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第二章
「菅さんからけんかを売られた」──「令和おじさん」への逆風

「何で一番じゃないんだよ」

「安倍1強」と呼ばれた政治状況は、決して安倍一人の力によるものではない。菅は12年12月の第2次安倍内閣発足以降、一貫して官房長官として政権を支えてきた。外交や安全保障政策を好む安倍のもとで、自らを「黒子」と称し、危機管理や内政を主に担った。菅の官房長官秘書官を務めた一人は、安倍と菅の関係を「戦略的互恵関係」と評する。「長官は政策をやりたい人。イデオロギーには無関心で現世利益の人だ。政策をやることにこの上ない幸せを感じている」。イデオロギー色の強い安倍とは、自然に棲み分けができていた。
 官邸主導を演出してきた両者の絶妙な「共生」のバランスは、いつから狂い始めたのだろうか。多くの関係者がその伏線になったと証言するのは、19年4月1日の新元号「令和」の発表である。
「新しい元号は、令和であります」。官邸1階の記者会見室で、菅が新元号の額を持ち上げる姿は当時、繰り返し報道された。
 菅は「令和おじさん」との愛称をつけられ、一躍、「時の人」になった。6日、北海道知事選の応援に駆けつけた菅がJR札幌駅前でマイクを握ると、スマートフォンのカメラが一斉に向けられた。「新元号『令和』を発表させていただきました」と張り上げた声に、1000人を超える聴衆から拍手が沸き起こり、「菅さ~ん」と歓声が飛んだ。演説後は握手を求める人でもみくちゃにされた。
 やはり官房長官として「平成」の新元号を発表した小渕恵三は「平成おじさん」と呼ばれ、お茶の間に顔が知れわたった。小渕はその後、首相にまで上り詰めた。菅は「ポスト安倍」に関する世論調査で、安倍、小泉進次郎、石破茂に次ぐ4位に浮上した。それを知った菅は「何で一番じゃないんだよ」と冗談を飛ばしつつ、「テレビで露出しているから人気が出たんだろ。今は『人寄せパンダ』みたいだけど、すぐ下がるだろ」とまんざらでもない様子を見せた。
 永田町でも、新元号発表をきっかけに菅を見る目は変わっていった。岸田派名誉会長で元幹事長の古賀誠は8日のBS日テレの番組「深層NEWS」で、「当然、ポスト安倍の候補の一人には間違いない」と菅を持ち上げた。古賀はポスト安倍に意欲を示す政調会長・岸田文雄の後見人でもあり、発言は永田町に波紋を広げた。自民党幹事長の二階も10日発売の月刊誌「文藝春秋」のインタビューで、「この難しい時代に官房長官として立派にやっている。素直に評価に値する」と菅を手放しでほめ、「ポスト安倍」候補として「十分耐えうる人材だ」と評価した。
 発表から約2週間後の13日、東京・内藤町の新宿御苑で、毎年恒例の首相主催「桜を見る会」が開かれた。八重桜が咲き誇る中、菅の前にはひときわ長い行列ができていた。「写真お願いします」「握手して下さい」。菅が休みなく写真撮影や握手に応じても、列が途切れることはなかった。集まる人の数は、主催者である安倍の周りよりも多かった。

