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血腐れ
矢樹純/著
一篇全文公開

魂疫たまえやみ

 必死に力を尽くしたところで、どうにもならないことはある。
 一年前、大腸がんで闘病の末に亡くなった夫を看取った時に学んだことだ。
 農協に勤めていた頃は組合の負担で人間ドックを受けられたが、定年退職後は費用の安い保健所の健康診断を年に一回受けるだけとなっていた。申し込めばがん検診も追加できたのに、何年かに一度しか受けていなかったことが悔やまれる。血便の症状が現れて受診した時には、すでにリンパ節に転移していた。
 まだ七十歳を過ぎたばかりだった。田舎のことで通える範囲には大きな病院がなく、車で一時間以上の距離にある市の総合病院に入院した。がん診療の専門医が揃っているという評判を聞いて決めた病院だったが、手術後に肝臓にも転移があることが分かった。
 抗がん剤治療に加え、最先端だという薬物療法を施されたが効果は薄かった。お酒と美味しいものが好きで、丸顔でぽっちゃりした体型だった夫が、この頃には骨が浮き出るほど痩せてしまっていた。
 夫の希望で自宅へ戻ったのちは、免疫力を高めるという漢方薬から民間療法まで試した。働いていた特養ホームに休職願いを出し、自分にできることはなんでもやった。夫が一日でも長く生きながらえてくれればと、それしか考えていなかった。
 けれどその年の七夕の夜、介護用ベッドからかろうじて見える薄曇りの夜空を見上げるうち、夫は眠ったように目を閉じたまま、返事をしなくなった。一晩をかけてゆっくりと呼吸が浅くなっていき、翌朝、訪問医が死亡の確認をした。診断を受けてから、わずか九か月後のことだった。
 二十四歳で見合い結婚をしてから三十七年。穏やかな性格で、また十歳近く年が上だったこともあって、夫とはあまり大きな喧嘩をしたことはなかった。結婚して三年目に娘が生まれ、短大を卒業するまで夫婦共働きで育て上げた。東京で就職した娘は同僚の男性と結婚し、現在は都内のマンションで暮らしている。
 子供も独立し、二人で国内のあちこちを旅行して回ろうと話し合っていた。それからは年に一度、北海道、長野、沖縄と、贅沢な旅ではないが夫と一緒にその土地の美味しいものを食べ、知らない街を歩くのを楽しみにしてきた。
 カメラが唯一の趣味で、旅行の際にはいつも、年金をやりくりして購入したミラーレス一眼のカメラを持ってきた。液晶モニターよりも慣れているからと片目をつむってファインダーを覗く、いつになく精悍に感じられる横顔を見るのが好きだった。ラベンダー畑、真っ白な砂浜とその向こうに広がる明るい海と、年を重ねるごとに新しい写真の額が増えていった。
「手ブレ防止機能が付いているから、君にだって上手く撮れるよ」
 使い方を教えながら、時々は私にもカメラを触らせてくれた。そうして松本城を背景に夫を撮った写真を引き伸ばしたものが、遺影となった。旦那さんらしい、とてもいい笑顔に撮れているね、と、みんなが褒めてくれた。

