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試し読み

 その金の懐中時計は、裏に刻まれた『V』のイニシャルを、乾いた血でくっきりと黒く浮かび上がらせていた。
 時間の刻み方を忘れた時計は、持ち主の熱を失ってひんやりと冷たい。
 硝子ガラスにひびが入ったソレを見下ろし、漆黒のヴェールとドレスに身を包んだ貴婦人は、握りしめたこぶしを口元に押し当て、声を上げずに泣いていた。
 悲しみに──あるいは『ぞう』、或いは『ふん』で。
 のどの奥からせり上がるようなえつを必死に押し殺すのは、どうこくですら『彼』だけにささげたかったからだ。
 喜びに音を、笑顔に光を、幸せに輪郭を。いとおしいという気持ちの色を教えてくれた人が、彼女に最後に教えたのは血のなまぐさあか
 内側から引き裂かれるような痛みを教えてくれたのは、愛する人の首だった。
 そして弔うことをゆるされぬその顔を、時間がどうやって削り取っていくのかを──。
 時計の横には七枚の重ねられた写真があった。
 それを束ねるのはナイフ。
 鋭いやいばが、写真のあるじの顔を貫いている。
 貴婦人はできることなら本当に、その顔にナイフを突き立ててやりたいと思っていた──いいえ、やらなければ。
 覚悟と怒りで握りしめられた手。そのまだ行き場のない激情は、自らのつめてのひら穿うがち、指先からひたひたと血がしたたり落ちていたが、痛みなど気にならないほどに、彼女の心は傷ついていた。
 そんな貴婦人を見かねたように、一人の紳士が彼女の手をとると、優しく開かせハンカチを押し当てる。
「君まで傷ついてはいけない。忘れなさい」
 痛ましげに、諭すように紳士が言った。
 が、貴婦人はうつむいたまま答えず、なにかをつぶやいた。
「……………」
 紳士が顔をしかめた。
 その呟きをよく聞けば『許さない、全員殺してやる』と狂気じみた怒りの言葉の繰り返しだったのだ。
「赦して忘れる方がずっと難しく、崇高だ。そして君は賢く気高いひとだ、そうだろう? ふくしゅうなど考えてはいけない。そんなものは、物事の足し引きが出来ない愚か者のすることだ」
「足し引きなんて……貴婦人がドレスを仕立てる時に値段を気にするとでも?」
 貴婦人がかすかに口元を笑みの形にゆがめる。
 彼は貴婦人の頰を手で包むようにして、上を向かせた。
 黒いヴェールの奥のまぶたれ、ひとみは涙で真っ赤に染まっている。
「忘れなさい。復讐は砂糖菓子でも宝石でもない。それはけして君を幸せにはしない」
 言い聞かせるようにことさらに優しく紳士が言った。
 けれど逆効果とでも言うように、貴婦人はキリと怒りに唇をみ、その形良い下唇に赤い血をにじませた。
「もうわたくしの幸せは死んだ。絶対に許さない。一人たりとも」
「だとしても、君は善良な女だ」と紳士は言った。
「だとしたら、その方も、あの人と一緒に殺されてしまったのでしょう」と、貴婦人は答え、紳士の手を振り払った。
「怒りこそがわたくしの本分。そして破壊と略奪がわたくしの領分」
 貴婦人は写真を貫いたナイフを引き抜く。
「ああ、けだし天に住まわる方々が『善』ならば、地上にのこされたわたくしこそが、この世の『悪』となりましょう」
 そう言って復讐の黒い貴婦人は、やみを裂いた三日月のように──或いは開いた傷口のように赤々と微笑ほほえんだ。

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01:Domina Ex Coemeterium──或いは墓場の貴婦人

 誰かに触れられたような気がして目を覚ますと、そこは知らない天井の下で、更にいうなら立派な寝台の上だった。
 あたたかく柔らかい毛布──びたにおいも、えたあぶらの臭いもない、清潔で上等な毛布。
 ぱりぱりの白いシーツからは、かすかにラベンダーの香りがする。
 意匠を施された天井も調度品も高価なものだ。自分が場違いな場所にいるのは明白で、はっとしたもののそのまま飛び起きれなかったのは、力んで力を入れた腹が痛かったからだ──手で触れると、きちんと包帯が巻かれて手当てされていた。
 幸い傷の辺りを指でなぞっても、ひりつくような痛みはない。
 痛むのはもっと奥、まだ完全に治りきっていない表皮の下の部分だ。
「一晩以上、ってる……?」
 呟いた少年──シロは、ほっとすると同時に困惑した。
 人の気配がした気がしたけれど、室内はシロ一人。
 けれどサイドテーブルにはまさに今れたばかりというように、紅茶が湯気を上げている。
「……どうして?」
 思わず独りごちた。
 確か自分は深夜の墓地で、場違いな黒いドレス──おそらく喪服姿の貴婦人に出会い、その隣にいたメイドに腹を刺された。
 とっに回避できたから腹で済んだが、メイドは確実にシロの心臓か首をねらっていた──間違いなくシロを殺そうとしたのだ。
 だのに、自分はこんなごうしゃな部屋で寝かされているのだろう?