「菅は虚像が大きくなっている」

 菅は長らく、無派閥を貫いてきた。しかし、党内には菅を囲み、「菅系」と目される無派閥議員の集まりがある。
 4月10日夜、菅は出身地・秋田名物の稲庭うどんを振る舞う東京・赤坂の店を訪れた。坂井学や星野剛士つよしら無派閥の若手・中堅衆院議員十数人が席を共にした。
「令和で俺も人気者になっちゃったな」
 酒を飲まない菅は、水が入ったグラスを片手に笑顔で軽口をたたいた。札幌での人気ぶりを「人が集まったんだよなぁ」などと振り返り、場を盛り上げた。
 その場に居合わせたのは「ガネーシャの会」のメンバーだった。菅に近い自民党の中堅・若手議員のグループである。会の名称は、ヒンズー教の富をもたらす現世利益の神「ガネーシャ」の名に由来する。菅自身はメンバーではないが、夜のグループ会合には努めて顔を出してきた。メンバーからの政策の相談にもマメに乗り、「よし、やれ」「行け」と指示を飛ばした。
 ガネーシャの会は派閥と同様、毎週木曜の昼に弁当を食べながら意見交換している。結束は固く、18年の党総裁選では安倍を支持した5派閥の「別働隊」として陣営を下支えする役割を果たした。「竹下派が昔、『一致結束箱弁当』といわれたが、今はうちが一番あてはまる」。メンバーの一人は胸を張る。
 25日には、衆院議員・菅原一秀いっしゅうが主導する「令和の会」(約15人)が新たに発足した。菅原は父親が秋田県出身という縁もあり、菅に近い人物だ。このほか、党内には菅と当選同期で親しい衆院議員・河井克行を中心とする「向日葵ひまわり会」(約10人)があった。これらの枠組みとは別に、名称はないものの、10人前後の参院議員の集まりも存在する。党内約70人の無派閥議員のうち半数近くは「菅系」と目されていた。
 着々と党内基盤を固める菅の動きは、いやが応でも周囲の関心を集めた。安倍もその一人だった。この頃、ポスト安倍レースをこう解説してみせた。「石破は『令和に違和感がある』とか言って失速したよね。主流派では菅さんがトップになった。派閥も持っている。『ガネーシャの会』って完全に派閥だから。菅さんを親分と呼んでいて結束力も高い。副大臣以下の人事は菅さんに全部任せているが、ポストをだいぶ配分している」
 その後も、マスコミは盛んに菅を取り上げ、安倍と菅の2人の関係をかき立てる記事も少なくなかった。安倍を盟友として支える麻生は、菅がポスト安倍として存在感を高めていくことに心中穏やかではなかった。「菅は連日ニュースになっているねえ。二階派の内部は結構、菅に持って行かれているという話もあるじゃねえか」。側近にそう漏らし、不愉快そうな表情を浮かべた。
 麻生と菅は政権の屋台骨として安倍を支えてきた。12年の第2次安倍内閣発足以降、同じポストに座り続ける閣僚はこの2人だけだ。互いの立場は尊重しつつも、政策や解散戦略を巡って意見が鋭く対立することもあり、その関係は常に緊張をはらんでいた。
 麻生は菅という人間を政治家として信じ切れないでいた。
 08年9月の首相就任直後、衆院解散を模索した際、選挙対策副委員長だった菅は解散先送りを訴えた。内閣支持率の伸び悩みやリーマン・ショックの余波もあり、麻生は菅の言い分を受け入れて解散を断念した。だが、09年8月に行われた衆院選で、麻生率いる自民党は民主党に歴史的大敗を喫し、下野することになった。
 民主党からの政権奪還を目指した12年9月の自民党総裁選は、安倍を含めて石破、石原伸晃、町村信孝、林芳正の5人が乱立する大混戦となった。麻生と菅はともに、総裁返り咲きを目指す安倍を支援した。国会議員と党員による投票で、地方人気の高い石破が165票でトップに立った。安倍は87票で2位につけ、両者による決選投票にもつれ込んだ。
 ここで麻生と菅の間に、ひと悶着あったとされる。菅自身は否定しているが、麻生によれば、「菅は決選投票の時、安倍に『降りて幹事長狙いだ』と持ちかけた」という。安倍は降りることなく国会議員票の上積みに成功し、総裁の座をつかんだ。菅の話題になると、麻生はよく、このエピソードを持ち出す。
 麻生は「おれと菅はあの時から決定的に違う」と考えていた。「菅は虚像が大きくなっている」。麻生には、そう思えてならなかった。
 19年4月1日、麻生派の国土交通副大臣・塚田一郎の発言が問題となった。塚田はこの日、北九州市での集会で、現地と山口県下関市をつなぐ下関北九州道路構想に触れ、「安倍首相や麻生副総理が言えないので、私が忖度そんたくした。国直轄の調査(対象)に引き上げた」と語った。山口は安倍、福岡は麻生の地元である。野党は「典型的な利益誘導政治だ」と一斉に批判した。
 塚田は麻生の元秘書だった。子飼いの失言に、麻生は「辞めるほどのことではない」と守ろうとした。安倍も麻生への配慮からか、4日の参院決算委員会で「職責を果たしてもらいたい」と繰り返した。
 一方、菅は容赦なかった。「何の権限もないのに背伸びして」と塚田への不快感をあらわにし、水面下で塚田辞任に動き始めた。4日の参院決算委の後、菅は塚田に「身の処し方は自分で考えてほしい」と迫った。菅に引導を渡された塚田はこの夜、麻生に「迷惑をおかけした。辞任したい」と伝え、翌5日、国交相の石井啓一に辞表を提出した。
 塚田は17日に自民党新潟県連会長を辞めた。菅は「遅かったね」と突き放した。

