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序章~第二話全文公開

序章

「悪いが、この縁談は断らせてもらうよ」
 老舗しにせの料亭でもうけられた結納ゆいのうの席にて、許嫁いいなずけが放った言葉に、うつむいていたきたこうつづりはじかれたように面を上げた。
「俺なりに考えたんだが、やはり、君と結婚するのはごめんだと思ってね」
 綴の許嫁──とうどうせいは場の空気が凍りついても意に介さず、ふんと鼻で笑う。
「君の母親は花街のしょうで、当主にめられてめかけになったそうだな。だが、俺は東堂家の次男だ。妾の娘をめとらされるのは、どうにも不服でね」
 征司は帝都でも名高い名家、東堂家の生まれだ。本人は売れない作家をしているが、文豪を気取って遊びほうけるほうとうものばくに手を出しているといううわさもあった。
 軽薄な性格に加えて弁が立つため、綴の欠点をあげつらう口調もよどみない。
「それに、君ときたら容姿はえせず、いつも辛気くさい顔をして、男を立てることもできないじゃないか。まったくもってかれる要素がない。俺はそういう面白みのない女とは一緒になりたくないんでね」
 征司の放つ言葉の一つ一つが鋭利な刃物のようで、綴は小刻みに震える両手をぎゅっと握りしめた。
 あざけりの表情を浮かべた征司が胸元から雑誌を取り出してみせる。
「君も知ってのとおり、俺は『文豪』でもあるんだよ」
 彼が掲げて見せたのは、ある大手出版社から出ている雑誌だったが、ずいぶん前の号だ。作家となって間もない頃、注目の若手として短編が掲載されたものだろう。
 それを、これ見よがしに机に投げ捨てて、征司は冷ややかに言ってのけた。
「その妻になる女性が、君のような面白みのない女だなんて……はっ。文豪の花嫁としてはふさわしくない」
「っ……」
「そもそも、この婚約は兄上が勝手に決めたことだろう。はじめから乗り気じゃなかったんだ。俺に身を固めて落ちつけと戒めたかったのだろうが、知ったことか」
「征司!」
 ぼうぜんとしていた征司の兄、東堂たかあきが我に返ったらしく声を荒らげたが、征司は嘲りの笑みを浮かべたまま立ち上がる。
「相手が妾の娘というだけでも不愉快なのに、どこにも惹かれない女を娶るくらいなら独り身のほうがましさ。──あぁ、無意味な時間だった」
 容赦のないりふが綴の胸に深々と突き刺さった。
「俺は締切りで忙しいんだ。これで失礼するよ」
「……何が締切りだ。お前は文豪を気取った、ただの放蕩者だろうが! 待て、征司ッ!」
 一同があっにとられている間に、崇明が怒声を上げて征司を追いかけていく。
 征司の言葉に傷つき、何一つ言い返せなかった自分にも腹が立って、綴はただ唇をみしめながら去っていく許嫁の背を眺めることしかできなかった。

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第一話 私を捨てた許嫁

 それは幼い頃の記憶。母のもとで手習いをしていた時の会話だ。
「あのね、綴。この世には不思議なことがたくさんあるのよ」
「ふしぎなこと?」
 漢字だらけの小難しい文の書き取り中に、筆を握ったまま首をかしげる綴を見て、美しい母は「ええ」とうなずいた。
「たとえば特別な力を持つ人や、人間ではないものと出会うことがあるかもしれない」
「人間ではないものって、むかしばなしに出てくる、あやかしとか?」
「そうね。綴は、あやかしが怖い?」
「会ったことがないから、わかんない。ほんとうに、いるの?」
「もちろんいるわ。あやかしにも人と同じように家族や友達がいて、生きているのよ。たまに乱暴者がいるけど、むやみやたらに相手を傷つけたりはしない。だから会っても怖がらないであげてね」
「おかあさんは、あやかしと会ったことがあるの?」
 綴の無邪気な問いかけに、母がほほむ。
「ええ。人の世には、あやかしが紛れこんでいることがあるから」
「どうやったら、会えるの? わたしも会える?」
「向こうから姿を現さない限り、綴が会うのは難しいわね。でも一つだけ、あやかしの本性をあばく方法があるの」
 博識な母はそこで声をひそめて、きょとんとする綴の髪をいとおしげに撫でた。
「一度暴いたら、その先も繫がってしまうから、使いどころを間違えてはいけないものだけど、あなたには教えておきたいの。ただ、もし怖いのなら、まだ教えないでおく。夜にかわやへ行けなくなるかもしれないものね」
「こわくない。厠くらいひとりでいけるんだから」
「そう? それじゃ、教えてあげようかしら」
 ()ねたように膨れると、母は小筆を受け取り、綴が書き損じた紙をひっくり返す。
 そこに両手で何かの形を作っている図を描いた。
 綴は小首を傾げて、その図をようとしたがうまくいかない。
 すると、母が綴の両手をとって教えてくれた。両手を違う向きで重ねて、人差し指と中指のすきに、小さな窓みたいな空間を作る。
「これは異界をのぞく窓なのよ。この窓を通して見れば、あやかしの本性を暴くことができるの。いつか使うことがあるかもしれないから覚えておいてね」
 指で作った窓の向こう側を覗いていると、母はその方法の呼び名を教えてくれた。
 (いわ)く、(きつね)の窓、と──。
 