 人生の半分以上をともに生きてきた夫を失って以来、私は何に対しても、抗うことをしなくなった。理不尽や悲しみを感じることはある。だがどうしても、立ち向かう力が湧いてこないのだ。
 だから夫の一周忌の法要のあと、際限なくビールをお代わりしながら居座り続ける五歳上の義理の妹の勝子に、帰ってほしいと言えなかった。
「芳枝さん、片づけなんていいから。座って一緒に飲みましょうよ」
 最後まで勝子に付き合っていた夫の従兄が帰ってしまうと、話し相手がいなくなった勝子は台所で洗い物をしていた私を呼びつけた。参列したのは身内だけで、そう広くもない自宅で執り行ったため、僧侶が帰ったあとにときに残ったのはほんの数人だった。
「寂しい一周忌だったわねえ、兄さん。孫にも会えないなんて」
 夫の遺影に語りかけながら、手酌でグラスにビールを注ぐ。東京に暮らす娘は二か月前に二人目の男の子を出産したばかりで、無理に来なくていいと私が言ったのだ。黒い唐木の座卓の向かいに座ると、勝子に倣って隣の和室に設えた祭壇に目をやった。仏壇の脇に置いた盆棚に白布をかけ、遺影と供物と花を飾っただけの簡素なものだ。
「お義兄さんも、来られなくて残念だったわね。四十九日の時は車椅子で来てくれたけれど、この頃は体調を悪くされてるの?」
 勝子の嫌味を聞き流し、今日の法要に参列できなかった義兄のことを尋ねた。夫は三歳上の兄と、四歳下の妹の勝子に挟まれた、三人兄妹の次男だった。夫の父は六十代のうちに胃がんで亡くなり、遺された義母も数年前に他界していた。
「晶代さんの話だと、ほとんど布団から出ずに過ごしてるみたい。あんな大きな家に住んでいて、もったいないわよね。ああなるともう、長くはないかもよ」
 夫の兄は地元の有名企業に定年まで勤め、市の郊外に広い庭のある立派な家を建てて夫婦で暮らしていた。だが二年前に脳梗塞を患い、後遺症で左半身麻痺となった。二人いる息子は県外に住んでおり、妻の晶代が一人で面倒を見ている。
「うちの家系、男は短命なのかもね。芳枝さんとこも、孫は二人とも男の子でしょう。大丈夫かしら」
 そう言って勝子は何がおかしいのか、ひひっと妙に甲高い、調子外れな声を立てて笑った。落ちくぼんだ小さな目が細められ、目尻に砂紋のような皺が寄る。勝子は節の目立つ骨張った手を伸ばすと、仕出しの御膳に残っていたわらび餅を箸を使わずにつまんだ。
 一口で頬張ると、きな粉のついた指先と、ぼってりと厚い唇を白っぽい舌で舐める。そうしてグラスのビールを飲み干したところで、前から聞きたかったんだけどさ、と唐突に尋ねてきた。
「芳枝さんって、霊とか見える人?」
 自分より五つも上の勝子が、このような幼稚な話をすることに最初は戸惑った。だが法事や年始の挨拶で顔を合わせるたびに嬉々として気味の悪い話を聞かせてくるのにも、すでに慣れていた。勝子はいい年をして、幽霊だのお化けだのといった怖い話が好きなのだった。
「兄さんが亡くなってから、今はまた老人ホームで働いてるんでしょう。年寄りばかりだし、しょっちゅう人が死んでいるんじゃない。何か怖いもの、見たことないの?」
 自分の職場をそんなふうに言われて不愉快だったが、顔に出さないように堪えて首を横に振る。
「私はそういうの、生まれてから一度も見たことないの」
 答えると、勝子は気の毒そうに眉を寄せ、やっぱりね、とつぶやいた。なぜそんな顔をされなくてはいけないのか。それがどうかしたのと逆に尋ねた私に、勝子は身を乗り出し、大切な秘密を打ち明けるようにささやいた。
「実はね、兄さんの霊が、私のところに出てくるの」
 酒臭い息が鼻にかかり、思わず身を引いた。すぐには言葉が出ず、座卓の上に視線をさまよわせる。誰かのグラスの跡と思しき水滴の輪を布巾で拭うと、そうなの、とだけ答えて勝子の顔を見返した。
《兄さんの霊》――夫の霊を見たという勝子は、得意げに鼻の穴を膨らませている。そして「おかげで今日も寝不足なのよ」と、わざとらしくため息をついた。
「最初に見たのは、兄さんが死んで半年くらいの頃ね。夜中になんだか寝苦しくて目が覚めちゃって、そうしたら部屋の中で、畳を擦るような音がしたの。その時は、ミイだと思ったんだけど」
 勝子が今住んでいるのは元々は夫の実家だった古い一軒家で、ミイという白い猫を飼っていた。勝子は四十代半ばで離婚しており、子供もいなかった。それで十年前、義母がグループホームに入所するタイミングで、当時アパートで一人暮らしをしていた勝子が移り住んだのだ。
「音のする方を向いたらね、ミイじゃなかった。もっと大きい影。誰かが四つん這いで、こっちに向かってくるの。うつむいていて顔は見えないけど、白い着物を着ていて、髪の毛が抜けちゃってたから、ああ、兄さんだって分かった。それで兄さんは私の枕元まで這ってきて、冷たい手で私の顔に触れたのよ」
 その時のことを思い返すように、勝子が自分の頬を撫でる。厚くファンデーションが塗られた肌は、蛍光灯の光の下で、どこか作り物のように見えた。
「そこで私は気を失っちゃって、気づいたら朝だったの。次に見たのは、その二か月後くらいかな」
 再び夜中に目が覚め、気配を感じてそちらを向くと、また白い着物を着た夫が這ってきて、勝子の顔に触れたのだという。
「兄さん、どうしたのって、声をかけたの。そうしたら、指で私の唇をなぞって、でもそのまま消えちゃった」
 勝子が言うには、夫の幽霊が寝室に現れる頻度が徐々に増えていき、近頃は週に一回は勝子のもとにやってくるのだそうだ。
「なんだか伝えたいことがあるみたいに、やたらと唇に触ってくるの。だけど兄さんが何を言いたいのか分からなくて。芳枝さん、心当たりない?」
 さあ、と首を傾げたが、私は内心では、ある確信を抱いていた。
 その夜、八時近くになってようやく勝子が帰ったあと、義兄の嫁の晶代に電話をした。無事に一周忌の法要を終えたことを報告し、香典とお供えのお菓子を送ってもらったお礼を述べた。そして、「勝子さんのことで、気になることがあって」と切り出した。
「勝子さん、もしかして認知症じゃないでしょうか。亡くなったうちの人が、幽霊になって出てくるっていうんです。それが最近、しょっちゅうなんだと言っていて──でも私、この話を聞くの、ここ一か月でもう四度目なんですよ」
 仕事柄、そうした相手の言動の変化には気づきやすかった。勝子は毎週のように電話をかけてきて、同じ話を繰り返した。受話器の向こうで、晶代がため息をついたのが分かった。
「ごめんなさいね。芳枝さんにも相談しなきゃと思いながら、なかなか決心がつかなくて――実は勝子さん、つい先週小火を起こしたの。お料理をしている途中でお醤油がないのに気づいて買いに出たら、怖い女の人が道に立っていて、その人に邪魔されて家に帰れなかった、なんて言うのよ。話すこともなんだかおかしいし、やっぱり一度、病院で診てもらった方がいいわよね」

