序章 一寸先は異世界
舞踏会の招待状は届かなかった。
三匹の子豚も近所にはいなかったし、赤い頭巾は防災用だった。
サンタクロースへ書いた手紙の行き先が外国じゃないことも知っていたし、ローブと鍋、そして蛙を用意して待っていたのに、魔法学校から入学許可証が届くことも、ついぞなかった。
夢も希望もないが、愛に満ちた平凡な人生を歩んできた片峰奈枝は本日、天涯孤独の身となった。
幼い頃に両親に先立たれた奈枝は、育ての親である祖父母も、自然の摂理として自分より先に死出の旅に出ることを知っていた。十六の時に祖父が、そして奈枝が二十歳になるのを待つようにして、祖母も亡くなった。祖母は死後、自身のたった一人の身内にあたる孫が全てを取り仕切らねばならないことを危惧していた。その祖母の教えにより、奈枝はしっかりと、彼女の死後の手続きについて把握していた。
また、幸いにして近所の者はみな奈枝に好意的だった。若い身空で一人きりになった娘を、誰も放ったりしなかった。奈枝は祖母が生前まとめてくれていた資料を手に、町内会の世話焼きおばさんが運転する車に乗って、銀行や斎場、役場へと動き回った。
喪主として奈枝が葬儀の場に立てたのは、そういった手助けがあったからこそだ。
きちんと祖母を祖父の元まで送り、ご近所の方々への挨拶も終え、一息ついた頃。両手に紙袋を抱えた奈枝は、誰もいない我が家に戻った。
夕暮れの烏の声に、ふと突き動かされそうになる。
このまま、梁で首をくくってしまおうか──そんな愚かなことが、わずか一瞬だけ、奈枝の頭によぎったのだ。それだけは、たとえ何があってもやってはいけない。苦労して育ててくれた祖父母のためにも、これから精一杯頑張っていかねばならない……。
わかっているのに、奈枝はどうしても、前向きな気分になれそうになかった。
馬鹿な考えを払拭すべく、奈枝は二階を目指した。古い家屋の階段の幅は狭く、酷く軋む。ぎしぎしと耳障りな音を立てながら、微かに埃が溜まった階段をゆっくりと上った。一人では持て余すほど広い二階。奈枝自身はあまり入ることがなかった納戸を開けると、樟脳の匂いが鼻をくすぐる。
じんわりと、涙が滲む。物心ついてから今まで、奈枝は一度だって祖母の前で泣いたことはなかった。祖父が死んだ時も、これからは私が祖母を支えていかなきゃと、気を張るばかりで。
大丈夫だからね、ばあちゃん──そう言う自分が泣いていたら説得力がないと思って、いつだって笑っていた。祖母を支えるため、自分を支えるため、奈枝は笑った。
けれど、本当はわかっていた。祖父が亡くなった時、奈枝が祖母を支える必要などなかったことを。子どもだった奈枝はまだ、祖母の膝で泣き崩れても、許されたことを。祖母のために泣かない、だなんて噓だった。泣かなかったのは……泣けなかったのは、泣いてしまえばきっと──もう立ち上がれないと、そう思ってしまうだろう弱い自分を、知っていたから。
感傷のままに、納戸に置かれた和簞笥の扉を両手で開く。この家にあるどの簞笥よりも大きな和簞笥は、祖母が輿入れする際に、曽祖母に持たせてもらったのだと言っていた。祖母はこの和簞笥を一等大切にしていた。
和簞笥の中には祖母が撮った写真の入ったアルバムや、たとう紙に包まれた着物が仕舞われていた。紐を解き、たとう紙を広げる。一昔も前のものだというのに、着物は美しいままだ。
祖父が死んでからは、洋服の方が簡単だからと着物に袖を通すことは少なくなっていたが、いつか奈枝が着るかもしれないからと言って、祖母は何着もある着物を、面倒くさがらず都度、虫干ししていた。晴れた日の軒下にはためく着物の波の中を、駆け回るのが奈枝は幼い頃から好きだった。
風にひらめく着物の陰から、祖母を「わぁ!」と、大きな声で驚かすのが──
「ばあちゃん……っ」
綺麗に折りたたまれた着物を夢中で腕に抱え、奈枝はわんわんと泣いた。平たい着物に顔を埋め、肺一杯まで樟脳の匂いを染みわたらせる。おかあさん、おとうさん、ばあちゃん、じいちゃん。
世の中の不条理さには、慣れたつもりでいた。けれども、どうしてこんなに早く……。
ようやく鼻をすする音が落ち着いた頃には、すっかり日も落ちていた。納戸には窓がない。開け放っていたドアから差し込むわずかばかりの廊下の明かりでは、心許なく感じる。
奈枝はしわくちゃになった着物をひとまず床に置き、開きっぱなしだった和簞笥を閉めようと立ち上がる。真っ暗な中では己の感覚だけが頼りだった。
観音開きの扉の中にある引き出しを閉め、違和感を覚える。この棚、これほど軽かっただろうか。
古い引き出しは、得てして開閉しにくい。開けた時の半分程度の力で閉まった引き出しを、奈枝はもう一度開いた。やはり軽い。不思議に思った奈枝が引き出しの中に手をやった。すると、あると思っていた底がなく、ガクンと体が傾く。
「え、え、え!?」
バランスを崩した奈枝は、そのまま和簞笥の引き出しの中に吸い込まれていった──
一章 度胸は剣よりも強し
腹が空いた。
セイクリッドは地に伏したまま、そう思った。
貧困街にはままあることだが、セイクリッドは、母と子二人きりで育った。母が連れ込む男は週ごとに変わったが、それでおまんまを食わせてもらっていることは、セイクリッドも幼いながらに理解していた。
「セイクリッド」などという大業な名前を持つことは、彼を酷く恥ずかしい思いにさせたが、その名を歌いながら呼ぶ母の声が好きだったので、一度もそれを伝えたことはなかった。
母の歌声を思い出せなくなって、もうどのくらい経っただろうか。たかだか六年しか生きていない小さな体でそう思う。その内に、おそらく母の声も、顔も、思い出せなくなっていくのだろう。
