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立ち読み



【特別対談】情報革命期の純文学/東 浩紀+平野啓一郎(「新潮」2010年1月号より転載)

日本文学最大の危機

 現代は、明治維新以降で日本文学が最も危機にさらされている時だと思います。
平野 ええ、そう思いますよ、僕も。
 だから文学はいま、明治維新の時に直面した問題ともう一度向き合っている。例えばライトノベル。人はサブカルチャーの問題だと思ってるんだけど、僕はあれは新しい言文一致の問題だと思う。そのうえで明治には、江戸期から続く戯作と漢籍とヨーロッパから輸入された新しい文学をどういうふうに接続するか、みな一生懸命考えたわけじゃないですか。水村美苗さんが褒め称える漱石がまさにそうですね。しかし、じつはいま、まさに同じことが足元で問われている。その時にひとつ思ったのは、明治期には、出版社兼批評家兼小説家みたいなやつがけっこういたじゃないかと。それに比べて今はどうか。全然いない。
平野 今難しいのは、言と文とがそれぞれに多様化し過ぎていて、どれかとどれかをコネクトさせても明治のような言文一致に見えないことだと思うんですよ。
 うーん。どうでしょう。僕の考えでは、問題はむしろきわめて具体的に市場の分割の問題だと思うんです。ラノベと純文学の融合なんて、理念でもなんでもなく、『涼宮ハルヒの憂鬱』読者の半分ぐらいが手に取る純文学作品を書けばいいという、ただそれだけの話なのではないか。それは原理的に無理というものでもない。明治期の言文一致もそういう話だと思うんです。戯作しか読んでない人がいる一方で、漢籍しか読まないやつがいたり外国文学を読んでいるやつがいたりする。そのマーケットをどう統合するか、どう「共通言語」を作るかという話だったのではないか。言文一致という言い方をしてしまうと、まずは言と文を一致させるって理念があって、それに向けて書いたみたいに見えるんだけど、実際にはもっと切実な問題だったんじゃないかな。
平野 ただ、西尾維新さんの本とか、今どれぐらい売れてるかわからないんですけど、仮に二十万人読者がいるとして、さっきの話で言えば人口の〇・二パーセントでしょう。本を読む人の中でそれがどれくらいの比率なのか分からないけど、そこのマーケットとの統合が、新しい言文一致になるのかなって。もっと趣味的な話になりそうですが。
 いや、平野さん、それは違うと思う。今ライトノベルとかケータイ小説とか、もしくは『ダ・ヴィンチ』系のエンタメ小説がなんで優位なのかというと、あれは映像文化へのアクセスを持ってるからです。
平野 ああ、それはありますね。
 つまり、彼らは実際の部数の何十倍の影響力を持つ可能性がある。純文学からはその回路が開けていない。ここに決定的な差があって、部数だけで見ると、川上未映子さんの『ヘヴン』が西尾維新と極端には違わないじゃないかといっても、それはやはり違うんです。もちろん、売れてりゃいいってわけじゃないですよ。ただ、想像力の源泉として何回も再利用される場に純文学がアクセスできなくなっているのは、まあ問題なのかなあと。
平野 それはそう思います。
 そういう点では村上春樹はずばぬけている。部数の問題じゃないんです。純文学は読まないけど、村上春樹だけは読んでいるという作家たちがエンタメには大量にいる。そしてそれを通じて想像力の感染が起きている。となってくると、純文学の書き手も、少しは映像化される小説を書いたらいいのかなあと、えらく具体的な話になってしまうのだけど(笑)。
平野 いや、それは自覚的な作家はみんな考えることだと思いますよ。
 ところが、このあいだ宇野常寛さんに聞いたら、二〇〇八年に純文学作品で映画化され劇場公開された作品は、小谷野敦原作の『童貞放浪記』だけらしいですね。
平野 僕は文学が特に好きな五千人くらいの読者層と、けっこう本を読むっていう五万人くらいの読者層の性格って、かなり違うと思うんですよ。二千人刻みくらいで、変化するんじゃないかな。で、出来れば、複数の層の読者にマルチに対応するような作品を書きたいと思うわけです。数万人単位のレイヤーに向けて、どれくらいアクセスポイントを設置できるかということを考えるんですが、大きな映画会社の人と話すと、彼らは逆に百万人へのアクセスポイントはあるけれども、より深い層に向けてアクセスポイントを作っていきたいと言うんですね。で、現に文学の原作を探している。僕にもアプローチはよくあるんですが、実際には、なかなか企画会議に通りにくいというのが実情です。
 「企画会議つぶれる問題」はよくわかりますね。先行世代を批判してもしかたないですが、彼らが好き勝手にやっていたために、文学や批評そのものへの社会的信頼が地に墜ちているという現実はある。だから、平野さんとか川上さんとかの本がちゃんと売れて、しかも作家としてのキャラクターが立ち世の中に出ていくのは、とても重要なことですね。そういう努力なしに、水村美苗さん風に「われわれには尊い日本文学の伝統がある」と言っても、だれも耳を傾けてくれない。