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 晶代は義兄の介護で動くことができないため、勝子の診察には私が付き添った。精神科に連れて行くとなると抵抗されそうだったので、市立病院の脳神経外科を受診させた。
「六十五歳を過ぎたら、一度受けておいた方が安心ですよ」
 若い男性医師にそう説明してもらうと、勝子は素直に記憶と認知機能の検査を受けた。その後、再検査の必要があると言われて画像検査などの精密検査を受け、軽度認知障害と診断された。
「今の状態なら、投薬を始めて定期的に通院してくだされば、ご自宅で一人で生活することも可能だと思います。ともあれ、何日かに一度は家族の方に見に行っていただいた方が良いでしょうね」
 必然的に、私が週に二日ほど、勝子の家に通うことになった。勝子の暮らす家は、私の自宅からは車で三十分ほどの距離にある。大変ではあるが、幸い職場と方向が同じなので、仕事の帰りに寄ることができた。毎週、水曜日と土曜日に顔を出すと決めて、勝子の家を訪問した。
 認知症の診断を受けてから、勝子は仕事を辞め、年金と義兄からの援助で暮らすようになった。晶代は私一人に勝子の世話をさせることを詫び、金銭的な援助の他にも食材を送ってくれたり、時々は自身も顔を出してくれたりと、何かと気をつかってくれた。勝子も私に面倒をかけているという自覚からか、以前よりも遠慮がちになり、週に二度の訪問は慣れればそれほど負担ではなくなっていた。
 だが、どうしても受け入れられなかったことがある。それは勝子の家の不潔さだった。
 勝子の住む二階建ての家屋は十五年以上も前に外壁と屋根の補修をしたきりで、元々赤かった屋根は色褪せ、縁の部分が苔で黒ずんでいた。クリーム色の外壁はひび割れが目立ち、窓の下には汚れとカビが雨垂れの筋を作っていた。
 玄関前の敷石にはいつも砂が溜まってざらついていて、歩くと耳障りな音を立てるし、靴の中に入り込むこともあった。狭くて日当たりの悪い庭では、まったく手入れをしていない枇杷の木が実を腐らせている。その下の地面を覆うドクダミの白い花が、独特の鼻をつく臭いを漂わせていた。
 インターホンはかなり以前から壊れたままとなっており、何度かノックをして声をかけた上で、結局は渡されている合鍵で入るのが常だった。玄関を上がるとすぐ左手が仏間、その隣が居間と台所となっている。廊下を挟んだ仏間の向かいが客間で、その奥にトイレと洗面所と風呂場が続いた。階段を昇った二階には元は子供部屋だった六畳の洋室が三つあったが、それらの部屋と一階のほとんどのスペースが、勝子の荷物で埋められていた。
 勝子は昔から、物を捨てられない性質だったようだ。若い頃に買ってもう着られなくなった服や壊れた鞄、大量の本や雑誌やゲームセンターの景品のぬいぐるみといった品々が仕舞い切れず、室内に山積みとなっていた。
 その上、勝子は通信販売が大好きで、健康食品や健康器具、化粧品、洗剤、サプリメントなど、テレビや広告で見て気になったものや人から勧められたものを買い込んでいた。私と夫のところへも、これは体に良いだとか、肌がきれいになるなどと言って、何かと勧めにきていた。
 夫の闘病中に、がんが消えるという漢方薬を持ってきたこともあった。
「これはね、天然のワクチンなの。体に優しいし、免疫力がつくから飲んだらいいわ。私もミイも、毎日飲んでるんだから」
 今思えば相当怪しげな代物だったが、あの頃の私は日に日に衰弱していく夫の介護で疲弊し、物事を深く考えられなくなっていた。勝子に言われるままに、不純物のような茶色い粒の混ざった黄色の粉薬を夫に飲ませ続けたのだった。
 そんなふうだったので、勝子の家の廊下には部屋に入り切らない段ボール箱があふれ、埃を被っていた。仏間と客間だけは晶代が注意してくれたこともあっていくぶん片づいていたが、勝子が普段過ごす居間も、壁際には段ボール箱が積まれていた。何が入っているものか、黒くて甘い匂いのする汁が染みているものもあった。勝子は段ボール箱を収納代わりに使っているらしく、お茶菓子や猫の餌、よく着る服や病院の薬などを、それらの中に無造作に放り込んでいた。
 居間の中央には、こたつが年中出しっぱなしになっていた。
「近頃は熱中症にならないように、エアコンをつけなきゃいけないでしょう。部屋が冷えすぎるから、こたつはミイの避難場所なの。暑いんじゃないかと思ったけど、逆にここはいつもちょうどいい温度なのよね。猫って、本能で分かるのよ。自分の身を守る方法が」
 元々野良猫として庭先に入り込んでいたのを、ミイと名付けたものらしかった。勝子はミイを可愛がるわりにはミイの健康を保つことに頓着せず、人間の食べるものを平気で与えたし、外で喧嘩をして怪我をしてきても、病院に連れて行くこともしなかった。それほど生活に余裕があるわけではないので、単にお金がかかることが嫌だったのかもしれない。なんだか可哀想で、それほど動物好きではないのだが、ミイへの手土産として猫用の餌やおやつを持っていくようにした。ミイは特にチューブに入ったペーストタイプのおやつが気に入ったようで、私が来ると足にまとわりついてくるようになった。
 仕事を終えたあと、スーパーに寄って二人分の夕飯の食材と猫の餌などを買い込んで勝子の家に向かい、一緒に台所に立つというのがいつもの流れだった。
「芳枝さん、もったいないことするのねえ。人参は皮を剥かない方が美味しくて栄養があるのよ」
 掃除や片づけは苦手だが料理好きな勝子は私にあれこれ教えるのが楽しいらしく、時々ぼんやりして味つけを忘れるなどの失敗をしながらも、筑前煮やサバの味噌煮、本格的な香辛料を使った麻婆豆腐といった、色んな料理を作ってくれた。
「私ね、子供の頃にしょっちゅう、金縛りにあってたの」
 夕飯の後片づけを終え、お茶の時間になると、勝子は大抵そんな話を始めた。
「体の上に誰かが乗ってて、押さえつけられたみたいに息ができなくなるの。隣で寝ている母親に助けてって言おうとするんだけど、声が出なくて。目を閉じているはずなのに、胸の上にお地蔵さんの顔が見えて、そのお地蔵さんの唇が、石なのに、何か言おうとしているみたいにモゴモゴ動いてるのよ」
 また始まったと内心顔をしかめながらも、怖いわね、と相槌を打つ。勝子が何かを見たという話は大体が布団の中の寝入りばなのことで、おそらく夢と現実を混同しているのだと思われた。その上、思考が散漫になるせいか、話が途中であっちこっちに飛んでしまう。それに付き合わされるのは面倒ではあったが、そうして過去の体験を語ることが脳への刺激となり、認知症の進行を防ぐのに役立つと思えば我慢できた。
「祖母も私と同じ、見える人でね、寝る前によく色んな話をしてくれたのよ」
 言いながら、勝子は懐かしそうな顔で隣の仏間に目をやる。私が嫁いできた時にはすでに亡くなっていたが、鴨居にかけられた遺影の義祖母は、勝子によく似ていた。
「亡くなった友達が家に訪ねてくる話とか、若い頃に列車に飛び込む人を見たって話とか、どれも凄く怖かったわ。あと、死んだ人の顔が変わってしまう話とか」
 勝子は私が訪れるたびに自分が何かを見たという体験談や、祖母から教わったという怪談を聞かせてくるのだが、あまりまともに聞いていなかったので、内容はよく覚えていない。ただ死人の顔が変わるという話は、妙に気味が悪くて記憶に残っていた。
「魂に障りが起こると、そうなるんだって。障りが出た魂を鬼が引っ張っていくから、そのせいで顔が変わるらしいの。私も芳枝さんも、気をつけなきゃね」
 話の前半を聞き逃したのか、いつものように話が飛んだのか、その時にどうして勝子が忠告するようなことを言ったのかが分からなかった。魂に障りが起こるとは、どういうことなのか。少し気にはなったが、わざわざ意味を聞こうとは思わなかった。
 そうして夕飯のあとにしばらく話をして、夜の八時頃には勝子が風呂に入るので、火の元を確認して帰るようにしていた。不潔で散らかり放題の家に通わなければならないのはストレスではある。だが夫を亡くしてからずっと一人で食事をし、仕事以外ではほとんど誰とも話さない日々が続いていた私には、この生活の変化は実のところ、ありがたい面もあった。