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総理以上の厚待遇

総理以上の厚待遇

 さらに、菅が存在感の大きさを見せつける機会がやってきた。
 4月25日、菅は5月9~12日の日程で米国を訪れると記者会見で発表した。「ワシントンDCでは米国政府要人と会談し、拉致問題の早期解決に向けてすり合わせを行うとともに、沖縄の基地負担軽減に直結する米軍再編の着実な実施を確認してきたい」と意気込みを語った。
 危機管理を担う官房長官の外遊は極めて異例だ。菅の訪米は、安倍の得意分野である外交にも本格的に手を付けようとしていると永田町や霞が関で受け止められた。
 首相の座を狙う政治家にとって、同盟国である米国とのパイプは極めて重要だ。安倍も自民党幹事長代理として05年に訪米し、副大統領のチェイニーら多くの政権幹部と会談したことがある。ホワイトハウスでは大統領のブッシュと出くわし、声をかけられた。外交の場では、偶然を装って格上の海外要人と顔合わせをするケースがままある。
 菅の訪米が近づくと、読売新聞は4月30日の朝刊で「『ポスト安倍』菅氏急浮上 連休明け訪米『総裁選へ布石』臆測も」と報じた。
 官邸の長官室には訪米前の打ち合わせのため、頻繁に外務省職員らが訪れた。外務次官の秋葉剛男たけお自ら長官室に足を運ぶことも珍しくなかった。省内で「総理外遊だって次官が直接、ロジ(外遊の際の後方支援)の説明はやらない」と驚きの声が上がるほどだった。
 調整が進むにつれ、菅の会談相手と同行者は日に日に膨れあがった。通訳は総理通訳を務める通訳担当官の高尾すぐるに決まった。訪米団は外務省や防衛省の局長級幹部ら約40人に上った。首相の外遊に匹敵する規模だった。外務省内にも「さすがにやりすぎではないか」という慎重論はあった。それでも、菅本人が止めようとしなかったという。
 訪米前、菅は高揚感を隠せない様子だった。出発前日の5月8日、「ポンペオ(米国務長官)はCIA長官の時にメシを食べたこともあるんだよね」「北朝鮮の人間模様に興味がある。例えば、本当に(正恩の側近である)金英キムヨンチョルがいなくなったのかとかね」と抱負を口にした。

