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第一章

「術者を代われだと⁉」
 東日本大学病院、第八手術室。無機質なモニター音をき消すように、男の怒声が響き渡った。
 準備を進める手術室看護師たちが、びくりと体を震わせる。彼女たちが恐る恐る視線を向けた先では、二人の外科医が向き合っていた。
鹿なことを言うな。これは僕の症例だ。部外者は引っ込んでいろ!」
 とヒステリックに叫ぶのは、三十代中頃の男性医師である。
 術衣に身を包み、滅菌手袋を二重に装着した彼の前には、手術台に横たわる男性患者の姿があった。全身麻酔が完了し、ただ手術を待つ身となった患者の体は、無影灯の光を浴びて青白い肌をきわたせている。
「分かっているわ。確かに三日前、あなたが主治医としてこの患者さんの肝切除術を執刀した」
 相対するもう一人の外科医──きりはらアキラは、手袋をはめながら事もなげにこたえた。だが若さが残る目元には、鋭い光が宿っていた。
「その結果、患者は術後出血を起こして生死の境を彷徨さまよっている。はっきり言って、あなたじゃ力不足なの。私が執刀するから、あなたは第二助手として手伝いなさい」
「第、二……」
 歯にきぬ着せぬ物言いに、男性医師は反論もままならぬまま絶句した。
 執刀医を補佐する第一助手前立ちならともかく、第二助手とはどういうことか。『お前は戦力外だ』と侮辱されたのも同然である。
 やがて戦慄わななく口から放たれたのは、かんしゃくのような反論だった。
「術後出血なんて、どんな手術でも起こりうることだ。僕の責任じゃない!」
「……責任じゃない、ですって?」
 アキラはひときわ冷ややかな声で、男性医師の言葉を繰り返した。様子を見守っていた看護師たちが、「まずい」ととっに身構える。だが彼女らが耳をふさぐより先に、アキラの怒号が手術室を震わせた。
「身の程をわきまえなさい、この三流が! 今日の朝八時の段階で、この患者さんのドレーン排液量は増加していた。明らかな出血の兆候があったのに、どうして大量出血するまで患者を放置していたの!」
「それは」
「時計を見なさい。今は何時!」
 追い詰められた表情で、男性医師は頭上の時計を見上げた。十七時二十三分。彼は十時間近くものあいだ、術後出血の前兆を見逃していたことになる。
「私が異状に気付いて準備を進めていなければ、この時間に手術を始めることもできなかったはず。そのこと、ちゃんと理解できているの?」
 術後出血は、判断の遅れが命取りとなる。だからこそ、医師は手術が成功した後も患者の経過を注意深く観察せねばならないのだ。そんな当たり前のことすら怠っていたというのに、『僕の責任じゃない』とはとても言えまい。
「ぼ、僕のせいじゃない」
 だが男性医師は、なおも食い下がるように顔をぷるぷると横に振った。
「きっと、助手の糸結びが甘かったせいで出血したんだ。それに、ドレーンの確認は研修医の仕事で……」
「くだらない言い訳を聞いている暇はないの。今すぐそこをどかなければ、あなたが手がけた手術の術後合併症発生率を、グラフにして院内中にり出すわよ」
 アキラの声には、じんも容赦の念が込められていなかった。男性医師はうぐ、と反論をのどに詰まらせると、額に汗を浮かべて硬直する。
 ただそれも、長続きはしなかった。数秒ったのち、彼は引き裂くように術衣を脱ぎ捨てると、「覚えていろよ!」と捨て台詞ぜりふを吐いて手術室から走り去ってしまったのだった。
「手術に立ち会う気概もないか。ま、いいわ」
 看護師、麻酔科医がぜんとする中、アキラだけは平然とした調子で患者の横に立った。そして棒立ちになった医療従事者たちを一喝する。
「ぐずぐずしていられないわ。すぐに手術を始めるわよ!」

2

 一週間後、東日本大病院・外科教授室にて。桐原アキラが教授上司から言い渡されたのは、おおむね予想通りの台詞だった。
「桐原君。急で悪いが、来月から湯崎病院に異動してほしい」
 湯崎病院と言えば、東日本大学病院の関連病院の中でもとりわけへんな地域に位置する病院だ。大した人員も設備もなく、働き盛りの外科医が技量を発揮できるような場所ではない。
 つまりは、事実上のせんを言い渡されているのだ。これを断れば、教授はとして「なら医局を辞めるかね」と言ってくることだろう。
「納得のいく説明をお願いできますか」
 理由は聞かずとも察しているが、「はい分かりました」と素直にうなずいてやれるほどアキラはおひとしではない。
 一筋縄ではいかない部下の態度を前にして、教授はけんのしわを一つ増やした。
「……一週間前、君が手術した術後出血の患者。あれ、もともとは山田先生の担当患者なのだろう」
 はあ、とため息まじりに教授は首を横に振る。
「それなのに、無理やり執刀を代われと迫った挙句、大勢の前で彼を“三流”と侮辱したそうじゃないか。これについて、何か弁明はあるかね」
「ありません。補足すると、『お前が手術した患者の術後合併症発生率を院内に貼り出してやる』とも伝えております」
「なんてことを。恐喝も同然じゃないか」
「恐喝? では教授も、彼の手術成績が外部に漏れたら問題になるとお考えなのですね」
 医療に予期せぬトラブルはつきものだ。どんな名医による手術であっても、患者の容態が急変してしまうケースは往々にして存在する。
 だがくだんの山田については、あまりにその頻度が高すぎた。幸い、患者が命を落とすまでには至っていないものの、彼の未熟さはすでに職員たちのあいだでうわさとなっていた。
 ──にもかかわらず、山田が外科の上級医として手術をいくつも任されているのには理由がある。
「私の考えなどどうでもいい。今回の件を受けて、山田理事長はひどくご立腹だ。他人の名誉をそんどうかつするような医師は、この病院に相応ふさわしくない。そんな医師を擁護する、医局上層部の責任も問うべきだとな!」
 今度はアキラがまゆを寄せる番だった。予想していたとはいえ、あまりに安直すぎる展開に怒りが沸々と込み上げてしまう。
「だから私を地方に飛ばすとおっしゃるのですか。山田の父親が大学の理事長だからって!」
 バン、とデスクを両手でたたいた。身を乗り出すようにして、腰掛ける教授に視線を合わせる。
「山田には執刀医に足る技術が備わっていません。おまけにその自覚がなく、術後の患者の経過を見ようともしない。それなのに、なぜ教授は彼に多くの執刀を任せるのです? 理事長に『息子をよろしく頼む』とでも言われたのですか?」
「……いい加減にしてくれ」
 アキラの目から逃れるように、教授はから立ち上がった。そのままくるりと背を向けて、窓の外をじっと眺める。
「そうやって、担当でもない患者の治療方針に口を出したり、他の医師のミスを指摘したり。君が不要なあつれきを生むせいで、どれだけ私が苦労しているか分からんのかね」
「私は」
「悪いが、君のために他の医師たちのキャリアまで犠牲にするわけにはいかないんだ。異動を受け入れるか、それともこの病院を去るか。どちらか決めてくれ」
 こぶしを白くなるまで握りしめて、アキラは上司の背中を見つめた。
 だがここで彼を言い負かしたところで、アキラが得るものなど何もない。結局のところ、他に選択肢はなかった。

