立ち読み:新潮 2017年9月号

湖畔の愛/町田 康

 周囲を山に囲まれた神秘的な湖は人を引き付けてやまない。立ちこめる霧。吹き寄せる風。揺らいで縮緬のような皺が寄る湖面。或いは。葭が茂る汀から景色を眺めていると視界を横切って渡り鳥が飛んでいく。湖底には神宝が眠り、ときに龍神が天翔るという言い伝えもある。
 そんな景色や物語に魅了された人々が数多くやってくる。問題はそこだ。人間は神秘に憧れ、神秘を求めて湖に集まる。ところが。人間は神秘だけでは生きていくことができない。人間は神秘とは正反対の実際的な施設や物資なしには一日だって生きていられない。
 そこで多くの人が参集する湖畔には神秘とは真逆の、船着き場、土産物屋、公衆トイレ、駐車場、カフェ、レストラン、ソフトクリームスタンド、コンビニエンスストアー、ガソリンスタンドその他諸々。
 そうした施設はすべて色とりどりの看板を掲げて神秘を損なう。そしてそれよりなにより、そうした設備や施設が増えればやってくる人間の数がまた増え、その人間の高い声や不作法な振る舞いが互いに衝突して発生し放散されるエネルギーが激しく神秘を損なった。
 しかしいったん言葉によって神秘と定められた神秘は不壊。人々は言葉に神秘の欠片を見つけるために陸続としてやってくる。
 ああああああっ。そも神秘とはなんぞや。広大な九界湖の畔に建つ、良縁をもたらすという触れ込みの神社には思い詰めたような顔の若い女性が絶え間なく訪れ、その様子には鬼気迫るものがある。それもまた神秘と言えば神秘だが神の功験・霊験が神秘なのか、それとも人の心が神秘なのか。そんなことは誰にもわからない。湖に吹く風とビル風の違いはどこにあるのか、と問うようなものだ。ところで。
 若い女といえば、ここにも一人の若い女がいて思い詰めたような顔をしている。といってでも、ここは岩を踏み、草の根を掴んでんで進む険しい岬超えの参道ではない。清潔で快適なホテルのロビーである。
 女は花の入った壺を抱え、左の柱の陰、階段の脇から現れ、左の柱の脇の臺に花の壺を置き、浮かぬ顔をして立っている。顔つきは美しい。美しいが暗く沈んでいる。花の顔が台無しである。そして花と言えば。
 いま女が運んできた花も安っぽかった。配色もどことなく田舎くさく野暮で、壺の大きさに比べて分量が少なく、花を飾ることによって余計に貧寒とした感じになったような、そんな観があった。女はそのことを悲しんでいるのか。答えておくれ。湖の上空を飛ぶ小鳥よ。
 という前に問うことがいくらもある。
 そもそもここはホテルらしいが、どこにあるなんというホテルなのか。この女はだれなのか。るほほほいっ。そんなことは小鳥に聞かなくたってわかりそうなもの、っていうか、わかる。わかることは記すし、言う。
 ここは俗化した湖からやや登ったところに建つ九界湖ホテル。物語化された屁のような神秘を追い求める人々の求めに応じて変化していった他の施設とは一線を画す、典雅で優美な、独自路線を行くホテルだった。そして女は……。
 と言おうと思うとき、右奥からでっぷり肥った男が現れて女に声を掛けた。
「圧岡君」
「あ、支配人」
 これで女の姓が知れた。女の姓は圧岡。そして男の姓は支配人、ってそんな訳あるかいっ、あるかいっ、あるかいっ、あるかいっ、と遅延した音がいつまでも響くのは、支配人、などという姓は芸名・筆名ですらない、と思われるからである。ということは、そう、支配人というのは男の役職であろう。ところが男は、「支配人はやめてくれよ。僕はもはや支配人じゃないんだから」と言った。
「すみません。支配人」
「また、言ってる」
「ごめんなさい。すっかり癖になっちゃってて」
 と女は詫びた。
「なにも謝ることじゃないが」と男は苦笑した。その苦笑にはどんな意味があったのか。それは、もはや支配人ではない、という言葉から知れる。そう、男は降格されたのだった。男と圧岡の会話はそれから暫くの間続いたが、そこから事情をくみ取るのは面倒くさい。沖の千鳥が知っている程度のことはすべて審らかにしてしまおう。

 男の名前は新町高生。九界湖ホテルの従業員であることは圧岡と同じく制服を着ていることから知れる。そして新町はかつてはこのホテルの支配人という地位にいたが、いまは降格されて平の従業員になっていた。なぜ降格されたのか。とんでもない失態をしたのか。いやさ、そうではなかった。九界湖ホテル株式会社は売却されて経営者が替わり、組織替えがあり、大規模なリストラといえば聞こえがよいが、はっきり言って首切りがあった。
 その際、新町は、ならばこの際、すっぱりとこの業界から足を洗い、別の仕事を始めようと考えていた。なぜ新町は多くの仲間がそうしたように周辺に数多くあり、慢性的な人手不足に悩まされている同業他社への転職を考えなかったのか。
 それは九界湖ホテルが好きだからであった。彼は九界湖ホテルの建物やサービス、伝統がとても好きだった。そしていろいろと文句を言いながらもオーナーとその支援者・太田の人柄も好きだった。
 そんな九界湖ホテルに長年勤めた新町は、湖畔に黴のようにはびこって景色・神色を蝕む、低価格路線のホテルや旅館で働くのが嫌で嫌でたまらなかった。それだったらいっそのこと、まったく関係のない、酒販業界か食品卸といった方面、または魚介類が好物なので鮮魚を取り扱うような仕事に就こうと思い詰めていたのであった。
 ところが豈図らんや、新町は新しい経営陣に、残って欲しい、と言われた。なぜというに、そりゃあそうだ、いくら経営を刷新するといっても革命を起こすわけではなく、旧いものをすべて破壊し尽くした後に新しい経営をうち樹てるなんてことはできるわけがない。というかはっきりいって予約のお客様もあり、どうしたって事情がわかっている人間が必要になってくる。
 そこで新町に声がかかった訳だが、そうなると現金なもので、それまでは、やはりこれからは酒販か鮮魚の時代、旅館・ホテル業なんてなのははっきり言ってクソだよ、とヘイトスピーチをしていたのが、いやー、素人に鮮魚は難しいでしょ、やっぱ。と思うようになって。
 それで新町は残ることにした。つまり結局のところ彼は九界湖ホテルが好きで、そこから離れられなかったのである。そこには勿論、この歳になって知らない業界に行って苦労したくない、という計算もあった。しかし。
 そう。以前と同じ待遇ではなかった。彼は降格され、代わりに本社から新しいマネージャーが赴任してきた。綿部という痩せた陰気な若い男だった。会計士の資格を持っているという触れ込みだった。新町が持っている免許は危険物取扱免許と普通免許だった。
 そこで新町がもう一度、鮮魚か酒販の気持ちを盛り上げようとしたが、盛り下がった気持ちをもう一度、盛り上げるのは難しく、新町は残留を決意した。
 そんな新町に正式の挨拶をしないまま、オーナーと太田は西国へ下っていった。新町は一言くらいあってもよいではないか、と思ったが、投資に失敗してすべてを失った太田はすっかり爺むさくなって背も丸まっていて、新町は、まあ、仕方がないか、と諦めた。
 圧岡がホテルに残ったのもほぼ同じ理由だった。圧岡もまた九界湖ホテルを愛しており、残留を打診され、すぐにこれを受けた。ただ、新町と違った点がひとつあった。

(続きは本誌でお楽しみください。)