壱、倒叙ミステリにはならない
つまらない。つまらない人生だ――。
世間にはつまらない話というものがある。聞かされる機会は多いものの、まったく興味を持てない
「お前たち若造には、まだ、詳しいことは教えられねえが、この町は
町内会長、
なんて下品な笑い方だ――。
と、殺人犯A、正確には殺人予定者Aである
「さすがは
そんな
「おい、タケ。俺は、若造には教えられねえって言ったよな?」
「あ、はい、言いましたね……」
「じゃあ、なんで、秘術について聞くんだ? 俺に歯向かうのか!」
突然、権造は殴りかからんばかりに怒鳴り声をあげた。
不満を飲み込んで即座に頭を下げる。
「すみませんでした。歯向かうつもりはないです」
「だいたいな、男のお前が、なんで酌をしてんだよ」
「ホントにすみません、気が
そう言って健康は、殺人予定者B、
座卓の上を忙しく片付けていた由佳里は、健康の意を察し、滑り込むように権造の隣に座ると、空いたグラスに酒を注いだ。
「もー、会長、大きな声でビックリさせないでくださいよ。楽しく飲みましょう」
長い髪を横に垂らして、しなを作っている彼女は、上下ジャージ姿という服装にさえ目を
「おお、由佳里。お前も女らしくなったな」
権造が、
すでに七十歳を超えている権造は、
その権造自身が、つまみの用意と片付けは女の仕事だ、と言っていたため、由佳里があくせくと働き、健康は太鼓持ちを務めていたのだが、生臭坊主の気分は変わったようなので、意気揚々と席を立ち、由佳里に代わって座卓の片付けを始める。
汚れた食器を運びつつ、ちらと二人に目を向けると、由佳里が、権造に気付かれないように横を向き、舌を出して、オエッ、と吐くジェスチャーをした。
その様子を見て、含み笑いしながら
「良かったな、由佳里。会長にお酌できるなんて名誉なことだぞ」
由佳里は引きつった笑顔を作った。
「……うん。とっても光栄」
声を出して笑いたいのを
食器を流しに放り込むと、勝手口の扉が開いた。
「お待たせ、言われたもの買ってきたよ」
殺人予定者C、
小柄で丸い体型の昇太は、大きなビニール袋を床に置くと、額の汗を
「お疲れ昇太。間に合って良かったよ。酒がなくなりそうだったんだ」
「ええ? もう? まるまる一升あったよね?」
驚いた表情を浮かべる彼に、健康はそっと近付き、しゃがみ込んで声を潜める。
「あのジジイ、底なしの酒豪だ。頭だけじゃなくて内臓もイカれてんだよ」
昇太も健康に
「じゃあ、これを買ってきて、ちょうど良かった」
彼は袋から酒瓶を取り出した。
それを受け取って、ラベルに目を走らせる。
「なにこれ、ウォッカ? 度数八十って、もはや消毒液だな」
「やり過ぎたかな?」
「平気平気。だいぶ酔ってはいるみたいだし、もう自分が何を飲まされているかなんて分かっちゃいないよ」
「そっか、それなら良かった」
昇太が
「……お酒のお代わりを持ってきますね」
由佳里の声だ。しばらくすると、由佳里も台所にやって来た。
「ちょっと、買い出し終わったなら、すぐ戻ってきてよ。わたしとあのジジイを二人っきりにしないでくんない?」
小声で愚痴をこぼす彼女に、健康は酒瓶を差し出した。
「つまみを盛りつけたらすぐ行くって。それより、ほら、もっと飲んでもらえよ」
健康、由佳里、昇太の三人は、権造の晩酌に付き合わされていた。
権造の妻は、先日、実家に帰ってしまった。いわゆる別居状態。その上、息子は寺の本山で行なわれている研修に参加中。一人きりになった権造に、三人は自宅まで呼び出されたのだった。権造は、この信津町の権力者だ。町内会青年団に所属する三人は歯向かえない。日頃から、嫌々、命令に従っている。ただし今夜だけは例外だ。今夜だけは、積極的に晩酌に同席した。
酒瓶を受け取った由佳里がラベルに目を走らせる。
「なにこれ、ウォッカ? 度数八十って、もはや消毒液だね」
「それ、タケちゃんも、まったく同じこと言ってたよ」
「え、こいつと発想が同じなんて嫌だなあ」
「うるせえな。さっさと名誉あるお酌をしに戻れよ」
言うと、由佳里は舌を出し、不服そうな顔をしながらも居間へ引き返していった。
無難な会話が、二、三、聞こえ、再び権造の下品な笑い声が響く。
大丈夫。予定通りにいくはずだ――。