3

「あのチキンが!」
 飲み干したビール缶を、テーブルの上に荒々しく置く。それでもいらちは収まらず、アキラは二本目の缶を手に取った。
「何が『他の医師たちのキャリアを犠牲にできない』よ。次の病院長選で不利になるからって、私を切り捨てただけじゃない。山田も、権力者のパパに泣きつくなんて恥ずかしくないの」
 と言いながらプルタブを起こせば、カシュ、と軽快な音と共に泡があふれ出してくる。あわてて口をつけながら、アキラは昼間の出来事に思いをせた。
 結局、医局は辞めることになった。教授の思惑に乗る形となったのは癪であるが、あんな職場にしがみつく理由はない。
 辞める代わりに、患者の不利益となるようなはするなとしっかり約束も取りつけてきた。あちらとて、アキラの執念深さを嫌というほど心得ているはず。安易に約束をたがえるようなことはしないだろう。
 ただ長年勤めた病院を、こんな形で去るとは思っていなかった。私生活を削り落として駆け抜けた日々が、すべて徒労に終わったような気分になってしまって、両肩が鉛のように重く沈む。
「やめやめ。何か、気晴らしになるものはないかしら」
 テレビを流しても、空虚な思いが募るばかりだった。とにかく今は、何かに没頭して気持ちを紛らわせたい。ニュースサイトでも眺めようかと、テーブル上のスマートフォンを手繰り寄せる。
 だがWebブラウザをスワイプしたところ、画面中央に居座る巨大な広告に触れてしまった。「あ」とブラウザバックする暇もなく、ページはリンク先へと切り替わった。
「シンデレラの婚約……?」
 表示されたのは、見知らぬ漫画の紹介ページである。タイトルは『シンデレラの婚約』。カラフルな表紙イラストには、西洋風の衣装に身を包んだ金髪の少女と黒髪の美青年が、花を背景に見つめ合っていた。
「最近はこういうのがっているのか」
 漫画など、学生の頃に読んだきりだ。それも医療を題材にしたものばかりで、恋愛ファンタジーをたしなんだ経験はない。
 だがどうしてか、興味をそそられた。自分とは似ても似つかぬ、はかなげなヒロインの姿に視線が引き寄せられてしまう。
「……ま、暇つぶしにはなるかも」
 最初の三話は無料で読めるらしい。それだけ読んだら、に入ってさっさと寝よう。
 そう頭の中で予定を立てて、アキラは“一話”のボタンをタップした。


『ベルナール! どうして私をかばったのです!』
 くずおれた騎士の体を、キアラはすぐさま助け起こした。そして彼の体に視線を落とし──言葉を失う。暴徒のきょうじんによって刺し貫かれた傷口からは、どくどくと赤い血があふれ出しているではないか。
『ああ、そんな……』
『良いのです。あなたをお守りすることが、私の、役目ですから』
 それでも尚、騎士はキアラに微笑ほほえみかけた。既に死を覚悟しているのか、彼の声はか細くも力強かった。
『セシル殿下を、よろしくお願いします。殿下には、あなたが必要だ……』
『そんなことを言わないで! ああ、誰か彼を助けて!』
 懇願するようにキアラは声を上げた。しかし周囲に立つ兵士たちも、なすすべはなく──。
「だ、か、ら! 泣いていないで止血しろ!」
 そこでアキラがほうこうした。キャラクターに指図するかのように、スマートフォンの画面をびしびしと指でつつく。
「周りの人間もぼさっと突っ立っているんじゃない。さっさと医者を呼びなさい! 便利な回復魔法があるんだから、あきらめている場合じゃないでしょう!」
 アルコールの力も手伝って、漫画への野次はどんどん熱を帯びていく。しかし画面の向こうに声が届くはずもなく、『また救えなかった……』と主人公が涙を流したところでシンデレラの婚約二十話は最終ページを迎えたのだった。
「ああ、また死んだ。最悪」
 一気に気が抜けてしまって、アキラはスマートフォンをテーブルの上に置いた。切り替わったロック画面が、深夜〇時五分を表示する。
 漫画を読み出したのは、確か午後十時頃。およそ二時間ものあいだ、漫画の世界にどっぷりかっていたことになる。熱中しすぎて丸まった背中を、アキラはのけぞるようにぐんと伸ばした。
 主人公キアラ・ベルワースは、古くから優秀な魔術師を輩出してきたはくしゃく家の長女である。しかし生まれつき魔力を持っていないため、彼女は父の後妻であるままははや腹違いの妹からしいたげられる日々を送っていた。そしてついには、将来を誓い合った婚約者すら妹に奪われてしまう。
 だがひょんなことから王子と恋に落ちることで、キアラの運命は大きく変わっていく。様々な悲劇や試練にほんろうされながら、キアラは王子との愛を守り抜くことができるのか──というのが、シンデレラの婚約のあらすじだ。
 内容はいわゆるシンデレラ・ストーリーというもので、特別変わった点はない。王子と薄幸の令嬢の恋愛というテーマもよくあるものだろう。
 ただこの作品、主人公のキアラがやたら悲劇に見舞われやすい性質の人間らしい。そのせいで、しょっちゅう事件が起きては人が死ぬ。
 名もなきモブキャラが死ぬのはいつものことだし、主人公の父親も序盤で死んだ。いかにも人気の出そうな美男子もあっさり死んだし、ついには秘密を抱えた重要キャラまで死んだので、「どうなっちゃうの」とついついページをめくってしまった。
 この容赦のないストーリー展開が、人気の理由であるらしい。アキラもそこにかれた読者の一人ではあるが、誰かが命を落とすたびに主人公が『死なないで……』とめそめそ泣くので、途中からは野次を飛ばしながらの読書になってしまった。
 目の前に苦しんでいる人がいるのに、何もしようとしないなんて。そんなの、相手を見捨てるも同然の行いではないか。
「……私がこの主人公だったら、どのキャラクターも助けることができるのに」
 ぼそ、とつまらぬ一言が口をつく。
 私がキアラだったら。目の前で、誰かが命を落としかけていたなら。
 ありえぬ妄想にしばし浸ったところで、アキラは慌てて首を横に振る。
「いや、だめだめ。レントゲンもCTもないような環境に外科医一人が投げ込まれたところで、何もできないわ」
 レントゲン、CT、超音波、MRI、心電図、採血検査、各種薬剤、電気メス、人工呼吸器……。
 現代医療に必要な道具を挙げたらきりがない。こうした技術の存在しない世界では、アキラなど何の役にも立たないだろう。
 もう寝よう。疲れているから、こんな意味のないことを考えてしまうのだ。
 だがゆっくりと腰を上げたところで、後頭部にずきりと鋭い痛みが走った。
「……え」
 激痛は突如として勢いを増す。頭を内側から殴られるような痛みに襲われて、アキラはその場に倒れ込んだ。
「なに、これ」
 視界がゆがみ、心臓の拍動が脳に響く。立ち上がろうにも、どちらが上でどちらが下かも分からない。
「誰、か」
 助けを求めようと、宙に右手を伸ばす。だがその手は何もつかむことがないまま、ぱたりとラグの上に落ちたのだった。



『誰か。誰か、助けて──』
 遠くから、えつが混じった子供の声が聞こえてくる。
『お父さんが。お父さんが死んじゃう』
 叫ぶ声は舌足らずで、何を言っているのか聞き取ることすら容易ではない。
 みみざわりな声に苛立ちを覚えながら、アキラは深いやみの底へと落ちていった。



「うぅん……」
 意識がふわりと浮上する。ひどく頭が重たくて、体に力が入らない。
 無理やりまぶたをこじ開けると、白いシーツが目に入る。そこでアキラは、自分がベッドの上に横たわっているのだと理解した。
 いつの間に眠っていたのだろう。ほんのつい数秒前まで、ひどい頭痛にさいなまれていた気がする。床に倒れたところまでは覚えているのだが、その後の記憶がすっぽりない。
 とにかく現状を確認すべく、アキラは慎重に起き上がった。
 手足は問題なく動いた。激しかった頭痛も消えせ、ぐるりと頭を回すこともできる。それらしい神経症状もないし、くも膜下出血を起こしたわけではなさそうだった。
 だがそこで、自分が見慣れぬ寝間着を着ていることに気がついた。それどころか、部屋にもベッドにも、まるで見覚えがない。
 古めかしい木製フレームのベッド、ベルベットのカーテン、花柄の壁紙。じゅうたんが敷かれた床に、壁際に並べられたアンティーク調の棚や机。
 大学病院から徒歩五分、家賃九万の1LDKマンションとはとても似つかぬ光景だった。記憶を辿たどってもこんな場所に足を踏み入れた覚えがなくて、しばしアキラはぼうぜんとした。
「どういう、こと。私、どうしてこんな場所に──」
 と言いかけたところで、自分の喉に両手を当てる。
 おかしい。今の声は、自分の声ではなかった。いやよく見れば、視界に入る両手の形も肌の色も、自分とはまったく違うではないか。
「まさか」
 体の不調も忘れて、ベッドから勢いよく飛び降りる。そのまま裸足はだしで鏡台に駆け寄ると、摑みかかるようにして鏡の中をのぞき込んだ。
「そん、な」
 透けるように真白い肌に、たおやかに伸びるきゃしゃな手足。すみれ色のひとみに、淡い金色の長い髪……。
 まだ十八かそこらの西欧人風の少女が、鏡の向こうからぱちくりとこちらを見返していた。
 それも、まったく知らない少女ではない。
 アキラは先刻まで眺めていたシンデレラの婚約のヒロイン──“キアラ・ベルワース”の姿となって、彼女の部屋に立っていたのである。