平野 まあ、九〇年代までは一般の読者が何考えてるかというのがあまりにも可視化されなかったから、気がついたら文学と読者の間にすごい距離が生まれてたというのはありますね。
 純文学がもしエンタメと自分を区別したいのであれば、そこで文学者が果たすべき社会的な役割って、要は「小説を書くことに対して自覚的である」ということしかないと思うんです。その自覚性がなくなってしまえば、純文学作家とエンタメ作家は区別不可能です。純文学作家が部数が少ないのになぜ偉そうな顔をしているのかといえば、「俺らは文学について考えているからだ」ってことにしかないでしょう。
平野 まあ、そうですね。実際、このご時世で、出版社の中でも一、二万部しか売れない文芸編集者が大きな顔をしてたら、漫画の部署の人たちが「俺たちは二百万部売ってるのに」と思うのは当然です。
 純文学は市場原理では適わないわけですから、じゃあ、どうやって勝つかといったら、「こっちが頭いい」と言うしかないわけです(笑)。
平野 「いいこと言ってる」とか「人生変わった」とかね。
 それなのに今の純文学はどうだ、と僕は時々文芸誌の対談を読みながら一読者として思うわけです。こういうことを言うとまた批判されるのだろうけど、本当に素朴に読者として思うんですよ。とても頭がいいように思えない。これでは売れている作家に負けるに決まっているなあと。
平野 大体、社会適応能力がない人が作家になるわけじゃないですか。だから、その人が好きなことを書いて、社会がウェルカムと言って受け入れるはずないんですよ(笑)。で、これは僕が文学の現場で感じる実感ですが、出版社に入って文芸をやりたい人って、もちろん、文学好きの人が多いし、作家に対してある種のリスペクトがあるんだと思います。だから、作家がわけのわかんないものを書いた時に、編集者自身がそれを、良くも悪くも理解しようとする。その結果、作家と編集者のあいだで盛り上がっても、営業部では「いや、これはちょっと……」と言われ、で、書店でも「うーん」となって、結局、読者に持っていった時にもさっぱり評判にもならないという。
 そうですね。
平野 今、演劇ではサイモン・マクバーニーにせよ野田秀樹さんにせよ、俳優たちとワークショップをやりながら作品を作っていくという方法がうまくいってますけど、作家もここぞという作品に取り組む時には、たとえば二、三人の編集者と組んで、複数の視点から作品を検討して、社会化を図るというような手立てが講じられてもいいと思いますね。文学シーン全体でいうと、若い人が面白いことをやって、それが社会に受け入れられ、それを無視できない先行世代が影響を受けるというような循環的な回路があるべきなんですが、このままの状況だと、若い人たちは本を出せなくなってしまう。今は食っていくためには売れなきゃいけないみたいなとこから泥臭く考えていくことがすごく必要だと思うんです。
 そうですね。でもあまり危機感はないかもしれないですね。少なくとも僕の仄聞するかぎりでは。
平野 でも、今、文芸誌で書いてて危機感がないという人たちは、もう滅びるしかないんじゃないですか。
 長期的には滅びるんだけど、十年間ぐらい滅びない。ほら、郵便局とかそういうのと同じですよ(笑)。繰り返しますけど、僕は文芸誌の人間ではないので、その内部の論理はよくわかりません。ただ外野の人間として感想を言わせていただくと、「もしかりに」文学に市場主義とは別に価値があるというのであれば、やはりなんらかのかたちでその価値を提示しなければならないし、具体的に読者からも信頼を調達しなければいけないだろうと思います。そのためには、もっと外部に向けて文学の価値をちゃんとプレゼンテーション、しかもポジティブにプレゼンテーションしなきゃいけない。だけど、今あるプレゼンテーションは「ケータイ小説は文学じゃない」とか基本的にネガティブなものだし、あとは「自分の書きたいものを書きたい」というとても内向的なものに見えます。むろん、これはあくまでもぼくの感想ですが。
平野 問題意識としては僕も一緒です。僕は「分人主義dividualism」ということを『ドーン』に書いたんですけど、あれは深遠にして複雑な思想を語りたいとかじゃなくて、なるだけプラグマティックな、生きていくうえで使い勝手のいいデザインの概念にしたかったんですね。キャラとか仮面とか、いろいろな言われ方をしてたけど、その比率を考えるとか、仮面を愛して生きるとか、あるキャラを愛してそれをベースにして生きるというのは発想として難しいから、対人関係ごとに自分が分化するという考え方に整理して、分化した複数の自分のバランスを考えつつ、その中にひとつでも好きな「分人」があれば、そこを足場に生きていけばいいということを、分かりやすく言いたかったんです。文学作品が、社会に対して実践的に関わっていくためのアクセスポイントみたいなものとして書いたんです。