 *
 
 北小路綴は肌寒さに身震いし、薄目を開ける。夜明け前なのか室内は暗く、空気がひどく冷たい。
 綴の部屋は北小路家の離れの隅にあり、もともと物置として使われていた三畳ほどの小部屋だ。狭くて隙間風が多く、綿がつぶれたせんべいとんは寒さをしのぐには心もとない。
 蒲団以外の家具は、小さなたんと色あせたづくえしかなかった。
 ──久しぶりに、お母さんの夢を見たわ……。
 母がくなってから、もう何年もつ。
 夢に出てきたのは、その母が生きていた頃、やり取りをした時の記憶だ。
 しばしなつかしさに浸ると、綴は指先まで冷えきった状態で起き上がった。着古したそでに着替えて、離れの裏手にある井戸へ向かう。
 三月に入ったばかりで、朝の外気は肌を刺すほどに冷たく、桜の木が植えられた中庭に白い薄霧が立ちこめていた。
 それを横目に、綴は井戸の冷水で顔を洗う。あかぎれだらけの手で髪を三つ編みにしてから離れの東の間へ向かった。廊下にひざを突き、障子越しに声をかける。
「失礼します、おさま
 返答はないが、わずかなきぬれの音がしたので、そっと障子を開ける。
 敷かれた蒲団に寝ているのは、年老いた女性──北小路はつだ。
 現当主の母であり、綴にとっては祖母にあたるが、当主の正妻である礼子の指示により、物置だった綴の部屋のほかは二間しかない離れに追いやられている。
 初枝の目が開いているのを確認すると、綴は起床と着替えに手を貸した。
 初枝は身体からだの節々が痛むらしく一人で着替えもままならない。離れには女中も寄りつかないため、食事の用意以外は、身の回りの世話はすべて綴がこなしていた。
 着替えを終えると、つえを突く初枝を支えて、隣の西の間へ移動する。
 とうに座るやいなや、初枝が横にある卓から書物を手に取り、老眼鏡をかけてページめくり始めた。
 卓に積んである書物は、綴が定期的に書庫から持ってきて入れ替えているものだ。
 綴は障子を開けて朝の空気を入れ、さりげなく初枝の様子をうかがった。
 初枝は、かつて女当主を務めるほどごうな女性だったが、今はもうろくしてしまったと礼子だけでなく使用人まで陰口をたたいている。
 なにしろ日がな一日、読書をしているか、ぼんやりと庭を眺めてばかりいるのだ。
あさを取りに行って参ります」
 初枝のしわだらけの顔は以前と変わらずいかめしく、呼びかけにも返答しない。
 書物の海に浸り、余生を静かに暮らしているだけ……そんなふうにも見えるが、かねてより初枝は読書家らしいので、内容は頭に入っていなくとも、昔の習慣で頁を捲っているだけなのかもしれなかった。
 ──いずれにせよ、お祖母様は私の呼びかけに反応しないわ。それだけ私をうとましく思っているはずだから。
 綴の母親、まりは花街でも有名なしょうであった。
 その鞠をめて身請けしたのが、北小路家の当主。つまり初枝の息子である。
 もちろん反感は大きかった。
 特に、厳格な初枝は「娼妓の身請けに大金を払い、めかけにするなんて許しません」と強く苦言を呈したが、美しい鞠に入れあげていた当主は譲らなかった。
 その結果、鞠は当主の妾となり、ほどなくして綴が生まれたというわけだ。
 衣食住を与えられ、綴も当主の計らいで読み書きなどの教育を受けることができたが、あくまでも鞠は小さな別宅に囲われた妾だったから、肩身の狭い生活を送った。
 女中には『娼妓の妾と、妾の娘』と陰口を叩かれ、正妻の礼子はしつように嫌がらせをしてくるし、綴の異母兄であるあきひこからはよこしまな目を向けられ、侮辱的な言葉をぶつけられたりすることも多々あった。
 そして、初枝も妾の存在をひどく疎んだ。
 孫である綴に対して冷淡な態度をとり、北小路家の恥だと公言していた。
 そんな環境で育ったものだから、綴は早くに自分の立場をわきまえて、せめて北小路家の娘として恥をかかぬようにとふるまってきたつもりだが──四年前、すべての努力が無に帰した。
 今や、最愛の母もおらず、針のむしろも同然となったこの家で、綴は課せられた仕事をこなしながら息をひそめて生きている。
 綴は初枝から視線を外し、離れを後にした。囲いを抜けて、外から人目につかぬようおもくりやを目指す。
 すでに朝日が出ていて、敷地内は明るくなっている。
 厨に着くと、朝餉を作る女中が行き交っていたが、綴に気づいても無視をした。
 綴も女中たちには声をかけず、隅に用意されている朝餉のぜんを手に取った。
 小盛の米としる、野菜のからし漬け。つやつやしている白米にごくりとのどを鳴らしそうになるのをこらえて、足早に厨を後にした。
 離れに戻る間、ほのかに甘い米の(にお)いにつられて腹の虫がぐうと鳴る。
 ──おなかが、すいた……。
 ここのところ、まともな量の食事をとっていない。
 離れの囲いが見えてきたところで足を止め、朝餉の膳を見つめていた時だった。
 不意に背後から冷ややかな声がする。
「お前、そこで何をしているの?」
 綴はびくりと肩を揺らして振り返った。
 正妻の礼子が女中を連れて外廊下に立っており、べつの表情を浮かべている。
「立ち止まったきり動かなくなったかと思ったら、もしかして、おさまの朝餉を盗み食いでもしようとしていたのかしら」
「……そのようなことは、していません」
 細い声で応じるも、また腹の虫が鳴ってしまい、思わず頰がかっと赤くなった。
 礼子も音を聞き逃さなかったらしく、とげのある口調で言い放つ。
「本当に、いやしくて無作法な娘だこと。身の程を弁えなさいな。本来なら、この家から放り出してやりたいところを、だんさまの温情で置いてやっているのよ。盗人のように、お義母様の朝餉に手を付けたら許しませんからね」
「分かっています。そのような真似はいたしません」
 うつむきがちに応じて奥歯をみしめると、綴はすうっと息を吸った。
「礼子様。一つだけ、お願いが……もう少しだけ、食事の量を……」
「お前は娼妓の娘であるだけでなく、嫁のもらい手すらないごくつぶしなのよ。住む場所と仕事を与えているだけ、ありがたいと思ってほしいくらいだわ」
 裕福な商家の生まれである礼子はごうまんで気位が高く、今は綴のことも、下働き以下の扱いをしていた。
 礼子が鼻を鳴らし、まるで家畜を遠ざけるみたいに手を払う。
「分かったら、さっさと行きなさい。お前の顔を見ているだけで不愉快よ」
 綴は小さく震える両手にぐっと力をこめると、お膳を掲げながら礼子に頭を下げて離れの囲いを抜けた。
 女中たちのひそひそ声と、礼子の「本当に卑しい娘だわ」と吐き捨てる台詞せりふが背中に突き刺さる。
 容赦なくさげすみをぶつけられて、綴の両手はまだ震えていた。
 
