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 24:10 虎ノ門-新橋
 鏡国彦
(かがみ くにひこ)


    「覚えがないんだ」

 湯川は、みどりを見下ろすようにして、もう一度言った。
「申し訳ない。もしかしたら、オレ、君に勘違いをさせるようなことを言ったのかもしれない。だとしたら、悪かったと思うよ」
「ジュン……」

 いきなり、なんだよ……。
 どういう展開なの? これ。

 ちょっと待ってよ、と国彦は湯川とみどりを見比べた。
 そういう話はないでしょうが。君たちは、結婚するんでしょ。そう決めたわけでしょうが。
 なにを、血迷ったこと言ってんだよ、このお兄さんは。

「オレ、君と結婚するつもりなんてない。今まで、一度もそんなこと考えたことないんだ。君にしてみれば、勝手すぎるって思うかもしれない」

 オレだって、勝手すぎると思うぞ、と国彦は息を吸い込んだ。

「でも、一昨日だって、オレ、結婚なんてこれっぽっちも考えてなかった。魔が差したっていうか、気の迷いっていうか、そういうことなんだ。君だってそうなんだろうと思ってた。悪かった。ごめんなさい」

 それだけ畳みかけるように言うと、湯川はそのまま真紀のいる前方へ歩き出してしまった。
「…………」

 気の迷い?
 国彦は、眼を瞬いた。湯川は、ズンズンと真紀のほうへ歩いて行く。その湯川を、放心したようなみどりが眺めていた。

 そりゃあ……気の迷いってことも、ありますけどさ。
 実際、オレとみどりの始まりだって、言ってみりゃ、気の迷いみたいなもんだったんだから。
 もちろん、男と女の関係は、気の迷いとか、ちょっとした偶然とか、食い合わせ……じゃなくて巡り合わせとか、そんなもんで始まっちゃったりするだろうけど。

 だけど――結婚するつもりなんてない?
 マジかよ、それ。
 そういうこと、こんな、みんなが見てる前で言っちゃっていいものなの?

「大丈夫か?」
 奈良岡がみどりに言った。
 だが、みどりは、下を向いたまま黙っていた。

 国彦には、湯川の性格がよくわからなくなった。
 前方を見ると、湯川が真紀の前に立っていた。真紀は窓のほうへ目をやっている。その二人を、呆気にとられたように美香が眺めていた。

 こういう場合……どうしたらいいの?
 シートに座ったままのみどりを眺める。彼女は、じっと下を向いていた。

「みどり、おい」
 もう一度、奈良岡がみどりに言う。
 ようやくみどりが顔を上げた。泣いているかと思ったが、泣いてはいないようだった。少しだけ安心した。
 泣かれると、どうしたらいいか、よけいにわからなくなる。

「大丈夫か?」
 奈良岡が重ねて言う。みどりは、チョコンとうなずいた。
「あたし、ふられちゃったみたい」
 まるで人ごとみたいに、みどりは言った。

「あいつ、ぶん殴ってきましょうか」
 そう言ったのは、手賀だった。
 その言葉に、みどりは首を振った。

 国彦は、深呼吸を一つした。
「なんか、びっくりしちまって、なに言ったらいいかわかんねえよ」
 つい、そう言うと、奈良岡がこちらに振り向いた。
「だったら、黙ってりゃいいだろ」
「…………」
 ごもっとも、と国彦は肩をすくめた。

「やめてくださいって、言ってるじゃないですか!」
 突然、右の方から、女性の金切り声が響き渡った。
 ギョッとしてそちらを見ると、怒りをあらわにして前に立った男を見上げている女が座っていた。


 
     湯川  みどり   真紀  奈良岡 
     美香   手賀   女性  前に
立った男

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