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 24:10 虎ノ門-新橋
 鈴木みどり
(すずき みどり)


    「覚えがないんだ」

 またジュンが言った。
 その言葉の意味を、みどりは必死に理解しようとした。
 ジュン、なにを言ってるの?

「申し訳ない。もしかしたら、オレ、君に勘違いをさせるようなことを言ったのかもしれない。だとしたら、悪かったと思うよ」
「ジュン……」

 ジュンが首を振った。
 その振られた首の意味も、みどりにはよくわからなかった。

 勘違いなんて、してないわ。
 あたし、勘違いなんてしてない。
 そうでしょ?

「オレ、君と結婚するつもりなんてない。今まで、一度もそんなこと考えたことないんだ。君にしてみれば、勝手すぎるって思うかもしれない。でも、一昨日だって、オレ、結婚なんてこれっぽっちも考えてなかった。魔が差したっていうか、気の迷いっていうか、そういうことなんだ。君だってそうなんだろうと思ってた。悪かった。ごめんなさい」

「…………」

 ジュンは、みどりの視線を振り切るようにしてその場を離れ、前のほうへ歩いて行く。そのジュンの背中を、みどりはぼんやりと見ていた。

 君と結婚するつもりなんてない――。

 ジュンは、いまそう言った。
 ごめんなさい、と言って、向こうへ歩いて行く。

 ゆっくりと、みどりは眼を伏せた。
 自分の膝のあたりを眺めながら、何かを考えようとした。なにも頭に浮かんでこない。ついさっきまで、この膝の上にジュンの手が乗っていた。その感触が、残っている。ほんのちょっと前まで、ジュンの腕を抱きしめていた。その暖かさが掌に残っている。

 頭の上で、誰かがなにか言った。
 その言葉は聞き取れなかった。

 結婚するつもりなんてない――。
 じゃあ、どうしてジュン、あたしにプロポーズしたの?
 魔が差した? 気の迷い?

 なんだか、気持ちが悪くなってきた。ソーダをいっぱい飲みすぎてしまった時みたいに、胸がムカムカする。
 頭の中で、小さな羽虫が飛び回っている。
 耳が熱い。
 喉の奥に海苔が貼りついているような嫌な感じがある。

「みどり、おい」
 上から、誰かが呼んだ。

 見上げると、奈良岡さんだった。吊革につかまったまま、みどりを覗き込むようにして身を屈めている。
「大丈夫か?」

 うん……と、みどりは小さくうなずいた。
「あたし、ふられちゃったみたい」
 言うと、奈良岡さんは、うむ、と口をひん曲げた。

「あいつ、ぶん殴ってきましょうか」
 手賀くんが、怒ったような声で言った。
 みどりは首を振った。

「なんか、びっくりしちまって、なに言ったらいいかわかんねえよ」
 鏡くんが言うと、奈良岡さんが彼を振り返った。
「だったら、黙ってりゃいいだろ」
「…………」

 そのとき、いきなりみどりの右手に座っている女性が大きな声を上げた。
「やめてくださいって、言ってるじゃないですか!」

 驚いて、みどりはそちらを見た。女性の前には、どこか間の抜けたような顔をした大きな男が立っていた。


 
    ジュン  奈良岡  手賀くん
    鏡くん  右手に
座って
いる女性
大きな男

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