セイクリッドの母は死んだ。幼いセイクリッドにはわからなかったが、男を相手に仕事する女にはありふれた末路だと、看取ってくれた隣の家に住む足の悪い老婆が言った。
セイクリッドの母の死を何処で聞きつけたのかは知らないが、その十日後、およそ貧困街に相応しくない格好の男が、その身なりに相応しい馬車で現れた。セイクリッドによく似た面差しの彼は、母の連れ込んだ男が気まぐれに名乗る「父」という名称を持つ、セイクリッドの知らない男だった。
生きる術をなくしたセイクリッドは、枯れ木のように細い老婆の手で馬車に押し込められた。憎しみも戸惑いも、今一時、必死に生きたお母ちゃんのために忘れなさい。歯の抜けた老婆が杖を突きながら、そう言って幼いセイクリッドを男に託した。
しかし、セイクリッドの連れていかれた場所は、老婆が想像した楽園とはほど遠かった。「父」と名乗った男は、郊外に建てられたカントリーハウスに留まることはほとんどない。窓が沢山ある四角い建物の中には、セイクリッドを虐げることに執念を燃やす残酷な腹違いの兄と継母だけが暮らしていた。
そして今、貧困街にいた時よりも、ずっと痩せ細った体で、セイクリッドはこの広い館の庭に打ち捨てられていた。先ほどまで、セイクリッドを藁束と見做すことにした兄が、彼に非道な暴力を加えていたのだ。下賤の者が持つに相応しくない「セイクリッド」という名を嫌った兄は、彼を「セイ」と呼んだ。腐るほどの金と食べ物があるこの屋敷には、かつてセイクリッドを支え続けた「愛」だけがなかった。
大好きな歌声も、枯れ木のような手もない。白髪のように艶をなくしたセイクリッドの銀色の髪は、泥で汚れてくすんでいた。上質な葡萄のように深みのある美しい色の瞳も、今は濁り切っている。もう、一ミリだって体を動かす気になれない。このままここで、朽ち果ててしまえばいい。セイクリッドは投げやりにそう思った。もう、立ち上がる気力も、理由も、セイクリッドには残されていなかった。
この家が代々守り続けてきたという聖域──神々が宿る木の下で、聖なる加護という名を持つセイクリッドは、そんなものなどないのだと笑いながら死んでやる。そう思って瞳を閉じた。その時だった。
「わぎゃっ」
セイクリッドが、小さな悲鳴を聞いたのは。随分と間抜けな声だった。
そそっかしいメイドでも迷い込んだのだろうと気にも留めなかった。兄と奥方様の命令に逆らえない使用人たちが、セイクリッドに手を差し伸べることはない。彼を目にしたとしても、見て見ぬふりをするだろう。セイクリッドはそのまま、微塵も動かずに地に突っ伏していた。
「ったぁ、何これ……寒っ! っていうか明るい……? なんで? それにここ、どこ……ん、え。子ども!?」
予想外の声に、セイクリッドは固まった。動かないと思っていた指がピクリと動く。
「……外国人? 言葉通じるかな……僕、どうしたの? なんでこんな森に一人で……ねえ、意識ある?」
僕、と呼びかけられたのが自分だと、セイクリッドが理解するまで少しの時間を要した。まるで普通の子どもに話しかけるように接してくる人間が、まだこの世にいたことに、震えるほどの衝撃を受ける。
「森じゃ、ねえ……」
「あ、通じた。大丈夫?」
小走りで近づいてくるのが足音でわかった。聞き慣れない声の持ち主は、セイクリッドの隣に膝をついてしゃがむ。
「どこか痛い? お父さんとお母さんは? 近くにいる?」
「誰も呼ぶな」
「呼ぶなって言われても……。具合が悪いんじゃないの?」
館では顔を顰められる汚い言葉遣いにも、女は頓着しないようだった。しかし、セイクリッドの顔を覗き込んだ女はハッと息をのんだ。セイクリッドがあまりにも痩せていた上に顔中が傷だらけだったからだろう。兄は周到で、父のたまの帰宅の時にまで残るような傷は作らない。しかし、初対面の人間が言葉をなくす程度には、セイクリッドのお綺麗な顔を傷だらけにすることに余念がなかった。
「とりあえず、座れる? どこが痛いの?」
痛ましいセイクリッドの姿に、女は憐憫の光を瞳に宿らせる。見慣れぬ女は、黒い服を着ていた。上から下まで、全身真っ黒だ。驚くことに、靴も履いておらず、足は透けた黒い布で覆われているだけだった。不思議な格好をしている女は、セイクリッドの小さな体を支えようと身を乗り出した。セイクリッドは舌打ちしたい気分だった。初対面の女にこんなことを伝えるのは、幼いセイクリッドが持つ、不釣り合いなほどに高い矜持が許したくなかったのだ。
「……腹が減ってただけだ」
その言葉に、女がセイクリッドに触れようとしていた手を引っ込める。セイクリッドは、そのことに思いのほかショックを受けた。
セイクリッドの心を打ち据えたことなど露ほども知らない女は、慌てて自らの体をさすり始めた。セイクリッドは潰れた瞼を微かに持ち上げる。女は自らの尻のあたりを撫でたかと思うと、ほっと息をつき、黒い服に手を沈め、引き出す。女の手は、何かを握っていた。
「斎場で飴、貰っておいてよかった──。はい、これあげる。こんなんじゃ腹の足しにもならないだろうけど……」
そう言って女は、太陽の光にキラキラと輝く銀色の塊を差し出してきた。驚いて目を見張るセイクリッドを抱き起こして座らせると、女は銀色の塊を破いた。どうやら包み紙だったようだ。さらに驚いているセイクリッドに気づかないのか、女は包み紙の中から、オレンジ色の玉を取り出した。
