狐笛のかなた



序章 出会い

   一 野火駆ける


 りょうりょうと風が吹き渡る夕暮れの野を、まるで火が走るように、赤い毛なみを光らせて、一匹の子狐が駆けていた。
 背後から、狂ったように吠える犬の声が、いくつも乱れて、追ってくる。
 腹に鋭い痛みが走って、子狐は一瞬腹をふるわせた。
 その子狐――〈野火〉は、おのれの命が、煙のように細くたなびき、消えていくのを感じていた。
 鼻には、まだ生暖かい血の匂いが、むっとこもっている。標的の喉笛を食いちぎったときに浴びた返り血の匂いだ。
 主につかわされて、人を殺したのはこれがはじめてだったが、その武者は、たやすく殺せる標的ではなかった。だれから知恵を授けられたのか、魔除けの刀を身につけていたのだ。
 鉄は、嫌なものだ。石でも土でもない、人の手によって生み出された、あの金くさいもの。そのうえ呪力がこもっていた。もし、野火が、主の呪力を授けられていない、ただの霊狐であったなら、いまごろは、死の闇へと消えてしまっていただろう。
 かろうじて彼の命を救ったのは、この使命を彼に与えたときに主が与えてくれた呪力だった。だが、その力もいつまでもつことか。〈あわい〉に逃れたくとも、鉄に汚されたこの身では、〈あわい〉にはじかれてしまうかもしれぬ。彼の身を染めた血の匂いが猟犬どもを呼びよせてしまったいま、ただひたすらに駆けねばならない。
 主に、「そなたが駆けるさまは、まるで野火よの」といわれたほどの、すさまじく速い足が、いまは思うようにうごかない。傷ついた胸から流れていく血が、彼の力を刻一刻とうばっていた。
 はるかに広がるすすきの穂が、夕日をうつして金色の波となり、彼の身体をさすっていく。
 興奮した犬どもの声が、すぐ背後に迫り、その匂いがどんどん迫ってくる。
 犬どもに食いちぎられる最期を思い、目を閉じかけた野火のまえで、なにか赤い物がちらりと動いた。そして、あたたかい人肌の香りがした。

 小夜は、夕風の渡る野を、ぼんやりとながめていた。
 稲刈りが終わったこの時期、里の子らはよくきのこ狩りに山に入る。小夜も、みなと一緒に、たんときのこをとって、つい今し方、里へ帰る子らと別れたばかりだった。
 小夜は里の外、この夜名ノ森の端に暮している。〈とりあげ女〉(産婆)を生業としている祖母と二人っきりで。小夜も、もう十二歳。自分たちが他の里人とはちょっとちがう暮しをしていることも、わかる年になっていた。
 夜名ノ森の陰で暮すなんて、さびしかろう。夜には、物の怪がうろつくのではないか。遊び友だちはみな、そういって気づかってくれたが、小夜は、いまの暮しをさびしいと思ったことはなかった。この夕暮れの野のように物音が中空にたなびいて消えていくほど静かなところが、小夜は好きだった。
 人のたくさんいるところに行くと、おちつかなくなる。
 だれにも、いってはいけないよ、と、祖母からきつく止められていたので、仲のよいお春にも話したことはないけれど、小夜には、人の心の声が聞こえた。聞こえるというより、人の思いが眉間のあたりから、染みこんでくるのだ。
 鼻のよい犬が悪臭から逃れる術を身につけているように、小夜も、ふだんは人の〈思い〉を感じるところ――自分で〈心の耳〉と呼んでいる――をふさいでいた。けれど、あまりに大勢の人のなかにいると、ときおり、どうしても人の〈思い〉を聞いてしまうことがある。それが嫌だった。
 すすき野の静けさが、小夜には心地よいのだった。
 かすかに笑みを浮かべて、ぼうぼうと生い茂るすすきがゆれる野をながめていた小夜は、はっと目を見ひらいた。
 すすきの野をかきわけて、遠く、獣の群が走ってくる。
 なにかが犬に追われている。――と、思う間もなく、すすきの間から、赤茶色の獣が走りでてきた。子狐が、おどろいたように小夜を見た。
 その黄金色の目には、はっきりと、恐怖と、あせりと……心細さが見てとれた。
 思わず小夜は、さっと衣の襟を両手でつかんで、開いた。
 とたん、狐が跳ね上がった。そして、細い風のようになって小夜の懐へすべりこんだ。暖かい風が背の方にまわるのを感じながら、小夜は、いちもくさんに駆け出した。
 森に駆けこみ、やみくもに逃げた。枝をかきわけて、かきわけて、無我夢中で進むうちに、ふいに、ぽこっと小道のような場所にでた。
(……あ、森陰屋敷に行く道だわ……)
 小夜はたたらを踏んで、立ち止まってしまった。
 森陰屋敷は夜名ノ森の中にある奇妙なお屋敷で、里人の出入りをかたく禁じている。
 呪いをかけられて、異形になってしまった子が、屋敷の奥にひっそりと隠れて暮しているというのが、もっぱらの噂だった。
 しかし、迷っている暇はなかった。犬たちは、もうすぐ後ろまで迫っている。小夜は、心を決めて、森陰屋敷へ向かって走りはじめた。
 背中にまわった子狐は温かく、ゆすられるたびに、もこっとうごいた。帯がずれて、子狐が下におちないように、背に手をまわしておさえながら、小夜は転げるように走りつづけた。

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