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第二章

1

「キアラ様、紅茶をお持ちしました」
 メイドがテーブルの上にティーセットを並べていく。立ち上る紅茶の香りを吸い込んで、アキラ──キアラ・ベルワースは「ふぅ」と息をついた。
「ありがとう、アンナ。あとは自分でするから、下がってもらって大丈夫よ」
 すんなりメイドの名を口にすると、キアラは控えめに微笑みかけた。メイドは「はあ」と素っ気なく頷いて、さっさと部屋から出てしまう。
「……やっぱり、夢じゃないようね」
 つぶやきながら、紅茶に口をつける。舌の上に感じる熱も、味も、触感も、すべてがリアルだった。
 ──どうやら自分は、本当にキアラ・ベルワースであるらしい。
 この奇妙な事実を受け入れたのは、およそ一時間前のこと。悲鳴をこらえて思考を巡らせていたところ、彼女はあることに気がついた。
 自分の中には、キアラ・ベルワースとしての記憶が存在する。
 幼い頃、植え込みにお気に入りのスカートを引っ掛け破いてしまったこと。継母の怒りを買いに閉じ込められたこと。十二歳の誕生日、父が継母と妹だけを連れて劇場に出かけてしまったこと……。
 ほんのり胸の痛みを伴う思い出の数々は、確かに自分が経験したものである。そうして一つ一つ過去を振り返るうち、アキラの中に『自分がキアラである』という意識がはっきりと芽生えていったのだ。──あるいは、キアラの中にアキラの意識が芽生えたのかもしれないが。
 いずれにしても、理解のはんちゅうを越えていた。
 目覚めたら少女漫画の主人公になっていたなんて話、物理法則どころか時空の概念すら超越してしまっている。あれこれ考えたところで、とても答えが見つかるとは思えない。
 しばし混乱したのち結局キアラは考えることを保留して、使用人に紅茶の用意を命じたのだった。
 どうか夢であってほしい。だが五感が受け取る刺激のすべてが鮮明で、時間が経てば経つほど現実味は増していく。この状況が、いつまで続くかも分からない。ならば前向きに、『これからどうするか』を考えるべきだろう。
 今夜キアラは、公爵夫人主催の夜会に参加する予定となっていた。漫画だとこの夜会で、キアラは王子と出会い恋に落ちる。
 しかしこの時、キアラには親同士が決めた婚約者がいた。そのため彼女は、涙を流しながらも己の恋心にふたをする。
 だがこの出来事からたった数日後、キアラの父親は事故で命を落としてしまう。それをきっかけにベルワース家は継母に乗っ取られ、婚約者も妹に奪われることに。やがて存在価値を失ったキアラは、使用人同然の暮らしを強いられることになる。
 後に王子と再び出会って恋愛関係になれはするものの、玉座をねらう陰謀に巻き込まれたり周囲で人がパタパタ死んだりと、その後の人生もろくなものではない。いかに主人公といえども、漫画通りの展開はごめんこうむりたい、というのが率直な気持ちだった。
 ならば最初に目標とすべきは、“王子との接触回避”だろう。彼に出会わなければ、ドラマティックな愛憎劇や陰謀劇が起きることはなくなるのだから。
「でも、今夜夜会が開かれるのに、どうやって不参加にすれば……」
 言いかけたところで、扉を叩く音が聞こえてきた。「どうぞ」と声をかければ、扉のすきから黒髪の少女が顔を覗かせる。
「お姉様。具合はどうかしら?」
 現れたのは、キアラの異母妹フェデリカだった。小動物のように瞳をうるませて、キアラを上目遣いに見上げてくる。
「体調が悪いと言って、朝食にいらっしゃらなかったでしょう。だから心配で、様子を見にきたの」
「……ありがとう。おかげさまで、すっかりよくなったわ」
 注意深く言葉を選びながら、キアラは作り笑いを浮かべた。
 フェデリカは人形のように整った顔立ちに、豊かな黒髪が特徴的な美少女だ。フリルたっぷりのドレスに身を包んだ彼女の姿は、手の込んだ西洋人形を思わせる。
 学院でも成績優秀で品行方正と評判らしい。気立てがよく才気あふれる彼女には、すでに多くの縁談が舞い込んでいた。
 だが──。
「やっぱり無理はいけないわ。今夜の夜会はお休みになったらどうかしら」
「えっ……?」
「安心して。実はもう、リシャール様にお姉様のことは伝えてあるの。代わりに私がパートナーをお引き受けするとお伝えしたら、とても喜んでいらしたわ」
 リシャールとは、キアラの婚約者の名前である。冗談としか思えぬ提案だが、フェデリカにうそをついている様子はない。
 ふふ、と微笑を漏らすと、異母妹はキアラの耳元に顔を近づけ、ねっとり耳に残るようにささやいた。
「『たとえ国中の男に恨まれることになっても、君をエスコートするよ』ですって。リシャール様って、なお方ね?」
 キアラはしばしうつむき沈黙した。言葉を失う姉を前にして、フェデリカは勝ち誇るように目を細めた。
 フェデリカが愛らしいのは外見だけのこと。この黒髪の異母妹は、昔から姉が持つものすべてを奪いたがった。
 お菓子、おもちゃ、ドレス、髪飾り、友人──。
 そしてとうとう、婚約者すらキアラから奪おうとしている。無邪気にこちらを見上げる瞳には、ものをいたぶる獣のような残忍さが見え隠れしていた。彼女はわざとリシャールの話をして、キアラの反応を楽しもうとしているのだ。
 だが申し訳ないことに、この状況は今のキアラにとって大変好都合だった。
「素晴らしいわ」
「は?」
 思わぬ姉の反応に、フェデリカは建前も忘れて眉を寄せた。そんな彼女の両手を、キアラはぎゅっと握り寄せる。
「ぜひそうしてちょうだい。あなたが私の代わりに行ってくれるなら、すべてが丸く収まるわ」
「え。でも、お姉様は」
「いたたた。拍動性の頭痛に、おう、体動による症状のぞうあく……。どうやら持病の片頭痛が悪化したみたい。これではとても出かけられないわ」
 棒読みの演技でフェデリカの言葉を封じると、キアラはドアノブに手をかける。
「というわけで、私は休むから。あなたはリシャール様と楽しんできてね」
 一気にまくし立て、扉を勢いよく閉じる。最後、フェデリカの顔面が奇妙に歪んでいたが、見なかったことにしてキアラはくるりと体をひるがえした。
「よし、これで王子問題は片づいた。あとはお父様の死をどうにかしないと」
 漫画だとキアラの父親ブルーノは、馬車の横転事故に巻き込まれ、夜会の二日後にくなっている。ただしその死はほんの数行の台詞で語られたのみで、詳細は不明だった。
 どこで事故が起きるのかも分からぬ以上、当日はブルーノが馬車に乗らないよう工作する必要があるだろう。
 正直なところ、ブルーノに対してあまりよい感情を抱いていない。娘が継母から理不尽な扱いを受けても気付かぬふりをする彼を、キアラはアキラとしての記憶が芽生える以前から苦々しく思っていた。
 だが彼が亡くなれば、この家は継母とフェデリカに乗っ取られてしまう。それだけは、なんとしても阻止しなければ。
「どうしようかしら。馬車に乗らないで、なんて言ってもお父様が頷いてくれるはずがないし」
 貴族にとって、馬車は最も身近な交通手段であり、高貴な身分を示すシンボルでもある。庶民のように歩いて移動しろ、などと言えばブルーノは火がついたように怒ることだろう。
「馬を傷つけるわけにいかないし、使用人の目があるから手がかかる工作もできないか」
 馬車を走行不可能なほど壊すとなると、かなりの重労働になってしまう。そもそもキアラのか細い体では、車輪一つ外せるか分かったものではない。
 ではどうすれば、父の乗車を邪魔できるだろう。考えを巡らせていたところで、ふとキアラは窓の外に目を向けた。
 ……これしかない。
 えたアイディアが、ぽんと頭上に一つ芽生えた。この方法ならば、ごく短時間で馬車が使用不可能となる。
 自身の機転の良さに感心しながら、キアラは紅茶の残りを飲み干した。