あれは、宝石を包むものだったのか。屋敷に引き取られたとはいえ、高価なものに触れ慣れていないセイクリッドはそう結論付けた。貧困街ではもちろん、この屋敷の何処を見ても、あんな包み紙は見たことがなかったためだ。
透明なオレンジ色の宝石は、陽に輝いていた。女がそれを、セイクリッドの口元へ寄せる。
「ほら、食べて」
宝石を? そんな高価なものを、見ず知らずの行き倒れの少年に恵む、いき過ぎた慈愛に不信感を抱く。さらに、金に換えてパンを買うのならともかく……食えときた。セイクリッドはどれだけ空腹でも、幻想に縋って石を嚙むような真似はしない。
「大丈夫だよ、ゆっくり舐めるだけなら、傷も痛まないだろうから」
そう告げると、女はセイクリッドの口に宝石をねじ込んだ。慌てて吐き出そうとしたセイクリッドは、驚きに体の動きを止める。
甘い、そして爽やかな、芳醇な香りがセイクリッドの口に広がった。それは決して、肉に齧りついたような満足感ではない。セイクリッドの小さくなった胃でさえ、満たすことはできないほどの僅かな食べ応え。
けれど、美味しかった。
この屋敷に来てから振る舞われたどんなご馳走よりも、口の中の甘やかさは、格別だった。
屋敷で出される食事にはどれも、胃がひっくり返るほどの不快感を持った。屋敷の者の軽蔑の視線はもちろん、純粋な憐憫だって、払い除けたいほど不愉快でしかないはずだった。なのに。
大地を潤す雨のように慈悲を与えたこの人は、きっとセイクリッドの素性を知らないのだろう。
だが、そんなことはどうでもよかった。知っていても、知らなくても、彼女は迷うことなく、倒れた子どもに救いの手を差し伸べた。昔話に出てくる、聖女のように。
天上の甘露とはこのようなものなのか。信じたこともない女神を崇めたくなるような、至福の味。
「ふ……、くっ……」
突然、嗚咽をかみ殺しながら、ぽとぽとと涙を溢し始めたセイクリッドを見て、女は大層慌てた。セイクリッドの頰に張りついていた血が、涙で流れる。
「どうした、もしかして口の中も切ってたの? 痛かった?」
女がセイクリッドを支えながら、その小さな頭をそっと撫でた。セイクリッドは、意地と恥を捨て、首を横に振る。
生きる力の湧く、味だった。これほどの幸せは、もう長い間ずっと、感じたことがなかった。
──セリー、セリッド、セイクリッド。私の大事な、可愛い坊や。
あれほど思い出せなかった愛の歌が、自然と思い浮かぶ。とろけるような愛に満ちた母の笑みも。
「よしよし。痛いの痛いの、飛んでいけー」
女がセイクリッドの背を撫でながら、呪文を唱える。セイクリッドのささくれていた心に溶け込むように染みた。
こんなにも簡単に、愛に手は届いたのだ。人に背を向け、好意を受け取らなかったのは、自分だった。憐れみなんていらないと、馬鹿みたいな自尊心だけが大きくて。受け取ってしまえば、自分の中の母親が少しずつ切り刻まれるような気がして──なのに、人の好意を受け取った時、頭に思い浮かんだのは優しい母の笑みと歌声だった。母は何も、禁じてなどいなかったのに。向き合うことから逃げていたのは自分だと、セイクリッドは初めて気づいた。
「うめえ……」
絞り出した声は、涙に濡れていた。その声を聞いた女が、ほっと力を抜いたのをセイクリッドは感じた。女はセイクリッドの頭を何度か撫でると、セイクリッドを木に寄りかからせた。薄目で見た女は、なぜかセイクリッドと同じほど目を腫らしていたことに気づく。
「よし、お姉ちゃんが食べ物持ってきたげる。ここで、いい子に待ってて」
行かないでほしい、もう少し傍で頭を撫でていてほしい。そう伝えるには、セイクリッドはやはり気位が高過ぎた。意地で弱音を飲み込んだセイクリッドは、小さくこくんと頷く。
「人にはばれないほうがいいのね?」
もう一度、こくんと頷く。
「わかった。じゃあ、こっそり来るから。ちょっと待っててね」
そう言って女は、神聖な大木の方へと走って行った。
そしてその後──セイクリッドがどれだけ待っても、女が戻ってくることはなかった。
「いたたた……お! やっぱり、戻れた!」
奈枝は真っ暗な納戸で歓声を上げた。和簞笥の引き出しに落ちてから、奈枝はここではないどこかに迷い込んでいた。なぜか見知らぬ土地に聳える大木の幹から、転がり落ちていたのだ。自宅から一変。見も知らぬ場所に、奈枝はしばし呆然とした。しかし、そこで自暴自棄になることも、混乱に陥ることも奈枝には許されなかった。奈枝の目の前に、救いを求める子どもがいたからだ。
奈枝は掛け値なしに、周りの大人に支えられて生きてきた。祖父母に、教師に、地域の大人たち。彼らが、奈枝を温かく見守り続けてくれていたからこそ、奈枝はこんな時であっても、まだ健全な心を持ち続けられている。
そんな奈枝の前に、事情はわからないながらも、小さな子どもが痩せ細り、傷だらけで倒れていたのだ。自分の事情などほっぽって、助けたくもなるというものだ。
痩せ細った五、六歳の子どもが一人地に伏せて、腹が空いたと言っている。奈枝の価値観では、あまりにも悲愴な状況だ。
飴一つ渡して終わりにはできなかった奈枝は、とりあえず彼の意向に沿い、人に見つからないように隠れながらやってきた道を辿った。最初の場所まで戻ると、大木の幹から二股に割れた枝が内側に交差し、ぽっかりとした空洞を作り上げていた。このトンネルのような隙間のおかげで、自宅からやって来られたのだろう。そう推測した奈枝は、ストッキングが破けるのもいとわずに木を登り、えいやっと向こう側に飛び込んだ。見事考えが的中し、見知らぬ森のような場所から、見慣れた納戸へと戻って来ることができた。