 
 初枝が食べ終えた朝餉の膳を返しに行くと、綴のぶんの握り飯が一つ置かれていた。
 土間を上がった囲炉裏の周りで、朝餉をとりながら談笑する女中たちは相変わらず綴を無視している。
 綴は握り飯を持ち、離れに戻った。離れにも厨はあるが、流しと小さなかまどしかない。
 その厨の隅で、満腹感を得られるよう握り飯を多めにしゃくしてたいらげると、着物のたすきけをして洗濯と離れの掃除を始める。
 抜き打ちで礼子が訪れ、少しでも汚れているとしっされる上、何かと理由をつけて食事を抜かれてしまうので念入りにぞうきんがけと庭掃除をした。
 その合間も、初枝が厠へ行くなら付き添い、昼餉の膳を取りに行く。
 めまぐるしく一日が過ぎていき、気づくと夕暮れ近くなっていた。綴自身は昼餉なしで動いていたからか腹の虫がぐうぐうと鳴っている。
 しかし休む間もなく、初枝のみの支度をする。
 最近、タイル張りの最新式に改装した母屋と違い、離れの湯殿は板張りで、大きなおけが置かれているだけの簡素なものだ。
 綴が井戸から水をみ上げ、何往復もして水を張り、まきいて湯を沸かす。それだけでも大変な重労働で、普通は下男が行う仕事だった。
 お陰で両手はマメだらけになり、はじめの頃はよく火傷やけどをしていた。
 湯を沸かす間、夕餉を食べる初枝を横目に、綴は厨の隅で握り飯を頰張る。
 小さな握り飯が二つ。やたらと塩辛かったが、文句も言わずに胃袋に詰めこんだ。
 夜のとばりが下りて、初枝が床につくと、ようやく自由な時間だ。
 湯殿のぬるい湯で汗を流し、浴衣ゆかたまとって脱衣所の戸を開けた時、目の前に若い男が立っていたのでびくりと身体がこわばった。
「っ……明彦さん?」
 北小路明彦。礼子の息子で、綴の異母兄だ。
 体調を崩した父に代わり、北小路家の若当主として社交場に顔を出しているが、いささか女癖が悪くていまだに独身である。
 脱衣所の前の廊下にたたずんでいた明彦は礼子とよく似たり目を細め、身を縮める綴をじっと見下ろしてきた。
「……このような時分に、離れで何をしているんですか?」
「別に。少し用があっただけさ」
 明彦は綴の身体をめ回すようにわせた視線を、胸元に落とした。
 この四年の生活で全身ほっそりとしてしまったが、昔から発育のよかった胸だけは浴衣越しでも分かるほどに大きく張り出している。
「相変わらず、みっともない胸だな。牛のようにでかい」
「!」
 綴が両手でさっと襟元をかき合わせると、明彦は嫌みったらしく鼻を鳴らして、離れを出て行った。
 彼は半分血のつながった兄ではあるが、妾の娘である綴を見下しており、成長した頃からはおかしな目を向けてくるようになった。
 たぶん、着替えるところも覗かれていた。戸も少し開いていた気がするし、これまでも湯浴みを終えて出てきたら遭遇することがあったのだ。
「…………」
 綴は強ばった肩を撫でると足早に小部屋へ戻った。
 心が落ち着いた頃、オイルランプを持ち、湯殿のわきにある階段から離れの地下へ下りていく。
 その先にあるのは書庫だ。
 広さは約十畳。壁と床は板張りで、天井も太い柱でしっかりと補強されている。等間隔で書棚が設置され、ぎっしりと書物が詰まっていた。
 初枝の世話をするようになって、綴は書庫の存在を知った。なんでも読書好きの初枝が嫁いできてから造らせたものらしい。
 離れも、もともとは初枝が一人で読書に没頭したい時、使っていたのだという。
 書店とも繫がりが深いようで、今でも定期的に新刊が届いては、この書庫に運ばれていた。経済書から大衆小説までジャンルは多岐にわたる。
 書物を好んだ母の影響で、綴も読書が好きだ。読めるものなら何でも読む。
 初枝の本を取りに行くという名目なら、ある程度はオイルランプも使えたため、今では夜になると書庫に通い、眠くなるまで読書に励むのがゆいいつの楽しみとなった。
 奥の一角に古い文机と書見台があり、綴はそこにランプを置いてうなれる。
「はぁ……」
 満たされていないお腹をさすって、ほのかな明かりに手をかざす。この四年で腕はずいぶんほっそりとしてしまった。
 頰に触っても、また少しせただろうか。
 小さな握り飯を朝に一つ、夜には二つもらえるが、礼子の機嫌次第で抜かれる日も多々あり、一日中、動き回った身体には足りなかった。常にお腹がぐうぐうと鳴っていて、隙間風だらけの部屋では眠れない夜もある。とりわけ冬はつらかった。
 ふと、いつまで、こんな生活が続くのだろうと思った。
 北小路家を出ることも考えた。しかし生計を立てるすべがなく、働くや身寄りのない若い女が路頭に迷った末に行くのは大抵、花街だ。
 娼妓であった母から、どれだけ困難にぶち当たっても、苦界に身を沈めることだけはするなと厳命されている。
 綴には北小路家の娘として、よい嫁ぎ先を見つけてほしい。
 それが母の願いだったが、もうかないそうになかった。
 ──今の私を、嫁にと望んでくれる相手はどこにもいない。
 考えただけでもまぶたの奥がちくちくとしてきた。みっともなく泣くまいと、綴がかぶりを振った時、文机に積まれた書物の一冊に目が留まった。
 題名は『異界』で、作家の名は『とうせい』。
 三年前に突如として現れた、新進気鋭の怪奇小説家だ。
 素性はなぞめいていたが、つい最近、その正体が東堂家の次男だと公表された。
 ──壬生冬青が、あの人だったなんて。
 あの人……東堂征司。今から四年前、綴との婚約を破談にし、ひどい言葉を投げつけて去った元許嫁いいなずけ
 破談の折、投げつけられた言葉は、今でも夢に見るほど鮮明に覚えている。
 あの後、征司は綴の生まれや性格だけでなく、身に覚えのない欠点までけんでんして回ったそうだ。
 それはまたたく間に悪評として広がり、綴を嫁にと望んでくれる相手はいなくなった。
 更に畳みかけるように、以前から体調を崩していた当主が肺の病で倒れた。
 北小路家はもともと華族の分家だが、紡績の商売に成功し、名家との婚約話が出るほどには格式のある家柄になっている。
 しかし、北小路家の当主が隔離病棟に入り、礼子の実家である商家に事業を委託するようになってからというもの、礼子は当主のようにふるまい始めた。
 そこから、綴は更なる苦境へ追いやられた。
 与えられていた衣食住を礼子の命令で取り上げられ、すでに離れに追いやられていた初枝の世話を一人でこなせと命じられたのだ。
 寝泊まりするよう指示されたのは、物置であった小部屋。待遇は女中以下。
 礼子にしてみれば、仲の悪かったしゅうとめに対する嫌がらせついでに、嫁ぎ先のない妾の娘を(おとし)めて、どちらも同時に苦しめることができるというわけである。
 それからの四年間、綴はひたすら耐え忍んできた。
 どんな扱いを受けても我慢し、生きることに投げやりにはなるまいと自分に言い聞かせて、やるべき仕事を黙々とこなす。
 夜になればこっそりと書庫に下りてきて、書棚にある書物を端から読んだ。
 読書が楽しいだけじゃない。書物は知識の宝庫だ。いつか役に立つ時がくるかもしれないと信じて、今はそのひとときだけが綴の心の支えとなっているのだ。
 綴はうれいの息をつき、壬生冬青が書いた本を開く。
 四年前の彼は違う筆名で小説を書いていたが、主人公がほうとうものの自叙伝だったため、綴は少し読んだだけで書を閉じてしまった。
 だが筆名を変え、怪奇小説に転向した彼はがらりと作風が変わり、今や華々しい小説家人生を送っている。
 いたずらに綴の悪評を広め、嫁いで北小路家から出るという選択肢を、綴から奪っておきながら──。
 腹立たしさと悔しさで、彼の書物を破り捨ててしまおうかと思ったこともあった。
 ……でも、できなかった。
 書物は心を慰め、胸が高鳴るような世界に没頭させてくれる。破り捨てるなんて真似は、どうしても綴には無理だった。
 それに、壬生冬青の作品には不思議な魅力があった。
 奇々怪々な世界観に、そこで起きる恐ろしい事件。
 人の世が舞台でありながら、時にはあやかしが登場し、先が読めぬ展開に息を()んで頁を捲ってしまう。
「【人としょうの違いは……たそがれどき、影が揺らぐこと】」
 綴は文章を目で追いかけ、指で文字をなぞる。
 壬生冬青の一作目『異界』の【人と化生の違いの章】の一文だ。
 二作目以降の怪奇小説的な作風ではなく、あやかしと異界について記しただけの書物で売れなかったらしいが、綴は興味をかれて何度も読み返していた。
「『足元の影は、本性を映す姿見と同じ。さすれば、狐の窓を覗け。ただし狐の窓が何であるかは、ここに記さない。ならば──』」
 幼い頃、母と交わした会話を思い出し、綴はおもむろに両手を持ち上げた。狐の形を作ると、右手を手前にひねり、狐の耳同士を交差させる。
 それぞれ指を伸ばすことで、両手の人差し指と中指の隙間にできる小さな窓。
「『窓の向こうは、化生のむ異界。ひとたび窓の向こうと目が合えば、未来永劫(えいごう)、異界と繫がってしまうだろう』」
 指で作った窓を覗きこんだが、見えたのは書庫の暗い壁のみ。
 ──この本を読むと、本当にあやかしや異界が存在するんじゃないかと思えてくる。
 不思議な内容であっても、ひどく現実味がある書き方なのだ。
 綴は近くの書棚を見上げた。二作目以降の壬生冬青の書物が並んでいる。
 かなり売れ行きがいいらしく、書店が届けてくれる新刊の中に必ず入っていた。
 それこそ壬生冬青の素性を知る前から、綴は彼の本をすべて読み、奇怪で魅惑的な世界観にのめりこんでいた──今もなお、読み返したいと思うくらいには。
「私は、本当に鹿だわ……」
 狐の窓を作った指をほどき、小声で嘆く。
 母のいない北小路家での暮らしはつらかった。
 容赦なく侮蔑と悪意をぶつけられて、それ以外では自分の存在も意思も無視される。

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 他家へ嫁ぐことで、この家を出る。その希望も絶たれてしまった。
 原因となった征司に投げつけられた言葉を思い出すと胸が痛み、悪評を広められたことも許せないのに、他でもない征司が書いた文章には心惹かれているなんて、まさに愚かの一言に尽きるだろう。
 改めて壬生冬青の書物を手に取り、今度こそ破ってしまおうかと手に力をこめたが、やはり綴にはできなくて、どうしようもなく泣きたくなった。
 
