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風景とは、かくも危険なものである――。

暴力的風景論

武田徹/著

1,296円(税込)

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発売日:2014/05/23

読み仮名 ボウリョクテキフウケイロン
シリーズ名 新潮選書
雑誌から生まれた本 新潮45から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 223ページ
ISBN 978-4-10-603749-8
C-CODE 0395
ジャンル マスメディア、ノンフィクション
定価 1,296円
電子書籍 価格 1,037円
電子書籍 配信開始日 2014/11/28

見る人の気分や世界観によって映り方が変わる風景は、“虚構”を生み、時に“暴力”の源泉となって現実に襲いかかる――。沖縄の米軍基地、連合赤軍と軽井沢、村上春樹の物語、オウムと富士山……戦後日本を震撼させた事件の現場を訪ね、風景に隠された凶悪な“力”の正体に迫る。ジャーナリズムの新しい可能性を模索する力作評論。

著者プロフィール

武田徹 タケダ・トオル

1958(昭和33)年東京生まれ。ジャーナリスト・評論家。恵泉女学園大学人間社会学部教授。国際基督教大学大学院博士課程修了。著書に『流行人類学クロニクル』(サントリー学芸賞受賞)『NHK問題』『原発報道とメディア』『暴力的風景論』『日本語とジャーナリズム』等。

目次

 まえがき――戦後的「風景」を訪ねて
それは「気分」であり「世界観」であり「物語」である/「風景」は「暴力」の源泉になる/それはジャーナリズムの課題である
第一部 戦後史の風景

 第一章 米軍基地のある風景――沖縄
つくられた「風景」/重ならない二つの地図/なぜ基地は沖縄に集中したのか/辺野古の決断/沖縄へのアメとムチ/「安保の見える丘」の光景/消費文化の「聖地」/アメリカというOS/消えてゆく他者と死の影
 第二章 革命の風景――連合赤軍事件
軽井沢の「地層」/冬の南軽井沢の戦い/その山荘は今もなお/あまりに情緒的な「総括」/上書きされた「キャラ」の世界/連合赤軍事件の二次創作
 第三章 ウラ日本の風景――田中角栄『日本列島改造論』
土木の力で世界を変える/「ウラ日本」の発見/「改造」という思想/東京に作れないものを作る/宗教と革命と土木技術/広がりゆくオモテとウラの格差
第二部 想像力の中の風景

 第四章 暴力化する風景――村上春樹『ノルウェイの森』
「やれやれ」の退場と「風景」の登場/村上春樹はどこで何を見たのか/死を遍在させた風景へ/なぜ暴力を描かなければいけなかったのか/君たちは崩れ去るだろう
 第五章 虚構と風景――宮崎勤事件と国道16号線
宮崎事件の経緯/「怪物」の来歴/宮崎勤の見た風景/団地、巨大変電所、神社/閉じ込められた欲望/虚構が現実に襲いかかる
 第六章 もうひとつの風景――オウム真理教事件と富士山
忘却される風景/盲学校、ニューエイジ、阿含宗/オウム真理教の誕生/富士山はいつから実物より高くなったのか/サティアンには窓がない/強制される「物語」/脱原発運動が夢見る「風景」
 第七章 物語としての風景――酒鬼薔薇聖斗事件と神戸
一九九五年の村上春樹/友愛と信義の街/見える人には見え、見えない人には見えない/虚構の現実化にともなう暴力/あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか?/震災が「風景」を変えたのではない/重層的な「風景」が他者との関係をひらく
 第八章 塔の国と根の国――マッカーサー道路と秋葉原連続殺傷事件
よみがえる「マッカーサー道路」/「森ビル」の誕生/塔のある街/いつでも逃げられる「場所」がある――/「みんな殺してしまいたい」/なぜそれは秋葉原でなければならなかったのか/幻想としての「均衡な国土」/夢からの疎外/はたして「日本は変わった」と言えるのだろうか
 あとがき