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2

 二日後。朝のベルワース邸に、悲鳴混じりの怒声が響いた。
「これはどういうことだ!」
 と額に青筋を立てるのは、ベルワース伯爵ことブルーノである。彼が指差す先には、内も外も汚れたわらにまみれた馬車があった。馬車の扉を開けば、中からむわりときゅうしゃの香りが漂ってくる。
 御者は身を縮こまらせながら、振り子のように何度も頭を下げた。
「申し訳ございません! 目を離した隙にやられたようで。子供のいたずらか、もしくは何者かの嫌がらせかと……」
「そんなことは見れば分かる。それより、これから大事な会議があるのだぞ。どうするつもりだ!」
「もう時間がございません。ひとまずは徒歩でご移動を」
「この役立たずが。私が戻るまでに、徹底的に洗っておくのだぞ!」
 御者が言い終わるより先に、ブルーノは悪態をついて歩き出す。その後ろ姿が門の向こうに消えたところで、見送りに出ていたメイドたちがひそひそと囁き合った。
「いやね、誰の仕業かしら」
「気味が悪いわ。奥様とフェデリカ様にもご報告しないと」
「ちょっと、キアラ様が抜けているって」
 会話の後に続くのは、くつくつと押し殺すような笑い声である。物陰に身を隠していたキアラは、彼女たちの会話を聞きつつがいとうのフードをぶかかぶった。
 計画は成功だ。あとは、父が無事目的地に辿り着くのを見届けねば。
 誰にも見られていないことを確認してから、屋敷の門をくぐり抜ける。キアラが一人で街を出歩くのは初めてのことだったが、ちゅうちょしている余裕はなかった。
 幸い、目的地である王都庁舎は歩いて二十分程度の距離にあった。舗装された広い道の端には、馬車が連なるように停められている。その横をてくてくと歩く父が、庁舎の中へ招き入れられる様子を確認して、キアラはほっと胸をで下ろした。
 ひとまず、これで父ブルーノは事故を免れたはず。よほど運が悪くなければ、彼がいきなり命を落とすことはないだろう。両手にこびりつく悪臭はまだ落ちないが、得られた結果は非常に大きい。
 満足すると、キアラは庁舎に背を向けた。抜け出したことをられる前に、部屋に戻らなくては。厩舎のにおいがついた衣服も、早めに処分する必要がある。
「おい。ランシャー通りで馬車の横転事故があったらしいぞ」
 そこに聞き捨てならぬ台詞せりふが耳に入った。はじかれるように声のする方を見やれば、乗合馬車の御者たちが深刻な顔で言葉を交わしていた。
「横転事故? どうしてまた」
「さあな。とにかく現場は悲惨らしいぜ。しばらくは通行止めのままだろうし、帰りの経路を考えておいた方がいい」
 そんな、まさか──と腹の底が冷たくなる。
 思い立つやいなや、キアラは人目もはばからずに駆け出した。
『父が馬車に乗らなければ、事故は起きないだろう』と高をくくっていた。
 だがもし、馬車以外に事故の原因があったとしたら?
 ブルーノが事故を回避したことで、他の誰かが代わりに事故に遭ったとしたら?
 最悪の状況が、頭の中で組み上がっていく。もう少し頭を働かせていれば、事故そのものを未然に防ぐことができたかもしれないのに。自分のせいで、また誰かが命を落とすなんてことがあったら……。
 心臓が限界を迎えようとしたところで、目的の場所に近づいてきた。王都中央通りから横道に入って進んだ先に、商店が立ち並ぶランシャー通りが見えてくる。通りの入り口には野次馬らしき人影が並び、さらにその向こうでは馬車がよこぎにされたように転がっていた。
「お願い、そこをどいて!」
 肺が裏返りそうなほど荒く呼吸をしながら、キアラは野次馬をかき分ける。肩を摑まれた中年男性が、ぎょっとしてキアラを振り返った。
「何だよ姉ちゃん」
「私は医者よ! 今すぐにんを診るから、道を空けて!」
「いや、怪我人はいないぞ」
「だから、怪我人は私が……って、え?」
 怪我人が、いない?
 思いもよらぬ返答に、キアラはぱちくりと目をしばたたかせる。小娘の反応に怒る気も失せたのか、男は「ほら」と倒れた馬車の周囲をあごで示した。
「そっちも誰か手を貸せ!」
「同時に持ち上げるぞ。せーの──」
 倒れた馬車を、町人らしき男たちが一斉に持ち上げている。彼らの周囲には壊れた木箱が散乱し、足元には野菜や木片が転がっていた。ただし、怪我人の姿はない。
「どういうこと……」
「馬車が飛び出してきた子供をけようとして、荷車と衝突しちまったんだと。そのせいで横転したようだが、幸い死人や怪我人はいないとさ」
 馬車の持ち主は大損害だろうけどな、と男は肩をすくめる。本当に何もなかったのだと理解した瞬間、キアラは全身から力が抜けるのを感じた。
「どうして馬車の前に飛び出したりしたんだい!」
 馬車のほど近くに、六、七歳程度の子供をしかりつける女性の姿があった。容姿からして二人は親子だろうか。女性は我が子の肩を摑み、両目をり上げている。
「あともう少しで、あんたも他の人も大怪我をするところだったんだよ。分かっているのかい!」
「だ、だって。ミィがかれそうだったから」
ねこのためにこんなをしたってのかい。この鹿!」
 う、と嗚咽を漏らして子供が俯く。その腕の中で、ぶち模様の猫が「ミャア」と鳴いた。
「ご婦人。そう責めないでやってください」
 今にも泣き出しそうな子供を庇うようにして、黒髪の男が女性に歩み寄った。
「彼も怖い思いをしたのです。怪我がなくて本当によかった」
「ですが、うちの子のせいでだんの馬車が。旦那だって、お顔に傷を負ったでしょう」
「ただのかすり傷だ。問題ない」
 もしや、横転した馬車の主だろうか。こちらに背を向けているため顔は見えないものの、張りのある声からは若さを感じた。着ている衣服も上質で、後ろ姿だけでも彼が高貴な身分であることがうかがえる。
「幸い、馬車の損傷は軽微で馬に怪我もなかった。だから今回のことはお気になさらず」
 馬車が横転させられたというのに、ずいぶんとおうような対応である。いったい何者だろうとキアラが目をすがめたところで、青年の横顔がこちらに向いた。
 すべらかに通った鼻筋に、長いまつ毛が縁取る青い瞳。顔立ちは優美でありながら、背筋の伸びた体はたくましい。
 大変見覚えのある人物だった。つやめく黒髪が印象的な、美青年。彼こそは、シンデレラの婚約に登場する絶対的なヒーロー“セシル王子”ではないか。
 彼がこちらを振り返るので、知り合いでもないのにあわててフードで顔を隠した。人々の陰に隠れてもう一度姿を覗き見るが、やはりあの青年はセシルで間違いない。
「セシルでん──セシル様」
 背の高い赤毛の青年が、セシルに歩み寄った。立ち振る舞いからして、セシルの従者といったところだろうか。
「馬車回収の手配が済みました。我々は流しの馬車を使って移動しましょう」
「分かった、ご苦労」
 セシルは青年の方へと顔を向けた。同時に、彼のまゆいぶかるように寄せられる。
「クリフ、顔色が悪いぞ。大丈夫か」
「はい。横転時に、胸を打ったようで。少し痛みますが──うっ」
 答えるそばから、青年はもんの表情で胸を押さえた。額には粒のような汗が浮かんでいる。
「……痛みますが、動けます」
「俺を庇ったせいで、受け身が取れなかったのだろう。無理をするな。戻ったら医術師に診せよう」