自然の香りに溢れていた先ほどの場所とは違い、ここにはまだ哀愁の匂いが満ちていた。悲嘆の残響に雁字搦めにされる前に、奈枝は台所へと逃げ込む。
冷蔵庫を開けても、ここ数日バタバタしていたせいで、まともなものがない。冷凍ご飯をチンして、手作りおかかを混ぜたおにぎり。子どもも好きな、甘い卵焼き。さらにレンジをフル活用して、野菜たっぷりのポテトサラダも作った。全て、顔を怪我しているあの子でも、あまり嚙まずに嚥下できるものばかり。
おぼんいっぱいに食べ物を載せ、玄関に向かう。たたきからスニーカーを取ると、階段を駆け上った。納戸を開け、引き出しに手を入れてみる。もくろみ通り底に触れることはない。
おぼんを持って、奈枝はしばらく考えた。うん、無理だなと、一度おぼんを床に置く。もう一度台所まで走った奈枝は、うんしょとダイニングチェアを一つ持って上がった。破れていたストッキングを脱ぎ、用意していた靴を履く。おぼんを持ったまま椅子にのぼった奈枝は、威勢よく足を振り上げる。
「いっせーっの!」
そして奈枝は、思い切って引き出しの中に足を突っ込んだ。
「……ははは、来れた。これってやっぱり、異世界とかっていうやつなの……?」
狙った通りに先ほどと同じ森の中に辿り着いた奈枝は、今度は転げ落ちないように気をつけて、幹から滑り降りた。がちゃん、とおぼんの上の食器が鳴る。おっとっと。体勢を整えて、奈枝は、今度は靴を履いた足で森の中を歩いた。まだあの子はいるだろうか。少しばかり時間がかかったせいで、気持ちが焦る。
ほどなくして先ほど男の子がいた場所までたどり着いた奈枝は──木に隠れた。そこに違う子どもがいたからだ。
木の幹から顔だけをこっそりと出す。視線の先には、小学生ぐらいの男の子が座っていた。遠目だが、よく見るとあの子と髪の色がよく似ている。もしかして兄弟だろうか。だとすれば、あの子は助かったのかもしれない。人を呼ばれたくないと言っていたあの子が、兄に救われたのだと思い、奈枝はほっと息を吐いた。その振動で、おぼんが揺れる。微かにたった食器がぶつかり合う音を聞きつけた男の子が、こちらを見た。
「何者だ」
年の頃に似合わない、鋭い声が飛んできた。奈枝は幹から出していた頭を隠す。
「どうやってここまで入って来た。兄の手の者か」
声の狭間に、チャキと金属音がする。祖母に付き合ってよく見ていた時代劇で、剣を鞘から抜く時の音によく似ていた。慌ててそちらを見ると、銀色の髪を風になびかせながら、少年が剣を手にこちらに歩いてきている。手に握られた太く長い剣が、太陽を反射させギラリと光っている。
あれ、私。もしかして殺されそう?
子どもとは思えない気迫とその音にたじろぎ、奈枝はおぼんを地面に置く。自由になった両手を上げて、慎重に姿を現した。
「待って。お願い、怪しいのは重々承知なんだけど──」
「──聖女……?」
少年は、その小さな体から迸らせていた殺気を収め、ぽかんと奈枝を見上げた。紫色の、葡萄のような瞳が、瞬きする瞼の内側で輝く。少年の驚きようと、聞こえた単語に困惑した奈枝は、戸惑いながら少年を見つめた。少年は奈枝の様子に正気を取り戻すと、三角に目を吊り上げた。
「遅い!」
少年の気迫に、奈枝は仰け反った。
「待てというから、待っていたのに! 一体いつまで待たせる気だったのだ! 無責任だとは思わないのか!」
奈枝はまじまじと少年を見つめた。
「……もしかして、さっき、飴をあげた子かな?」
「それ以外に、何に見える!」
憤怒する少年を上から下まで見つめ、奈枝は頰をひきつらせた。
「うっそだー」
「何が噓なものか」
だって、身長も、顔立ちも、立ち振る舞いも、しゃべり方も違う。
「あの時の子は、もっと小さくて……」
そして何より、体つきが全く違った。さっきは皮と骨だけだった少年の体には、きちんと肉がついている。奈枝の戸惑いを含んだ言葉で、何かを察したように少年は押し黙った。しばらく考え込むような空白の後、奈枝の隣に置かれているおぼんに気づいた。
「……それは何だ」
「あ、食べ物。君がお腹空いてたから……作ってたの」
もう必要ないかな。子どもの癇癪と思い笑って流す奈枝に、少年は言葉を詰まらせた。
「……私が食してもいいのか」
年に似合わないしゃべり方がいじらしく、こぼれそうな笑みを抑えて、奈枝はおぼんを手に取り、どうぞと差し出した。物珍しそうにおぼんの上を眺めた少年は、「ありがたくいただく」と、やはり年に似合わない感謝の言葉を述べてから、音もたてずに静かに食事を摂り始めた。
彼の容姿から箸を使い慣れていないことを見越して、奈枝はナイフとフォークも持ってきていた。物珍しそうに箸をしげしげと見た後、少年は迷うことなくフォークを手にした。
やはりここは、奈枝の住む世界とは異なる世界──異世界なのだろうか。
異なる世界なのに会話が成立していることに違和感はあるが、奈枝にできることがあるとすれば、それを受け入れることくらいだろう。
目の前の少年はナイフを器用に扱って、卵焼きをカットしている。前に見た時から、見た目の印象も、中身の印象も、随分と変わったなと奈枝は思った。
おにぎりまでナイフとフォークでお行儀よく食べた少年は、用意してきたご飯を綺麗に食べきってしまった。
「馳走になった。食べつけぬ味ではあったが、美味かった」
「子どもがそんな気を遣わなくってもいいの」
空になった皿を見て奈枝は笑った。
「もうご飯、食べさせてもらえてる?」
少年が息を呑む。悪事がばれたかのように決まりの悪い顔をして、言葉を探す。
「……少し、私の身の上を語ってもいいだろうか」