「菅さんからけんかを売られた」

 米国は安倍内閣の要であり、ポスト安倍に名前が上がる菅を手厚くもてなした。菅の米国滞在中、トランプ政権ナンバー2である副大統領のペンス、国務長官のポンペオ、国防長官代行のシャナハンという要人が相次いで会談に応じた。ポンペオは緊迫するイラン情勢を受けて欧州歴訪を切り上げた直後にもかかわらず、菅との会談に時間を割いた。米政府関係者は「菅にかなりの配慮をした」と明かした。
 ペンスとの会談は5月10日、ホワイトハウスで行われた。日本側からは駐米大使の杉山晋輔、首相補佐官の和泉、米側からは副大統領首席補佐官のショート、副大統領国家安全保障問題担当補佐官のケロッグが同席した。
 会談が進むにつれ、こわばった雰囲気はほぐれていった。菅は拉致問題相として、北朝鮮による日本人拉致問題に触れた。「安倍首相は条件を付けずに直接、金正恩キムジョンウン朝鮮労働党委員長に向き合う決意だ」と語り、問題解決への協力を求めた。米中の貿易摩擦も話題に上り、菅は「米中両国が対話を通じて建設的に問題解決をはかることを期待している」と伝えた。会談は約40分間にわたった。
 ワシントンでの日程を終えると、菅はダレス国際空港からチャーター機でニューヨークに向かった。現地に着いた菅は、国連本部で開かれた拉致問題に関するシンポジウムに出席し、基調講演で「北朝鮮との相互不信の殻を破り、新たなスタートを切る考えだ」と述べた。
 菅はニューヨークで、かつて駐日米大使を務めたキャロライン・ケネディの自宅に足を運んだ。ケネディは、丸いケーキの前に菅が新元号を発表した際の写真を入れた額を立てて出迎えた。2人は連携して沖縄問題に取り組んできた間柄だった。ケネディは「日本では菅さんと働けたことが最も思い出深い」と回顧した。
 主な日程を終えた菅は10日、同行記者団の取材に応じた。「拉致問題の早期解決や米軍再編の着実な推進に向けて、連携を確認することができた。大変有意義だったと考えている」。無難に外交デビューを果たした菅は満足そうだった。
 記者団から、訪米目的について「ポスト安倍に向けた地ならしではないか」と問われると、「あくまでも拉致問題担当大臣、および沖縄基地負担軽減大臣を兼任する立場から、政権の重要課題である拉致問題の解決と米軍再編の推進に向けて、日米両国の連携強化を図ることです」と否定した。
 ニューヨークではこんな一幕もあった。
 事前の段取りでは、報道陣の声かけに、セントラルパークを散歩中の菅が笑顔で応じる手はずだった。菅は直前になって外務省職員に中止の指示を出し、無表情を保ったまま、記者団の前を通り過ぎた。同行した職員は「浮かれているとみられるのを警戒した。ここはブレーキを踏んだ方がいいという判断だったんだろう」と振り返る。
 しかし、菅が訪米したこと自体、官邸内に大きな一石を投じていた。菅の側近は当時をこう回想する。「首相周辺からすれば、あの訪米で菅さんから『けんかを売られた』と感じたんだろう」
 帰国後の菅は外交に続き、経産省の勢力圏にも手を伸ばそうとした。
 安倍内閣は「経産省内閣」の異名を持つ。首相肝煎りの政策は、経産省出身の今井と経産省経済産業政策局長の新原浩朗にいはらひろあきが主導した。2人が政策の方向を定め、安倍が未来投資会議などの場で関係閣僚らに指示を出すという流れができあがっていた。今井は自らの足場である経産省を聖域化していた。
 5月14日の経済財政諮問会議は19年度の最低賃金の改定を控え、「3%程度」としている政府の引き上げ目標を見直すかどうかが議論となった。民間議員であるサントリーホールディングス社長・新浪剛史にいなみたけしは「もっとインパクトを持たせるためにも5%を目指す必要がある」とぶち上げた。これに同調したのが菅である。「私が言いたいことは今、新浪議員が全部言ってくれたが、日本(の最低賃金)は世界でみても非常に低い。地方で所得を上げて消費を拡大することが大事だ。最低賃金の引き上げをやっていくことは極めて大事だ」。菅と新浪は会食をともにする間柄で、示し合わせた発言であることは明らかだった。
 最低賃金の引き上げは人件費を膨らませ、企業にとって重い負担となる。経産相の世耕弘成は「中小企業・小規模事業者の現場では、現行の引き上げペースが精一杯で、ぎりぎりの努力を行っているという現実もある」とくぎを刺し、3%を超える引き上げに慎重な姿勢を示した。民間議員の経団連会長・中西宏明も「現実の地方の声はなかなか厳しい」と足並みをそろえた。
 菅がそれまで、経産省の案件にあからさまに介入することはまずなかった。
「(菅の持論である)携帯料金の4割減は大手企業をこらしめればいいが、最低賃金は中小企業がもたない」。経産省の守護神を自任する今井は「3%」の維持に向け、巻き返しに動いた。最終的に、19年の経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)には、最低賃金5%引き上げという表現は見当たらず、政府が目標とする全国加重平均1000円(時給)を「より早期に」達成すると明記されただけだった。
 何とか菅を押し返した今井は「経産省と厚労省の期待を背負って菅さんとやり合った」と胸を張った。一方で「最近、菅さんの政策へのコミットがすごい」と警戒感をあらわにした。