 腹の傷が痛まないよう、できるだけそろりと寝台から抜け出して、窓に近づいた。
「…………」
 それなりに大きな屋敷タウンハウスだ。温室と、白いクリームをかぶったように雪の積もった庭。庭の向こうには街並みと、更に山の方にはシロが暮らしていた墓地の横、教会のせんとうが見えている。
 ますます混乱して、シロはそのままずるずると床にひざを突いた。
 暖炉の火は赤々と燃え、量を惜しまずに骸炭コークスべられている──まるでシロを歓迎しているように。
「本当に、いったいなんなんだよこれ……」
 少なくとも、自分は歓迎されるような身分ではないのだ。
 しかも俺を殺そうとしたじゃないか──頭を抱えてからシロは空を見上げた。空の色だけは、故郷の色と変わらない。
 けれど目を伏せたシロの脳裏をよぎったのはなつかしい故郷の空ではなく、夕べ出会ったあの貴婦人のことだった。
「……『黒』を着ていた」
 喪服とおぼしきドレス。この国では禁じられた黒いドレス、黒いヴェールのすきから一瞬見えた顔──シロにとって、この世で一番美しい女性は母だった。
 けれどあの時見た貴婦人は、母よりもつややかな銀糸の髪、形の良い唇と、なにより輝くような紫色の瞳をしていた。
「…………」
 もう一度、今度は明るい場所で彼女を見たいと思ったけれど、よく考えればシロは彼女に殺されかかったのだ。
 やっぱりこんな所に──北の公国なんかに来るんじゃなかったと、シロは静かにためいきらした。

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II

 シロは西の国で生まれた。
 東西南北に中央を加えた五国の中で、一番歴史の古い西の国はどこよりも格式と血統を強く重んじ、ゆえに身分がすなわち法であった。
 シロの母親は元は貴族の娘だったというが、よくない男にだまされて家を飛び出した後、捨てられてそのままちて、落ちぶれて、生きるためには春をひさいで暮らすより他なかった。
 ごく薄い色の金髪、青い瞳、ぽってりとした唇──彼女はとても美しかったが、身を粉にして働けるような、知識もすべも持っていなかったのだ。
 そうして元々あまり丈夫ではなかったところに赤子をもり、それでもなんとかたどり着いた、『路地裏』の長屋の一室で男の子を産み落とした後、そのまま体を壊して床からほとんど起き上がれなくなってしまった。
 けれど優しく純真で、いつまでも少女のような彼女のことを、同じ長屋の住人は哀れに思ったのだろう。
 一人のろうが彼女にいとつむぎを教え、そして男の子を実の孫のように厳しく、そして愛情を注いで育てた。
 やがて男の子が物心つくころには、母親に似て穏やかな気性、そして母親とは違い丈夫で力自慢になった。
 六歳にもなれば大人の男と同じどころか、もっと重い物を軽々と持ち上げるようになった。
 そんなシロを長屋の大人たちはたいそうわいがって、読み書きを教えたり、身分の高い人に従う作法を教えてくれた。
 物覚えもよく、素直で健康で勤勉で、なにより母親譲りの容姿の良さは、男性従僕として好まれる。
 そしてみな気が付いていたのだ、シロのわいそうな母親が、そう長くは生きられないことを。
 皆が思っていたとおり、シロの十歳の誕生日を待たずに母親はき、シロはかつてお屋敷勤めをしていたという長屋の住人ので、よいお宅に奉公に出た。
 一番したの雑用係だったものの、シロは本当によく働いたし、だん様に気に入られ、猟にお供したり、ペイジ・ボーイとしてご一家にお仕えした。
 善良で優しいご一家に熱心にお仕えし、やがて十五歳になる頃には、上から三番目のフットマンに召し抱えられた──まではよかった。
 うららかな秋の日だった。
 ご一家そろってご領地から首都へと出かける日の朝、馬車馬が暴れた。
 大きなあぶに驚いたのだ。
 一家のご長女は馬が好きだった。
 その日もお嬢様はいつでも時間のかかる母の支度を待ちながら、馬をスケッチしていた──ところに、興奮した暴れ馬が跳ねるように向かっていた。