不安げにちらりと見上げてきた少年に、奈枝は皿を重ねておぼんの上をさっと拭きながら頷いた。
「私の名は、セイクリッドという。故あって、このレーンクヴィスト領を治める、ルベルジュ家の屋敷の主に助けられた」
セイクリッドと名乗った少年が指さしたほうを見やると、大きな洋館があった。奈枝は内心めちゃくちゃに驚きながらも頷く。なるほど、小さかった頃の彼が言ったように、ここは森ではないのだろう。とすれば、庭か? これが? 自分の想像はあながち間違っていないだろうという事実に、奈枝は頭がくらくらしそうだった。
「しかし、私は心のどこかで、私の大事な者を粗末に扱ったこの屋敷の主に、反感を持っていた。与えられる施しに──嫌悪感すら抱いていた。その態度が、私を心身共に腐らせていたのだろう」
責任も義務も生じないほど小さな男の子が。そんなことを考えなくてもいいような、幼さで。
今だって、まだ小学生くらいに見える少年が「心身共に腐らせて」などという言葉を使った事実に、奈枝は途方もない悲しみを感じた。だがその真剣な声色は、奈枝が言葉を挟む隙を許さない。
「──貴女に出会ってから、四年が経った」
奈枝は、ぽかんと口を開いた。そんなに速く時が進むなんて、あまりにも荒唐無稽過ぎる。奈枝にとっては、ついさっきと言っても差し支えのない時間である。米を握り、卵を巻いて、ジャガイモをレンジで蒸して……。それがセイクリッドにとって、四年とは──。しかし、心のどこかで彼の言葉を信じてもいた。目の前の少年が、以前出会った男の子だと、奈枝はもう確信していたのだ。
「あの日から、不貞腐れるのを止めた。何も守れぬ矜持を捨てた。私はもう、腹を空かせて泣いているだけの、子どもではない」
強い瞳で睨みつけられて、奈枝は戸惑った。自分の抱えた憐憫を見抜かれたような、そんな気分にさせられた。
「ええっと、よく頑張った、ね……?」
多少まごつきながらではあるがそう告げれば、セイクリッドは厳しい顔つきのままだが頷いた。どうやら、及第点だったらしい。厳めしい顔を、捩ったり伸ばしたりした後、小さな王様のような少年は、勇気を振り絞るように言った。
「……ありがとう」
奈枝は、心の隅にぽっと灯がともったように感じた。これからの人生という真っ暗闇を、灯りのない船で漕ぎ進もうとしていた奈枝にとって──それは小さいけれど、灯台に匹敵するほどの灯りだった。
「……えっと、セイ君って呼んでもいいかな」
「それが貴女の流儀ならかまわない」
流儀。どこの格闘場だ。という突っ込みを奈枝は飲み込んだ。
「君と仲良くなりたいなと思って」
憮然とした顔をしていた少年が驚いたように顔を上げた。そして、小さく頷く。
「……かまわない」
「ありがと、セイ君」
目を合わせて名前を呼ぶと、セイクリッドはたじろいだように視線を逸らす。奈枝は顔を潜り込ませて再び視線を合わせると、ずっと抱えていた疑問をぶつけた。
「ね、セイ君。……ここって、魔法とか使える世界なの?」
ここが異世界だったとしても、なぜ自分がこの世界に来られたのか──不思議だった奈枝は小さな子どもに答えを求める。
「魔の法……遥か昔、古の時代に行使する者もいたという。その残骸が残っていることは稀にあるが……現在の世に使える者はいないだろう」
「残骸……」
では、あの木も、その遥か昔にかけられた魔法のせいで、奈枝の住む世界と通じているのだろうか。
奈枝が悩んでいると、セイクリッドの足元に数羽の烏が舞い降りてきた。奈枝は慌てつつも、セイクリッドを庇おうと身を乗り出す。
「大事ない。ここは彼らの庭。好きにさせておくといい」
セイクリッドの言葉に「そうだそうだ!」とでも言うように、烏たちは数度鳴くと、飛び立っていった。その様を、あんぐりと口を開けて見つめる。
「……これも異世界だから……?」
どちらにしろ、魔法があったなんて大っぴらに認められているとは、なんともファンタジーである。
頭を捻る奈枝は、じっとこちらを見上げてくるセイクリッドに気づいて、腰を下ろす。
「……ねえ、私また来てもいい?」
奈枝の提案に、セイクリッドはパッと顔を輝かせた。しかし、また難しい顔をしてそっぽを向く。その頰が引き攣っている様を見て、奈枝はこの少年の天邪鬼な気質を知る。
「現世に降り立った聖女には、時を忘れ遊び呆け、常世を追放された者もいるという。貴女はそうは、ならぬように」
「ま。聖女だなんて。大人のおだて方を知ってる子ね」
けらけらと笑う。この面妖でいて穏やかな時間はきっと、祖母からの最後のプレゼントだと、奈枝は思った。
それから、ひと月が経った。また、すぐにでもあのお伽噺のような世界に行きたい気持ちはあったが、四十九日を迎える前の家をそう何度も留守にすることはできない。時の流れる速さが違うため、次に会う時にはあの男の子──セイクリッドはおじいちゃんになっているかもしれないね、と手を合わせて祖母に話しかける。
写真立ての中の祖母は、笑顔で奈枝の話を聞いている。真っ白な美しい髪を綺麗に纏め上げ、チャーミングな二つのほくろを口元に添えた彼女は、いつだって奈枝に優しさと愛と笑顔をくれた。それは、今だって変わらない。毎日毎日飽きずに話しかける奈枝を、祖母は微笑んで見守っていた。
毎日のように客が弔問に訪れていた家も、日が経つに連れゆるやかに落ち着きを見せる。七日ごとの法要にも慣れてきて、馴染みの住職とほんの少し他愛のない会話をする余裕も生まれた。
「仏様はいつだって、生きている人の味方です。毎日美味しいお香を焚いてやってくださいね。あとは、奈枝さんが笑っているのが、一番のご馳走ですよ」