「あの、旦那」
 子供の母親も顔を青くして、遠慮がちに声をかける。
「うちは、早くに夫を亡くしたもんで。医術師にかかるお金も、馬車の修繕費も、とてもご用意はできなくて……」
 医術師とは、魔法で人をいやすこの国の医療者だ。馬車の修繕費は言わずもがな、医術師の治療費も庶民にとっては法外な値段となるだろう。その両方を、子供を抱えたが負担するなど不可能だ。母親がおびえるのも無理からぬ話である。
 彼女の不安を気取ってか、セシルはことさら穏やかな表情で首を横に振った。
「代金は結構だ。この程度、大した負担ではない」
「ほ、本当ですか!」
「ああ。代わりに、散らかった道の後始末をよろしく頼む。俺は部下を連れて行かねばならないのでな」
「分かりました。ああ──本当に、ありがとうございます!」
 天から降ってきた奇跡を受け取るように、女性は両手を合わせて目を潤ませる。
 事の成り行きを見届けたところで、キアラは事故現場から離れるように建物の陰へと移動した。
 王子一行にしては、付き人が少ない。おそらくセシルは、お忍びで移動中に事故に遭ったのだろう。
 ここで王子という身分を明かせば、事故の原因となった子供とその親は責任を問われることになる。そうした事情もあって、セシルは「金はいらない」と言っているのかもしれない。
 後ろめたさを感じるものの、キアラはその場から離れることにした。本来ならば死亡者が出るはずだったシナリオを、軽傷者数名に留めることができたのだ。巻き込まれた人々には申し訳ないが、結果は上出来と言えるだろう。
 それより、一人で街中にいることを知人にとがめられたら厄介である。王子とも関わらないと心に決めたし、さっさと帰宅するのが身のためだ。
「クリフ! クリフ、いったいどうした!」
 だが、キアラがセシルたちに背を向けた瞬間。背後からあせりを帯びたセシルの声が響いた。
 振り返ればクリフという背の高い青年が、胸に手を当て地面に座り込んでいる。その顔は先刻よりもそうはくで、荒く呼吸をしていることが遠目からでも見て取れた。
「もうし、わけ……。急に息が、苦しくなって」
 発する声も、途切れ途切れである。そんな従者の体を地面に横たえてやると、セシルはさっと顔を上げた。
「ロイス! どんなものでもいい、今すぐ馬車を用意しろ!」
「はい!」
 小柄な青年が慌ただしく駆け出した。彼もまた、セシルの従者なのだろう。
 緩みかけていた現場の空気に、緊迫した空気が立ち込めた。座り込んでも、クリフの呼吸が改善する気配はない。思わず駆け寄ろうとした足を、キアラはすんでの所で踏みとどめた。
 王子と関わるべきではない。原作通りに話が進めば、キアラは陰謀策謀あふれる世界に身を投じることになる。目の前の落とし穴に進んで飛び込むほど、愚かになれない。
 それにこの国には、“治癒術”なる魔法が存在する。
 医術師が手をかざせば、どんな怪我でもたちどころに治るという奇跡の術。そんな便利なものを押しのけて、魔力を持たないキアラがしゃしゃり出てもろくな結果にはならないだろう。道具のない場所では、外科医など赤子も同然の存在なのだ。
『お父さん……』
 どこからか子供の泣き声が聞こえた。
 耳の奥にこびりついた、無力でひ弱で、まわしい声。その声を耳にした瞬間、抑えていたはずの感情が、弾けて心をかき乱す。
「やっぱり、無理」
 呟くと、地面をるようにしてクリフ青年の元に走った。怪我人を囲む人々の間をすり抜けて、キアラは声を張り上げる。
「私は医療関係者よ! 患者を見せて!」
 威勢の良い声に引き上げられるようにして、セシルが顔を上げた。キアラの姿を前にして、澄んだ瞳を丸くする。
「君は……」
「失礼。体を確認させてもらうわよ」
 余計な問答で時間を浪費したくない。有無を言わさぬ口調で言うと、キアラはクリフの胸元をはだけさせた。
 明らかな外傷はなかった。脈拍も正常である。しかし呼吸は浅く早く、首元のけいじょうみゃくは怒張している。胸の動きには左右差があり、右胸を軽くたたくと「コンコン」と中に空気がこもっているような音が聞こえた。さらに痛みを訴えていた場所に触れると、「うぅ」とクリフが苦しげにうめく。
「ごめんなさい。もう少し触れるわ」
 謝罪しながらクリフの右側胸部に手のひらをわせると、「じゅわ」と皮膚越しに雪をつぶしたような感触がした。疑いは確信に変わり、キアラはセシルの顔を見上げる。
「間違いない。彼は気胸を起こしている」
「キキョウ?」
 聞き慣れぬ単語を繰り返して、セシルが不思議そうに首をかしげた。「そう、気胸」とキアラは大きく首肯する。
「肺に穴が空いて、空気がきょうこう内に漏れ出す状態のことよ。胸腔の中に空気がまると、空気の圧で肺が潰されて、呼吸ができなくなってしまうの」
「肺に穴? どうしてそんなことが」
 と口を挟むのは小柄な従者ロイスである。彼の問いに、キアラは簡潔に答えた。
「馬車が横転した際に、右胸のろっこつを折ったのではないかしら。そうして折れた骨が肺に刺さり空気が漏れ出した、と考えればつじつまが合う。ほら、ここに触れてみて」
 クリフの右側胸部を指し示す。セシルは戸惑いがちに従者の体に触れるが、妙な感触を気取って目を大きく見開いた。
「これは」
「雪を握るような感触があったでしょう。皮下しゅ──皮膚の下に、空気が溜まっている証拠ね」
 これが気胸であることを示す、何よりの所見だった。だが病名を当てただけでは、何の解決にもならない。
「今は辛うじて呼吸ができているけれど、このまま空気が胸腔の中に溜まり続ければ、たいそくの肺や心臓まであっぱいされてしまう。かなり危険な状態よ。はやく処置をしないと」
「心臓が、アッパイされる?」
 かなりみ砕いて説明したつもりだったが、ロイスはキアラの言葉がいまいち理解できないようだった。
 無理はない。“アキラ”がいた現代日本とは異なり、この世界では一般人が人体の基本的解剖について学ぶ機会そのものが存在しないのだ。
 だがセシルの反応は少し違った。彼は「ふむ」と思案すると、理解を示すようなまなしをキアラに向けた。
「胸に銃撃を受け、段々と呼吸ができなくなった兵士を見たことがある。あの兵士と同じような状態、ということだろうか」
「ええ。おそらく似たようなものよ」
「ならまずいな。このまま放置しても、状態が悪くなるだけだ」
 説明した側が面食らうほど物分かりがよい。さすがは一国の王子といったところか。
 セシルは決意したようにうなずくと、キアラの顔をまっすぐ見据えた。
「いくらでも金は払う。彼を治してやってくれないか」
「え……」
「肺の穴が原因なんだろう。なら治癒術でふさいでしまえば一発じゃないか!」
 セシルの背後で、ロイスも必死に訴える。すぐには「はい」と言えなくて、キアラは唇を嚙み締めた。
「治癒術は使えない。私、魔力がないもの」
「はあ? どういうことだ」
 肩透かしを食らったと言わんばかりに、ロイスが眉をあげる。
「魔力のない医術師なんて、聞いたことがないぞ」
「医術師の資格を得るには、高い魔力が必要だったはず。……医療関係者、と言っていたが、君はいったい何者なのだ?」
 セシルも真意を探るような目をキアラに向けた。ここで偽りを口にするのは逆効果な気がして、キアラははっきりと宣言した。