 
 三月の下旬にさしかかり、桜のつぼみほころび始めた頃、綴は母屋に呼び出された。
 礼子と顔を合わせてもじろりと(にら)まれただけで、ろくな説明もなく湯浴みをするよう言われて、女中の手で着飾らされていく。
 淡い山吹色の振袖に、若草色の帯。いつも三つ編みにしている髪を結い上げ、化粧も施された。
 そのまま、わけが分からぬうちに客間へ連れて行かれる。
おおわら様が、お前の顔を見にいらっしゃるわ。粗相をしたら承知しませんよ」
「……大田原様、というのは、どなたですか?」
「お前の見合い相手よ。悪評のある娘でも構わないとおっしゃってくださったの」
「えっ……」
 今日、見合いをするとは聞いていない。
 うろたえる綴を無視して、礼子は高慢に告げた。
「もういらっしゃる頃だから、お前はおとなしく座っていなさい」
 その時、玄関のほうが騒がしくなった。女中の案内で誰かが客間へ向かってくる。
「大田原様、わざわざ当家まで足を運んでくださり、ありがとうございます」
 礼子が愛想よく客間に招き入れた男を見た途端、綴は身を硬くした。
 大田原という男は派手な柄の着物を纏っており、年の頃は五十の半ばといったところだろうか。かっぷくがよく頭は禿げ上がっていて、綴と目が合うとにんまりと笑みを浮かべた。
 黄ばんだ歯を見せる品のない笑い方と、頭のてっぺんから指先までじろじろと品定めをするようなしつけな視線に、綴の背筋に()(かん)が駆け抜ける。
 この人と見合いをするのかと戦々恐々としている間に、男は向かいに座り、お茶が運ばれてきた。
 簡単なあいさつをしてから、礼子がにこやかに綴の名と年齢を説明し、早々に席を立ってしまう。
「それでは、わたくしは席を外しますね。あとは当人同士で、ゆるりと話でも」
「待ってください、礼子様……っ」
「お前も、決して粗相のないようにね。大切なお方なのですから」
 引き留めようと立ち上がりかけた綴を睨みつけ、礼子は強く念押しすると、ぴしゃりと障子を閉めた。足音が遠ざかっていく。
 硬直していたら、大田原がおもむろに立ち上がって近づいてきた。
「やぁ、綴さん。そう緊張せずともいい。私と、しばし話をしようじゃないか」
 隣にどっしりと座った大田原は両目を細め、綴の顔立ちから身体つきまでねっとりと眺めていく。
 肌にからみつくようなまなしには覚えがあり……明彦が自分を見る目と、よく似ているのだと気づいて、全身にぞわりと鳥肌が立った。
「君のうわさは色々と耳にした。北小路家に囲われた娼妓の娘だとか、男をたらしこむ術にけているとか、皆、あることないこと口にして笑っている。もちろん、私はそんな噂は信じていなかったがね」
「っ……」
「こうして会ってみて、やはり噂には余計な尾ひれがついていたのだと分かったよ。年は二十二だったか。嫁に行くには少し遅いが、それでも若くて初々ういういしい……ああ、こんなに震えて。緊張しているのかね、()哀想(わいそう)に」
 大田原の吐き出す言葉の一つ一つがねっとりとした熱を帯びている。
「私は若い娘が好きなんだ。妻子がいるから、妾として迎えることになるが、君には別宅を用意する。そこで、私を迎えてくれたらいい」
 ──妾として? 別宅で彼を迎える?
 ぜんとしていた綴はようやく『突然の見合い』の意図に気づいた。
 見合いだというのに同席者がいないのは不自然だ。二人で話をするにしても、綴は未婚なのだから、せめて女中の一人はつけるはずだった。
 だが、妾にと望む男と二人きりにされ、こんなふうに迫られている。
 つまり、これは、まっとうな見合いではないのだ。
「君にとっても悪くない話だろう。嫁ぎ先が見つからず、実家での暮らしはさぞ居心地が悪いはずだ。なぁに、安心したまえ。うちは商家でね。ある程度の金を払うし、今後も便宜を図ろう。礼子殿も、ぜひにとおっしゃっていた」
 それでは、まるで金で買われるようなものではないか。
 ──いいえ、実際そうなんだわ。
 綴は唇をきつく嚙みしめた。おそらく礼子と大田原の間で、もう話はついている。
「……私、は……」
 あなたの妾になるのは嫌だ、と喉元まで出かかった言葉を呑みこんだ。
 穀潰し、と礼子が事あるごとに放つ言葉がよみがえった。
 東堂家との縁談を破棄され、悪評が立ってしまった妾の娘。
 綴には、もう後がない。ゆえに選択権もないのだ。
 顔をくしゃくしゃにして俯く綴を見て、大田原がにたりと笑い、太い指で彼女の(あご)をくいと持ち上げた。そのまま肥えた顔を近づけてくる。
 せっぷんされると悟り、ハッとして顔を背けたが、顎を強くつかまれた。
「おとなしくしろ。私の妾となるからには、よくよく躾けなければならんな」
 大田原のにやついた顔を見つめ、心が絶望に染まっていく。
 妾としての生活がどんなものなのか、綴はよく知っていた。
 家の者たちには疎まれて、女中からもあなどられ、たとえ子供ができても日陰者だ。
 いっそのこと手を払いのけて逃げてしまおうかと思ったが、それで礼子の機嫌を損ねたら食事を抜かれるどころではないだろう。
 せっかんされるか、着の身着のままで家を追い出されて路頭に迷うかもしれない。
 自力で生きてやるから構わないと言いきれるだけの勇気もない。
 ──ああ、私は本当に意気地なしだわ。
 四年前、征司に言い返せなかったあの日から、何も変われていなかった。
 意気地がなくて怖がりで、状況を変えるための一歩を踏み出せない。
 近づいてくる男の顔を見ながら涙がこみ上げて、綴は奥歯を嚙みしめる。
 絶望とあきらめに支配され、瞼を閉じようとした──その時だった。
 にわかに屋敷内が騒がしくなる。どすどすと廊下を歩く足音が聞こえて、あまりのあわただしさに、大田原も動きを止めた。
「いったい何ごとだ?」
 女中たちの慌てた声が聞こえ、あっちこっちで誰かの足音が聞こえる。
 ほどなくして、その足音が客間の前までやってきて、勢いよく障子が開け放たれた。
 そこに立っていたのは、長身の男。紫紺の着流しに上等な上着をはおり、けんにひどく皺を寄せて、不機嫌そうなしかつらをしている。
 その秀麗な顔立ちに、綴は嫌というほど見覚えがあった。
 四年前、綴を捨てた元許嫁、東堂征司である。
「どうして、あなたがここに……」
 綴が弱々しくつぶやくと同時に、いきなり現れた長身の男、征司が口を開いた。
「北小路綴、捜したぞ」
 低くれいろうな声で言い放つと、彼はおおまたで綴のもとまでやってくる。
 綴の顎を摑んでいた大田原の手を払いのけ、そのまま彼女の脇の下に手を入れて、子供みたいに軽々と持ち上げて立たせた。
「話がある。一緒に来てもらおうか」
「……は?」
 ほうける綴の背後で、大田原が目の前の男の正体に気づいたらしく目をく。
「まさか、貴殿は東堂家の……いや、そんなことはどうでもよい! いきなり現れて何のつもりだ! ここは見合いの席だぞ、無礼な!」
「何が見合いだ。くだらない」
 ちんにゅうしゃにいきり立つ大田原をいっしゅうし、征司は啞然とする綴の腕をとると、自分のほうへ引き寄せる。
 たたらを踏んだ彼女を抱き留めて、彼は一切のためらいなく言い放った。
「この娘は、俺の妻にする。お前のような小物は下がれ」
 客間に響き渡る、傲岸そんな宣言。
 大田原が「はぁ?」とまぬけな声を上げ、綴もどうもくして征司を見上げる。
「あなた……いったい、何を言って……」
「今、言ったとおりだ。くだらない見合いはやめて、俺のもとへ嫁に来い」
 眉間の皺を増やして見下ろしてくる征司と視線を絡めた時、また新たな男の声が響き渡った。
「征司!」
 東堂家の当主で、征司の兄、東堂崇明が足早にやってくる。北小路家に無作法にも乗りこんだ弟を追いかけてきたようだ。
 崇明の後ろには、いきどおりで顔を赤くした礼子と明彦の姿もある。
 その場が一気に騒然とし始めて、綴は何が起きているのか分からないままいったん考えるのをやめた。
 