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「勝てる時に選挙をやるのが総理・総裁の仕事だ」

「勝てる時に選挙をやるのが総理・総裁の仕事だ」

 この頃、永田町最大の関心事は、安倍が7月の参院選に合わせて衆参同日選に踏み切るかどうかだった。
 実際、安倍は同日選を模索していた。衆院解散を強く進言したのが、早期解散論者の麻生だった。「本気で憲法を改正したいのですか。それなら、衆院解散は10月の消費増税前しかタイミングはないですよ」。4月30日、東京都内の安倍の私邸を訪ねた麻生は、こう迫った。
 自民党本部が5月上旬に参院選の情勢調査を行うと、改選議席124のうち60議席に届きそうだとの結果が出た。野党が改憲論議に応じないことを口実に同日選に打って出て、衆参両院とも改憲勢力で国会発議に必要な3分の2以上を確保する──。そうなれば、改憲の現実味はぐっと高まる。安倍も「勝てる時に選挙をやるのが総理・総裁の仕事だ」と意欲を隠さなかった。首相周辺は解散に備え、複数の選挙日程を検討した。
「令和」改元の祝賀ムードもあり、安倍内閣の支持率は高い水準を保っていた。読売新聞社が5月17~19日に行った全国世論調査では、安倍内閣の支持率は55%。19年に入って最高を記録した。自民党支持率は42%と、野党第1党の立憲民主党の4%を圧倒していた。
 盛り上がる安倍に対し、菅は一貫して解散に慎重だった。菅がパイプを持つ公明党の支持団体・創価学会は、学会員の選挙運動の負担が重くなる同日選に反対していた。「総理は同日選をやりませんよ」。菅は創価学会や公明党幹部に何度も説明していた。
 そんな中、金融庁が6月3日に公表した報告書が、官邸を取り巻く空気を一変させた。政府の金融審議会がまとめた報告書には「老後の生活資金に2000万円が必要」と書いてあった。野党は「年金だけでは生きていけないのか」と一斉に批判した。第1次内閣で年金記録問題に苦しんだ安倍にとって、年金問題は鬼門だった。追い打ちをかけるように、地上配備型迎撃システム「イージスアショア」配備に関する防衛省の調査ミスが発覚した。
 6月上旬の自民党本部の参院選情勢調査では、これらによるダメージが如実に表れた。同日選で衆院の現有議席284を減らせば、改憲どころではなく、党内の求心力も失いかねない。「参院選だけでも十分戦えるのに、解散する必要はない」。安倍は見送りの腹を固めた。

