鬼と小鬼
1
「火事だっ」
その叫びと半鐘の音が、突然、寝ていた若だんなの夢を蹴飛ばした。
「えっ……何?」
夜中のこととて、部屋には有明行灯の明かりがあるばかりで薄暗い。じゃらじゃらと内側から打ち鳴らされている半鐘の音は、夜と眠気を打ち払っていた。
「若だんなっ、起きて下さい」
仁吉と佐助の声が、離れの廊下から近づいて来る。とにかくどんな状況なのか、見極めなくてはならない。若だんなは布団から抜け出すと、縁側に出た。
明け六つにはまだ間があるというのに、長崎屋の店表から声が聞こえてくる。大火となりそうな予感がして、若だんなは戸にかけた手を、微かにふるわせた。後ろで襖が開く。手代である兄や達が来たのだ。顔つきが強ばっていた。
「若だんな、直ぐに逃げますよ。半鐘の内を掻き回すように打ってるってえことは、近火です」
既に裏手の長屋に火が移っているという。江戸一、繁華な通町一帯が燃えようとしていた。一旦大火となれば、土蔵造りの大店、廻船問屋兼薬種問屋、長崎屋だとて、ひとたまりもない。若だんなの寝起きしている離れも、火に包まれるのだ。
「母屋には知らせたの? それと床下にある穴蔵を開けて、道具達を中に入れなきゃ」
「悠長なことを言ってる間はありませんっ。若だんなさえ助かれば、世の全ては何とかなるんですよ!」
「そんな、無茶苦茶な……」
両親や兄や達は、病弱な若だんなに、それはそれは甘い。天上天下の内に大事な者は、若だんな一人という態度を押し通しているのだ。若だんなは緊迫した半鐘の音が聞こえる中、縁側で苦笑を浮かべた。
江戸では本当に火事が多い。この地で暮らしていれば、一生の内、一度や二度や三度は焼け出されるものらしい。小火も多いから、若だんなも半鐘の音を、しょっちゅう聞いていた。だから今日も大して心配はせず、中庭に向いた離れの板戸を開けたのだ。
途端!
「あっ」と声を上げた時には、煙の塊に包まれていた。触れられるかと思うほどに濃く、いがらっぽいものに搦め捕られる。その煙の向こう、店の北側から、赤い火柱が天に向かって燃え立っているのが見えた。
(火元は、油屋の大場屋さんか)
油屋の油は火事を避けるため、店の地下にある穴蔵に置いてあるものだ。だがそれでも、他の商売よりは遥かに多い油が店先にある。
それを証明するかのように、夜明け前の空に伸び立つ火は勢いを増し、火の粉が風に舞う。長崎屋へも盛大に降りかかっていた。
「これじゃあ、店が燃えちゃうよっ」
喋った途端、濃い煙を吸ってしまい、むせかえる。喉の奥が熱く締め付けられ思わずよろめき、縁側に膝をついた。
「若だんな、縁側から離れて下さい。煙が……若だんな?」
「仁吉っ、戸を閉めろ! 若だんな、息をして下さい。聞こえてますか? 若だんな!」
何故だか必死に、兄や達が呼びかけて来る。だがその声は、遠ざかってゆくではないか。
(あれれ、どうしたんだろう)
若だんなは妙に眠くなった。不思議と体が軽い。それは心地の良い感覚であったが、奇妙に危うかった。暖かいのに、ひやりとした気持ちになる。
(あれ、何が起こったんだい?)
いつもの「きゅんぎー」とか、「きゃわわわー」という声が聞こえる。だから……ここは長崎屋の離れに違いないのに、どうして兄や達の心配そうな声が、こんなに遠くから聞こえるのだろう。
気が付くと黒い塊が側にあった。若だんなはすいと、その暗闇に吸い込まれていった。 |
|