 
 崇明が間に入ったことで、大田原は不承不承に帰っていった。
 今は客間にて礼子、明彦、崇明の三人が集まり、たびの件について話しこんでいる。
 征司とともに客間を追い出され、とぼとぼと庭園を歩いていた綴は空を仰いだ。
 昼をまたいで身支度をし、大田原と顔合わせをしたのが八つ時だったため、すでに空はあかねいろに染まり始めている。
 夕暮れの空気を胸いっぱいに吸いこむと、綴は意を決して口火を切った。
「いきなり乗りこんできて、何のつもりですか?」
 黙りこくって前を歩いている征司に問うと、彼がくるりと振り返る。
「今日、商人の大田原が見合いと称して北小路家へ向かったという話を、崇明から聞いた。君を妾にしようとしていると、少し前から噂になっていたそうだ。だから手遅れになる前に、止めに来ただけだ」
「……でも、それは、あなたに関係のないことでしょう」
「いいや、関係大ありだ」
 征司が腕組みをして、むすっとした表情で続けた。
「崇明に結婚しろと言われた。早めに結婚相手を探す必要があるが、誰にすればいいのか見当もつかなくてな。その点、君は一度、征司……俺と婚約した過去がある。それなら話も早いだろう」
 無愛想に告げられた言葉に、綴は目を丸くする。
 ──それって、つまり、私だったら手っ取り早いということ?
 四年前、あれだけ綴を傷つけておきながら、今度は『話が早いから』なんて理由で(めと)ろうというのか。
 あまりの仕打ちに腹の底からふつふつと怒りがいてきた。
 俯いてぐっと堪えようとするが、四年かけて積もりに積もったいらちが一気に爆発寸前まで膨れ上がっていく。
 これまで辛抱強く現状に耐えて、言いたい言葉も呑みこんで生きてきたが、綴とて心ある人間だ。
 我慢には限度があり、怒りの限界を越えたら爆発する。
 そして、とうとう堪えきれなくなった言葉が口をいて飛び出した。
「……いくらなんでも、ひどすぎます……先に、私を捨てたのは、あなたのほうじゃありませんか。あることないこと、悪評を広めて……」
 そのせいで、綴はどこにも嫁げなくなったのだ。
 両手をきつく握りしめ、綴は俯けていた顔を上げた。
 征司をまっすぐに見据えると、憤りに背中を押されながら声を張り上げる。
「それを、今更どの口でっ……私に嫁に来いなどと言えるのです! あなたには人の心というものが分からないのですか!」
 ずっと自分のことを意気地なしだと思っていた。
 悲しいことや理不尽なことがあっても勇気がなくて、誰にも言い返せず、状況を変えるための一歩を踏み出せない。
 だが、この時、綴は初めて感情のままに言い返した。
 なけなしのきょうで心を奮い立たせ、一歩も引かぬと両足を踏ん張り、征司と真正面からたいして──その時、妙な違和感を抱く。
 ──あれ? この人って、こんなに大きかったかしら。
 正面に立つ征司が思いのほか大きく見えて、はたと動きを止めた。
 目鼻立ちの整ったそうぼうと着流しに包まれたちょうは、昔と変わらぬはずだが、目の前に立つ彼はどことなく身体つきが(たくま)しくなった気がする。
 当時は顎を高めにして、あからさまに綴を見下してきたが、今の征司の眼差しに嘲りの色は見て取れない。
 ただ、少し眼光が鋭くなったような……それに、こんな仏頂面をしていただろうか。
「……?」
「言いたいことは、それで終わりか」
 綴の糾弾をおとなしく受け止めていた征司がむすっとした顔のまま言う。
 彼女の知る征司は軽薄な雰囲気を纏っており、真剣な話をしている時でもへらへらと笑って聞き流すことが多かった。
 綴はまばたきをして、まじまじと征司を見つめた。
 言葉にできない違和感に襲われていると、彼は綴に背を向けて、ぽつりと一言だけ返してくる。
「俺には、人の心など分からない」
 突き放すような台詞に、綴は唇をきゅっと引き結ぶ。
 征司が少し間を置いてから付け足した。
「だが、あの商人の妾になるか、俺の妻になるか。君にとって、どちらが良いのかは考えるまでもないと思うがな」
 彼はそれきり何も言わずに歩き出した。
 遠ざかっていく大きな背中が、四年前、縁談を断られたあの日と重なる。
 今ここで当時のことなんて思い出したくもなかったから、綴はかぶりを振って鮮やかな夕空を仰いだ。
 何度か深呼吸をして、顔を前に戻した時だった。
 庭園の池に沿って作られた歩道を、ゆったりと歩いている征司の足元で、不意に影が揺らいだ気がした。
 眩暈(めまい)でも起きたのかと思い、綴は瞼をこする。
 夕暮れの日を浴びて、征司の足元に長く伸びた影がまた少し揺れた。そのまま輪郭が崩れて、人の姿をしていた影が形を変えていく。
 頭には長い耳が生え、長い尾が生えて、まるで化生の者のように──。
「……⁉」
 綴は思わず出そうになった声を呑みこみ、目を見開いたまま征司の後を追いかける。
 池の縁を歩きながら、地面でゆらゆらと揺れる征司の影を目で追った。
 斜陽の光で一層、足元の影が濃くなって、その姿形を浮き彫りにしていく。
 ──あの影の形は、まさか……狐?
 脳裏を()ぎったのは、壬生冬青の一作目の著書『異界』の一文。
 【人と化生の違いは、黄昏時、影が揺らぐこと】
 今はまさに黄昏時。揺らぐ征司の影を見つめ、綴の心臓が早鐘を打ち始めた。
 【足元の影は、本性を映す姿見と同じ。さすれば、狐の窓を覗け】
 綴はおそるおそる両手を持ち上げる。幼少期に母から教えられたとおりに指を狐の形にし、右手を手前に捻った。
 重ねた両手の指を伸ばすことで、人差し指と中指の隙間にできる小さな狐の窓。
 覗いてはならないと理性が警告していたけれど、綴はやめなかった。
 征司と対峙した時に抱いた違和感の正体が、窓の向こう側にあるかもしれない。
 彼に対する怒りと、理不尽な要求への反抗心も背中を後押しする。
 どうして今更、嫁に来いなどと言ったのか。
 もしも、彼が東堂征司でないのならば、いったい何者なのか。
 それらの答えがすべて、この窓の向こうにあるのならば──。
 【窓の向こうは、化生の棲む異界。ひとたび窓の向こうと目が合えば、未来永劫、異界と繫がってしまうだろう】
 綴は大きく息を吸いこむと、指で作った狐の窓に顔を近づけた。
 小さな窓の向こうは黄昏に染まっており、そこに佇む征司の姿を覗き見る。
 その時、征司が勢いよく振り返った。窓越しに、かちりと視線が絡む。
「覗くな!」
 鋭い制止の声が上がったが、もう遅かった。
 次の瞬間、征司の姿が蜃気楼(しんきろう)のごとく揺らいで真っ白な煙に包まれる。
 その煙がふっと消えたかと思えば、そこに立っていたのは征司とは似ても似つかぬ銀髪の妖狐(ようこ)であった。
 背が高く、体格もよく、透き通るような美しい銀の髪は腰まである。
 その身に白い着流しを纏い、(まゆ)の色も銀色で、目尻(めじり)がつんと吊り上がった双眸(そうぼう)の色は人ではありえない黄金色。鼻筋は通り、薄い唇はへの字に曲がっていた。
 征司の姿をとっていた時と比べて、より精悍(せいかん)さが増した面には、苦虫を嚙み潰したような表情が浮かんでいる。
 しかし、何よりも綴の目を奪ったのは、彼の頭の両側に生えた狐の耳と、額の右側に一本だけある角だった。腰のあたりには尻尾(しっぽ)まで見えた。
 まさか本当に狐だとは思わず、綴は仰天して後ろによろめいた。
 その場で尻餅(しりもち)を突きそうになったが、すかさず妖狐の腕が伸びてきて支えられる。
「君、狐の窓を覗いたな。いつ、俺が人ではないと気づいた」
 眉根を寄せた妖狐に尋ねられ、綴はうろたえながら小声で応じた。
「……化生の者は、黄昏時に影が揺らぐと……あなたの本に、書いてあったから……」
 妖狐が切れ長の目をかっと見開く。
「俺が書いた本を読んだのか?」
「はい……」
「しかも、売れなかった一作目を」
「『異界』ですよね……面白かった、ので……」
 少しためらってから小さな声で付け足すと、彼は一瞬ぴたりと動きを止めて、黄金色の(ひとみ)(きら)めかせた。
「そうか、面白かったか。なかなかの読書家ではないか、北小路綴」
 えらそうな口調で褒められたが、綴はそれよりも彼の頭部に生えた耳や、角や、尻尾が気になって仕方なかった。
 ──彼は人ではない、ということ?
 それならば『東堂征司』でもないのではないか。
 ()きたいことが山ほどあるのに、驚きすぎて、それきり言葉がうまく出てこない。
 結局、綴はただただ目を丸くして妖狐の秀麗な面立ちや、その頭についている(とが)った耳を見つめることしかできなかった。