「私は医師よ。医術師ではないわ」
 人々の間に、落胆の空気が漂った。周囲の失望を肌で感じながら、キアラはこぶしを握りしめた。
 治癒術が発展したこの国では、医療の現場において“医術師”が確固たる地位を築いている。“医師”もいるにはいるのだが、そのほとんどは医術師の道から外れた落ちこぼれやまじない師くずれのような者ばかりで、社会的信用度は皆無に等しい。公的な資格はもちろんないし、でたらめな治療で金を稼ぐ者も多いとか。
 そんな医師を頼るのは、高額な治療費を用意できない貧乏人くらいなものだ。それゆえ、医師に体を診られることを不名誉と考える者すら存在した。
 ……アキラとしての記憶を得る前のキアラにも、医師に対する不信感があったからよく分かる。
「でも、医学の知識はちゃんとある。お願い、信じ」
「黙れ!」
 必死の弁明を、ロイスが遮った。キアラを映す瞳には、さいしんが宿っている。
「こんな若い女が医療者だなんて、怪しいと思ったんだ。これ以上クリフに触れるんじゃない」
 怒号混じりに吐き捨てると、ロイスはセシルに呼びかける。
「セシル様、こいつは信用なりません。これまでの話も、どうせでっち上げです。こんなヤブ医者は放っておいて、早くクリフを医術院に連れて行きましょう!」
「……ヤブ医者、ですって」
 押し隠していたプライドに、ピキリと大きなれつが走る。
 ──アキラであった頃、医師という職に人生をささげていた。
 朝から晩まで働き通し、業務の合間を縫っては論文をむさぼり読む日々。患者の容体が悪化すれば深夜だろうと休みだろうと即座に駆けつけたし、徹夜当直続きで倒れかけても、患者の治療を優先してきた。
 だからこそ、他人に譲れぬきょうというものがある。人生と魂を対価に築いてきた知識と技術を、否定されることだけは絶対に許さない。
「黙りなさい、無礼者が。その失礼な口を縫いつけるわよ」
「……え?」
 うら若き乙女の口から放たれた暴言に、ロイスはぜんとした。聞き間違いだろうか、と目をぱちくりさせる彼に、キアラは冷ややかな視線を投げる。
「今から彼を連れていく? 冗談でしょう。これほど急激に状態が悪化しているのに、医術院までの搬送に耐えられると本気で思っているの?」
「それは」
「患者をよく見なさい! それでも問題ないと思うなら、その頭に詰まったお花畑を刈り取って出直してこい!」
 鬼気迫るキアラの口上に、ロイスは「ひぇ」と情けない声を漏らす。それでもキアラは反撃の手を緩めない。
「そもそもこれだけ空気が溜まっている状態で、怪我だけ治しても意味がないの。まずは脱気して、肺を圧迫している空気をどうにかしないと。何か、道具があれば」
 言いながらクリフに視線を落としたところで、彼の右胸が膨らんでいくのが目に入った。肺から空気が一気に漏れ出したのだ。
「まずい!」
 ロイスのことは忘れて、クリフの横にひざをついた。苦しげな表情に反して、呼吸がさらに弱くなっていく。手首の脈拍もわずかにしか触れない。血圧が下がっている証拠だ。
「呼吸状態がかなり悪くなっている。すぐに処置をしないと」
「君なら、彼を救えるのか」
 静かに問いかける声が、頭上から響く。見上げればセシルのそうぼうと視線が重なった。
「君にはこの状況を打開するための知識が、あると言うのだな」
「……ええ。何をすべきかは、わかっているわ」
 救える、なんて高慢なことを言うつもりはない。だが目の前の患者にできることは、どんなことでもしてみせる。それがキアラの──アキラの、医師としての覚悟である。
「わかった。クリフを頼む」
 数秒見つめ合ったのち、セシルが頷いた。
「セシル様、それは」とすかさずロイスが口を挟むが、セシルは右手で部下を制す。
「彼女の話は合理的だ。医学の知識がある、という話は本当だと思う」
「でも、医者なんて」
「見ろ。彼女は患者を診るため地面に膝をつき、疑いの目を向けられても退こうとしない。これほど必死にクリフを救おうとしてくれる人物ならば、十分信用できる」
 信用、という言葉にキアラは胸が熱くなるのを感じた。だが今は、感傷に浸っている余裕はない。一刻も早く、クリフの胸に溜まった空気をどうにかせねば。
「ぐずぐずしていられないわ。今すぐ胸腔穿せんを始めましょう」
「キョウクウセンシ?」
「胸に針を刺して、そこから胸腔に溜まった空気を抜くの」
 と言っても、注射針など都合よく転がっていない。とにかく胸に、空気の通り道となるものを刺す必要がある。
「何か、代用できるものは……」
 必死に周囲へ視線を巡らせる。すると店舗ひしめく通りの一画に、煙草たばこの看板が掲げられているのが目に入った。
「王子!」
 キアラは煙草屋の看板を指で差す。
「そこの店で、なるべく吸い口が細長くてぐなパイプを取ってきて! そこの無礼者は、蒸留酒とナイフを持ってきなさい。ナイフも、刃の先端が細くてとがったものがいいわ」
「ぶ、無礼者って」
「従え、ロイス」
 口を戦慄わななかせるロイスの肩を叩くと、セシルは煙草屋へ駆け出した。様子を窺っていた先刻の母親も、「手伝います」と手を挙げる。すると野次馬たちも「俺も」「私も」と声をあげ出して、目的の道具はあっという間に集まった。
「これが良さそうね」
 木箱の上に並べられた喫煙パイプの中から、キアラは特に細くて丈夫そうなものをつかみ取った。「むん」という掛け声と共に、吸い口を根本からぽきりと折る。
 次にありったけの蒸留酒を、クリフの胸と道具、自分の両手にぶちまけた。十分とはとても言えないが、これで消毒完了とする。
 胸腔穿刺など、大して難しい手技ではない。しかしこのような道具も設備もない環境で行うのは初めてだった。
 医学生だった頃にた医療ドラマでも、似たような状況が描かれていた覚えがある。当時はドラマチックな演出に感心したものだが、まさか自分が同じ状況に立たされるとは夢にも思っていなかった。
「始めるわ。クリフ、頑張って」
 と言ってキアラは、クリフの第三肋骨上縁にナイフの先端を突きつけた。そのまま迷いなく、やいばを厚い胸板にずぶりと刺す。
「うっ」
 激痛でクリフが身じろいだ。だがここでひるんではいられない。キアラはナイフを引き抜くと、こじ開けた傷口にパイプの吸い口を突き刺した。
 ぶつん、と吸い口が胸膜を突き破るごたえがある。直後「シュウウウウ」とタイヤに穴が空いたような音と共に、吸い口から空気が吹き出した。
「かはっ……」
 おぼれる人間が空気を求めるように、クリフが大きく息を吸い込んだ。それに合わせ、彼の右胸も小さく上下する。青白かった顔色には、わずかに血色が差しこんだ。
「よし、呼吸が戻った!」
「本当か!」
「すげえ!」
 ロイスや野次馬たちが、歓喜の声を上げた。だがこれはあくまで応急処置。喜ぶ暇もなく、キアラは周囲に呼びかける。
「すぐに患者を医術院に運ばないと。みんな手伝って!」
「おう」「任せろ」と、力自慢の野次馬たちが前に進み出た。男たちの手によって、クリフは用意されたほろしゃの荷台に乗せられる。
 胸のパイプが抜け落ちないよう見守りながら、セシルも荷台に乗り込んだ。
「よし、これでいいな。医師殿、君も一緒に……」
 同行を求めるべく、セシルは背後を振り返る。
 ──しかしその時には、キアラはこつぜんと姿を消していたのだった。

