一九八八年の五月だったと思う。村上春樹さんから「アトスに行ってみたい」という電話があった。翌年に『03 TOKYO Calling』という雑誌の創刊を予定していて、紀行ルポを書いてほしいというお願いをしていた。その返事だった。
アトスはギリシャ北部にある正教会の聖地で「こちらがわの世界とはまったく違った原則によって機能している」「まるっきり別の世界」(本書)である。村上さんの希望は、まずこの地を訪れ、その後、二、三週間をかけてトルコを回りたいというものだった。全旅程をご一緒したかったが、副編集長として創刊準備に当たらねばならず、ギリシャにのみ同行した。撮影は、村上さんが長年懇意にしている松村映三さんにお願いした。
取材の旅はこの年の八月に、当時村上さんが滞在していたローマから始まった。徒歩で回るアトスを除く移動の手段は、三菱自動車に貸してもらった四輪駆動のパジェロ。ギリシャまではともかく、悪路の多いトルコでは重宝すると考えてのことだ。三菱の代理店は当時ローマにはなく、車は指定した日時にミラノから持ってくると言う。イタリアに長く暮らし、当地の事情に詳しい村上さんは懐疑的だった。
「小崎君、日程はゆったり組んだほうがいいよ。予定通りに物事が運ぶなんてことは、イタリアではあり得ない」
けれども車は遅滞なく到着した。北イタリアのビジネスマンは几帳面で、約束は守るのだ。そして我々は後に痛感することになる。「予定通りに物事が運ぶ」ことがないのは、イタリアではなくギリシャ、いやアトスであると。
詳細は本書をお読みいただくとして、間違いなく異常にハードな旅だった。そのダメージを(肉体的に)最も被ったのは、本書に出てくる「都会育ちのO君」である。アトスの山中で三十三回目の誕生日を迎えるこの編集者は、旅をともにした三人の中で最年少でありながら最も脆弱だった。何しろ他のふたりは、フルマラソンを走り、いまではトライアスロンにさえ出場する小説家と、空手の有段者で、もとローラーゲームの選手である写真家である。アトスに着く以前、小説家と写真家はほぼ毎日長距離のジョギングをしたが、若年編集者は早々に音を上げて、ほんの数キロでギブアップするのが常だったことを告白しておく。
アトスで印象的だったことのひとつは、村上さんがときおり絵を描いていたことだ。本書にも写真が収録されているが、修道院の内部や、猫などをスケッチしていた。「スケッチのいいところはね」と村上さんは言った。「写真と違って記憶によく残ることと、周囲の人が話しかけてくることだね」
建物といえばおよそ修道院と隠者の小屋しかなく、暮らす人といえばおよそ修行僧と宗教関係者しかいない(そして女性がひとりもいない)隔絶した土地に「周囲の人」はほとんどいなかった。だが、スケッチによるものかどうか定かでないとはいえ、作家の脳裏と肉体に記憶は確実に刻まれた。
村上さんがなぜアトスを選んだのか、実のところは僕にはわからない。本書には「本でアトスのことを読んで以来、どうしてもこの地を一度訪れてみたかった。そこにどんな人がいて、どんな生活をしているのか、この目で実際に見てみたかったのだ」と書かれている。でもその奥に、どのような思いが潜められていたのかは推測する以外にない。この旅の前や後に書かれたさまざまな小説に出てくる「井戸」のようなものとして、アトスは捉えられていたのかもしれない。
「まるっきり別の世界」を体験して、村上春樹の小説は変わったのだろうか? それも僕にはわからないが、例えば『海辺のカフカ』で強い雨が、さらにはイワシとアジが降ってくる描写を読むと、アトスで我々をぐしょぐしょにした強烈な雨を想い出す。あれは本当に激しい雨だった。水ではなく魚であったとしても不思議ではないような雨だった。
ところでラヴラ修道院のくだりで、O君が西瓜を食堂からくすねてきたという記述がある。この優れたルポルタージュの中で、これだけが事実でなく話を面白くするためのフィクションである。若きO君の名誉のために記しておきたい。

(おざき・てつや 『ART iT』『REALTOKYO』『先見日記』編集長)