 シロはご一家のことが好きだった。
 中でも旦那様を敬愛していた。
 そんな旦那様がいっとう可愛がっているお嬢様だ。シロの体が咄嗟に動いた。
 シロには性分があった。体質と言うべきか──昔からの。
 お嬢様をかばい、自ら暴れ馬の前に身を投じたシロは、我が身を顧みずにお嬢様を救った。
 馬にられて容易たやすく死ぬ者もいる。あの大きくてしなやかな脚に蹴られれば、人間の骨など簡単に砕けてしまうのだ。
 興奮に我を失った馬は容赦しなかった。
 馬に蹴られ、シロは死んだと誰もが思ったのに、彼はそれどころか馬よりも強い力で、馬を押さえつけたのだった。
 それは異様な光景だっただろう。
 お屋敷で健やかに成長していたとはいえ、十五歳の少年が、素手で暴れ馬を取り押さえているのだから。
 お嬢様は無事だった。
 馬も次第に冷静さを取り戻し、をしないで済んだ。
 そしてシロも無事だった。
 数本骨を折りはしたものの、その怪我も二、三日でえてしまった。
 シロは昔から怪力だった。そしてどんな傷も数日の間にたちまち癒えてしまった。
 普通なら命を落としてしまうような大怪我でも──いや、むしろひどい怪我であればある程、異様な速度で回復してしまう。
 ご一家はお嬢様の命の恩人であるシロに、感謝よりも恐怖を抱いた。
 シロに命を救われたお嬢様ですら、シロをおそれた。

 ──おまえ、怪物のようよ。

 いつも笑顔の愛らしいお嬢様が恐怖に顔を歪め、震える声で言ったのを、シロはこの先も忘れられないだろうと思った。
 そこから『きっと悪い物がいている』と村の教会に連れて行かれ、むちたれ、更に首都から大変偉い神父が来るとまで聞いて、シロは教会を、村を、そして国を逃げ出した。
 行き先も知らないまま飛び乗ったのは、遠い遠い北の公国に向かう船だった。
 シロの母は北の公国が好きだった。
 何故なら母の話では、シロの父は北の公国の貴族なのだという──もっとも、それを信じているのは、シロの母親だけだったが。
 それでも父という人は、母に海の向こうの遠い国のことを教えてくれた。
 五公国の中でゆいいつ代々女性が統治している珍しい国で、そして更に冬には美しい『雪』が降るという。
 西の国でも年に一度二度、ちらほらちらつくことはあるが、北の公国ではそれがうずたかく積もるのだそうだ。
 自然が厳しいから、時には身分を超えてお互いに助け合うのが普通だというし、西と違って身分よりきずなや縁、恩情をたっとぶ。そうしなければ生きられない土地だから。
 だからきっと、母のことも受け入れてくれるだろうと、父という人は言った。
 一度母のことを家族に伝えると言って──案の定、父はそのまま、二度と母の元に戻ってこなかった。
 母は騙されたのだ。疑うべくもないほどに。
 母は自分に何かあったら、父を頼れと言っていたが、絶対にそんな場所に行くまいと思っていた。
 それがこんなことになるなんて……。
 それでもシロに後悔はなかった。あのままお嬢様を見捨てていたら、確かに屋敷を追い出されはしなかっただろうが、ご一家は悲しみに沈んでいただろう。
 苦しむ彼らに仕えるよりはいい、ずっといい──シロはそういう優しい少年だった。
 それに雪景色を求めて、冬の間だけ北の公国を訪れる貴族も多いという。
 狩猟は冬の方が良いと言うし、元は路上の子供たちの冬の移動手段だった、雪山を木の板で滑り下りるのが、数年前から五公国の貴族の間でっているという。
 人が多ければ、それだけ仕事は見つかるだろう。
 一度は選んだ船を後悔したものの、そうやって前向きなのもシロの性分だった。
 運命というものがあるならば、これが進むべき道だったのかもしれない──と、シロは思ったのだった。

「へぇ、お父さんをね」

 船賃代わりに、船の仕事を手伝っていたシロに、船長が言った。
 どうして北に行くのかと聞かれたからだ。
 お屋敷を追い出されたとは言えないし、父親が貴族だったかも知れないということも伏せて、シロは彼に父を探しに行くのだと言ったのだった。
