| 波 2005年4月号より |
川上弘美『古道具 中野商店』 三浦しをん
町の古道具屋さんである中野商店には、のんびりとした時間が流れる。店主は、枯淡とねっちりとが絶妙の塩梅でミックスした、ナイス中年・中野さん。従業員は、右手の小指の先がないタケオと、主人公のヒトミだ。 店を訪れるあやしいお客さんたち。商売仲間の面々。中野さんの姉で、謎の「ゲイジュツカ」のマサヨさん。はっきりしないタケオとの仲。いろんな人々にふりまわされながら、ヒトミは愉快な古道具屋ライフを満喫中! いや、ヒトミ本人は、自分が「満喫」しているとは思っていないだろう。奇特な人々にイライラハラハラさせられっぱなし。あーあ、なんでこうなっちゃうの、と悩めるお年頃なのだから。だが私はそんなヒトミの姿に、びりびりと心が震えた。 たとえばヒトミがマサヨさんから、「男が上にのっかってくるときって、文鎮に押さえられてる紙に自分がなったみたいな気分にならない」と言われるとき。中野さんの愛人が、得体の知れぬ「ものすっごくエロい」小説を書いていることが判明し、中野さんがなんだか意気消沈してしまったとき。私はくすくす笑い、しかし次の瞬間には、それらのエピソードの向こうに広がる深淵を想像して、ゆるやかな感電に遭ったように、打ち震えずにはいられなかったのだ。びりびりと。 中野商店には、電撃みたいなカタカナの「ビリビリ」は似合わない。空気はあくまで、穏やかでひっそりしている。そこに集う人々の心のなかに、どれだけ激しく大きなうねりがあろうとも。すべては、古道具から発せられる中途半端な時間の流れに飲みこまれていく。 美術館や大会社のロビーに、古道具が飾られることはない。古いけれど、芸術品ではないし、古さだけで価値がつく(たとえば原始人が描いた洞窟壁画とか)ほど古いわけでもないからだ。 古道具に価値を見いだすのは、ひたすら個人の心だ。あるひとにとっては、ずっと探していた思い入れのある品でも、べつのひとにとってはただのゴミ。その中途半端さを私は愛する。その中途半端さを愛さずにはいられぬ、古道具屋を徘徊する人々を愛する。 古道具って、人間そのものみたいだな、と感じることがある。べつに、「古い物には精霊が宿る」と言いたいわけじゃない。古道具はひとと同じ時間の流れのなかを生きている、と思うのだ。 何百年も前に作られて、崇めるように大切にされ、ずっと伝えられてきた骨董とは違う。ガラクタと紙一重で、気を抜くとすぐに記憶の彼方にうずもれてしまうもの。ごく一部のひとにとってだけ大切なもの。 それはまるっきり、自分や、自分と親しいひとたちの姿のようではないか。後世に語り伝えられる英雄になる見込みはいまのところなく、深淵を抱えながらただぼんやりと、悩みや喜びのなかを生きるしかない私たちのようではないか。 私が死んだら、親しかった友人がたまに私のことを思い出してくれるかもしれない。だがその友人たちも死んでしまったら、もう本当に終わりだ。存在したことすら虚空に還る。 それでいいと思うのだ。その潔さとむなしさが、生きるということなのかもしれない、と。ヒトミの言動を一心に応援しながら、私はずっとそんなことを考えていた。 『古道具 中野商店』に登場する人々の静けさとユーモアには、身の丈にあった「時間」を大切にするひとだけが纏うことのできる雰囲気がある。 悩みも苦しみも、せいぜい百年で終わりだ。だから生きることは楽しい。喜びも愛も、せいぜい百年で終わりだ。だから生きることは哀しい。 中野商店に集うひとは、それを知っている。知っているがゆえに、自分にとって大切なものは自分で見いだし、自分の手でそっとつかもうとする。新しいからとか売れているからという価値基準には、敢然と背を向けて。 自分に言い聞かせるように、私は心でヒトミに語りかける。ヒトミちゃん。お互い満喫しようね、この中途半端な時間の流れを。最後の最後に振り返ったとき、決して失われないものが、自分のなかで輝いていることに気づけるように。 中野商店は、楽しくて切ない時間のかけらをいっぱい並べ、いつも私たち読者を待っていてくれている。 (みうら・しをん 作家)
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