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第二話 最低な祝言

 再会した元許嫁(いいなずけ)、東堂征司は妖狐(ようこ)が化けた姿だった。
 摩訶(まか)不思議な出来事を()の当たりにして、綴はひどく混乱したが、その後すぐに母屋(おもや)へ呼び戻されてしまい、征司の姿に戻った彼とは話せなかった。
 結局、その日は結論が出ず、見合いがどうなったのか知らされないまま数日が経過した頃、礼子が離れにやって来て言い放った。
「東堂家と話がついたわ。お前は東堂征司のもとへ嫁ぎなさい」
 どうやら東堂家から謝罪を受け、改めて縁談の申し込みがあったようだ。
 北小路家にしてみれば、征司の不躾(ぶしつけ)なふるまいを許すことで東堂家に貸しを作ることができ、婚姻を結べば名家と縁もできる。
 ついでに綴を厄介払いできるため嫁にやるのが得策だと判断したのだろう。
 大田原の顔を(つぶ)したことも踏まえ、もしかしたら金銭のやり取りもあるのかもしれないが、詳細は明かされなかった。
 いずれにせよ綴に選択の権利などなく、早めに籍を入れたいという東堂家の意向と、さっさと綴を追い出したいという礼子の意向が()み合ったのか、翌週には(あわ)ただしく祝言(しゅうげん)を挙げることになったのである。
 
 
「……お祖母様(ばあさま)。今まで、お世話になりました。どうか、お身体(からだ)にはお気をつけて」
 祝言の朝、綴が最後の挨拶(あいさつ)をしても初枝は無反応だった。いつものように椅子(いす)に腰かけて黙々と書物を(めく)っている。
 祝言は東堂家で行なわれる手はずだが、急な式のため、近しい親族を集めて(うたげ)をするだけの小規模なものだった。北小路家から出席するのも礼子と明彦のみである。
 綴は着替えを入れた風呂敷(ふろしき)包みを抱えて、重い足取りで離れを後にした。
 庭から回って母屋の玄関へ行くと、礼子が苛々(いらいら)しながら待ち構えていた。
「お前、来るのが遅いですよ。これから身支度もしなければならないというのに、いつまでわたくしを待たせるつもりなの」
「申し訳ありません。お祖母様にも、ご挨拶をしていて……」
 皆まで言い終える前に、礼子は後ろに控えていた女中にぴしゃりと命じる。
「支度の前に、荷物を確認するわ。(いや)しい女の娘ですからね。我が家から金目のものを持ち出そうとしていないか、(あらた)めないといけないわ」
 足早に近づいてきた女中が、戸惑う綴から風呂敷包みを取り上げて、玄関の板張りの床で広げてしまう。
 思わず「あっ!」と声を上げたが、礼子に(にら)まれて続きの言葉を()みこむ。
 風呂敷の中身は、着古した着物が数着と、黒地に(まり)の模様が描かれた巾着袋(きんちゃくぶくろ)だけだ。
 巾着袋を検めた礼子がたちまち眉根(まゆね)を寄せた。
(くし)?」
「母が生前、使っていたものです。お返しください」
 早口で答えたら、礼子は露骨に顔を(しか)めて、汚いものでも触ったみたいに巾着袋を風呂敷の上に放った。
「さっさと支度を始めなさい。準備ができたら、すぐに東堂家へ移動しなくてはならないのですからね」
 綴は奥歯を()みしめながら風呂敷包みを元に戻し、見合いの日と同じ母屋の一室で白無垢(しろむく)を着せられた。
 その白無垢も急遽(きゅうきょ)用意したものなので(そで)の長さが合っておらず、着付けを行なう女中たちの手により、その場で仮縫いや(すそ)の調整をする。
「のちほど礼子様が呼びに来られるとのことです。それまで、ここでお待ちください」
 支度を終えると、女中がおざなりに言い置いて、さっさと部屋を出ていった。
 綴は静まり返った部屋に一人で残され、両手をぎゅっと握りしめる。
 ──あっという間に、今日がやって来てしまった。
 横に置かれた風呂敷に視線を落とした。東堂家からは身一つで嫁いでくれていいと言われているため持って行く荷物はそれだけだ。嫁入り道具もない。
 ──これでは、まるで追い出されるも同然ね。
 いや、実際にそうなのだろう。礼子はずっと綴の存在を煙たがっていて、北小路家から追い出したいと願っていたはずだ。
 沈鬱(ちんうつ)な心地になった時、見合いの場で相まみえた妖狐の姿が脳裏を()ぎった。
 自分を捨てた元許嫁と再会したら、(きつね)が元許嫁に化けていたなんて、それこそ読み物の中で起きそうな出来事だ。
 ──あれから、何度も夢だったんじゃないかと思った。でも、彼の正体が(あば)かれた瞬間を、私は確かにこの目で見た。
 あれは間違いなく現実に起きたことであった。
『あのね、綴。この世には不思議なことがたくさんあるのよ』
 ふと、遠い過去の記憶……狐の窓を教わった時の、母の台詞(せりふ)(よみがえ)ってくる。
 綴が子供の頃から、母は人ではないものの存在をほのめかし、会ったことがあるとも話していたのだ。
『あやかしにも人と同じように家族や友達がいて、生きているのよ。たまに乱暴者がいるけど、むやみやたらに相手を傷つけたりはしない』
 そう言い聞かされたため、綴は幼い時分から、あやかしが出てくる絵物語を好んだ。
 壬生冬青の怪奇小説に心惹(こころひ)かれたのも、母の影響が強かっただろう。
 だから実際に妖狐と遭遇して、驚き混乱したが、恐れおののくことはなかった。
 ──そうだとしても、征司さんに化けた妖狐のもとへ嫁ぐなんて、あまりにも現実味がないわ。
 綴はゆっくりと立ち上がり、庭に面した障子をそっと開けた。
 真っ先に目に入ったのは土塀に沿って立つ桜の木々だ。ここのところ気候が春めいてきて桜の(つぼみ)が花開き、庭園を淡い春色に(いろど)っていた。
 遠くのほうでは女中が廊下を行き交う音が聞こえるが、綴のいる部屋には誰も近づいてこない。庭園も静まり返っていた。
 不意に、綴の胸に不穏な考えが浮かぶ。
 ──今ここで、何もかもから逃げ出してしまおうか。
 この部屋から母屋の玄関まではすぐだ。白無垢なんて脱ぎ捨てて、北小路家の屋敷を飛び出したって誰も見咎(みとが)めないかもしれない。
 もし逃げてしまえば、これ以上、礼子の侮辱的な言動に傷つけられることはなく、征司に化けている妖狐のもとにも嫁がなくて済む。
 それで、すべて無かったことにしてしまえるのではないか。
「っ……」
 正直、心が揺らいだけれど、綴はかぶりを振って障子を閉じた。
 これまで幾度となく、ここから逃げ出すことは考えた。
 だが、逃げたところで、その後どうするのかという現実的な問題が、いつも足を縫い止める。その結果、決まって頭に思い浮かぶのが()き母の望みであった。
 綴には北小路家の娘として、よい嫁ぎ先を見つけてほしい──と。
 ──東堂征司のもとへ嫁ぐ。今の私に、きっとそれ以上の嫁ぎ先は見当たらない。
 自ら暴いてしまった妖狐の姿を思い返すと、また足が(すく)みそうになるけれど、そもそも綴を嫁にと望んだのは向こうである。
 どんな扱いを受けるのかは未知だが、さすがに頭から取って食われたりはしないはずだ。東堂家が関わっているので常識的な待遇を受けるだろう。
 ──少なくとも、隙間(すきま)(かぜ)のない寝る場所と蒲団(ふとん)はもらえるはず……まともな食事をもらえるのなら、私はそれで十分だもの。家事でも何でもするわ。
 炊事以外の家事は身体に()みついており、綴は風呂焚(ふろた)きもできるのだ。
 軽蔑(けいべつ)の目と空腹に耐え忍んだ女中以下の暮らしを思えば、衣食住の(そろ)った生活ができるだけでもありがたい。
 ──あの妖狐が何者で、本物の征司さんがどうしているのか、知りたいことはたくさんあるけど……その答えは、本人に会って()くしかない。
 不安は次から次へと()いてくるが、綴は重々しく深呼吸をして座り直した。
 しかし、いくら待っても、誰も呼びにこない。
 ここで待っていろと言われたけれど、祝言の宴は昼餉(ひるげ)を含んだものだと聞いている。
 昼餉前には移動しなくてはならないはずなのに、時間だけが刻々と過ぎていく。
 ──いくら何でも遅すぎるわ。私だけでなく礼子様と明彦さんだって、東堂家に移動しなくてはならないはずなのに……。
 あまりにも待たされるものだから、綴は(たま)りかねて部屋を出た。白無垢の裾を持ち上げて玄関へ向かうと、廊下で女中と鉢合わせをした。
「あの、すみません。礼子様はどちらに……」
「礼子様でしたら、明彦様とご一緒に、とっくに東堂家へ向かわれましたが」
 女中がよそよそしく言い放ったため心臓が鈍い音を鳴らした。
「どういうことですか? てっきり一緒に移動するのだとばかり……」
「……あなたが祝言に出席したくないと駄々を()ねて、部屋から出てこないようだと、礼子様は嘆いていらっしゃいました。それで先方を待たせるわけにはいかないと(あわ)てて先に行かれたようです」
「え……?」
 綴はそんなことを言った覚えはない。身支度を調え、いつでも出立できる準備ができていたのだ。
 うろたえて二の句を継げずにいると、女中は露骨に顔を顰めながら言った。
「礼子様は、あなたは心の準備ができていないのだろう、自分で行く気になるまで放っておけと、わたくしどもに言い残して行かれました。屋敷の外では、東堂家からの迎えの自動車が待機しておりますが……」
「っ! すぐに東堂家へ向かいます……!」
 綴は一気に青ざめると、私物の風呂敷包みを取りに戻ってから、慌てふためいて自動車に乗りこんだ。さすがに花嫁だけで向かうわけにはいかないので女中も一人ついてきてくれる。
 白無垢の裾が汚れないよう手を貸してくれた女中たちからは祝いの言葉もなく、最後の最後まで厄介者を見るような眼差(まなざ)しが肌に突き刺さるほどに痛かった。
 