四十九日が過ぎるまで、奈枝はできるだけ祖母の傍にいてやりたかった。それが、奈枝にできる最後の祖母孝行だからだ。
いただいた香典や遺品の整理もあらかた片付くと、奈枝も少しずつ日常に戻る努力をし始めた。四十九日を終えた後に、しばらく休んでいた大学に通うための準備だった。
大学を退学し、職に就くことも考えた。しかし、憂い顔で思考する奈枝の頭の中など、すぐに近所中に察せられてしまった。おばさんたちがタッパーにおかずを詰め、手に手に止めにやって来た。
──孫が冬馬さんと同じ大学に入った、って。黒江さんがどれだけ喜んでたことか。
祖父と祖母の名を出され、そう言われてしまえば、奈枝は再び袖を涙で濡らすしかない。
「女なんだし、学校なんかやめて早く嫁に行きゃあいい」と男衆は悩める奈枝を笑い飛ばした。それを怒鳴りつける女性陣にたじろぎながらも、彼らは引っ切りなしに見合い話を持って来た。都会に出た息子や孫の自慢から始まり、「俺があと何十年若けりゃあなぁ」で大体締めくくられる話を、奈枝はお茶を出しながら全て聞いてやった。本気か冗談かは奈枝には判断できなかったが、縁側で繰り広げられるじじばば会議に、心を支えられていたのは確かだった。
その間にも、何度も何度も、あの不思議な場所と天邪鬼な少年を思い出した。子どもの頃に憧れた物語のような非日常は、奈枝の心に輝きを取り戻させた。
映画化もされた、ワードローブの中を突っ切って不思議な世界に行く物語があったはずだと、無料期間だけ加入していた映画見放題サービスで検索してみた。映画はすぐに見つかった。美しい自然と、可憐な動物、そして勇敢な子どもたち。激しい戦争が繰り広げられるシーンなど、小さな携帯電話の画面でさえ大迫力だ。奈枝は不思議な気持ちでその映画を見た。
眠る時は、小さな壺の中で眠る祖母の隣に布団を敷いて横になる。慣れない一人寝の夜は、今にも闇の足音が聞こえてきそうで、碌に眠れやしない。
炊事、洗濯、雑事。元々祖母の手伝いをしていたと言っても、全て「手伝い」だった奈枝は慣れるところから始めなければいけなかった。わからないことを、わからない時に聞ける相手がいない。幾度も手が止まり、その隙間を孤独が齧りついた。
「次は、飴も持ってきたげる」そう言うと顔の強張りを解いた少年との思い出で、空洞を埋めた。
──そして、気づけば四十九日。
雲一つない晴れ空の下で、法要は滞りなく行われた。読経が終わると、通い慣れた道を通って墓へ行く。墓参りの作法は、教えられずともわかっていた。幼い頃に両親が逝って以来、墓参りは奈枝にとって身近な習慣だったからだ。祖母の納骨を済ませ、住職と共に手を合わせる。お線香の煙が目に染みて、奈枝は瞼を開けられなかった。
借りていた棚や提灯を返却すると、ポツンと仏壇だけが残った。何もない部屋を見渡すと、指の先からじわじわと寂しさが広がり、胸まで食べられそうになる。
その感傷を振り切るための四十九日だったではないか。
奈枝は笑った。無理やりに、口角を上げる。笑っていなければ、笑えなくなる。
コンビニで飴を買う。もう売り始めているのかと、入り口付近に並べられていた打ち上げ花火セットも購入した。セイクリッドが万が一おじいちゃんになってしまっていても、きっと楽しめるだろうと思って。
小学生高学年の時、学校行事のために買ってもらったリュックサック。大きなショッピングモールにしか流行りのリュックが売ってなくて、祖父に我儘を言って連れて行ってもらったことを思い出す。こんな、何でもない品一つに、幾つもの、幾つもの、溢れんばかりの思い出が詰まっていた。
畳の上にリュックサックを広げた奈枝は、次々とものを詰め込んでいく。子どもが興味を持ちそうなお菓子、おじいちゃんでも喜びそうな四季折々の写真集。先ほど買った花火と着火ライター、そして約束していた飴を入れてチャックを閉めた。
二階の納戸で、スニーカーの靴ひもをしっかりと結ぶ。また転げ落ちてしまっても、すぐに立ち上がれるように。はやる胸を押さえて、奈枝は重いリュックを背負った。納戸に置きっぱなしのダイニングチェアに足をかける。台所に、もう三つも椅子を置いておく理由はなくなった。
その悲しみに浸らない強さをくれた少年に会うため、奈枝は引き出しの中に飛び込んだ。
転がり出た場所は、いつものあの木の下だった。リュックがクッションになってくれたおかげで痛みを感じずにすんだ奈枝は、ひっそりとした庭にほんの少したじろぐ。真っ暗闇に覆われていたのだ。
「夜かぁ……こういうこともあるのね」
しかも、中々に蒸し暑い。何も考えていなかったが、半袖で来てよかったと心から思っていた奈枝は、動きを止める。
「──だろうがっ!! もっぺん言ってみろ! ああん!?」
茂みの奥から、押し殺すような怒鳴り声が聞こえたのだ。足音を立てないように気をつけつつ、奈枝は傍に近づいていく。足を進めるうちに、不安は確信へと変わっていった。暗いせいで、人の姿は見えないものの、話し声は聞こえる。
「残念だったな、と言ったんだ。私を殺したところで、次はお前たちが口封じに始末されるだけ」
「このクソガキ! 今ここで殺ったっていいんだぞ!」
「おい待て!」
男たちの怒鳴り声に、心臓が痛いほどに鳴り始める。金属が擦れ合う音と、大きな打撃音が茂みの奥から聞こえてきた。迷っている暇はない。奈枝は音が立たないように気をつけながら、リュックを降ろした。恐怖と緊張から指先が震え、チャックを開けられない。