 うそを言っているわけでもなかった──確かにそれが母の望みだったのだから。
「正直母の話は半信半疑で。だから本当に会えるとは思ってないんですけど、でも北は仕事も多いと聞いたので」
「仕事ねぇ、まあ確かによそ者に寛容な国ではあるけれど……」
 と、船長は何かを含んだように言葉を濁した。
「……仕事、ないんですか?」
 彼の靴を磨きながら、不安げに問うシロに、船長は顔を顰めた。
「いやいや、仕事がないわけじゃないよ。実際冬の海が荒れやすいこの時期、春が来るまで北の公国で働くって船乗りもいないわけじゃないんだ。ただ……」
「ただ?」
「あの国は今、何かとざわついていてね」
「ざわついて……ですか」
「なんでも王位継承権を持つ姫様が殺されてしまったそうでね。相手はお偉い貴族の紳士で、無理心中だとか、金を巡ってだとか色々うわさされていたけれど、女王陛下はすっかり気落ちしてしまって、国民にもしばらく娯楽だけでなく、黒以外の服をまとうのを禁じていたんだ」
「黒以外禁止!?」
 次期女王がくなられたのだから、国中が喪に服すのもわからなくはないが、だからといってそこまでするものか。
「ああ、いや、確か今はもう違うはずだ。けれどその時にいろんな物を一気に制限してしまったから、景気も落ち込んで、職を失った人間も多い。幸い陛下に代わり、遺された妹姫様が景気の対策に乗りだしたって話だから、今は随分変わっているかもしれない」
 亡くなられた姫君は陛下のちょうあいを受けていたものの、国民の人気はむしろ妹姫の方が高いという。
 それでも不安がない訳ではない。シロはでよく働く。えも良いからお屋敷での仕事ならきっとすぐに見つかるだろうと言いながらも、船長は知り合いに一筆書いてくれた。
「以前はうちの船で働いていたが、事故で片足をくしてね。今は教会の墓地で墓守をやっている男がいるんだ。少々気難しい男だが、君ならくやれるだろう?」
「はあ……」
 確かに気難しい相手とでも上手くやる自信はあったが、それよりも墓地というのは……。
「今の季節は野宿なんかしようもんなら朝には氷漬けだ、仕事を手伝えば食事の世話ぐらいはしてくれるはずだ。奉公先が見つけられるまでのつなぎの仕事と思えばいいじゃないか」
「え? そんなに寒いんですか?」
「危ないねえ。そんな事も知らないで北の公国に行くつもりだったのかい?」
 氷漬けだなんて大げさだと思っていたシロに、船長はあきれたように言った。
「……このまま船に残ってもいいんだよ」
 心配そうに言われて、シロは少し心が揺らいだ。けれどもしまた、お屋敷の時と同じような事になってしまったら、海ではどこにも逃げ場がない。
 それに。
「揺れる日は、やっぱり船酔いが……」
 大きな船なので揺れも少ない方だし、やがて慣れるとは言われたものの、波が高い日の胃袋がひっくりかえるような感覚には、どうしたって慣れる気がしない。
 墓場の仕事を手伝うなんて、想像するだけで恐ろしいが、このまま船で働くよりは良いかもしれない。
 船長は、そこで少し黙って、シロをじっと見た。
「ふむ……それにお父さんが北の公国の出身というのは、本当かもしれないね」
「どうしてですか?」
「北の公国は女王陛下を筆頭に、君みたいに髪や目の色が淡く薄い人が多いんだよ。陛下は見事な銀の髪をしていらっしゃるというしね」
「へえ……」
 確かにシロは、母よりも薄い、白と見まがうような白金色の髪をしていた。けれど瞳は濃い夕焼けのあかねいろ、あるいは明るい血のような朱金色だ。
 目の色も淡いとは言えないし、髪の色は父親ではなく母に似たのだと思う。それに母の描いた父だというスケッチでは、その髪は枯れ草のような茶色だったのだ。
「お母さんがそうだと言ったなら、きっとそうなんだよ。信じてやりなさい。父親だって君が訪ねてきたらうれしいだろう──私も君を見ると、死んでしまった息子を思い出す」
 似ていないんだけれどね、と船長はいった。
 けれど彼がシロを気にかけ、そしてこうやって話をすることすら楽しんでくれているのは本当だったので、シロは素直にうなずいた。