インタビュー/対談/エッセイ

波 2014年6月号より だれも同じ「風景」を見ていない

武田徹

風光明媚な観光地に行けば、皆がビューポイントに立って同じように満足気な表情を浮かべている。しかし日常生活に戻ってしまえば誰も「風景」を気にしなくなる――。そうした行動様式から推測すると、多くの人が観光地ではそこで見るべき「風景」を眺め、普段の生活では代わり映えのしない「風景」について特に意識しないで暮らしているようで、「風景」に向き合うおおよその共通の姿勢がありそうだ。
だが、同じように「風景」に接していながら、隣にいる人は本当に自分と同じ「風景」を見ているのだろうか。マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』に興味深いエピソードが紹介されていた。アフリカのとある部落に衛生監視官が乗り込み、教育映画を上映した。水たまりを掻き出し、空き缶に溜まった水を捨てるといった内容が延々と続く映画だった。上映会の後、監視官が原住民たちに内容について尋ねるとみな「鶏が出ていた」と述べた。鶏を登場させた覚えのなかった監視官がコマ送りでフィルムを確認してゆくと、確かに一瞬、鶏が画面を横切っていた。文明社会からの使者たる衛生監視官と原住民は同じ映画を見ても違うものをみてしまう。
ことほどさように何を見るかは出自や経歴などに束縛されるが、こうして見ている「風景」の違いは殆ど意識されない。その人にしてみれば、自分が見ている「風景」こそが世界の姿なのであり、そこに疑いを差し挟む機会は滅多に訪れない。
しかし、3・11後に私たちが経験したことは、そうした「風景」への無垢な信頼が日常生活を生きづらいものにしてしまう事態だったのではないか。原発事故後、沖縄など遠くに避難した人、瓦礫の受け入れを徹底的に拒否しようとした人には被曝リスクに満ちた「風景」が見えている。その行動に科学的根拠がないとか言っても通じない。彼らには世界が被曝リスクに溢れるものとしか見えないのだから。一方で彼らを諭そうとする側も自分たちの見ている科学的常識の世界に佇み、自分が見ている「風景」を唯一のものと信じて疑わないので論争は噛み合わない。かくして3・11後の不毛な議論状況は「風景」のせいだとも言える。
たとえば悪魔が見えてしまう人がいて、悪魔と戦うために刀を振り回す。悪魔が見えていない人には彼が何と戦っているか理解できず、危なっかしくて困るのでその人を施設に隔離する制度を作り出す。そこに「風景」が暴力を生み出し、その暴力を管理するための排除の制度というもう一つの「暴力」が覆い重なる連鎖が生じる。ベンヤミンは『暴力批判論』の中で法を作り出す超法規的な暴力を神話的暴力(die mythologische Rechtsgewalt)と呼んだが、「風景」もまた暴力と法を生み出す源泉となるのだ。
拙著『暴力的風景論』では、こうした「風景」と「暴力」のつながりについて考えてみた。仲間を粛清して殺し、浅間山荘に立てこもった連合赤軍兵士はどんな「風景」を見ていたのか。宮崎勤や麻原彰晃には、酒鬼薔薇聖斗や加藤智大には世界がどのような「風景」を形成していたのか。世間はいかなる「風景」の中で、彼らの携えた銃、毒ガス入りのポリ袋や振り回したナイフを「凶器」として取り締まったのか。あるいは彼らのような異物を生み出しては排除し、歪みや亀裂をかろうじて糊塗しつつ高度経済成長の夢と幻を強引に実現していった戦後日本の「風景」こそ、実は暴力に満ちたものではなかったのか――。社会の均質性が高まれば、見ている「風景」も均質に傾くが、均質になればなるほどそこに馴染まないものが厳しく排除される構図も生じる。本書では戦後日本において排除の結果起きた象徴的な事件の現場を訪ね、当事者たちと、彼らを包囲する世間が見ていただろう「風景」を再現し、「風景」と「風景」の狭間に芽吹き育つ暴力の輪郭を描いてみた。
再びベンヤミンを引こう。法制度はそれを生み出した神話的暴力の暴力性を引き継ぐ。そんな暴力を否定したければ法制度自体を解体する超法規的な暴力が再び必要となる。それをベンヤミンは神的暴力(die göttliche Gewalt)と呼んだ。本書では、「彼ら」「彼らは」「私たちは」と主語を入れ替えながら、それぞれが見ていただろう複数の「風景」を多少強引に、つまり暴力的に突き合わせ、世界そのものと錯覚されている「風景」の唯一絶対の擬制を解体し、「風景」と「暴力」の靭帯を解きほぐそうと試みた。風光明媚を愛でる景観本と印象の異なる書名にはそんな意図が込められている。

(たけだ・とおる ジャーナリスト、評論家)