しっかりしろ、と心の中で強く叱責する。持って来たものを取り出し、慎重に地面に並べると、リュックの中で携帯を操作する。その間もずっと、茂みの奥からは男たちの怒り声が聞こえる。激しく打つ心臓が、奈枝の動きを邪魔した。携帯の画面を、何度も指が滑る。うまく動かなくて焦れば焦るほど、ミスが増えた。
だめだ、冷静に、慎重になれ。奈枝は自分に、何度もそう言い聞かせる。
携帯の準備を終えると、着火ライターを探し、地面に並べていた打ち上げ花火に火をつけていく。導火線を火が辿って行く間に、奈枝は動画の再生ボタンを押した。音量を最大にさせた画面からは、角笛の音と、幾頭もの馬の嘶き、そして兵隊たちの鬨の声が聞こえる。ワードローブから異世界へと旅立つ映画の、戦闘シーンを大音量で流したのだ。
ライトを付けた携帯を茂みの奥に向けたタイミングで、打ち上げ花火がパンパンと空に打ちあがった。耳をつんざく破裂音と、大量の火花が散る。
「な、なんだ! この音と光は!」
「くそっ、煙まで!」
「見つかった! おい、逃げるぞ!」
「このガキは!?」
「金より命だろ!」
男たちは大きな音と光に驚き、飛び上がって逃げて行った。携帯の明かりが照らすその後姿は滑稽にも映る。
「セイ君!」
声は完全に上擦っていた。もつれる足で必死に駆け寄る。男たちに捕えられていた「クソガキ」がセイクリッドだと、奈枝はその声で気づいていた。携帯を放り投げ、セイクリッドのそばまで駆け寄った奈枝は悲鳴を飲み込む。縄で縛られたセイクリッドは、体中に傷を負っていた。
「……また、情けない姿を見せてしまったようだ」
目を丸くしていたセイクリッドは、奈枝を見上げると眉をひそめてそう笑う。奈枝は、飛びつくようにして少年に抱きついた。
「よかった、セイ君。よく生きてた、よく、生きた!」
そう言って腕の力を強める奈枝の胸に、セイクリッドは細く長い、息を吐く。
「若! ご無事ですか!」
野太い声を聞き、奈枝はセイクリッドを抱きしめたまま飛び上がった。バサバサッと、暗闇の中に鳥の羽音が聞こえる。彼を守ろうと、奈枝はさらに強く抱きしめる。そんな彼女を安堵させるため、セイクリッドは動かぬ身を捩って奈枝に囁く。
「大丈夫、同胞だ」
異変に気づいた屋敷の人たちなのだろう。安堵する奈枝の腕の中でセイクリッドが叫ぶ。
「ユージン! 私はここにいる!」
叫ぶセイクリッドの元に数人の男たちが駆けつける。ビュンビュンと音を立て、まるで高い木から飛び降りたかのように、その場に突然現れた。松明に照らされた彼らを、奈枝は見上げた。男たちは、傷だらけのセイクリッドを拘束する見たこともない女に、警戒を強める。
「私は大事ない。皆、剣を収めろ! ──決してこのお方を傷つけてはならぬ」
厳しい声でセイクリッドが彼らに命令する。セイクリッドの言葉にたじろいだ男たちのそばから、一人の少年が顔を出した。
「隊長! こっちに、まだ温かい火薬が!」
「あ、君、触っちゃ駄目よ! 火傷するから!」
子どもの姿に驚き、お節介にもそう叫んだ奈枝に、少年は目を見開く。まるで「一たす一は二だよ」と、わかりきったことを改めて教えられたような顔だった。
「……どうやら、事情を聞く必要がありそうですな」
奈枝の行動で態度を和らげた「隊長」が、剣を収めながらそう言う。簡単な状況説明と、縄が解かれたセイクリッドの取りなしにより、奈枝の潔白は証明された。「すぐに追っ手を向けましょう」と言った隊長の言葉通り、その場から三人の男性が忽然と消える。
残ったのは隊長と、少年のみだ。先ほどまで体を強張らせていたセイクリッドが表情を緩めているため、奈枝もほっと息をつく。安心したのには、他の理由もあった。後を追った者たちも含め、彼らは皆一様に、寝間着姿だったのだ。それは、殺伐とした出来事のあとの森の中とは、あまりにも対照的な風貌だった。
「お嬢さんには、大変怖い思いをさせたようで。勇気に深く感謝します」
「いえ、私は……当然のことしか……」
奈枝にとってセイクリッドは、遠く離れた場所に住んでいる──まるで庇護すべき「弟」のような存在だった。ファーストコンタクトで、あまりにも明確な立場を築き上げてしまったからかもしれない。持ちうる限り最善の手段で家族を救うのは、当然のことだ。
奈枝はもう、誰一人として、家族を失いたくなかった。
「──さて、若のやんちゃはいつものことと見逃しておりましたが……今回のようなことがあった以上、もう目こぼしはできませんよ。夜間の外出は、控えてくださりますよう」
「わかっている」
深い溜息を吐くセイクリッドは、心配げに見つめていた奈枝に気づいたのか、眉を下げて小さく笑った。
「また貴女に助けられた。感謝してもしきれない」
「……子どもがそんな気、回さないの」
同じように苦笑して、奈枝はセイクリッドをもう一度抱きしめる。セイクリッドは、おじいちゃんになっていなかった。前回が幼児から小学生なら、今回は小学生から中学生と言ったところだろう。彼の印象的な銀色の髪は、深い闇の中では輝かないが、前に会った時よりも随分短くなっているようだった。
時間経過はあまり関係なく、訪れる時はランダムに決まるのだろうか。だとすれば、もう少しこの子の成長を見守れるかもしれない。できるならば、見守りたい──ううん、絶対に見守るのだ。奈枝は、自分よりほんの少し小さい程度のセイクリッドの体を、無意識にぎゅうぎゅうと抱きしめる。
「おい、ちょっと、もういいだろう!」
「あ、ごめん。考えごとしてた」
ほっとしたからか、気の抜けたようになっている奈枝を、セイクリッドはきつい目で見つめる。
「貴女はもう帰ったほうがいい」
「えっ、せっかく来たのに」
