立ち読み:新潮 2016年10月号

シン・ゴジラ論(ネタバレ注意)/加藤典洋

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
宮沢賢治春と修羅』)

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 庵野秀明の脚本・編集・総監督になる『シン・ゴジラ』を第一作に匹敵する、まともな作品として面白く見た。喚起力に富む映画で、私自身、一九五四年一一月封切りの第一作を、翌五五年に小学校の行事として、見ているのだが、そのとき七歳だった私の目の前に、新作映画『ゴジラ』がどのような作品として存在していたのかを、追体験する気がした。
 どこがこれまでの第二作以降の凡百の「ゴジラ」映画と、今回の『シン・ゴジラ』の違いか。
 すぐに目につくのは、今回の作が、これまでのゴジラを「チャラ」にし、「なかったこと」にしていることである。そのことによって、第一作の「初心」の迫力を、第一作から六二年にしてはじめて、「更新」することに成功している。
 この、「ゴジラをなかったことにする」作戦の嚆矢は、二〇一四年のギャレス・エドワーズ監督によるハリウッド版第二作、『GODZILLA ゴジラ』である。今回の庵野版は、この企てを継承するものだが、それを、さらに押し進めている。
 ギャレス・エドワーズ版は、ハリウッド版ゴジラの第一作、ローランド・エメリッヒ監督による『GODZILLA』(エドワーズ版の脚本制作時点で「一五年前」の一九九八年の公開)を受け、「一五年前」の日本の原発事故に端を発する物語としてつくられている。エメリッヒ版のゴジラが日本のゴジラ・シリーズの出自を継承、踏襲していたのに対し、はっきりと水爆実験出自のゴジラとのつながりを切断した。代わって出てくるのは、ステルス戦闘機めいた形状をもつ新種の原子力怪獣ムートーで、これがじつは一五年前の原発事故の原因であり、一方、ゴジラは、太平洋の真ん中、真珠湾付近でこれを迎え撃つ。ゴジラは古生代からの生き残り怪獣で、一九五〇年代、米ソはさかんに水爆実験を繰り返すが、じつはそれは「実験」の名を騙る、「ゴジラ掃討」を目的とする国家的機密作戦だった。
 これに対し、今回のゴジラは、米国生まれ。「60年前、各国が大量の放射性廃棄物を深海に捨てた。」それを食べることによって放射能に耐性をもつようになった新生物が、かねてから米国の政府研究機関によって極秘に調査対象となっていた。そこでGODZILLAというコードネームを与えられていた巨大不明生物が、なぜか、東京湾に現れ、上陸直前、変成を遂げてさらに巨大怪獣化し、市街地を蹂躙し、災禍を及ぼす。これに対処するため、米国からの情報をもとに、政府はこの巨大不明生物を「ゴジラ」と命名する。ところで、エドワーズ版と違って、庵野版のゴジラ映画では日本に大地震も原発事故も、起こらない。理由は明らかだろう。このゴジラの出現自体が、地震と原発事故の発生であり、ゴジラはその「換喩」なのである。
 つまり、二〇一四年のエドワーズ版がゴジラ・シリーズから離陸した契機は、二〇一一年の三・一一の原発事故であり、この事故のインパクトが、二〇〇四年の『ゴジラ FINAL WARS』をもって一度は姿を消した日本の(戦後の)文化象徴に、新しい生命を吹き込んでいる。そして、このハリウッドの動きに刺激を受け、原発事故が、今度はゴジラとなって現れたのが、今回の『シン・ゴジラ』である。三・一一の原発事故が日本社会の無意識の領域で、一九五四年の巨大な水爆実験事故の衝撃に肉迫、さらに凌駕したらしいという事実が、このことの背景にあるだろう。私の関心からいえば、この「よみがえり」によって、「シン・ゴジラ」のなかで、日本の戦後と、また災後ともいうべき、異質な二つの時間が出会い、一つの相乗を形づくっている。

(続きは本誌でお楽しみください。)