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 勝子宅を訪問するようになって二か月が過ぎた頃だった。九月に入り、残暑が続いていたところに急に冷え込みがきて、なんとなく関節が痛むと思ったら翌日に熱が出てしまった。病院で検査を受け、インフルエンザなどではなかったが扁桃腺が真っ赤になっていると言われた。やむなく勝子に電話し、しばらく家に行けないと伝えた。
「そうね。確かにうつされても困るし、私の方は一人でも大丈夫だから」
 あっけらかんと言いながらも、「もしあんまり具合が悪いようだったら、様子見に行くから電話ちょうだいね」と少しだけ心配そうに言い添えた。手を焼くことの多い小姑であっても、いざという時に頼れる相手がいると思うと心強かった。
 翌朝になっても熱は下がらず、病院の帰りに買った栄養補助ゼリーだけを口にして寝込んでいた。すると昼過ぎになって、突然インターホンがなった。モニターを覗くと、勝子が立っている。寝巻きの上にカーディガンを羽織り、マスクをして玄関先に出た。
「どうしたの? うつしちゃ良くないからって言ったじゃない」
「あら、そうだった? 熱を出したって言ってたから、看病してあげなくちゃと思って、色々買ってきたのよ」
 手には食料品らしきものが詰まったエコバッグを下げている。昨日話したことは忘れているようだった。
「いつもお世話になってるんだし、これくらいはさせてちょうだいよ。芳枝さんはゆっくり寝ていていいから」
 気持ちだけで充分だからと断ったのだが、勝子は強引に上がり込むと、換気をしなきゃと窓を開けたり、風邪に効くお茶を飲ませてあげるとお湯を沸かし始めたりで、ゆっくり寝ているどころではなくなってしまった。それでも少しでも休もうと、勝子がおかゆを炊いてくれている間、二階の寝室で眠ることにした。忙しなく歩き回る足音や物音に耳を塞ぎ、頭痛に耐えながら、ようやくうとうとしかけた時、ノックもなくドアが開けられた。
「芳枝さん、ちょっといい? 忘れないうちに、伝えておきたいことがあって」
 いつになく緊迫した顔で言うと、ずかずかと寝室に入ってくる。ため息をつきながらも体を起こすと、勝子はいまだ置かれたままとなっている、隣の夫のベッドに腰を下ろした。
「昨日ね、兄さんが来たの」
 具合の悪い時に、またその話かと、こめかみを押さえる。勝子は私の様子など気にしていないふうで、早口で先を続けた。
「どうしよう。兄さんの顔、見ちゃったの。私、とんでもないことをしてしまった。あの薬が悪かったのよ。おばあちゃんも言ってたもの。人の体を使ったものは、良くないって。どんな人だか、分からないから」
 いったい、彼女は何を言っているのか。頭痛が酷くなってきた。
「ねえ、落ち着いて。なんの話をしているの」
「ずっと飲んでいた、あの薬のこと。あれのせいで、兄さんの魂に障りが起きてしまったの。顔があんなふうに変わっていたんだもの。私も、ミイも、もう駄目だわ。ごめんね。でも、飲めばきっと兄さんの病気も良くなると思ったから」
 その薬とは、がんが消えると言って持ってきた、あの漢方薬のことだろうか。茶色い何かの粒が混ざった黄色い粉の薬。一包ずつ薄手の紙でくるまれていた。
 思い起こしながら、先ほど勝子が放った言葉が気になり始めた。
「人の体を使ったって、どういう意味?」
 尋ねると、答えるのをためらう素振りで顔を伏せた。ややあって、観念したように口を開く。
「――あれね、材料は、人の胎盤なの」
 胃の底から何かがせり上がってきて、口元を覆う。酸っぱい唾液を飲み下しながら、強くまぶたを閉じた。
「人間の胎盤を使った薬は、珍しくないのよ。化粧品とか、料理にだってなるんだから。でもいい加減なメーカーだと、変なものを使っていることがあって、私が取り寄せてた会社も問題になったの。出産の時に、死んだ母子の胎盤を使ったとか」
 締めつけるように痛む頭に、勝子が弁明する声が響く。そんなものを私は、夫に飲ませていたのか。がんが消えると信じて。
 あの頃、私は当たり前の判断ができなかった。勝子に勧められた薬だけではない。他にもがんに効くと謳った食事療法やら民間療法に片っ端から手を出した。自分が取り返しのつかないことをしたのだと気づいたのは、夫が亡くなってからだった。退院して自宅に戻ったあと、夫は本当ならば、穏やかに最後の時間を過ごしたかったのに違いない。なのに私はなんの効果もないものを――ともすると体に悪影響があるかもしれないものを夫に食べさせたり、飲ませたりといったことに力を尽くし、二人で過ごすことのできた大切な日々を台無しにした。挙げ句に死人の胎盤などという気味の悪いものを口にさせていたのだ。
 本当にごめんなさい、と、絞り出すような声がして、我に返る。勝子は夫のベッドに腰掛けたまま、憔悴したようにうなだれていた。
「いいのよ。勝子さんは、その時は良いものだと思って勧めてくれたんでしょう」
 責められるべきは勝子ではない。自分を見失っていた私の方だった。夫の幽霊が現れたとか、その顔が変わっていたというのは、ただの夢か、認知症による幻視の症状だろう。そんな薬だったと知って気分は悪いが、勝子がそこまで罪悪感を抱く必要はない。魂に障りが起こるとかいう話も信じてはいなかった。どうか気にしないでと、声をかけようとした時だった。
「勝子さん。どうしたの、その手」
 夫のベッドに置かれた勝子の手が、煤のようなもので黒く汚れているのに気づいた。生成りのベッドカバーに擦れたように黒い跡がついている。
「ああ、これ――そうだ。それも言わなきゃと思ったんだけど、忘れてた。おかゆの鍋、焦がしちゃったの。洗うのに一苦労だったわ」
 そう言って勝子は、ひひっと例のかん高い声で笑った。
「それで、兄さんの話の続きなんだけど、昨日は兄さん、いつもみたいに唇に触るだけじゃなかったの。私の口を開けさせて、冷たくて細い指を入れてきた。いったい何がしたかったのかしら。ねえ、兄さんは何を言いたいんだと思う?」
 頬を上気させながら、勝子が急くように尋ねる。その瞳はきらきらと異様な輝きを帯びていた。再び吐き気が込み上げてくる。
 思考があちこちに飛ぶのか、勝子は今話していたことなど忘れたふうに、まだベッド捨てていないんだ、と汚れた手で夫の枕を撫でる。胸の奥がちりちりと熱を持ち、息が苦しかった。私はなぜ、こんなにも苛立っているのか。自分でも分からず戸惑っていると、勝子がベッドサイドの棚に手を伸ばした。
「これって、なんとかって俳優がCMやってたカメラよね。高いんでしょう。こういうの」
「汚い手でいじらないで!」
 夫の形見のカメラに触ろうとした勝子を、思わず怒鳴りつけた。自分にこんな声が出せるとは思わなかった。勝子は驚いた様子で目を丸くすると、強張った顔でごめんなさいとつぶやき、逃げるように寝室を出て行った。
 なぜだか涙が止まらなくなり、熱に浮かされたまま、枕に顔を押しつけて泣いた。いつしかそのまま眠ってしまったようで、気づけば周囲は暗くなっていた。
 まだ熱は下がっておらず、ふらつきながらリビングに降りると、勝子はすでに帰ったあとだった。ダイニングのテーブルには、勝子の書いた手紙が残されていた。具合の悪い時に急に訪問したことへの詫びと、鍋におかゆを作ってあること、冷蔵庫に食べられそうなものを入れていく旨が特徴的な丸っこい字で記されていた。
 キッチンを覗くと、ガステーブルもシンクもきちんと掃除され、焦げを落とした鍋には香りの良いおかゆがまだほのかな温かさを保っていた。冷蔵庫を開けると、プリンやゼリーの他に地元の人気菓子店のシュークリームと、栄養ドリンクが入っていた。
 おかゆを食べて処方された薬を飲むと、再びベッドへと戻った。体調が回復したら、勝子に謝らなければと思いながら眠りに落ちた。
 二日後にようやく熱は下がったものの、勝子の家を訪ねられたのは、看病に来てもらってから五日後のことだった。咳の症状が続いていたため電話ができず、二度ほどメールはしたのだが返事はなかった。勝子は携帯電話は持っているものの、操作が苦手なのかメールの返事を寄越さないことが多かった。