「見つかるよう祈っているよ」
「はい。ありがとうございます」
 シロは船長にそう感謝を述べて、より丁寧に靴を磨き、彼の上着にブラシをかけたのだった。

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III

 寒い寒いと聞いてはいたけれど、船が北の公国に近づくにつれ、シロにも船長の言う意味がわかった。
 甲板で感じる風が日増しに冷たく、鋭く刺すような痛みに変わっていったからだ。
 海も次第に荒れ始め、シロはすっかりへこたれて、もう二度と船には乗るまいと心に誓った。何をしていても揺れる嫌な感覚がずっと続くせいで、本当は揺れていない時ですら、足下がぐらつくような気がしてしまうし、酷い時は横になっている事しか出来なかった。
 すっかり従僕としてシロを気にいった船長は、本当にこのまま船に残ればいいと言ってくれたが、けれどシロの船酔いに苦しむ姿を見てさすがにびんに思ったようだ。
 船乗りの多くは、なりたての頃どんなに揺れに弱くても次第に慣れるものだが、中には慣れるまでとても時間がかかる者もいる。
 船ではよくある光景だとはいえ、息子の姿と重ねてしまっているからだろう、船長はシロの苦しむ姿を見ていられないようだった。
 それでも幸い大きなあらしには見舞われず、船は無事北の公国の首都ウーシュケにたどり着いた。
 あわい雪化粧をした赤いれんの倉庫が建ち並ぶ西波止場の光景は、シロの想像していた北の公国の港とは、少し違った。
 船長の話もあって、もっと雪がたくさん積もっていて、そして寂しいうらぶれた港だと思っていたからだ。
 もちろん北の公国の首都であるのだから、栄えているのは当然だろうが。
 定期船というわけではないものの、また度々ウーシュケを訪れるはずだという船長は、シロとの別れを惜しみ、もし本当に仕事が決まらなかったら、また船に戻ってくるように言ってくれた。
 それだけでなく、ちょうど墓地の隣にある教会に積み荷を届ける予定だという馬車に、一緒に乗せてもらえるように手配までしてくれたのだった。
 行き先が墓地、頼る相手が墓守だというのは本当に気乗りしないが。
 とはいえ思ったより雪は少ないものの、日が傾くにつれ気温はドンドン下がっていく。
 船長の言うとおりこれでは野宿など出来ないし、宿だって空いていたかどうかわからない。何よりけっして多くない路銀を減らさないでいられるのはありがたかった。
 そんな船長に感謝と別れを告げ、シロは荷馬車に乗り込んだ。積み下ろしを手伝ったので、御者はシロの同行を嫌がらずに隣に座らせてくれたし、奥さんが朝焼いたというコーンパンを分けてくれた。
 優しい塩味の硬いパンの中に、水で戻したコーンの粒が入っている。コーンは甘くて、うっすらバターの香りがした。
 やがて港を離れ、荷馬車はよりにぎやかな市街へと向かっていった。
「ムクドリだよ! 元気なムクドリが一羽たったの十ペンス! 教えたら言葉も覚えるよ!」
「干しにしんはいかが? 開いてるのキッパーも、丸まんまのブローターも、ぬかけもあるよ!」
「ジンジャーブレッドはどうだい、そこの兄さん買ってかないかい! 三十個でたった一ペニー、一ペニーだよ!」
 市場が近づくにつれ、様々な呼売商人コスターモンガーたちが声を張り上げているのが聞こえてきた。
 やっぱり首都だけあって、目抜き通りには店が建ち並び、呼売商人も多く、人通りもあるようだった。
ぼうはああいう連中とは付き合うんじゃないぞ。あいつら稼ぐそばからばくと酒ばっかりだ──ああでも、娘さんたちはいよ。呼売をしている女の子たちは、みんなよく働くから。結婚するなら呼売娘にしておくといい。お高くとまったお屋敷のメイドなんてのはしりがるで、ぜいたくばっかりしたがるから」
 自分の奥さんも呼売商人だったという御者が、どこか自慢げに言う。前のお屋敷のメイドたちの中には、確かにおしゃべりで派手好きで、苦手な子もいたけれど、真面目で気立ての良い子もいたのだが。
