデルベルク大学、ベルリン自由大学で法律を学び、ボン大学、フンボルト大学などで教鞭をとる。1987年、『ゼルプの裁き』(共著)で作家デビュー。1995年刊行の『朗読者』は世界的ベストセラーとなり2008年に映画化された(邦題『愛を読むひと』)。他の作品に『帰郷者』(2006)、『週末』(2008)、『夏の嘘』(2010)など。2017年6月現在、ベルリンおよびニューヨークに在住。

松永美穂 マツナガ・ミホ

1958年生まれ。早稲田大学教授。著書に『誤解でございます』など、訳書にベルンハルト・シュリンク『朗読者』(毎日出版文化賞特別賞受賞)、ジークフリート・レンツ『黙祷の時間』、へルマン・へッセ『車輪の下で』、ペーター・シュタム『誰もいないホテルで』など。

書評

文字で描かれた一枚の絵に魅入られる

石井千湖

 ひとりの女性が全裸で階段を下りている絵だ。〈右足が下の段を踏み、左足はまだ上の段に触れているが、すでに次の動きを開始している〉。〈ぼんやりと描かれている階段と壁の灰緑色の背景の前で、その女性は浮遊するような軽やかさで鑑賞者に向かってくる〉。世界的に有名な画家の、長らく行方不明になっている作品だった。
『階段を下りる女』は、映画化もされたベストセラー『朗読者』で知られるベルンハルト・シュリンクが2014年に発表した長編の翻訳だ。
 語り手の「ぼく」はドイツ在住の弁護士。仕事のために訪れたシドニーのアートギャラリーで階段を下りる女の絵を発見したとき、彼のなかに40年前の記憶がよみがえる。「ぼく」はドイツに帰らず、絵のモデルになったイレーネを探す。〈目前の予定のすべてにおいて、代理を立てることが可能だった。ただ、過去に関してだけは、代理を立てるわけにはいかないのだ〉と思ったから。
 絵が描かれた当時、イレーネは20代前半。グントラッハという40歳くらいの裕福な男と結婚していた。グントラッハは画家のシュヴィントに妻の肖像画を注文する。年の離れた夫婦と画家の三角関係から派生した絵の所有権をめぐる争いに、新米弁護士だった「ぼく」は巻き込まれるのだ。「ぼく」はイレーネに恋をして、絵を手に入れることにも協力するが、彼女は黙って消えてしまう。
 愛する人の裏切りに傷つきながらも立ち直り、妻子を得て、仕事でもまずまず成功した男が〈代理を立てるわけにはいかない〉過去と向き合う物語だ。イレーネはなぜすべてを捨てて絵を持ち去ったのか。本当のところ「ぼく」のことをどう思っていたのか。少しずつ謎が解かれていく。
 ことが始まったのは1968年。世界各地で動乱が起こり、ドイツは東西に分かれていた。登場人物がいた西ドイツも「政治の季節」にあったことが垣間見えるが、あまり詳細には記述されない。「ぼく」が安定志向の男だからだろう。例えば学生時代の友人が反体制運動に関わり、弁護を依頼してきたときも、いったんは引き受けようとするものの、法律事務所にとってマイナスになる可能性を示唆されると助けることをやめるのだ。きちんと損得勘定のできる彼が、犯罪まがいのことに手を貸してまで守ろうとしたのがイレーネ。若き日に自ら選んだ逸脱の記憶は甘美なものだ。恋愛感情と結びついているのであればなおさら忘れられるはずがない。ただ、老人が失った青春を取り戻す話に留まっていないところが本書の真骨頂だろう。
 夫と画家がもめていたころ、イレーネがひとりで「ぼく」を訪ねてくるくだりがいい。ふたりの男に奪い合われるというドラマチックな状況に置かれているにもかかわらず、彼女は〈よくある話〉と醒めている。そして自分の若さに対する疑念を打ち明け、「ぼく」に〈あなたは若くなるために、もっと年をとらなくちゃいけないのかもしれないわ〉と言う。若くなるために年をとらなくちゃいけないとはどういうことだろう? 不思議なセリフに引き込まれる。
「ぼく」とイレーネ、グントラッハ、シュヴィント。四人の男女の運命はドイツから遠く離れたオーストラリアで交差する。40年ぶりの再会は、お互いに流れた長い時間を痛感させる。みんな多くのものを喪っている。とりわけ、20代のころの自分の姿を絵画のなかに永遠に封じ込められているイレーネの変化は際立つ。男たちを翻弄した肉体は衰え、死の匂いを漂わせている。しかし、かつて恋した人の変貌がもたらすものは悲しみだけではない。
 イレーネと過ごした14日間、「ぼく」はさまざまなことを話す。彼女の本音を知って衝撃を受けるところもあるが、もしもふたりが一緒に生きていたらどうなったか、想像を広げる場面は切なかった。ありえたかもしれないもうひとつの人生を語るときににじむ感情が、後悔ではなく喜びだからだ。過去に遭遇したはずの「ぼく」が、思いがけない未来を見出す終盤には心を揺さぶられる。静謐だが鮮烈な恋愛小説だ。

(いしい・ちこ 書評家)
波 2017年7月号より

短評

▼Shinichi Fukuoka 福岡伸一
すばらしい絵とはどんな絵のことをいうのだろう。それは、そこに到る時間と、そこから始まる時間が封じ込められた作品、つまり物語が内包された絵だと思う。フェルメールのように。この小説もまさにそのような絵から始まる。全裸の女が階段を降りてくる。その絵は「すでに次の動きを開始している」。ぼく・・は彼女を求め、彼女を探し出す。奇跡的な二週間。やがて野火が彼らの過ごす家に迫ってくる。二人は岸辺からボートで沖に出る。ラストシーンは、まるでミレーの「オフィーリア」のように美しく、静けさに満ちている。最初から最後まで、こんなに絵画的な小説を初めて読んだ。

▼Süddeutsche Zeitung 南ドイツ新聞
作者はこの物語をスリリングで優雅で機知に富んだ作品に仕上げている。登場人物たちは、よいコメディーがいつもそうであるように、はっきりとした不動のキャラクターによってかたどられている。

▼Deutsche Welle Online ドイチェ・ヴェレ・オンライン
『階段を下りる女』は、自分の生涯や老いという要素と人がどのように付き合っていくかについての小説である。

▼Leipziger Volkszeitung ライプツィヒ国民新聞
彼らの人生において何が実際に可能だったのかは、この機知に富んだ、やさしくてときおり悲しい小説では答えが出ないままだ。この本は「殻にこもった生活」、愛の不思議さ、年老いること、つかむことと手放すこと、回顧と出発について語っている。

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