 久しぶりに仕事に出て、いつものようにスーパーで買い物をしてから勝子の家に向かった。時刻は夕方の六時を過ぎ、辺りはもうだいぶ暗くなっていた。
 家の中に灯りはなく、出かけているのかと思ったが、玄関の鍵は開いていた。
「ごめんください。勝子さん? 寝てるの?」
 呼びかけたあと、耳を澄ましたが返事はない。だが居間の方から、何かが動いているような微かな音がした。お邪魔します、と声をかけ、靴を脱いで上がる。居間の襖を開けると、室内を見回した。
 庭に面した掃き出し窓のカーテンは閉じられており、部屋はほとんど真っ暗だった。何かにつまずいて転ばないよう、注意して歩を進める。どこからか、魚のわたが腐ったような臭いと、鉄錆のような臭いが漂ってくる。台所の生ゴミだろうか。
 ようやく部屋の中央に行きつき、蛍光灯の紐を引いた。瞬きのあと、部屋が仄白く明るくなった。こたつの上に黒くて丸いものが置かれている。どくんと心臓が跳ねた。それは天板に上体を突っ伏した、勝子の後頭部だった。
 勝子さん、と名前を呼び、その場にひざまずく。ぴくりとも動かない。先ほどからの嫌な臭いは勝子からしていたのだ。こたつ布団の上にだらりと落ちた手は蝋燭のように白く、手のひらには死斑というのだろうか。青黒い痣のようなものが見えた。
 死んでいる。
 だが、なぜ――。
 勝子の顔はこたつの天板の上に伏せられていて見えない。ざっと観察したところ、怪我をしている様子はなかった。おかしい。この錆のような臭いは、おそらく血の臭いだ。どこに傷があるのか。背中の方を確認しようと回り込んだ時、こたつ布団がもぞもぞと動いた。胸がぎゅっと縮み、喉の奥で悲鳴が漏れそうになる。
 動悸を抑えるように胸元に手を当て、深呼吸をした。それから腰をかがめ、こたつ布団をそろそろとめくり、中を覗き込んだ。暗闇の中に、緑色の二つの光があった。はっと息を飲む。驚かせないように、ゆっくりと手を差し入れた。
「ミイ、出ておいで」
 こたつの中にいたのは、勝子の飼い猫のミイだった。ミイはこちらへ歩み寄ると、差し出した私の手に顔を擦りつけた。ミイの毛は妙にべたべたしていた。ミイを外へ出そうと、さらにこたつ布団をめくり上げる。
 そこにある光景を目にした時、すぐには何が起きているのか、飲み込めなかった。
 勝子の土気色のふくらはぎは、元々薄かった肉がごっそりと削げ、断面から神経や血管らしい糸状のものが飛び出していた。その奥に象牙のような質感の、黒ずんだ血にまみれた骨が覗いている。口の周りを赤茶色に染めた白猫のミイは、小さく尖った牙を剥き出して、ああお、と人の赤ん坊のような声で鳴いた。
 私は絶叫した。