文壇復活の意味

平野 今、分析的なことに関心を示す読者って本当に少なくて、やっぱり共感を求めてる読者のボリュームが一番多いですけど、三千人ぐらいの人が共感するストーリーと、それこそ十万人が共感するストーリーって全然違う。それはもう無視できない現実です。そのとき、マルチな読者層にアクセスしつつ、時間を忘れて読んで、ああ、面白かったというエンターテインメントの満足だけじゃなくて、読み終わったあとにも、何か重要なものが残るというような作品を考えるべきだと思うんです。実際、海外のTVドラマ、例えば『ER』とか見ても、けっこう人間の生き死にについて考えたりする人、多いと思うんですよ。
 アメリカのエンターテインメントって、やはりすごくよくできてますからね。
平野 視聴者の生活時間の中から、絶対に毎週一時間は取ってくるっていう感じで、ものすごく考えて作り込まれていますよね。それは、ドラマも映画もそうですけど、文学も時間芸術である限りは、どうしても人を作品の前に括り付けるということが必要なんですよ。
 絵画とか写真ってどんなに壮大で、メチャクチャな表現でも、極端な話、五秒ぐらいで見れるじゃないですか。だけど文学は数時間から数週間をかけないと鑑賞できない。時間をかけることに対してみんながすごくシビアになってる中で、よっぽど面白くて、よっぽど何か得るものがないと読まれなくなってる。そういう意味で、文学はどうしても詩みたいに純化しきれないジャンルだと感じます。おまけに、アートみたいにクオリティを価格に転化できない。同じ薄利多売でも料理や服はそれが出来ますが。
 いま平野さんがおっしゃった文章のクオリティって、つまり文体ですよね。ところが、文体ほど誰も読んでないものはない(笑)。
平野 今は特にそうです。
 極論を言えば、文体はいまや作家の自己満足の領域なんですよ。
平野 僕のこの十年ぐらいの感触で言うと、文体に対する評価は、本当に、読みやすいか読みにくいかってことだけになってる。ブログの感想を見てても如実です。
 むろん、だからといって、文体のよさを捨てる必要はまったくない。ただ、文体のよさに時間をかけることができる、その余裕をどうやって調達するかというだけの話です。だから面白い物語を作ればいい。単純にそう思います。ただ、その時に、文体のよさこそが、それだけがわれわれの売りなんだというロジックがありますね。純文学は文体だ、エンタメは物語だ、みたいな二分法。蓮實重彦氏が広めたものですが、いまではそれは自滅のロジックです。
平野 うまくいかないですね、それは。
 いい文章を書くためには余暇が必要だ。そのためにはいい物語を書いて売れなければならない。これはとても明確な話だと思います。さきほど平野さんは、エンターテインメントはパッと読んでハイ終わり、純文学は残ると言ったけど、問題は「残る」ということの意味です。個人の中で残るというのもあるんだと思うけど、やっぱり文学に力があるとすれば、集団の中で残っていくことなんですよ。
平野 ああ、そうですね。
 それはつまり、その作品が語られ続けるってことです。今でも純文学は、かろうじて中間小説誌の小説より話題になっているかもしれない。部数が低くても議論は呼んでいるかもしれない。だとすれば、純文学が持っているそんな議論喚起の能力をもう少し研ぎ澄ますのもひとつの道です。この点では、純文学が批評を敵視するのもまた自滅の道だと思います。日本において、批評と文学は明治の草創期から二人三脚でやってきたわけで、もう少し批評家の価値を文芸誌も認識したほうがいいとは思いますけれど。純粋に功利的に。
平野 コミュニケーションは、高尚であろうとなかろうと、とにかく自己目的的に成立してることが大事なわけですが、文学の話をすることでコミュニケーションが成立しなければ、ブログに感想を書いて公開する意味もないわけですよね。
 まさにそうです。