ビニール袋からミックスナッツとドライサラミを取り出しつつ、健康は頭の中で計画を
「ねえ、タケちゃん、ホントにヤるの?」
「当たり前だ。さんざん話し合っただろ……」
不安げな昇太に淡々と応じた。
それから、適当なつまみを皿に盛り、自分たちが飲んでいる振りをするための度数ゼロの酒、というより単なる水を、空いた酒瓶に詰める。それらを盆に載せ、
「これが、あいつの
誰に言うでもなく
陽が沈むより前から飲み始めていた。
そうして、いまは午後十時をまわっている。
宴もたけなわ。強い酒のお陰か、いよいよ権造は
「たまたまな……あえがあうから……」
やがて、エステン作曲『人形の夢と目覚め』のメロディが流れ、直後、お
最初に動いたのは健康だった。
「さあ、お
お
浴室は台所の向こう側だ。三人は、権造の
脱衣所に入ると同時に、その身体を床に転がし、衣服を脱がしていく。下着に手をかけたとき、一瞬だけ由佳里が顔をしかめたが、気にせず作業を進める。酒をしこたま飲ませたものの、自律神経は正常に機能しているようで、失禁などの形跡はない。
下調べの通り、洗濯機の横にランドリーバスケットは置かれていた。そこに
自身の
「由佳里、そっち持ってくれ」
権造をバスタブの傍らに立たせ、頭を押さえて、一気にお湯に突っ込んだ。
ちゃぷん、と、思いのほか地味な音が鳴った。
気泡がいくつも浮かんでくる。すると突然、権造が暴れだした。
「昇太、足だ、足。踏ん張れないように足を持ち上げるんだ」
権造の上体が湯船の奥深くへと沈んでいく。それでも、
「由佳里、頼むよ、もっとしっかり押さえてくれ。あ、いや、内出血の
「無茶言わないでよ。精一杯やってるって……あっ」
「なに?」
「腕時計を着けたままだ」
見ると、権造の左手首にシリコンベルトの腕時計が巻かれていた。老人にもかかわらず液晶ディスプレイを備えたいまどきのものだ。おそらくスマートウォッチだろう。
「どうせ防水だから気にするなよ。それより……」
「はいはいはい、弱く、強くでしょ」
気泡が消えていく。抵抗する力も弱まってきた。窒息による確実な絶命までは、およそ十五分。ただし意識不明になるだけならば五分もあれば足りる。しかし、いまの健康たちにとって、その五分は恐ろしく長く感じられた。
浮いてこようとする頭を押さえながら思う。
「マズいな。急に部屋が静かになり過ぎかも知れない……」
権造の自宅は寺から少し離れた住宅街にある。近隣の家に権造の笑い声などが届いていた可能性もあり得る。
「昇太、こっちは俺と由佳里でやる。お前は居間に戻って笑ってろよ」
「ええ? 一人で?」
「お前はやればできる子だよ」
戸惑いながらも昇太は居間へと向かった。
もう権造は動かない。もはや放っておいても死ぬ確率は高いだろう。それでも震える両手で懸命に頭を押さえ続ける。死んでくれ、死んでくれ、願いながら。
やがて、由佳里が肩を
「もう死んでるよ」
すでに十五分を過ぎていた。権造の心肺は停止していた。手を離すと、その上体はうつ伏せのまま水面に浮き上がった。
腹の奥底から込み上げてくる笑いをどうにか堪えて、
「ざまあみろ。二度と世間に浮かんでくんなよ」
それから、由佳里と共に
しばらくして、ようやく昇太がこちらに気付いた。
「なんで二人して突っ立ってるんだよ。終わったなら声かけてくれよ」
「いや、良い演技だと思ってな」
柔和に笑みを浮かべると、昇太も
「で、
その問いに答えたのは由佳里だった。
「
スマートフォンを取り出して時刻を確認する。まもなく午後十時半だ。
明日は友引で寺が休みな上に、妻も息子も不在、権造の消息を気にかける者はいないだろう。そのため遺体が発見されるのは
「さて、家に着くまでが遠足だ」
急いで戸締りを確認して明かりを
「会長、ごちそうさまでしたー」
健康だけは、さらに一言付け加える。
「良い夢を……」
そうして、あらかじめ用意しておいた
これで、町全体を
しかし、川沿いの通りに差し掛かったとき、いよいよ我慢ができなくなった。
「ラジオ体操だ」
一言、洩らした。隣を歩く昇太が首を
「ん? 明日の朝もラジオ体操の集会だね。それがどうしたの?」
「違う違う。ラジオ体操の歌だよ……」