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血腐れ
矢樹純/著

「芳枝さん、何から何まで、本当にごめんなさいね」
 通夜のあとに勝子の家に泊まることになったのは、私一人だった。晶代は義兄の世話をしなければならず、他に身寄りはないのだから仕方がない。玄関先で何度も詫びて帰って行った晶代を見送ったあと、私は喪服の上に持ってきたエプロンをつけ、風呂場の掃除を始めた。浴槽を洗い、お湯を溜めている間に洗い物を片づける。
 あの日、どうにか平静を取り戻して警察に通報すると、まずは近所の交番の制服警官がやってきて、勝子の遺体を発見した時の状況を聞かれた。説明を終えると今度はスーツ姿の刑事が到着し、同じことをもう一度話さなければいけなかった。
 変死ということで遺体は警察署に運ばれた。検視の結果、ふくらはぎの傷は死後に猫によってつけられたものだと判明した。他に外傷や不審な点はなく、何らかの理由で心不全を起こしたことによる病死であると結論が出た。
 警察署から遺体が戻ったのは二日後のことで、慌ただしく通夜と葬儀の日程が決まった。今日の通夜に訪れたのは親族と近所の人のみで、勝子には親しい友人などはいないようだった。
「勝子さん、ずっとマルチ商法みたいなのにはまってたでしょう。あれでみんな離れて行っちゃったのよ」
 通夜に訪れた晶代の妹が、そんなことを言っていた。化粧品や健康食品など、やたらと色んなものを勧めてくるとは思ったが、マルチ商法に手を染めていたとは知らなかった。だがあの暮らしぶりからすると、人に売りつけるのではなく、自分が買わされていたのだろう。
 洗い物を終えると、タオルと着替えを持って廊下に出た。玄関に置いたケージに入れられたミイは大人しく寝ていたが、私の気配に気づいたのか、頭だけをこちらに向け、ごろごろと喉を鳴らした。ケージの中の餌入れには、まだ半分ほど固形の餌が残っている。
 遺留品として一旦は警察署に預けられたミイは、勝子の遺体とともにこの家に返された。連れて来られてすぐに洗ってやったので、口の周りの血の跡はもうきれいになっていたが、なんとなく近寄りがたくて、様子を確認しただけで背を向けた。
 廊下を奥へ進み、洗面所の引き戸を開けた。照明のスイッチを入れると、洗面台の鏡の中に疲れた自分の顔が映し出された。
 洗面所の壁紙は湿気によるものか、あちこちにカビが生えている。床のクロスも浮き上がっているように見えた。手早く服を脱ぐとガラス戸を開ける。電球が一つ切れたままになっているようで、浴室は薄暗かった。シャワーを浴槽に向けて出しっぱなしにして、お湯になるのを待つ。
 発見された時には、死後三日が経過していたという。私の訪問が早ければ、助かったのだろうか。考えても分からないことだし、私を責める人はいなかった。心臓に疾患があるという話は親族の誰も聞いておらず、こんなふうに突然、勝子の命が失われたことに、ただただ呆然としていた。
 思い込みが激しく、気づかいが苦手な人ではあった。だが決して悪い人間ではなかった。マルチ商法にしても、勝子はそれで儲けようというのではなく、本当に良いものだと信じて周囲に勧めていたのだと思う。例の薬についても、代金を払えとは言わなかった。
 シャワーを浴び、化粧を落とすうちに鼻の奥がつんと痛んだ。温かいお湯に、泡とともに涙が流されていく。せめて明日の葬儀まで、きちんと面倒を見よう。これまで勝子と過ごした時間を思い出しながら、ゆっくりと湯船に浸かった。