 
 生きた心地がしないまま東堂家に到着し、使用人に案内されて祝言の行なわれる広間に入ると、すでに宴は始まっていた。
 崇明を含んだ東堂家の親族数名と、礼子と明彦の視線が一斉にこちらに向く。
 花婿(はなむこ)の席には羽織袴(はおりはかま)姿の征司が座っており、彼もちらりと綴を見てきた。
 当然ながら花嫁の席には誰もおらず、参列者の前に置かれた(ぜん)はほとんど空になっていて、宴も終わりかけのようだ。
 静まり返る広間に、礼子の甲高い叱責(しっせき)が響いた。
「まぁ、ようやく来たのですね。とっくに宴も終わりかけですよ。ここまで皆様をお待たせしたのですから、きちんと謝りなさいな!」
「⁉」
 どうやら礼子は女中に告げたのと同様、綴が祝言を嫌がってこの場に現れなかったのだと、東堂家の者たちにも説明していたらしい。
 崇明は心配そうな顔をしており、東堂家の親族たちの(あき)れた表情だけでなく、明彦の嫌みな表情まで視界の端に入ってきた。
 ただ、花婿の席にいる征司だけは真顔でこちらを見ていたけれど──気まずい空気に耐えきれなくなった綴はさっと面を伏せる。
 くずおれるようにして畳に(ひざ)を突いて深々と頭を下げた。
「……大変、申し訳ありませんでした」
 何に対して謝ればいいのか分からないまま、か細く震える声で謝罪をすると、すかさず崇明が口を開く。
「顔を上げてください、綴さん。我々もそう待ってはおりませんし、先に昼餉をいただいていたところですから」
「甘やかさないでくださいませ、崇明様。この娘は少々意固地で無作法なところがあるものですから、これからは遠慮なく(しか)ってくださって構いませんのよ」
 礼子はいかにも義母らしい口上で述べて、(いま)だに顔を上げることのできない綴に非難の視線を向けてきた。
「北小路家の娘として、わたくしも厳しく躾けてきたつもりなのですが、それも本人の自覚が足りなくて、お恥ずかしいことですわ」
「……まぁまぁ、礼子殿。綴さんも急な祝言で戸惑われていたのでしょう。今日は内輪だけの祝言ですし、そう厳しいことをおっしゃらず。さぁ、綴さんも座るといい」
 崇明が柔らかい口調で場を取り成してくれたので、綴は消え入りそうな声で「はい」と返事をする。
 花嫁の席へ移動する途中、扇子で表情を隠した礼子の横顔が見えたが、明彦と同じく嫌みな笑みが浮かんでいた。それを見て確信する。
 これは礼子の嫌がらせだ。わざと綴を部屋で待たせて、北小路家の女中たちや東堂家の人々に、綴のことを()(ざま)に説明したのだろう。
 祝言の儀である三三九度も行なったが、綴はあまりの気まずさで隣に座っている夫の顔を見ることすらできなかった。

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 その後、宴が再開されるも、やたらと上機嫌な礼子の笑い声を聞いていたら居たたまれなくなり、(かわや)へ行くという名目で席を立つ。
 すると、何故(なぜ)か礼子も立ち上がった。
「わたくしも一緒に行きましょう。その衣装では大変でしょうから」
 まるで娘を心配する母親のような口ぶりで言い、(うつむ)きがちに広間を出る綴の後を追いかけてきた。
 厠へ続く廊下にて、手伝いを申し出る女中を下がらせると、礼子は周りに人がいないのを確かめてから冷淡な口調で切り出す。
「花嫁が祝言の席にあれほど遅れてくるなんて、東堂家の方々はお前に好印象を抱かなかったでしょうね。北小路家にとっても恥ですよ」
「……私は部屋で待っておりました。すぐに出立できる状態で、遅れるつもりは……」
「お黙りなさい」
 綴の反論を皆まで聞かず、礼子が手に持った扇で、手のひらをぴしゃりと打った。
「お前が祝言に遅れてきたのは事実でしょう。わたくしが皆様に謝罪をし、場を(つな)いでやったのよ。ありがたく思ってほしいくらいだわ」
「っ……」
 本当は山ほど言いたいことがあったが、綴はぐっと呑みこんだ。
 ここで一を言い返したら、礼子は十にして(まく)し立ててくるということを、北小路家での暮らしで嫌というほど知っていたからだ。
「まぁでも、胸がすく思いだったわ。東堂家でのお前の生活が見物ね。花婿である東堂征司も、かつて両家の顔を潰した放蕩者(ほうとうもの)だもの。見合いに乗りこんできた時も、ずいぶん無礼だったわ」
 今日はさすがにおとなしいようだけれど、と付け足し、礼子は声量を落とす。
「嫁の(もら)い手がなかったお前とは、よくお似合いよ。あんな男のもとへ嫁いだところで、どうせ幸せになんてなれないわ」
 凍りつく綴に嘲笑(ちょうしょう)を向けると、礼子がくるりと(きびす)を返した。
「わたくしは先に広間へ戻るわ。ああ……明日からお前の顔を見なくて済むと考えたら、本当にせいせいする」
 笑い交じりに告げた礼子が廊下を戻っていく。
 遠ざかる背中を見つめながら、綴は暗い面持ちで先ほどの言葉を反芻(はんすう)した。
 『──どうせ幸せになんてなれないわ』
 幸せになれない……まるで(のろ)いめいた言葉ではないか。
 礼子は生前の母をいびり抜き、当主が病院に入ってからは、娘である綴のことも徹底的に目の敵にし続けた。正妻の礼子を差し置いて、娼妓(しょうぎ)だった綴の母が(めかけ)となったことが、よほど矜持(きょうじ)を傷つけたのだろう。
 礼子のふるまいから伝わってくるのは、ひたすらに悪意であった。
「…………」
 綴は目線を足元に向けると、のろのろとした足取りで広間へ戻る。厠へ行くと言っても、そう長く席は空けられない。
 ここで遅くなれば、また礼子が余計なことを周りに言うかもしれなかった。
 ──戻りたくないけれど、戻らなくてはならない。
 祝言は一生に一度、花嫁が主役となる場だ。
 綴とて妙齢の女性だから、それがたとえ意にそまぬ祝言であったとしても、華やかな席なのだろうと想像はしていた。
 だが、実際には華やかどころか息が詰まりそうな苦しい時間で、その後の宴も、綴は俯いて静かにやり過ごすしかなかった。
 