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3

「逃げてしまった……」
 自室に滑り込むと、キアラは扉に背をつけて座り込んだ。どくどくと心臓の音が頭にまで響いてくる。
 呼吸は少しずつ落ち着いていくが、やがて後悔がどっと胸に押し寄せた。
 あの状態の患者を置き去りにして逃げるなんて。医師として最低の行いだ。
 肋骨骨折は胸腔内で出血を起こし、けっきょうとなる可能性がある。それ以前に気胸が再び悪化する恐れもあるし、キアラが行った処置のせいで感染を起こす危険性もあった。
 とにかく、一度触れた患者には最後まで責任を持つべき──というのが、キアラの持論である。にもかかわらず、とっに体が走り出してしまって、気づけば彼女は自室の床にへたり込んでいたのだった。
 やはり、今からでも医術院へ行くべきだろうか。
「いやいや。あの場は逃げて正解よ」
 腰を上げかけたところで、キアラは慌てて首を横に振った。
 下手に王子と関わって、身元がばれでもしたら大変だ。医者を自称し、王子の従者の胸にやいばを突き立てたと周囲に知られたら、どんな目に遭うかわかったものではない。
 だから、これで良かったのだ。
 無理やり自分を納得させると、キアラはその場から立ち上がった。
 おなかがぐぅと、物欲しげな音を鳴らす。今日は計画のために、朝から何も口にしていなかった。何か食べられるものを求めて、ちゅうぼうへ向かうことにする。
 だがしばらく歩いたところで、玄関ホールから男女の楽しげな声が聞こえてきた。こっそりのぞいてみると、玄関扉の前できゃっきゃと子供のようにはしゃぐフェデリカの姿がある。さらにその向かいには、亜麻色の長髪を一つに結んだ身なりのよい青年──キアラの婚約者、リシャールが立っていた。
 継母も少し離れた場所から、なかむつまじげに語らう二人を微笑ほほえましそうに見守っている。
「リシャール、様?」
「……ああ、キアラか」
 思わずキアラが声をかけると、リシャールは端正な顔を持ち上げた。フェデリカに見せていた顔とは打って変わって、無感情な眼差しがキアラに向けられる。
「久しぶりだな。体はもう大丈夫なのか?」
「はい。先日は急にお休みして申し訳ございませんでした。でも、どうしてフェデリカと一緒にいらっしゃるのです」
 婚約者の家を訪ねたならば、まず婚約者本人にあいさつをするのが礼儀というものだろう。その妹とは言え、別の女と談笑するなど不誠実極まりない行いである。
 だが当のリシャールは、後ろめたさなど少しも見せずに片眉を上げた。
「この前の夜会の帰りに、君の妹君が僕の馬車に髪飾りを落としていってね。それを届けに来ただけだよ」
「髪飾りを……」
 つぶやくキアラに、フェデリカは「これよ」との飾りを見せつけてくる。得意げな笑みからして、わざと落としてきたに違いない。
「それはご迷惑をおかけしました。でも、わざわざリシャール様がおいでになる必要はなかったのでは」
「使用人に届けさせればよかったと? 実に君らしい考えだな」
「はぁ?」と低い声が出かかったのを、あとわずかの所でキアラは押しとどめた。それを動揺と受け取ったのか、リシャールは見下すように鼻を鳴らす。
「屋敷にこもり、せいぶるのが女性の美徳とされていた時代もあったことだろう。だが今は、女性も社会に進出する時代だ。実際、フェデリカも学院で男子に劣らぬ優秀な成績をおさめているという話じゃないか」
「あの」
「君も妹を見習って、自分の足で動く努力をした方がいい。何もできない人形のままでは、時代の波に取り残されるぞ」
 一方的に会話を打ち切ると、リシャールは「では失礼するよ」とその場から去ってしまう。取り残されたキアラは、バタンと閉じられた扉をただ見つめることしかできなかった。
「リシャール様は、先進的な考えをお持ちなのねぇ」
 これ見よがしに呟くのは、ままははのマデリンだ。婚約者たちの不和を面白がるように、声が弾んでいる。
「彼が婿むこりしてくれるなら、当家も安泰だわ」
「あんな素敵な方と結婚できるなんて、お姉様は幸せ者ね」
 フェデリカも無邪気をよそおい、母の言葉に同調した。だが愛らしい笑みの裏からは、抑えきれぬ悪意がにじんでいた。
「でも、もっと好かれる努力をした方がいいのではなくて? これではリシャール様がかわいそうだわ」
「……失礼、します」
 キアラはきびすを返して部屋へ戻る。背後からはくすくすと、あざわらう声が聞こえた。
 ……原作漫画なら、ここでキアラは涙を流したことだろう。だが今のキアラには、この程度で傷ついている余裕はなかった。自室に戻ったところで、彼女はやっと顔を上げる。その顔はあっけらかんとしており、リシャールの言葉が響いた様子はじんもない。
「なるほど。ここは原作の展開と同じなのね」
 漫画では『キアラが裏で家族や使用人をしいたげている』というフェデリカのうそを信じたリシャールによって、キアラは父親の死後すぐに婚約破棄を言い渡されていた。
 こんなお粗末な噓、徹底的に検証してやればあっという間にボロが出そうなものだが、原作キアラはショックを受けるばかりで、否定しようとすらしなかったのを覚えている。
 ある意味で、リシャールの主張は正しいのかもしれない。確かに原作のキアラは、“何もできないお人形”同然だった。
 だが今のキアラには、アキラであった頃の知識という強力な武器がある。この武器のお陰で、夜会での王子とのかいこうを避けられたし、父を死の運命から救えもした。継母とフェデリカも、父が健在であるうちは好き勝手に動けないだろう。
 シナリオは順調に書き換えられている。このまま自分に都合の良い展開を、どんどん引き寄せていかなければ。
 そのためにも、リシャールにはもう少し婚約者でいてもらう必要があった。彼がフェデリカと婚約関係になってしまうと、ベルワース家におけるキアラの立場がさらに悪くなってしまうのだ。
 もちろん、リシャールに未練などない。次の方策が決まった暁には、彼とはすっぱり婚約を解消する所存である。
 どうして自分が、キアラになってしまったのかはわからない。だが泣き寝入りするつもりなど、毛頭なかった。