二階を外すか、それとも……

 通常国会が6月26日に閉会すると、各党は参院選に向けて走り出した。
「令和おじさん」の菅は、応援弁士として引っ張りだことなった。菅が街頭に立つと、男女問わず若者までが記念撮影を求め、人だかりができた。「今回は見える景色が違う。これまで女子高生なんて集まらなかった」。菅はおどけるように語った。
 菅が特に力を入れた選挙区の一つが広島だった。参院広島選挙区(改選定数2)には、自民党から岸田派ベテランの元防災相・溝手顕正みぞてけんせいに加え、新人の河井案里が立候補していた。案里は、菅に近い河井克行の妻だ。溝手は安倍が07年参院選で大敗を喫した時、「(安倍の責任は)当然ある」と言い切ったことがある。その後も参院幹事長だった12年、安倍を「もう過去の人だ」とこき下ろした。安倍の意向もあり、党本部は案里擁立に猛反対する地元県連を抑え、21年ぶりとなる広島での2人擁立に踏み切った。
 菅は案里の全面支援に回った。パイプを持つ公明党には案里への投票を働きかけ、公示後も2回にわたって広島に入った。現地では、自分の好物のパンケーキを案里と食べるパフォーマンスまで披露してみせた。7月21日、案里は当初の下馬評を覆し、初当選を果たした。党参院議員会長まで務めた溝手は落選した。
「よく頑張ったね」。菅は26日、克行とともに当選報告で官邸を訪れた案里をねぎらった。この夜、菅は「パンケーキ(のパフォーマンス)が結構取り上げられたらしいよ」と上機嫌だった。かたや、ポスト安倍の最有力とされる岸田は、岸田派の溝手を落選させただけではなかった。イージスアショアの調査ミスがあった秋田に加え、山形、滋賀の1人区でも岸田派の現職は敗れた。菅と岸田の明暗は大きく分かれる結果となった。
 安倍が自らの後継として、岸田に期待していることは周知の事実である。2人は当選同期で、気心が知れた仲だった。安倍が酒をあまり飲めないのに対し、岸田は酒豪で知られる。保守色が強い安倍に、岸田は宏池会のハト派路線を継承する。それでも、万事控えめな岸田は安倍の下で長らく外相を務める間、安倍の外交方針にくちばしを突っ込むようなまねはせず、安倍から「裏切らない」と信頼を勝ち得ていた。
 岸田は外相に続き、党政調会長で起用された。岸田派からは「次は幹事長を狙うべきだ」との声が盛り上がっていた。人事や選挙、資金管理など党の実務を一手に担う幹事長は、首相への登竜門とされる。9月の内閣改造・党人事で、安倍と今井は幹事長の二階を衆院議長か副総裁に格上げし、岸田を後任の幹事長に就ける構想を温めていた。
 その案を安倍から聞かされると、菅は猛反対した。「いま二階幹事長がしっかりと党を押さえていて、政府もいい仕事ができているのに、本当に代えるつもりですか」と迫った。菅は岸田のことを全く評価しておらず、「首相の器ではない」と考えていた。幹事長続投に意欲を示す二階を外し、党内が不安定になることも懸念した。
 安倍にとって間の悪いことに、先の参院選で自派の現職4人を落選させた岸田には「選挙に弱い」というイメージが広がっていた。選挙を仕切るべき幹事長が選挙に弱いのでは話にならない。次第に「岸田幹事長」構想はしぼんでいった。二階続投の決め手となったのは、公明党とのパイプの太さだった。「改憲に慎重論がある公明党を説得できるのは二階さんしかいません」。側近にこうアドバイスされた安倍は黙ってうなずいた。
 読売新聞が9月5日の朝刊で、安倍が党役員人事で「二階幹事長と岸田政調会長を続投させる意向」と報じると、麻生は「岸田は幹事長の椅子をつかみ損ねた。幹事長にはこの先なれないかもしれない」と漏らした。
 第4次安倍再改造内閣が11日、発足した。安倍は記者会見で「令和の時代にふさわしい憲法改正原案の策定に向かって、自民党は今後、(衆参両院の)憲法審査会において強いリーダーシップを発揮していくべきだ」と述べ、改憲への意欲を示した。
 12日夜、安倍は人事をこう振り返った。「二階派の離反が怖いからね。二階さんは続ける気満々だったし。岸田さんは次だね」
 一方、今回の内閣改造では、菅の意向が強く働いたことがうかがえた。菅系の無派閥グループ「令和の会」の菅原一秀は経済産業相、「向日葵会」の河井克行が法相に、それぞれ起用されたためだ。2人とも初入閣だった。
 菅原は10日に安倍から入閣を伝える電話を受けると、すぐ菅に電話で報告した。菅は「本当に良かった。しっかり頑張って」と激励した。菅原は「菅さんが推薦してくれたのだろう。感謝している」と喜んだ。
「人事は首相の専権事項であり、首相自身が判断したということだろう」。菅は改造人事発表後の11日夜の記者会見で、素っ気なく語ったが、実際はもちろん違った。「菅原は予算委員会筆頭、議運委員会筆頭でちゃんと仕事をした。ああいう人を使わないと駄目ですよ」などと、安倍に強く進言していた。
 菅にとって経産相に側近の菅原を送り込む意味は大きかった。経産省幹部によれば、菅原は就任すると、菅に電話で相談したり報告したりすることが日課になっていた。最低賃金でやり合ったばかりの今井を刺激するには十分だった。
 環境相に就任した小泉進次郎も「菅カラー」を醸し出す一人だった。小泉は12年と18年の総裁選で石破に投票し、安倍と距離を置いていた。安倍がかつて官房副長官を打診した際、小泉が難色を示したこともあった。これに対し、菅は小泉と同じ神奈川選出で関係が近い。内閣改造に先立つ8月7日、小泉は官邸を訪れ、フリーアナウンサーの滝川クリステルとの結婚を菅に報告した。菅は安倍の在室を確かめると、小泉に安倍と面会するよう促した。小泉はこれに従い、官邸での異例の結婚発表となった。この後、菅は安倍に「進次郎、どうですか?」と改造時の入閣を持ちかけていた。
 9月11日夜、改造後の記者会見を終えた菅は官房長官秘書官らと夕食をともにした。菅は新内閣の布陣について「いいだろう」と満足そうな表情を浮かべた。