 深夜、ふと目を覚まし、暗い客間の室内を見回した。何か物音を聞いたような感覚が、耳の辺りに残っていた。
 しばらく様子を窺うが、家の中はしんとしたままだった。けれど妙に胸騒ぎがした。そっと布団から起き上がり、襖を開ける。廊下の照明のスイッチは、少し離れた玄関の方向にある。積まれた段ボール箱を避け、床を軋ませながらそちらの方へ歩き出した時、違和感を覚えた。目を凝らして気づいた。玄関に置いていた猫用のケージの扉が、大きく開いている。
 小走りで廊下を進み、照明を点けた。ケージの中にミイの姿はない。だが玄関の戸は閉まっている。ということは外に逃げ出したわけではないのだと、ほっとした。先ほど聞こえた気がしたのは、ミイの立てた物音なのだろう。何か倒していないかと周囲を見回すが、居間も仏間も襖はちゃんと閉じられていた。
 いったいミイはどこへ行ってしまったのか。トイレや洗面所のある方へと首を回した時だった。勝子の遺体が安置されている仏間から、みちみち、という水気を含んだ繊維が切れるような音がした。
 息が詰まり、内側から叩かれるように心臓の鼓動が激しくなる。ミイが何かしているのだろうか。だが襖は間違いなく閉じている。みち、と、またあの音がした。最後に仏間を出る前に窓もしっかり閉めた。風が入ることはない。この部屋に、動くものなどいるわけがない。
 追い立てられるような思いで襖の引き手に指をかける。音の正体が何か、見当もつかなかった。わけの分からない恐怖に、かちかちと歯が鳴る。開けたくない。けれど確かめないわけにいかない。
 細く開けた襖の隙間から、真っ暗な室内を覗き込んだ。仏壇の前に置かれた棺を、廊下から射した電灯の光が筋となって照らす。部屋の左手から右手へ、奥から手前へと視線を走らせる。動くものも、不審なものもない。危険はないと判断し、襖を大きく引き開けた。棺のそばへと歩を進め、天井から下がる蛍光灯を点ける。
 急に視界が明るくなり、瞳の奥が痛んだ。目をすがめ、もう一度注意して辺りを見回す。この部屋に押し入れはなく、仏壇の扉は開いている。人が隠れられるような場所はない。祭壇も、夕方に見た時と何も変わりはなかった。ミイの姿もない。
 あの音は、聞き間違いだったのだろうか。そうでなければ勝子が夫の幽霊を見たように、幻聴でも聞いたのか。きっと自覚している以上に疲れているのだと、灯りを消して立ち去ろうとした時だった。
 この部屋に一箇所だけ、人の隠れられる場所があったことに気づいた。
 勝子の棺の中に、遺体とともに横たわるという方法で。
 再び鼓動が強まり始める。棺の蓋は、ずれた様子もなくぴったりと閉じている。
 自分の考えがおかしいということは承知していた。狭い棺の中に、誰が遺体と一緒に隠れたりなどするものか。分かっているのに、棺に顔を近づけ、耳を澄ました。
 誰かが潜んでいれば、息づかいが聞こえるかもしれない。だがなんの音も聞こえず、気配も感じなかった。棺の載せられた台の足元に目をやる。二人分の重みがかかれば、もっと畳は凹んでいるはずだが、その様子もない。
 やはりそんなことはありえないのだと安堵する。そうして念のため、棺の蓋の覗き窓を開けた。
 自分の見ているものがなんなのか、理解できなかった。
 紫色をした、太くて長い、ナメクジのようなもの。
 それが黄ばんだ歯の粒と、死化粧を施されたピンク色の唇を割り、屹立していた。
 一見何かが勝子の口に入り込んでいるように思えた。だが目を凝らして、逆だと分かった。唇から離れるほどにだんだんと細くなり、裏側にはぶつぶつと細かな突起と、血管のようなものが走っている。これは舌だ。勝子の舌が、口から飛び出し、高く突き出されているのだ。
 閉じていたはずの勝子の目が開いていた。だがその眼球は水分が抜け、白く乾いて萎んでいた。
 勝子は動かない。確かに死んでいる。死んだあとに、その形相が変わっている。
 魂に障りが起きたのだ。その魂を鬼が引きずり出したから、勝子はこんな有り様になったのだ――と、まるで当然のことのように私は受け入れていた。
 現実から乖離したこの感覚には経験がある。これは、夢だ。

 夢だと気づいた瞬間、目を覚ました。心臓が激しく脈打っている。息を整えながら、瞳だけを動かして周囲を見回した。古い板張りの天井と小さな丸い笠の蛍光灯。布団を敷くために部屋の壁際に寄せた座卓が見えた。強張っていた体から力が抜ける。ここは勝子の家の客間だ。
 自分が現実の中にいることを確かめるように、布団の中で手を動かし、寝巻きの上から腿に触れた。温かく汗ばんだその感触にほっとしながら、もう一度大きく息をした。
 首を動かす。辺りはまだ暗いが、レースのカーテン越しの青白い光で、夜明けが近いことが分かった。ゆっくりと上体を起こす。布団から出ると、少しのためらいのあと、襖を開けた。玄関の方へと視線を向ける。ミイのケージの扉は閉じていて、金属の柵越しに白い体を丸めているのが見えた。力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。
 枕元に置いた携帯電話を見ると、まだ四時を過ぎたばかりで起きるには早かった。布団に潜り込むが、眠れそうにない。目を閉じると、勝子のあの様相がまぶたの裏に浮かんだ。
 私が先ほど見たものは単なる夢だ。けれど勝子が生前語っていたこととの符合が気になった。死後に人の顔が変わるという怪談。勝子の前に現れては唇に触れ、ついには口の中に指を入れたという夫の幽霊のこと。
 夫はその身振りで、魂に障りが起きていると勝子に警告していたのだろうか。そんなわけはないと荒唐無稽な考えを否定する。あれは勝子の夢か幻視の症状だ。
 だが、もしも夫が現れたのが、勝子のためではなかったとしたらどうだろう。勝子は死人の顔が変わるという話を語った時、こう言っていた。
 私も芳枝さんも、気をつけなきゃね。
 夫が助けたかったのは勝子ではない。私だ私も夫とともにあの薬を飲んでいた。勝子とミイも毎日飲んでいる、免疫力がつく薬だからと勧められて。
 私には夫の姿を見ることができない。だから夫は、勝子に訴えるしかなかったのではないか――。
 そこまで考えて、またもやそんな馬鹿げた推考をしている自分が恐ろしくなる。霊だとか、魂がどうしただとか、まともな大人の言うことではない。正気を保たなければいけない。
 夫を介護していた頃の、我を失った自分には戻りたくなかった。迷妄に取り憑かれ、自分が自分でなくなるのだけは嫌だった。

