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 24:10 虎ノ門-新橋
 奈良岡裕基
(ならおか ひろき)


     ゆっくり首を振ると、湯川は「覚えがないんだ」と、繰り返して言った。
 みどりのほうは、ポカンとした表情でその湯川を見上げている。

「申し訳ない。もしかしたら、オレ、君に勘違いをさせるようなことを言ったのかもしれない。だとしたら、悪かったと思うよ」
「ジュン……」
 言ったみどりに、湯川が首を振った。

 そうとうのドジだね、この湯川の旦那も。
 そうか、結婚の意志はみどりだけが持ってたってわけなのか。なるほど。
 しかし、みんなの前で発表させてしまうというのは、それはお前さんがドジなんだよ。しかも、今の今まで否定もできずに、真紀の前でみどりのいいように扱われてたなんてさ。

「オレ、君と結婚するつもりなんてない。今まで、一度もそんなこと考えたことないんだ。君にしてみれば、勝手すぎるって思うかもしれない。でも、一昨日だって、オレ、結婚なんてこれっぽっちも考えてなかった。魔が差したっていうか、気の迷いっていうか、そういうことなんだ。君だってそうなんだろうと思ってた。悪かった。ごめんなさい」

 言い切ると、湯川はみどりに背を向け、車両の前方に向かって歩き始めた。その場の全員が、なんとなく、その湯川を見送る形になった。

 いよいよ、ドジだなあ。と、奈良岡は苦笑した。
 もう少し、考えてから行動するってことができないのかね。相手は、女なんだからさ。真紀も女だし、みどりだって女なんだよ。
 これじゃ、アブハチ取らずになっちまうよ、これからしばらく、孤独な週末を過ごすことになるよ、お前さん。

 さあて……と、奈良岡は、あらためてみどりを見下ろした。
 さすがにショックだったと見えて、みどりは顔をうつむかせ、肩で息をしている。

 どうしたもんかな。
 湯川が真紀のところへ行ったのは、お互いの傷を深めるようなもんだが、すぐに手を出すというわけにもいかなくなった。言い訳する湯川を真紀がこの場で許す確率は低い。プライドが許さないだろう。しかし、謝られれば、女の気持ちも少しだけ変わる。
 問題なのは、その変わり方だ。

 それよりも……と奈良岡はみどりを見つめた。

「大丈夫か?」
 試しに声をかけてみる。
 しかし、みどりの耳には、その声も届かなかったようだった。そんな精神状態ではないということだ。

 真紀のほうは、様子を見て、ゆっくりと作戦を考えることにして、今日のところは、みどりちゃんを慰めてあげるお兄さんというのが、面白いかもしれない。

 うん。
 と、奈良岡は胸の中でうなずいた。

 この女の、こういうときの反応がどんな具合なのか、鑑賞するってのも悪くない。

「みどり、おい」
 再び声をかけてみる。
 今度は声が聞こえたらしく、ゆっくりとみどりは顔を上げた。
 ほう……なかなか、そそる表情をしてくれるじゃないか。

「大丈夫か?」
 言うと、みどりはうなずいた。
「あたし、ふられちゃったみたい」
「うむ」
 ふられちゃったみたい、か。よしよし。

「あいつ、ぶん殴ってきましょうか」
 横で、手賀が憤慨したように言った。
 思わず吹き出しそうになった。
 なんだよ、この熱血漢が。

「なんか、びっくりしちまって、なに言ったらいいかわかんねえよ」
 が、相変わらず腑抜けたような声を出して言った。
「だったら、黙ってりゃいいだろ」
 言うと、鏡は、首をすくめながら口を閉ざした。

 さあて……と、みどりに向かって口を開きかけたときだった。

「やめてくださいって、言ってるじゃないですか!」
 右手で、どこかの女が叫び声をあげた。
 見ると、脅えた表情の女が自分の前に突っ立っている長身の男をにらみつけていた。


 
     湯川  みどり   真紀   手賀 
        脅えた
表情の女
 
長身の男

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