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幕末史
半藤一利

多くの才能が入り乱れ、日本が大転換を遂げた二十五年間。黒船来航から西南戦争まで、大混乱の時代の流れを、軽妙な語り口で平易かつ刺激的にひも解いてゆく。はたして明治は「維新」 だったのか。幕末の志士たちは何を成し、また成さなかったのか――。独自の歴史観を織り交ぜながら、個々の人物を主人公に活き活きと描いた通史。

ISBN:978-4-10-313271-4 発売日:2008/12/18

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幕末史


 私は昭和五年(一九三〇)に東京は向島に生まれました。日中戦争のはじまった昭和十二年に小学校に入学してから六年間、そして昭和十八年に入学して大日本帝国が降伏するまでの中学校三年間、まさしく戦前の皇国史観、正しくは「薩長史観」によって、近代日本の成立史を徹底的に仕込まれました。つまりは“官軍”と“賊軍”の史観です。
「宮さん宮さん、お馬の前にひらひらするのは何じゃいな、トコトンヤレトンヤレナ、あれは朝敵征伐せよとの錦(にしき)のみ旗じゃ知らないか、トコトンヤレトンヤレナ……」という歌も覚えさせられました。とにかく、薩摩や長州や土佐の勤皇(きんのう)の志士たちこそが、正義の味方で、尊皇のスローガンをかざして、皇国に仇なす徳川幕府とそこに加勢する賊軍どもを撃破し、美(うるわ)しの皇国をつくったのだと、そう国史の授業で教えられたのです。
 ところが、それとはまったく違う話も悪ガキのときから、私は聞かされて育ったんです。というのは、わが父の生家たる新潟県長岡市の在の寒村に、子供の頃、身体を鍛えるために夏休みには毎年送り込まれました。ここにあった越後長岡藩というのは、ご存じのように、戊辰戦争において猛然と“官軍”に抵抗して、城下全体が焼け野原となった朝敵藩であったわけです。つまり“賊軍”です。それで祖母からは、それこそ耳にタコができるくらいにしょっちゅう、次のようなことを聞かされたのです。
「明治新政府だの、勲一等や二等の高位高官だのとエバッテおるやつが、東京サにはいっぺえおるがの、あの薩長なんて連中はそもそもが泥棒そのものなんだて。七万四千石の長岡藩に無理やり喧嘩をしかけおって、五万石を奪い取っていってしもうた。なにが官軍だ。連中のいう尊皇だなんて、泥棒の屁みたいな理屈さネ」
 それはまさしく、それまで学校の先生やまわりの大人たちから教え込まれてきた立派なオハナシとはかけ離れた、裏返しの歴史観といってもいいものでした。そしてついでに長岡戦争で、長岡藩兵の勇猛果敢なる夜襲を受けて、“西軍”の指揮官たる西園寺(さいおんじ)公望(きんもち)だの山県有朋だのが、命からがら、それこそ文字どおり尻に帆をかけて逃げていった、という秘話に、こよなく痛快感を覚え、なにやら子供心にも溜飲を下げたものでした。そしてこっちのほうが正しい歴史なんだとの思いを深くしました。
 そんな風に、ガキの時分にごく自然に薩長嫌いとなっていったんですね。ですから、長じても東京生まれの漱石先生や荷風さんが「維新」などといわずに、徳川家の「瓦解(がかい)」と作品のなかでいっているのに、満腔の敬意をはらうわけです。こころみに荷風さんのすさまじい薩長罵倒の啖呵を一つ二つご紹介しましょう。
「薩長土肥の浪士は実行すべからざる攘夷論を称え、巧みに錦旗を擁して江戸幕府を顛覆(てんぷく)したれど、原(もと)これ文華を有せざる蛮族なり」(「東京の夏の趣味」)
「明治以後日本人の悪るくなりし原因は、権謀に富みし薩長人の天下を取りし為なること、今更のように痛歎せらるるなり」(『断腸亭日乗』昭和19・11・21)
 また、先日も、同じ江戸っ子の芥川龍之介の短篇「雛」を読んでいて、「何しろ徳川家の御瓦解以来、御用金を下げて下すったのは加州様ばかりでございます」という一行にぶつかって快哉を叫んだりしました。瓦解に御をつけているのもいいし、トクセンケというルビもすこぶる結構でありました。
 いまも薩長史観によって、一八六八年の暴力革命を誰もが立派そうに「明治維新」といっています。けれども、明治初年ごろの詔勅、御誓文、太政官布告、御沙汰や御達しの類を眺めてみると、当時は維新などという言葉はまったくといっていいほど使われてはいないようなのです。革命で徳川家を倒したものの、民草(たみくさ)は〈やがて薩長が衝突、諸藩がふたたび動き、天下をあげての大乱になるさ〉と思っていたのです。当時の狂歌はからかっています。
  上からは明治だなどといふけれど
  治まるめい(明)と下からは読む
 そんな革命の有難味に無理解の民草をトコトン教育するために、まずは王政復古が唱えられる。いやいや、古きに戻るばかりなのではない、ということで、つぎに百事御一新となる。以下は、王政御一新、大政御一新、朝政御一新、旧弊御一新など、何でもかんでも御一新ということになるのです。
「維新」の語は、目についた範囲でいいますと、明治二年(一八六九)九月二十六日の薩長土肥の連中にたいする論功行賞の詔書で、
「朕(ちん)惟(おも)フニ皇道維新ハ一(いつ)ニ汝(なんじ)有衆ノ力ニ資スルアリ……」
 とあるのが最初かと思われます。さりとて、あとは万事において「維新」になったというわけでもなく、大概は「御一新」で通しているのです。
 そもそも、中国の古典『詩経』にある維新という、そのへんにない厳かな語を引っ張り出して、飾りたてて暴力革命にくっつけたのはいつなるか、誰なるか。世に知恵者はいるものだなあ、と感服する次第です。
 というわけで、これから私が延々と皆さんに語ることになります幕末から明治十一年までの歴史は、「反薩長史観」となることは請合いであります。あらかじめ申し上げておきます。そう、「幕末のぎりぎりの段階で薩長というのはほとんど暴力であった」と司馬遼太郎さんはいいます。私もまったく同感なんです。しかもその暴力が、自分の戦略の都合で、正義と不正義とを区分けしたにすぎません。それにたいして若干の異議を申しあげたいのです。
 そもそも歴史というものは、いろいろな見方ができるものなのでありますから、反薩長のものの見方も知っておいて損になることはありません。「西郷隆盛は偉人である」「坂本龍馬は最高の日本人である」といった描かれ方とは逆に、「西郷は毛沢東と同じ」「龍馬には独創的なものはない」という私の見方がいずれ出てきましょうが、どうぞびっくりせずに聴いていただけたらと思います。

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