 それよりシロが気になったのは、呼売商人たちの服装だ。みんな黒どころか、目がチカチカするような、極彩色の派手な服を着ている。
「船長から、この国では黒い服以外着たらダメだって聞いたんですが」
「ああ、それはね、先々月まではそうだったけれど、今は逆にこの国で『黒い服』は禁止なんだよ」
「禁止……ですか」
 お屋敷の使用人たちは、さぞ午後のお仕着せに困っているだろう……。
「ヴィクトリア様が黒は悲しい色だから、みんな明るい色を着るようにと決めたんだ──『イゾルデお姉様は、国民がかなしみ、苦しむ事をお喜びにはなりません。とくにこれから雪に閉ざされた冬が来ます。お姉様のためにもみな明るい服を着て笑い、楽しく歌い、踊り、華やかな冬を迎えましょう』ってね」
 だからこの国で今、『黒』を纏うのは罪で、許されているのは女王陛下ただお一人なのだという。
 随分極端なことだとは思ったが、そのくらい思い切ったことをしなければならないほど、国が冷え切っていたのだと聞いて、シロは納得した。
 確かに往来を行き交う人々は、みな色こそ明るい上着に身を包んではいたが、呼売ばかり目立って、商店などは随分閉まっているようだ。
「寒波より景気が冷え込んでいる」なんて御者の話を聞きながら、ガス灯に照らされてキラキラ光る雪を眺めているうちに、いつの間にか荷馬車は薄暗い方へと向かっていた。
「教会は山の真ん中あたりだよ」
 シロが寒くないようにと毛布を渡して、御者が言った。
 寒さもだが、段々と道が暗くなっていくのに、シロは不安を覚えた──ガス灯の数がみるみる減っていく。
 おびえるシロを乗せたまま、馬車は緩い坂を登っていった。馬は慎重に力強く歩いて、白い道に足跡を残していった。
 すっかり日は落ち、ガス灯もなくなり、頼りになるのは馬車に下げられたランタンだけだ。
 真っ黒い森を眺めていると、時々何かがキラッと光った。よく見ればそれはランタンの灯りを映した鹿じかの目だったが、シロは身震いした。
「まったく薄気味悪い道だよ」
 どうやらシロだけでなく、御者も同じ気持ちだったらしい。
 何度来ても慣れないと言って、彼は不安を振り払うように『ヤーレン・ソーラン・チョイ・ヤサエ・エンヤン・サー』と歌い始めた。
 聞き慣れない言葉だったが、漁師が海で唱えるお祈りの歌らしい。
 意味は『神をたたえて歌え、たとえ嵐が来ようとも、一人で前に進め』だと教えてくれた。港町らしいお祈りだ。
 頼りない明かりだけが照らす、黒々とした木々の間を進む中、御者は声を張り上げて歌った。やがて木々の向こうに、ぼんやり明かりが見えるまで。
 馬車が木々を大きくかいするように曲がると、薄暗い墓地と、更にその向こうにガス灯の淡い光に照らされた教会が見えた。
 最後まで荷下ろしを手伝うと言ったけれど、長い船旅で疲れているだろうと、御者は先にシロを墓地の前で降ろした。
 おどろおどろしい墓石の立ち並ぶ墓地の更に奥、すすけた色の煉瓦の家がある。
 煙突からは煙が上がっている。
 人の気配を感じながらドアをたたくと、ややあって「おう」と声がして、ドアが開けられた。
「……なんだお前は」
 元船乗りというよりは、むしろ海賊のようなざんばら髪の男が現れた。
 彼はとがったあごしょうひげ、髪も目も真っ黒で、シロは船長が言っていた『北の人』にしては、肌の色も濃いと思ったが、おそらく出身は違う国なのだろう。
「あ、あの、これを」
 確かに彼は左足の膝から下を失っていて、つえを突いている。おそらく彼が船長の言っていた『墓守』で間違いないだろうと、シロは胸にしまっていた手紙を出した。
「ああ?」
「船長が、あなたに渡せば良いって」
 シロもけっして背は低くないのに、墓守は更に高い。彼はシロを見下ろした後、げんそうに手紙を受け取り、少し家の中に下がって、家の灯りで手紙のふうろうを確認した後、ポケットから出した折りたたみナイフでピッと蠟をがした。
「ふん」
 手紙を広げ、墓守が鼻を鳴らした。
「つまり……行くところがないのか」
 どう考えても歓迎していない口調で墓守が問う。
もちろんすぐに仕事を探します! 長くご迷惑はかけません!」