いっぱい持って来たよ、ほら、写真集とかお菓子。そう言ってリュックに戻り、中から品物を取り出す奈枝に、隊長が不審の目を向ける。
「彼女の素性を詮索するのは、私の名をもって、固く禁ずる」
セイクリッドの制止に、隊長は恭しく頭を下げた。驚いた奈枝は、慌ててセイクリッドを見やる。
「別にかまわないのに」
簡単に答えた奈枝に、セイクリッドは顔を顰める。
「……未だ私に、御名すら許さぬではないか」
「え? ミナ?」
意味の通じなかった奈枝を、セイクリッドが睨み上げた。口を真一文字に引き結び、眉を吊り上げている。どうしようと焦る奈枝に、隊長が愉快そうな口調で助け舟を出す。
「若は、名を知りたいと拗ねておいでだ」
「名、名ね! 名前ね! そっか、まだ伝えてなかったっけ。私は、か──」
「待て!」
セイクリッドは蒼白になって奈枝の手を引くと、まめだらけの手で口を塞いだ。
「今はよい」
隊長と少年を横目で気にしたセイクリッドの手を外して、奈枝が言う。
「私、本当に平気だよ。隊長さんたち、名前隠さなきゃいけないような人には見えないし。私に犯罪歴とかもないし……」
「貴女がよくとも、私が気にする!」
肩を怒らせたセイクリッドに、奈枝は目を丸くして頷いた。そっぽを向き、こちらを見ようともしなくなったセイクリッドをどう扱ってよいかわからず、ポンポンと背を叩く。不機嫌そうに眉をひそめたものの、手を払いのけられはしなかった。それを良いことに、セイクリッドの背中を撫で続けた。
「私はやはり、もう帰ったほうがいいんでしょうか?」
願わくばもう少しだけ彼の安全を見届けたいのだと、奈枝は瞳に力を込めて隊長を見上げた。その名称から、彼に尋ねるのが最適だろうと奈枝は踏んだ。大人の決定に委ねた奈枝に、隊長は苦笑を向ける。
「こちらとしてはぜひ、諸々の事情をお伺いするため残っていただきたいところですが──若に睨まれておりましてね。レディにこれ以上、夜のお付き合いを申し込むわけにはいかないようです」
背中を撫でる手を止めて、奈枝はセイクリッドを覗き込む。セイクリッドは、いつものように口をへの字に曲げていた。
「やっぱ駄目?」
「駄目だ」
梃子でも動きそうにないセイクリッドに白旗を上げたのは、奈枝だった。
「若、ってセイ君よね。偉い子だったの? お姉ちゃん知らなかった」
「セイ君」と呼んだ奈枝に対して、隊長が片方の眉を上げる。「セイ」とは、「聖なる守護という意味を持つ名は下賤の者には相応しくない」と、彼の腹違いの兄が蔑むために用いた呼び名だったからだ。セイクリッドがその名を嫌い、誰にも呼ばせていないことを、かつてお目付役だった隊長はよく知っていた。だというのに、その呼び方を許されている奈枝に驚き、また面白がってもいた。
隊長の様子が気に入らなかったのか、セイクリッドは強く舌打ちをして隊長と奈枝の隙間に身を差し込む。
「偉いのは私ではない。父だ。『若』と呼ぶなと言っているのに……子ども扱いをすることで自らを大人たらしめんとする者というのは、いつの世もいるものだ」
「私も早く、『若』を卒業してほしいと願っているのですがね」
しれっと答えた隊長の言葉に、奈枝は笑った。
「そう」
もう彼が、ひもじい思いをしてこの場所に伏せることはないだろう。彼のために、寝間着のまま駆けつける者たちがいて、未熟さを見守ってくれている者がいる。奈枝は安心して頷いた。
帰る準備のため、奈枝が花火を回収しようとすると、隊長に止められた。
「まだ熱を持っています。布にくるむのは危険かと」
「……そうですね。あの、こんなことを頼むのはとても心苦しいんですけど……このゴミ、捨てておいてもらえます?」
使用済みの花火をゴミと言い切った奈枝にいくらか動揺した隊長は、しかししっかりと頷いた。
「ご提供、感謝致します。我々で適切に処理しておくのでご安心ください」
奈枝はほっと息を吐く。どうぞよろしくお願いします、と深々と頭を下げる彼女に、明るい少年の声が届く。
「これ! 見つけて来ました!」
「わざわざありがとう……助かりました。──よかった、壊れてない」
セイクリッドと同じ年頃の少年が、先ほど奈枝が放り投げた携帯電話を探して持って来てくれた。画面を触り、無事なことを確認した奈枝は、ほんの悪戯心を出す。
素知らぬ顔で、再生ボタンを押す。途端に大音量の馬の嘶きや怒声が鳴り響き、男たちは強く警戒した。すぐに停止ボタンを押した奈枝は、けらけらと笑う。
「ふふ。セイ君を、どうぞよろしくお願いします」
目を白黒させている隊長たちに頭を下げると、奈枝は木に歩み寄る。すぐ傍をついてきたセイクリッドを振り返り、そうだとリュックに手を突っ込んだ。
「はい。約束の飴。皆さんと分けてね」
セイクリッドの分は封を開けて口に突っ込む。「また来るね」と告げた奈枝に、セイクリッドは自分から帰れと言ったくせに、くしゃりと顔を歪めた。つんと引っ張られて、奈枝は足を止める。服の裾を、頰を飴で膨らませたセイクリッドが握っていたのだ。
「なあに」
大人の余裕でそう尋ねると、セイクリッドは目線を落とす。
「……また当分来ないのだろう」
天邪鬼なセイクリッドの可愛いお強請りに、奈枝は満面の笑みを浮かべた。
「また、すぐ来るからね。それまで隊長さんの言うことをよく聞いて、沢山笑って、お友達と仲良くしてて」
ぎゅっと、セイクリッドの体を一度抱きしめて離すと、スニーカーを木にひっかける。よいしょ。自らの重い尻を持ち上げ、二股にわかれた枝の底にしゃがむ。奈枝はそのまま首だけを捻り、セイクリッドに手を振ると、ぴょんと向こう側に飛び込んだ。
そして、奈枝は暗闇に溶けた。