担当編集者のひとこと

暴力的風景論

「風景」はいかにして「暴力」となるのか 風景? 暴力? はて……。
 一見して、何をテーマにした本であるかわかりづらいタイトルかもしれません。『暴力的風景論』といっても、見ているだけで襲いかかってくるような「バイオレンスな風景」について論じたものではありません。そのような風景があるならば、むしろ見てみたいと思いますが、残念ながらそのような奇怪な風景を集めて紹介する本ではありません。
 風景というものの“危うさ”について考える――それが、この『暴力的風景論』のテーマです。しかし「風景の危うさ」と言っても、まだピンときませんよね。
 例えば、あるひとつの風景を複数の人が見ているとしましょう。それは風光明媚な観光地の風景でもいいし、高層ビルが立ち並ぶ都会の風景でもいい。たとえそれが同じ風景だとしても、その受け取り方は、見る人によって千差万別です。雲ひとつない青空に富士山が映えるのを見て、「すばらしい。やはりこれが日本の風景だね」と、ほとんどの人はそのような感動を口にするでしょう。しかし中には、「二度と思い出したくないもの」として、その風景を記憶している人もいるはずです。
 極端な例かもしれませんが、それだけ風景というものは、見る人の受け取り方ひとつで、その印象を大きく変えるものです。


「風景」とは、その人が見ている世界そのものである。「気分」の産物であり、「内面」の反映であり、「物語」を構想する想像力によって作り出された「世界観」や「歴史観」に通じる性格を持っている――(「まえがき」より)


 見ている人の気分や内面、物語、そして世界観などによって、そのイメージはプリズムのように変化する――このことこそが、本書で「風景」を論じる際の、いわば前提条件です。
 しかし、なぜそのことが“危険”なのでしょうか。
 それは、「自分に見えている『風景』しかその人には見えない」からです。「そんなの当たり前だろ」と思うかもしれませんが、同じ風景を見ていても、まさか隣にいる人が全く別の印象を抱くとは、なかなか思わないものです。なまじ眼に見えるものだからこそ、「風景は一つである」という固定観念に囚われ、余計にそのような想像力が働きにくいのが、風景の厄介なところです。
 このような風景に対する受け取り方の違いが積み重なることで生まれる、他者への不寛容や排除があるのではないか――本書を貫く問題意識は、ここから出発します。


 人は眼の前の「風景」を現実そのものと誤解して現実の世界に働きかけようとする。そうした短絡は多くの問題を起こすだろう。それは同じ「風景」を見ていない「他者」にしてみれば、理解不可能な暴力の行使になりかねないし、誤解に基づく拙速で誤った行為の影響が自分自身に対しても致命的被害として還ってきてしまうこともあるかもしれない。(「まえがき」より)


 同じ風景を見ていても、他人は違う感想や印象を抱く――こうした前提をきちんと受け入れなければ、自分と違ったビジョンを持つ人に対して、排除や不寛容が生じる。やがてそれは暴力の源泉にもなる。暴力のはじまる場所としての風景について、きちんと考えなければいけない、というのが、本書『暴力的風景論』のテーマです。


 ようやく「風景」と「暴力」がつながりました。
 登場するのは、米軍基地とアメリカ的ショッピングモールが共存する沖縄の風景。「革命の季節」の終焉を象徴する、ある別荘の風景。村上春樹が暴力を描くきっかけとなった風景。連続少女殺害事件の宮﨑勤が見た郊外の風景。風景を虚構化しようとして国家を揺るがす暴力を引き起こしたオウム真理教……。
 著者は、実際に事件の現場を訪れて、彼らと「同じ風景」を見ようと試み、戦後抑圧された暴力が、風景という“窓”を通して虚構へと変わり、やがて現実へと襲いかかっていく過程について論じています。
しかしそれは何も「戦後」に限った話ではありません。


 筆者が「風景」について意識するようになったのは、3.11後の分断状況に心を痛めた経験が大きかった。「風景」はそこに佇めば誰もがそれを見られる。しかし「風景」が誰の前にも公平にあるということは、誰もが同じ「風景」を見ていることとイコールではない。だからこそ「風景」が“共生”の敵となる。(「あとがき」より)


 3.11以降、特に福島の「現実」について、一方的な「言説」を押し付け、排除しようとする動きが、震災から3年経った今でも後を絶つことはありません。そうした状況の中で、「風景の複数性」について熟慮し、それが「共生の敵」とならないように考えるためのヒントが本書『暴力的風景論』にはつまっています。

2016/04/27

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