 あわててシロが頭を下げると、墓守は「入れよ」と素っ気なく言って、ナイフの先で部屋の中を指した。
「……良いんですか?」
「冬の間は仕方ないだろう。翌朝お前のために墓穴を掘るのは面倒だからな。まぁいいさ。船長には恩がある──同じぐらい恨んでもいるが」
 明らかに歓迎はしていない様子だったが、追い返されなかったことにシロは驚いた。墓守は「早く中に入れ。家が冷えちまう」と不機嫌そうにシロの腕を引く。
「船長を恨んでいるんですか?」
 ますます迷惑がられている気がしたが、それでもシロは家に入った。中は確かにほかほかと暖気に包まれている。
「ああ。あの人のお陰で、俺は片脚を失っただけで済んだんだ──いっそあのまま死なせてくれたら良かった」
 墓守が吐き捨てるように言った。船を下りた後、彼がどんな風に生きてきたのか、シロには知るよしもないが、薄暗い墓地で一人墓を守って暮らしているというのだから、色々と事情や苦労があったのだろう。
 それでもこうやってシロを迎え入れてくれたのだから、やはり船長に恩を感じているというのも本当なのだろう。
「シロっていったか。俺はカカシだ。空いている部屋を使わせてやるし、飯も食わせてやる。その代わり家の事や墓場の仕事を手伝え」
「あ……はい、やらせてください」
「冬の間だけだぞ」
「急いで仕事を探しますから!」
 シロもはなからそのつもりだった。普段使っていないという、少しほこりっぽい部屋に少ない荷物を置き、寒かったら可哀想だと船長からお下がりで頂いた綿入りの上着を脱いで、これから夕食の支度をするというカカシの所に急いで戻ると、彼は土のついた魚を洗っているところだった。
「泥? これ……なんですか?」
「泥じゃない、糠だ。鰊の糠漬けだよ。春にった鰊を塩辛い糠に漬けてあるんだ。夕飯サパーは鰊のシチューでいいな?」
「あ、はい……なんでも」
 糠? とシロは思ったが、なんでも精米した時に出る米を削った粉末だそうだ。確かに北は米をよく食べるとは聞いていた。
 彼は鰊をぶつ切りにすると、なべで煮始めた。
 更にじゃがいもを手に取ったので、シロはさっそく「手伝います」と腕まくりをした。
「じゃあ、芋をけよ。できるか? 明日からはおまえがやれ」
「は、はい」
「飯は芋とカボチャと鰊だけだ。冬はどうしても暖炉に火をいれるせいで金がかかる。そのうえお前を預かったからいよいよパンや肉を買う余裕はないんだ。文句は言うなよ」
 確かに外は寒いのに、家の中はあたたかい。そうしないと家中が凍り付いてしまうからなのだとカカシは言った。シロは文句など言える訳がないと頷き──そしてふと思いついた。
「……銃は、猟銃はありますか?」
「ああ?」
 カカシが怪訝そうにシロを見た。
「前のお屋敷で旦那様に扱いを習ったんです。猟銃があれば多分鹿が獲れるんじゃないかと。来る途中に群れをいくつか見かけましたから」
 特に冬は雪のお陰で足跡も追えるし、ものが見つけやすい。それに旦那様の話では、狩猟肉は寒い時期の方が腹を壊しにくいと言っていた。
 猟銃の手入れや扱いは慣れている。それに時々こっそり、旦那様が撃たせてくれたことがあった。そしてどうやらシロは筋が良いらしい。
 けれどカカシはシロをますますにらんで、鼻の頭におおかみのようにしわを寄せた。
「……お前なぁ、もしあったとして、いきなり現れたガキに銃を渡せると思うのか?」
「あ」
 それは確かにそうだ。銃は獣だけでなく、勿論人も撃つことが出来る。
「…………」
 とはいえ、『鹿の肉』という単語は、甘美なものでもあったらしい。カカシはうーんとうなりながら顎を何度かさすった後、「まあ、あるよ」と言った。
「時々物騒なヤツが来るんで、前任が置いていったんだ。お前を信用するわけじゃないが、確かに鹿肉は食いたいし、鹿はあぶらも角も皮も売れる。それに隣の教会で孤児を何人も抱えてるから、少し持っていってやれば喜ぶだろう」
「孤児を?」