 朝八時になって晶代が義兄を連れてきた。仏間に用意した椅子に義兄を座らせて休ませ、それから葬儀会社の担当者を迎えた。今日の段取りの説明を聞き、教えられたとおりに祭壇を整える。九時前には僧侶が到着したので客間に通してお茶を出し、ほどなく近しい人だけの参列者が揃い、葬儀が始まった。
 読経のあとに喪主である義兄が短い挨拶を述べ、棺の蓋に釘を打つ前に最後のお別れとなる。蓋を外し、棺の中にみんなで花を差し入れていった。昨日と同じように静かに目を閉じている勝子の顔を見下ろす。そして思わず口元を押さえた。
 悲しみが込み上げたためではない。昨日と同じではないと気づいたからだ。
 綺麗に塗られていたはずのピンク色の口紅が、上唇の部分だけ、何かで擦れたように剥げていた。

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 きっと誰かが花を入れた時に、勝子の唇に触れてしまったのだろう。
 葬儀会社のワゴン車で晶代たちとともに火葬場に向かいながら、私は湧き上がる妄想じみた思考を必死で抑え込んだ。最後の読経が終わり、勝子の亡骸を納めた棺が火葬炉の扉の向こうに消えた時、涙する親族たちの後ろでうつむきながら、これでもうおかしなことを考えずに済むと、どこか救われた思いがした。
 お骨を拾い、勝子の家に戻ってきたのはお昼頃だった。精進落としの会食を終え、参列者たちは小一時間ほど話をして帰って行った。義兄は体力の限界だったようで、晶代は片づけもせずに申しわけないと詫びながら、義兄を連れて帰った。
 一人で後始末を終えたあと、何かやり忘れていることはないかと確認していて、ミイのことを思い出した。朝に餌と水をやったきりで、ずっとケージに入れたままだった。様子を見に玄関へと向かう。もう参列者は帰ってしまったし、片づけは済んだのでいたずらされて困るものもない。
 ミイはケージの中で四本の足をぴんと伸ばして寝ていたが、足音を察知したのか私が近づくと頭を起こした。扉を開けてやると、ゆっくりした動作で立ち上がり、遠慮がちに外に出てくる。そして私の手の甲に顔を擦りつけた。
 顎の辺りを撫でてやりながら、この子の引き取り手のことも考えなければいけないのだと途方に暮れる。しばらくは私が世話をすることになるだろうが、そもそもが動物好きではない。しかし飼い主を食べた猫をもらってくれる者などいるだろうか。
 甘えるように体を寄せてくるのを見るうち、そう言えばこの数日、おやつをあげていなかったと思い至った。確か居間にあったはずだと立ち上がる。襖を開けると、ミイが先にするりと滑り込んだ。
 こたつと、その下に敷いていたカーペットは片づけてあったが、畳には茶色い染みが残されていた。そちらを見ないように、壁際に積まれた段ボール箱の一つを開ける。勝子はこの中に猫用の餌やおやつと、自分のお茶菓子を仕舞っていた。
 ペースト状のおやつの封を開け、ミイに食べさせてやりながら、ふと違和感を覚えた。おやつの入っている袋も餌の袋も、猫の爪や牙で容易に引き裂くことができるポリエチレン製だ。段ボール箱だって封はしていないから簡単に開けられる。
 私が勝子の遺体を発見した時には死後三日が経過していたが、餌をもらえず空腹だったとしても、この部屋には他に食料があった。なのにミイは、なぜ飼い主の肉を食べたのか。
 チューブから押し出されたおやつをペロペロと舐めるミイの口元をじっと見つめる。中身を少しずつ搾ってやりながら、勝子の言葉を思い出していた。
 猫って、本能で分かるのよ。自分の身を守る方法が。
 頭の奥で閃光が弾けた。全身から血の気が引いていき、二の腕にぷつぷつと鳥肌が立つ。
 私の唇に夫が触れる。その痩せ細った冷たい指を口の中へと差し入れる。幻のような光景が、生々しい感触をともなって脳裏に映し出された。
 夫が勝子を通じて私に伝えたかったこと。魂に障りが起きた者が《鬼》から逃れる方法――。
 魂に障りが起きた者の体を食べればいいのだ
 出所の分からない胎盤を原料とした薬を飲んだために、私たち全員の魂に障りが起きた。夫が勝子の唇に自身の指を差し入れたのは、それを食べれば助かると私に知らせたかったのに違いない。餌はあったにも拘わらずミイが勝子のふくらはぎを食べたのは、そうすれば障りを免れることができると本能で知っていたからなのだ。
 気づけばミイを居間に残し、一人仏間に向かっていた。祭壇に置かれた桐箱の布の覆いを外し、蓋を開ける。小さな白い壺が覗いた。丸い陶器の蓋を持ち上げると、一番上に置かれた喉仏の骨が、かさりと静かな音を立てた。
 正気でいることができなかった。分かっていたが、もうどうにもならなかった。
 まだ温もりの残る白い骨の欠片をつまみ、夫といつか眺めた白い砂浜を思い起こす。仏が合掌している姿のようだというそれは、あの時、指輪みたいだと言って夫が拾い上げた珊瑚の欠片に似ていた。
 小さく噛ると、わずかな苦味を感じながら飲み下した。どこからか、調子の外れた笑い声が聞こえた気がした。

「魂疫」 了

血腐れ
  矢樹純/著

この試し読みは校了データをもとに作成したオリジナル版です。