そこまで言うと、すぐ後ろでタバコを吸っていた由佳里が、言わんとしていることを察したのだろう、話の続きを引き取った。
「新しい朝が来た、だね」
健康は振り返って、後ろ向きに歩きながら深く
「そそそ。希望の朝だ。明日から新しい人生が始まるんだよ」
時刻は午後十時半。三人は、笑顔を交わし、それぞれ帰路に就いた。
△
深夜十二時のことである。
町の外れに暮らす
数年前にインターフォンが壊れてしまい、以降、そのままにしてあった。子供が巣立ち、妻が先立ち、飼い犬もいなくなり、独りになったがゆえに呼び鈴の類がなくとも不便を感じなかったのである。栄作は信津町町内会の副会長を務めてはいるものの、その肩書きを取り払ってしまえば、ただの老い先短い男やもめである。彼の家に客が訪ねてくることは
「……どなたですか?」
静かに尋ねると、少し間があってから
からからと引き戸を開けると、訪ねてきた人物が、暑いというのに人目を
「こんな遅くにどうしたんだい?」
その問いに対する答えは、預かって欲しい物がある、というものであった。
訪問時刻もさることながら、その要件についても、まったく意図が
ところが、訪問者は何も言わずに手提げから何かを取り出すと、それを、押し付けるかのように栄作に差し出した。有無を言わさぬ唐突な行為に不意を突かれて、栄作は反射的にそれを受け取ってしまった。
手の中の差し出された物、それは、
「これは……
その言葉には答えず、訪問者は何やら唱え始める。
――あまねく金剛に
秘術の仕組みならば知っている、いますぐ石から手を放さなければならない、と栄作は考えた。しかしながら行動に移すより先に詠唱の最後の文言が発せられる。
――――。
彼は胸を突き出すように一瞬だけ身体を大きく震わせ、そうして、その場に崩れた。
訪問者は、動かなくなった肉体を見下ろし、持参したロープを取り出した――。
∴
「ウェーイ」
「ウェ、ウェーイ……」
権造を殺害した翌朝、健康と昇太は
二人はラジオ体操の集会に参加していた。信津町では、夏休み初日からお盆のころまでの平日、小学生のためのラジオ体操の集会が行なわれている。その運営を
「いやあ、今日は
「ああ、うん、そうだね。タケちゃんはいつも通り清々しいよ……」
軽口を叩く健康に比べて昇太は歯切れが悪かった。
昇太の気持ちも理解できなくはない。日をまたいで不安が頭をもたげ始めているのだろう。計画に抜かりはなかったと思うものの、完全犯罪になり得たか
悩んでも仕方がない――。
健康は何も言わず、肩をすくめて周囲へ視線を移した。
「……おいおい、そこのクソガキ、ちゃんと並べよ。スタンプ押さねえぞ」
二人の間に漂う気まずさなどお構いなしに、
その後、ようやく整列が済んで、ラジオ体操の放送が始まるのを腕組みして待っていると、昇太が
「ねえ、タケちゃん、知ってる?」
「え、知らない。なんの話?」
「他の町内会だと、ラジオ体操の集会ってやってないんだって」
「そうなの? いつから?」
「僕らが子供のころからやってなかったみたいだよ。お母さんから聞いたんだ」
「マジかよ。俺たちはガキのころから
「新しい朝か。そんなに上手くいくのかなあ……」
昇太はつま先で足元の砂利をいじった。
「なあ、いい加減にしてくれよ昇太。ドンと構えてろって」
「だってさあ……」
「果報は寝て待て、って言うだろ。少しは由佳里を見習えよ」
そう言って、健康は
由佳里は、長机の前のパイプ
「由佳里もタケちゃんも肝が据わり過ぎだよ。絶対ね、僕のほうが普通だよ」
「なに言ってんだよ。お前は
「そういう意味で言ったんじゃないよ……」
昇太は
ザザザ、ザザザと、ノイズが流れ、おはようございまーす、というアナウンサーの陽気な声が響く。まもなくラジオ体操の始まりだ。
「ほら昇太、ぶつかるからもっと離れろよ。大きく腕の運動ができないだろ」
言ったとき、せっかく
子供たちは寺のほうを向いていた。寺のほうを向いて、口々にこう言っていた。
「
全身に鳥肌が立った。健康は咄嗟に子供たちの視線の先に目を向けた。そこには、布に包まれた拳骨大の丸い物を持った、作務衣姿の老人が立っていた。
紛れもなく、殺したはずの長谷部権造だ。
「なんで、生きてんだよ……」
その健康の囁きを
♪新しい朝が来た 希望の朝だ
喜びに胸を開け 大空あおげ……