「ああ。なんでも陛下を喜ばせるために、孤児を集めて聖歌隊を作るんだと。歌の上手いガキを大司教区に送るために、孤児を引き取って歌を教えてるんだ。イゾルデ公女が亡くなってからしばらくは、陛下がなんでもかんでも禁じたせいで、国はすっかり貧しくなって、路地裏は孤児ばっかりだ」
「…………」
 孤児が増えた原因は陛下の──と、言ってしまうのは、さすがに心がないとシロは思った。陛下はまなむすめを失った可哀想な人なのだから。
 とはいえ、そのせいで多くの国民が苦しみ、子供たちが親を失った状況で、さらに彼女を喜ばせるために孤児たちに歌を歌わせるのか……と、シロのけんに一瞬皺が寄った。
「そんな顔をするな。理由は何であれ、ガキどもに寝床がある方がいいだろ」
「それはそうですね」
「弾もたくさんはないから大事にしろ。まあ獲れた鹿の解体は手伝ってやるよ、死体をバラすのは慣れているからな」
「え……」
 さらっと恐ろしい事を言われて、シロが顔を引きつらせると、カカシはにやりと笑った。
「墓場のジョークだ。まあいい、今日は芋と糠鰊だけじゃなく、特別にパンも出してやる。お前の歓迎会だ」
 鹿肉と聞いて、カカシの態度がはっきりと軟化したのにあんしながら、シロはじゃがいもを剝いたいた。
 芋と鰊を煮込んだシチューは、味付けも糠鰊の塩分だけという、作り方もシンプルなものだった。けれどたっぷりの塩と糠にくるまれて発酵し、熟成された鰊は少し特有の魚臭さがあるものの、とても味が複雑で絶品だった。
 中でもほろりと崩れるじゃがいもは、たっぷりと鰊のうまを吸っていて、大きな塊を食べてもいし、とろとろになったのを汁と一緒に食べても美味い。
 暖炉で軽くあぶったパンは少し硬かったが、小麦の良い香りがして、シチューに浸して食べるとちょうど良い。
 鹿肉のお陰か──もしくは彼もかつて船乗りだったからか、カカシはシロにお腹いっぱい食事を与えてくれた。
 船での生活に不満があった訳ではないが、久しぶりに地面の揺れない場所で、胃袋の中から温まったことでシロはすっかり安堵し、同時に疲労がおおかぶさってくるのを覚えた。
「片付けは明日でいい。今日はもう休め」
 シロの瞼が眠そうに下がってきているのを見ると、カカシはそう言った。
 用意されたのは埃だらけの部屋とベッドだったが、幸い清潔なシーツと毛布を貸してくれたので、シロは十分すぎると思った。
 他にあるのは、片方の扉が壊れて外れかかった二枚扉のワードローブがひとつきり。
 とはいえシロの荷物といったら、わずかな着替えと船長が駄賃でくれた二シリング。そして母の形見の懐中時計だけなので、全然困ることはないだろう。
 手足を洗って寝る支度を済ませると、カカシが部屋を訪ねてきた。
「寝る前に言っておく。ここで暮らす間、お前に絶対に守って貰うルールが一つだけある」
 カカシが神妙な顔で言ったので、シロは深く頷いた。
「簡単なことだ。夜中に時々教会の鐘が鳴る事がある。その時は絶対に窓の外を見てはいけないし、外に出てもいけない。聞こえなかったと思ってそのまま寝るんだ」
 急におかしなことを言うと思った。
「どうし──」
「理由も聞くんじゃない。守れないなら出て行くんだな」
「……はい。夜中の鐘は……聞きません」
 使用人をやっていれば、聞こえないふり、見ないふりをしなければいけないのは、珍しいことじゃない。ルールと言われれば、それを守るだけだ。
 それに夜中だ。わざわざ見に行く必要があるとも思えない──が、なんだか薄気味悪いと思い、シロは身震いした。
 カカシの家は温かく、明るく、ここが墓地の隣だと忘れてしまいそうになるが、こうやって灯りを落として一人になると、再び恐怖心が覆い被さってくる。
 とはいえシロは疲れていた。長い船旅にすっかり疲弊した体は、すぐにシロを眠りのふちさらっていった。
 真夜中に夢うつつの中で鐘の音を聞いたような気がしたけれど、目を開けることは出来なかった。シロはすぐにまた深い眠りに落ちて、そのまま朝まで目覚めなかったのだった。

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