 
「──おい、君」
 頭上から低い声が聞こえ、できるだけ存在感を消して小さくなっていた綴ははっとして面を上げる。
 いつの間にか、隣に座っていたはずの征司が目の前に立っていた。
「崇明から、君を部屋まで案内しろと言われた。立ってくれ」
 落ち着いた低音で言われ、息をひそめて祝言が終わるのを待っていた綴はようやく広間を見回す。
 障子が開け放たれて、参列者たちが出ていくところだった。
 いつしか外は夕暮れに染まり、宴がお開きとなって、礼子と明彦も崇明と話しながら帰っていく。彼らは綴のほうを振り向きもしなかった。
 広間に征司と二人きりで残され、綴はがちがちに(こわ)ばっていた肩の力を抜く。
 しかし、征司に「立てるのか」と問われ、すぐに背筋を伸ばした。
「はい、立てます」
 即座に立とうとしたが、緊張状態で正座をし続けていたものだから、足がひどく(しび)れていて、腰を浮かせた体勢で前のめりに倒れかかる。
 転ぶ、と思って咄嗟(とっさ)に目を閉じたけれど、すかさず伸ばされた征司の腕に抱き留められた。
「まったく。だから、立てるかと訊いたんだ」
「っ……申し訳ありませ……」
 消え入りそうな声で謝る前に、身体がひょいと浮いた。
 征司が綴の(わき)の下に手を入れて持ち上げると、その場にしっかりと立たせてくれる。
「あっ……」
「歩けるのか」
「……歩けます」
 綴はこくこくと首を縦に振ってから歩き出そうとしたが、まだ足がじんじんと痺れていたため少しよろめいた。
 それもまた支えられてしまい、征司のため息が降ってくる。
「仕方ない。部屋まで運ぶぞ」
 綴が二の句を継ぐ暇もなく、今度は腰を(すく)い取られて爪先(つまさき)が畳を離れた。
「⁉」
 何ごとかと固まっている隙に、征司は右腕一本で無造作に綴を抱えると、ゆったりとした歩調で歩き出す。
 まさか抱きかかえられるとは想像もしておらず、広間を出るまで啞然(あぜん)としていた綴は我に返って、思わず声を張る。
「あのっ……すぐに下ろしてください! 自分で歩けますので……」
「歩けなかっただろう」
「それは……」
「部屋はすぐそこだ。別にたいした距離ではない」
 応じる征司の横顔は仏頂面(ぶっちょうづら)だった。綴のよく知る征司ならば、こんなふうに綴を抱えて運んでくれるなんてありえない。
 ということは……これは征司に化けた、あの妖狐ということなのだろうか。
 思い返せば、軽薄で舌の回る征司だったら、祝言の席でもぺらぺらと(しゃべ)り通しそうなのに彼は黙りこくっていた。
 ──やっぱり、征司さんではないんだわ。でも、そうなると本物の征司さんはいったいどこへ行ったというの?
 綴は緊張に身を硬くしながら質問を投げかけようとしたが、廊下の向こうから女中がやって来るのを見て、この場で訊くべきではないかと呑みこむ。
 その代わりに、口を突いて飛び出したのは謝罪の言葉だった。
「……本当に、申し訳ありませんでした」
「ん? 何に対する謝罪だ」
「祝言の席に、遅れてしまって……」
 伏し目がちに告げたら、彼は「ああ」と(つぶや)く。
「そういえば、君は遅れてきたな。しかし、祝言の儀は行なえたのだから、別に問題はないだろう」
「えっ……?」
「あの宴はひどく退屈だったからな。君が乗り気でなかったのも理解できる。遅れてくるという手があったかと、むしろ感心した」
 真剣な面持ちで言う征司をじっと見つめると、彼が眉根を寄せた。
「俺の顔に何かついているか」
「あっ、いえ……感心した、なんて、言われるとは思ってもいなかったもので……てっきり、その……呆れていらっしゃるのかと……」
「呆れる? 何故?」
 逆に不思議そうな目を向けられたので、綴は口を(つぐ)む。
「今日は、祝言の儀を行なうのが目的だろう。その目的が無事に果たされたのならば、それで十分だと思うが」
 もしかして嫌みなのかとも疑ったが、征司の怪訝(けげん)そうな表情を見る限り、たぶん本心で言っているのだろう。
 両目を丸くして彼を凝視していたら客間に到着した。
「ほら、着いたぞ」
 征司が障子を開けて、綴の身体は荷下ろしをされる運搬物みたいに、部屋の入り口ですとんと下ろされる。
 六畳ほどの室内には蒲団が敷かれて、私物の風呂敷も置かれていた。
「今日はここに泊まって休め。明日、俺の邸宅に来るといい」
「……はい」
「では、俺は帰る」
 征司──いや、征司に化けた狐としき男はさっさと踵を返す。
 祝言に遅刻して、綴は身の置き場がないほど気まずかったというのに、当の花婿である彼は拍子抜けするほどに気にしておらず、出会い頭に嫌みをぶつけてくる礼子とは違って文句の一つも言わなかった。
 そのことが不思議で仕方がなく、同時に肩の力がすとんと抜けてしまうほど、ほっとしている自分もいたから、綴は戸惑いながら「あの!」と呼び止めていた。
「ん?」
「……部屋まで連れて来てくださって、ありがとう、ございました」
 ぎこちなく礼を言うと、振り返った彼は首を(かし)げた。
「礼など不要だ。君を放って帰ったら、崇明に小言を言われるのは俺だからな」
 そう言い残して、彼の大きな背中が廊下の向こうに消えていく。
 ──どう接したらいいかと身構えていたけど、普通に会話ができたし、なんだか思ったよりも親切だったわ……あっ、でも、征司さんのことは訊けなかった。
 一瞬、追いかけるべきか迷ったが……今日はもういいかと、綴は疲れたように息を吐き出す。どうせ明日になれば、また彼に会えるのだ。
 気が抜けた途端に、身体がずしりと重くなる。
 足の痺れも残っており、ふらつく足取りで部屋に入ろうとしたら、彼の退出を見計らったみたいに東堂家の女中が現れた。
「綴様。お召し替えのお手伝いをいたします」
「あ、はい……お願いします」
 北小路家とは違って愛想のいい女中の手を借りて白無垢を脱ぎながら、綴は疲弊しきった思考に(ふた)をする。
 今日は色々あり、さんざんな祝言だった。一刻も早く花嫁衣装を脱いで休みたい。
 征司や妖狐のこと、今後の生活について考えるのは夜が明けてからでもいいだろう。

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