前の時刻

  

 24:13 銀座駅
 日下部敏郎
(くさかべ としろう)


     得体の知れぬ気配が、地下の停車場を支配している──。
「どうしたの?」
 ひとみが視線を前方へ向けながら、訊いた。

「いや、どことなく……気配が奇異に感じられるのですが」
「気配が奇異──」
 ひとみもまた、それを察したのだろう、幾分不安げな面持ちで前方を見やっている。

「なんだろう?」
 男子のような口振りで、ひとみが呟いた。
 日下部は、首をひねりながら、ううむ、と唸った。
「気の迷いが景色を斯様に見せているのでしょうか。人々の立ち居振る舞いが片栗の粉でも塗したように感ぜられるのです」

 正に、そのように見える。
 停車場に集う者たちの総身より純白の粉が吹き出したかのように、その姿、振る舞いが光彩を放っているのだ。

 一見すれば、その光景は美しい。しかし、日下部には、それが何かの凶兆のように感ぜられた。
 人の身体が光彩を放つなど、聞いたこともない。
 ひとみの様子から察すれば、この時代の人にとっても、斯様な光景は尋常ではないに相違ない。

 恐らく、この光景は、日下部やひとみが死者であるからこそ見えているのだろう。自らが死者であるなど、いまだに信じ難いことではあるが、すでに物質としての要件を失っているとすれば、霊的な現象を見聞するのは我々死者の特性であるに違いない。

 何故に、彼らの身体は光彩を放っているのか──。

 思いを巡らせてみるが、日下部には、それを理解することができなかった。
 ただ、これが何か空恐ろしいことの前触れのように感ぜられてならなかった。

「光ってる。人が、光ってる」
 昂ぶりを感じさせる語調で、ひとみが言った。日下部は、それに頷いた。
「先ほどまでは、このようには見えておらなかったと思います」
「どうしたんだろ?」

 さて……と、日下部は首を傾げた。
 そのひとみが問うたことは、日下部にとっても判じ難い謎だった。

 彼等の放つ光は、何を伝えているのか。

 よし、と日下部は心を決め、入り口に立ち塞がる男女の脇を抜け、車輛より停車場へ降り立った。
 細長い停車場の石台を挟むようにして、向かい側にももう一台の列車が停まり、その腹の出入り口が開け放たれている。そこを乗り降りする人々も、やはりすべてが妖しい光に彩られている。石台の上には、幾人もの旅客が疎らに立っていた。

 おや……と、日下部は、その中の一人に視線を止めた。

 一際光彩を放つ若者の姿が、そこにあった。
 眼を爛々と輝かせ、その若者は周囲を睥睨している。勇ましくも凛々しい姿ではあるが、彼の放つ光彩は、他の者とは格段の違いがあった。
 若者の立っている前には、青い箱を抱えた男と、名取のような風情と気品を漂わせた女が立っている。

 日下部は、若者のほうへ足を向けた。
 近づくにつれ、若者の輝きがより一層強く感じられてくる。前に立つ男と女もやはり光彩を放ってはいるが、若者の輝きの前では風前の灯火のようにも思えた。

 不意に、若者が鋭い眼光を更に強め、日下部の後方を睨めつけた。
「…………」
 日下部は、若者の視線を辿って後ろを振り返った。そこに、奇態なものを見た。

 さながら金剛力士の如き巨躯の男が、身体を震わせるようにしながら、棹立ちになっている姿が前方にあった。そして、その巨漢だけは、光彩を放っていなかったのである。

 突如、若者が、日下部の身体をすり抜け、ずんずんと、その巨漢に向かって進んで行った。
「あ、行くな!」と、日下部は咄嗟に若者を捕まえようとした。しかし、日下部の手は、虚しく空を切る。

 巨漢──いや、あれは人ではない。これだけ多くの人々が光彩を放っている。その中で、光を持たないのは、かの巨漢と、そして日下部とひとみだけだ。つまり、あれは、人ではないのだ。

 そして、日下部は、直感した。

 この人々が放っている光は、臨終の輝きなのだ。ここに集う人々は、今、最期の時を迎えようとしているのだ。
 その死をもたらすものが、あの化け物なのだ……。

「行くな!」と、日下部は若者に追いすがった。「戻れと言っているのが聞こえぬのか!」

 若者の身体から放たれる光が、雲間から顔を出した陽光のように日下部の眼を貫いた。
 その刹那、化け物の腕から火柱が吹き出し、若者は炎を身に受け、たちどころに燃え上がった。
 日下部も火を浴びたものの、炎は日下部には些かの危害も与えなかった。

「おのれ、妖怪!」
 日下部は叫び、化け物に向かって猛進した。
 だが、今の日下部には、妖怪を退治するどころか、触れることすらできず、その巨体を通り抜けてしまっただけだった。

「日下部さん」
 と、ひとみの声がどこかで呼んだ。
 日下部は、化け物の大きな背中を睨めつけた。

「日下部さん」と、ひとみが日下部の腕を押さえた。「なにが起こったの? これはいったいなんなの?」
 日下部は、怒りに震えながら、奥歯を噛みしめた。
「この妖怪を、どうにかして止めなければ」
 言いながら、化け物の正面へ回る。ひとみが、日下部に従ってきた。

 見上げると、化け物は瘧のように総身を震わせていた。
「妖怪って、なに?」
 ひとみが訊いた。
「これは、人ではない。あなたにも、この化け物だけが光を放っていないことがおわかりでしょう」
「わかるけど、みんな、なんで光ってるの?」

 日下部は、大きく息を吸い込んだ。そんなことをしてみても、肺臓には一片の空気も入っては来なかったが。

「これは、おそらく、今際の光なのだと思われます」
「今際の光?」
「この化け物が、ここにいる皆を殺そうとしているのです」
 告げると、ひとみは恐れるように、化け物を見上げた。

 人々の放つ今際の輝きが、更に周囲を埋め尽くし始めるのを感じて、日下部は、よおし、と拳を握りしめた。
 無駄だとしても、何かせずにはいられなかった。

「うせろ! 妖怪!」
 大きく叫び、日下部は化け物の腹に飛び込んで行った。
 その腹の中で、念を込め、知る限りの経文を唱えようとした。ひとみが、日下部の後を追って飛び込んできた。

 一刹那──。

 取り巻く世界が、すべて光で満たされた。
 同時に、ひとみが日下部の身体に取り縋る。そのひとみを、日下部はしっかと抱き止めた。

 ──日下部とひとみは、すでに化け物の腹の中にいるのではなかった。
 凄まじい炸裂音が鳴り響き、数万もの爆裂弾の発破の中心に立っているように、周囲の世界がすべて弾け飛ぶのを、日下部は目撃した。

 ガラガラと大きな音が頭上に鳴り響き、隧道の天井や壁が到る処で崩壊する。抱き合う日下部とひとみの周りがたちどころに巨大な瓦礫と化していく。

 浮遊感を覚えて、日下部は自らの身体を見下ろした。
「…………」
 そして、同時に、言葉にならない感動が心を満たした。

 日下部とひとみは、抱き合ったまま一つに融合していたのだ。
 すでに個々の身体は失われ、そこには、日下部とひとみの融け合った意識だけが浮かんでいた──。


    ひとみ   若者  青い箱を
抱えた男
 
    気品を
漂わせ
た女
  
巨躯の男

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