前の時刻

  

 24:13 銀座駅
 榎本ひとみ
(えのもと ひとみ)


    「どうしたの?」
 駅のホームに目をやりながら、ひとみは日下部に訊いた。

「いや、どことなく……気配が奇異に感じられるのですが」
「気配が奇異──」
 あらためて、ホームを眺める。

「…………」
 言われてみれば、なにかがへんだった。
 地下鉄銀座駅のホーム全体が、どこか浮ついたような感覚を起こさせる。

「なんだろう?」
 口に出して言うと、日下部は、ふむ、と首を傾げた。
「気の迷いが景色をかように見せているのでしょうか。人々の立ち居振る舞いが片栗の粉でもまぶしたように感ぜられるのです」
「…………」

 片栗粉をまぶしたような振る舞い、というのがどういうものか、よくわからなかったが、日下部の言う通り、ホームの人々はどこか異質に見えた。
 なんとなく、白っ茶けて見えるのだ。人のいる場所だけが、その周囲よりもぼんやりと霞んだように見える。

 眼がおかしくなったのかと思って、ゴシゴシとこすってみた。でも、見え方に変わりはなかった。
 ふっ、とひとみは肩をすくめた。

 幽霊が疲れ目とかなるわけないじゃない。ちょっとゲームのやりすぎみたいで……なんて幽霊、聞いたことないし。
 じゃあ、どうしてあんな風に見えてるんだろう。

 ふと気がついて見回すと、周囲の乗客たちも、やはり同じように全身に蛍光塗料をまとったように、浮き上がって見える。
 ああ──と、それで気がついた。
 片栗粉をまぶしたようだって、そうか、光ってるんだ、この人たち。

「光ってる。人が、光ってる」
 言うと、日下部がうなずいた。
「先ほどまでは、このようには見えておらなかったと思います」
「どうしたんだろ?」
 さあ、と日下部が首を傾げた。

 目の前に立っている女性に近づいてみた。全身が光っている。以前、テレビで見た深海のイカのようだった。太陽の光が届かない深海で、イカがネオンのように光って綺麗だった。
 そんな感じに、見える。

 日下部が、その女性と話をしている男の脇をするりと抜け、ホームへ降りていった。
 どこへ……と、声をかけようとして、首をすくめた。ボーッと光を放っている女性の脇を抜けて──というよりも、半分は彼女の身体を通過して、ひとみもホームへ降りた。

 向かい側にも電車が停まり、乗降客の流れができている。
 その、すべての人たちの全身が柔らかい光で包まれている。先ほどよりも、人々から発している光が強くなってきているように思えた。

 なんだか綺麗だなあ……と、ひとみはゆっくりと歩きながら周囲を見渡した。
「…………」
 その目を、向かい側の電車へ向けたとき、一人の男に目が止まった。
 その男は、まだ電車の中にいた。後部ドアのほうへ、妙な足取りで向かっている。かなり大きな男で、図体だけみればプロレスラーのようにも見える。

 光ってない──。
 その男だけが、他の人たちのような光を持っていなかった。
 男がドアから出てきた瞬間、ひとみは「あっ」と眼を見開いた。

 電車に乗ろうとしていた老人を、その男が突き飛ばしたのだ。男は、そのまま老人には見向きもせず、やはり酔ったような足取りでホームを階段のほうへ向かっている。奥さんなのだろう、品の良い老婦人が、倒れたままの老人の横へ跪いて声をかけてやっていた。老人は、まったく動こうとしていない。その老人の全身は、その周囲の人々よりもひときわ明るく輝いて見えた。

 ひとみは、突き飛ばした男のほうへ目を返した。
「…………」
 男は、ホームの中央で仁王立ちになり、ガクガクと身体を搖らせている。やはり、その男にだけは光がなかった。他の人々が輝いているぶん、その男の姿は、くすんだように沈んで見えた。

 ひとみは、その男に向かって歩いた。反対側から、日下部がやはり男のほうへ向かって来るのが見えた。日下部は、彼の前を歩いている若い男をつかもうとしているように見えた。
「行くな! 戻れと言っているのが聞こえぬのか!」
 日下部は、必死になって若い男を止めようとしていた。若者の全身は、その場にいる誰よりも輝いて見えた。

「あ……」

 そのとき、驚くようなことが起こった。巨体の男が若い男のほうへ右手を伸ばした瞬間、その手から火が筒のように吹き出したのだ。まるで消防士のホースから吹き出る水のような勢いで、その火の筒は若者を直撃した。一瞬にして、若者の身体は炎に包まれた。

「おのれ、妖怪!」
 日下部が、巨体の男に突進してきた。しかし、日下部は、その勢いのまま、男の身体を通り抜け、背中からつんのめるようにして出てきた。

「日下部さん」
 と呼びながら、ひとみは、若者のほうへ目をやった。若者は、ホームの上をわめきながら転げ回っている。
「日下部さん」ともう1度言い、ひとみは、巨体男を睨みつけている日下部の腕を押さえた。
「なにが起こったの? これはいったいなんなの?」
 訊くと、日下部はブルブルと首を振った。
「この妖怪を、どうにかして止めなければ」
 言いながら、日下部はまた巨体男の正面へ回った。わけがわからないまま、ひとみも前に立って男を見上げる。
「妖怪って、なに?」
「これは、人ではない。あなたにも、この化け物だけが光を放っていないことがおわかりでしょう」

「わかるけど、みんな、なんで光ってるの?」
「これは、おそらく、イマワの光なのだと思われます」
「イマワの光?」
「この化け物が、ここにいる皆を殺そうとしているのです」
「…………」

 男を見返した。
 不自然なほど、男は身体をガクガクと痙攣させていた。その男の身体だけは、やはり、他の人たちのように輝いていない。

 イマワ……今際の光?

 はっとして、ひとみは、周囲を見回した。人々の輝きが、いっそう強くなっていた。
「うせろ! 妖怪!」
 日下部が、そう叫びながら、男の身体に飛び込んだ。
「…………」
 一瞬の後、ひとみも、ぐっとお腹に力を入れ、男の身体に突進した。

 その瞬間──。

 ひとみの周囲のすべてが、ひときわ明るく輝いた。
 ひとみは、男の身体の中に没している日下部に抱きついた。日下部も、ひとみを強く抱きしめた。

 男の身体は、すでにそこには存在していなかった。
 男は巨大な火の玉になって爆発したのだ。周囲のすべてが吹き飛ばされ、それらは一瞬のうちに溶けて蒸発した。

 地下鉄の車両も、ホームも、そして人も、すべてが姿を消した。
 天井が、大きな音を立てて崩れ落ちてくる。ひとみと日下部が抱き合っている場所に向かって、すべてがなだれ込んできた。

「…………」

 ひとみは、自分の身体が宙に浮かんでいるのを感じた。
 そして、抱き合っていたはずの日下部と自分が、一つに混じり合ってしまっているのに気づいた──。


    日下部  目の前に
立って
いる女性
話をして
いる男
 
    その男  電車に乗ろ
うとしてい
た老人
  
品の良い
老婦人
  

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