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 馬車の一件から二週間後。
 次の方策が定まらぬまま、キアラはフェルソンはくしゃく家──つまりはリシャールの実家の夜会に参加していた。
 よいうたげは、いつにも増して豪勢だった。金銀のしょくだいきらめき、シャンデリアが天井に星を散らしている。楽団の演奏に合わせて色とりどりのドレスが揺れて、幾人もの笑声が歌のように響き渡った。
 だがそんな浮き立つような雰囲気とは裏腹に、キアラの心は冷え切っていた。無理もない。なんと彼女は、会場に着くなりリシャールに置いてきぼりにされてしまったのだ。
「じゃあ楽しんで」
 それだけ言うと、リシャールはするりとどこかへ消えてしまった。今頃ご友人たちと、ご歓談にいそしんでいるのだろう。罪悪感のかけらもない振る舞いはいっそすがすがしいほどで、キアラが呼び止める暇すらなかった。どうやら彼の心は、キアラから完全に離れてしまったらしい。
 同じく夜会に参加しているはずの、ベルワース家面々の姿もどこにも見えない。こうなると無心で時間を潰す以外にできることもなく、キアラはかべぎわでグラスの水面をただただ眺めていた。
「ねえ、聞いた? セシル第一王子殿下が遊学の旅を終えて、帰国されたんですって」
 いっそ帰ってしまおうかと算段を立て始めたところで、聞き捨てならぬ話が聞こえた。声の元を辿たどっていけば、まだ年若い令嬢たちが額を合わせるように話している。
「その話、本当かしら。殿下が帰国されたなら、祝賀会くらい開かれるものでしょう」
「この国の現状を知るために、お忍びであちこち視察されているんですって。ヒューバー家の夜会で殿下らしき殿方を見たという子もいるわ」
「殿下は十年近く国を離れていらしたのよ。どうしてお顔がわかるのよ」
「この国の王子様よ? お顔を存じ上げずとも、漂う気品でわかるはずだわ」
 二週間も前に帰国しているというのに、セシルの存在はいまだはっきりと確認されていないらしい。
 漫画では『貴族同士の余計なしがらみを避けるため、帰国の事実を伏せていた』と語っていたか。いずれにせよ、姿を隠しているならば、こんな夜会の場で遭遇することはないだろう。
 それよりも、クリフ青年のことが気がかりだった。
 彼の経過が知りたくて、一度医術院の前まで行ってみたこともある。だが堂々と中に潜り込む勇気もなく、門前を五往復ほどしたところで、結局すごすごと退散してしまった。それから今日に至るまで、彼の無事を確認できていない。
 彼はどうなっているのだろう。気胸は改善したのだろうか。骨折の治療は進んでいるのだろうか。
「キアラ・ベルワース!」
 思案にふけっていたところで、突然誰かがキアラの名を呼んだ。とげのある響きに、キアラは肩を震わせ顔を上げる。
 声の主は、キアラの婚約者リシャール・フェルソンその人だった。さらにその隣には、ひとみうるませたフェデリカが立っている。リシャールの右腕が彼女の肩を抱き寄せているのを見て、キアラは「あぁ」ときょうがくの声を漏らした。
 まさか、この状況は──。
「フェデリカからすべて聞いたぞ。もう、見て見ぬふりはできない」
 まるで役者のような口ぶりで、リシャールは語り出す。不穏を気取った客たちが会話をめ、会場全体がしんと静まり返った。
「君は以前より、義母のベルワース夫人とフェデリカを不当に虐げていたそうだな」
「私が、ですか」
 つい原作と同じ台詞せりふを返してしまう。この後彼になんと言われるか、おおよそのことは予想できたが、それでも聞かずにはいられなかった。
「いったい、どういうことでしょう」
「とぼけないでくれ。君が日頃より彼女たちに暴言を浴びせ、れいのように扱っていたことはベルワース家の使用人たちも証言しているんだ!」
「……お父様は、跡継ぎを望んでお母様と再婚されました」
 フェデリカがえつこらえて口を開いた。白い頰に、涙が一筋こぼれ落ちる。こちらはリシャールと違い、かなりの演技派だ。
「だけど結局生まれたのは、爵位を継げない女の私だけ。だから自分がリシャール様と結婚しなければならなくなったのだと、お姉様は事あるごとに私と母を責め立てました。それどころか、結婚したらお前たちなど追い出してやる、とまで言い出して……」
 まあひどい、と聴衆のあいだから同情の声が漏れ聞こえる。ふと見やれば継母も仲良しのご婦人たちに慰められながら、わざとらしく涙をぬぐっていた。親子そろって、あまりに噓泣きがすぎる。
「告げ口してごめんなさい、お姉様。だけどもう、耐えられなかったの。それでリシャール様にご相談したら、こんなことになって」
「謝ることはない。君が僕を頼ってくれて、本当によかった」
 ぞっとおぞがするほど優しい声で言うと、リシャールは再びキアラをめつけた。使命感に燃えた、というより酔いしれたような彼の瞳が、戸惑うキアラの姿をとらえる。
「たとえ家同士が決めた婚姻であっても、家族を傷つけるような女性とは夫婦になれない。だから僕、リシャール・フェルソンはキアラ・ベルワースとの婚約破棄をここに宣言する。今宵、この場にお集まりの皆様が証人だ!」
「わっ」と短い歓声の後に、盛大な拍手が続いた。
 リシャールの英断をたたえる騒音の中で、キアラは小さく舌打ちした。ここはフェルソン家主催の夜会だ。キアラをかばう者など一人も存在しないだろう。
 やられた。まさかこんな強引な方法で、婚約を破棄されるなんて。油断していた自分が恨めしかった。
 だが原作とは違い、今も父は生きている。
 彼も会場のどこかにいるはずだ。キアラの潔白を証明できるとしたら、彼しかいない。わずかな希望を胸に周囲を見回すと、やがて壁際で気配を消さんとする父の姿が目に入った。
「お父、様……」
 互いに視線が重なる。だがブルーノはさっとキアラの目から逃れるように、すぐさま顔を横にらした。どうやら彼は、実の娘よりも世間体を取ったらしい。
 考えてみれば当然のことだ。
 ブルーノがここでキアラを庇えば、フェデリカや継母の愚行が多くの人の知るところとなる。そうなればブルーノも、家族を統制できない無能な家長のレッテルをられることになるだろう。
 それよりはキアラを犠牲にして、フェデリカたちの側につく方が都合がよい──と彼が考えたとしても、なんら不思議ではないではないか。
 キアラの中の“キアラ”が、がっくりと肩を落とした。こんな皮肉なかたちで、父の本音を知ることになるなんて。
 だが自分に味方がいないのはいつものこと。漫画のように、めそめそ泣くのはまっぴらだ。売られたケンカはきっちり買って、正々堂々勝負してやらなくては。
「そちらの言い分は理解しました」
 かっさいしずまったところで、キアラはゆっくりと口を開いた。
「ですが、リシャール様のご主張には同意いたしかねます。これはあまりに一方的な」
「一方的な話だな」
 キアラの言葉に、男の声が重ねられた。りんと響くその声に、誰もが自然と引きつけられる。
「多数で囲んで一人を責め立てては、公平な話などできぬだろう。いったい、貴殿らは何がしたいのだ」
 語られるのは、キアラを庇う言葉である。いったい誰がと思ってそちらを見れば、群衆の中から堂々と進み出る人物と目が合った。
「あ、ああ──!」
 悲鳴とも驚声ともつかぬ声が、のどの奥から漏れ出てくる。
 均整のとれた体つきに、風を切って揺れる黒髪──。
 見間違うはずがない。リシャールのお粗末な断罪劇を遮ったのは、二週間前に出会ったセシル王子その人だった。
「そもそも、なぜおおやけの場で彼女を見せしめにするようなをする。貴殿の振る舞いこそ、俺には加害に見える」
 と言いながら、セシルがずんずんと近づいてきた。キアラは急いで顔を伏せるが、さも当たり前のように隣に立たれてしまう。
 どうしてここに、セシル王子が。
 いくら弁がたつキアラであっても、この状況では足元を見つめる以外何もできない。
「私は、お姉様の仕打ちを告発しただけです! 見せしめだなんてひどい」
 すかさずフェデリカが反論した。私傷つきました、と言わんばかりに涙を拭うが、セシルの態度は揺るがない。
「証拠もなしに相手を糾弾するような真似を、告発とは言わない。君のしていることはただのぼうだ」
「誹謗? 私、そんなつもりじゃ……」
「失礼、どちら様かな。あなたのような御仁をお招きした覚えはないが」
 フェデリカを背に庇うようにして、リシャールが前に出た。ちんにゅうしゃに負けじと、薄い胸板をむんと張る。
「当たり前だ。俺はこの夜会に招待された客ではないからな。友の名を借りて紛れ込ませてもらったのだ」
 だが胆力比べは闖入者の圧勝だった。招かれざる客であることを悪びれもせず告白すると、彼はよく通る声で名乗りをあげる。
「俺の名はセシル・フォン・ローエンベルグ。長く国を空けていたゆえ顔を知らない者も多いだろうが、この国の第一王子である。ああ、マキウス衛兵隊長。そなたなら俺の顔が分かるな?」
「は、はい! こちらのお方は正真正銘、セシル第一王子殿下であらせられます!」
 名ざしで呼びかけられた貴族の一人が、声を上擦らせながら敬礼する。あわてふためくその姿に、セシルは「ふ」と笑みを漏らした。
「よし。これで証明されたな」
「セシル、王子殿下……。なぜ、ここに……」
 あまりの大物を前にして、リシャールはすっかり戦意を喪失したようだ。悪夢を見るような顔で、寝言のように問いかける。
「どうしても会いたい女性がいてな」
 その質問を待っていた、とばかりにセシルは一段と声を張り上げる。
「身なりから貴族令嬢であることはわかっていた。だが肝心の名前が分からず、こうしてあちこちの夜会に顔を出して彼女を探し回っていたのだ。でも、やっと見つけた」
 そうして彼が見つめるのは、キアラ・ベルワースの横顔である。キアラは必死に素知らぬふりをしようとするが、どこにも逃げ場はなかった。
「会いたかったぞ、医師殿。名はキアラと言ったか?」
「あの。なんのことかさっぱり……」
「おいおい、知らないふりとは傷つくな。君に会うため、俺がどれだけ骨を折ったと思っている」
「セシル殿下!」
 リシャールがびっしょりと額に汗を滲ませ会話に割り入る。彼の隣にいたはずのフェデリカは、いつの間にか会場隅へと移動していた。
「数々のご無礼をどうぞお許しください。ですがこれは、あくまでフェルソン家とベルワース家の問題。殿下には、この件への言及をお控えいただきたい」
「ほう。見せ物のように騒ぎ立てておきながら、部外者は口を出すなと申すか」
 セシルが冷ややかに目を細める。リシャールは答えず、ただただ静かに頭を下げた。
「……確かに。王家といえども、俺はただの部外者。口出し無用というお前の意見は正しいかもしれん」
 意外にもセシルは理解を示した。「それでは」と顔を輝かせたリシャールに、第一王子は「うむ」とうなずく。
「ならば、俺が関係者になれば文句はないというわけだ」
 言うと同時に、セシルはキアラの前にひざまずいた。会場中の誰もが「は?」と口をあんぐり開けるが、彼はお構いなしにキアラの手を取る。
「殿下、何を」
「この二週間。ずっと君のことを探していた。初めて出会ったあの日から、君の姿が目に焼き付いて離れないんだ」
 甘く思わせぶりな言葉が並べられる。キアラはごくりと息をんだ。まさか、その台詞は原作にもあったあの──。
「キアラ・ベルワース嬢。どうかこの俺のはんりょとなってくれないか」
 そして、とどめの言葉が放たれた。痛いほどの沈黙が、広い会場内に満ち満ちてゆく。
 ややあって、戸惑いと驚愕のざわめきが波のように広がった。
「殿下、ご冗談が過ぎます! キアラを伴侶にだなんて!」
「部外者は黙っていてもらおう。これは俺とキアラの問題だ」
 セシルは涼しげな顔でリシャールをあしらうと、握ったキアラの手を引き寄せる。
「さあキアラ、返事を聞かせてくれ。君は、俺と共に人生を歩んでくれるだろうか」
「へ、返事と言われても」
 こいねがうように見上げられ、キアラは思うように言葉が出てこない。
 つい先刻まで、自分はリシャールとフェデリカに糾弾されていたはず。それなのに、どうして王子から求婚されているのか。
 目を白黒させて答えあぐねていると、セシルの口元がぱくぱくと無音で動いた。
『“はい”と言え』
「は、い……」
 指示されるがまま、口が勝手に答えてしまう。すぐさまセシルは立ち上がり、愕然とするリシャールたちに不敵な笑みを向けるのだった。
「これで俺は彼女の婚約者だ。もう無関係とは言わせぬぞ」

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