平野 だから、そういう意味では、本を刊行して批評が出るってことはいいことだけど、やっぱりそれは、読者がそれについて言及するための経路として重要だと思うんですね。
 まあ、とりあえずの対策は文壇の復活でしょう。文壇の復活をどう仕向けるか、それが今の文芸誌のほとんど唯一の使命だとすら言える。けれども、文壇なんてなくても、天才が登場すれば状況を変えてくれるみたいなロジックってあって。
平野 ありますね。
 二〇〇八年、「早稲田文学」の十時間シンポジウムやった時、福田和也さんも僕に対してそういうこと言っていて。そりゃあ、すごいやつが来ればすべては変わるのかもしれませんよ。けれども、その天才を受け入れる場所そのものがなかったらどうするんでしょうね。
平野 すごいやつがそこで書きたいと思うかどうかっていうのもありますね(笑)。
 天才を受け入れる場所を維持するためには、凡人を生かすシステムが必要なんです。本当の才能なんて、十年に一人ぐらいしかいない。だから十年間システムを維持しなければならない。
平野 実際、今、十年に一人の逸材がどこのジャンルに進むかという選択肢がいっぱいあるわけですからね。批評にも小説にも行かないという可能性はあるわけで(笑)。
 そういう点で福田さんはロマンティストだと思いました。
平野 出版社なり文芸誌なりが長期的な展望の中でこの作家に何を書かせて次に何を書かせていくというような計画が立たなくなっているという問題もあります。僕自身も結局そうですけど、いろんなところからオファーを受けて、その都度作品を書いていくので、五年単位くらいのヴィジョンを編集者と共有しにくくなっています。それは編集者の側も言っていて、ある作品で可能性が開かれたとき、次の作品でさらにプッシュしたいと思ってるのに、売れてる人ほど三つも四つも先のスケジュールが他社と詰まっている。だから、今ここで頑張っていても、それを次につなげるモチベーションが持ちにくい。あともう一つ、これはもう本当に市場の問題ですけど、漫画雑誌だと編集部に数十人という編集者がいて、そのおかげで一人が最大で三人までしか担当作家を持たないということが可能なのに対して、文芸編集者は一人で担当作家を何十人も抱えていて、ある一人の作家に深くコミットして、数年がかりで仕事をするということが難しくなってます。
 どうでしょう。漫画家は漫画家でキツイはずで、編集者が漫画家の生殺与奪権を握っていて、いろいろ問題も起きている。あれは導入するべきじゃないし、実際に純文学の規模では導入できないでしょう。むしろ、小説、とくに純文学では作家の自由度がきわめて高い。出版社を移ったりしても大丈夫ですよね。これは作家にとって利点なので手放すべきじゃない。そこを伸ばすべきじゃないか。つまり、作家が自己プロデュース能力を持たなきゃいけないってことですよ。
平野 そういうことになりますね。
 とはいえ、作家が自己プロデュース能力を成長させるためにも、文芸誌にも独自の色がなきゃいけない。けれども今はそこが両方ともおかしくなってて、雑誌にも色がないし、作家のほうもただなんとなく書いてるみたいな世界になってるようですね。
平野 作家も複数の関係を維持してリスクヘッジしてるんだとは思うんです。
 それはあるでしょう。しかし、制度の問題以前に、とにかく今は派閥もなければ文学観の対立もなくて、「ライトノベルやケータイ小説はいかがなものか」とツッコミを入れているだけで。
平野 でも東さんがそこまで怒ってるというのは偉いと思いますよ(笑)。
 いや、怒っていません(笑)。いまはただそういう流れになったから感想を述べているだけです。本当に、もうだれにもなにも口を出すつもりはないんです。僕は僕のやるべきことをやるだけで。

(次のページへつづく)



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