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「菅と今井のせめぎ合いだ」

「菅と今井のせめぎ合いだ」

 内閣改造の裏で、今井の処遇を巡る暗闘が繰り広げられていた。
 今井は第1次安倍内閣で首相秘書官を務め、安倍の知遇を得た。第2次内閣発足に伴い、経産省資源エネルギー庁次長から政務担当の秘書官に転じた。経産省には二度と戻らないことを覚悟した上でのことだった。以来、安倍の懐刀として絶大な信頼を受け、「影の最高権力者」とも称されていた。
 安倍を頂点とする官邸は、菅と今井という2本柱で支えられてきた。かつては今井が菅の長官室に日参し、綿密に打ち合わせをする光景が見られたこともある。だが、菅がポスト安倍としてもてはやされると、今井は菅への警戒心を抱くようになっていった。
 今回の改造前、今井が首相補佐官に就く代わりに政務担当の首相秘書官を外れるという情報が霞が関を駆け巡った。官僚たちは「菅さんの意向を受け、杉田さん(和博、内閣官房副長官)が動いているようだ」とささやき合った。事実、杉田は安倍に今井の後任の政務秘書官として、内閣府次官OBの名前を挙げたとされる。だが、首相の日程管理などをつかさどる政務秘書官という立場こそ、今井の力の源泉だった。今井はかつて、ある省庁幹部にこう漏らしたことがある。「政治は暦作りなんですよ。総理の日程、総理の時間を何にどう使うか、これが政治なんです。私は総理が(数ある政策の中から)そのうちの何をやるかを振り付けている」
 ふたを開けてみれば、安倍は内閣改造に合わせ、今井を政務秘書官のポストに据えたまま、首相補佐官を兼任させた。もともと首相秘書官は政策に主体的に関わるポストではない。今井には補佐官として「政策企画の総括担当」の役割が付され、名実ともに政策全般を担う権限を得た。首相執務室がある官邸5階には今井の個室が用意された。補佐官は内閣官房の特別職で、首相秘書官に比べて給与も上がる。これまで長期政権を支えてきた今井への安倍なりの配慮でもあった。
 存在感を増した今井は「他に政務秘書官ができるのがいるか? いねえだろ。全然回らないよ」「(補佐官になって)一人で動きやすくなる部分はあるけど、基本的に今までと同じだよ」とうそぶいた。菅は、今井が補佐官と秘書官を兼務したことに「しっかりと政策をやってもらうということでしょ。正式に」と言葉少なだった。
 官邸内のきな臭い動きを見た麻生は次のように解説した。「菅原一秀を経産相にしたのは菅だ。菅には今井や佐伯といった官邸の経産省の連中に対して、自分が経産省をグリップする狙いがあったんだろう。それに対して、今井がより力を強めようと補佐官に格を上げた。あれは間違いなく菅と今井のせめぎ合いだ」

菅原経産相の辞任

 新元号を発表して以来、飛ぶ鳥を落とす勢いだった菅に一転して試練が降りかかった。
 発端は週刊誌の記事だった。10月10日発売の週刊文春は「菅原経産相『秘書給与ピンハネ』『有権者買収』を告発する」と報じた。菅原が十数年前、地元選挙区の有権者にメロンやカニなどを配ったという内容だった。公職選挙法は、政治家による選挙区内の有権者への寄付行為を禁じている。
 側近の醜聞にも菅は当初、「大丈夫でしょ」と余裕の構えだった。メロンやカニを配ったことは以前も報じられたことがあったからだ。菅は「何年前の話を出してんだよ。同じ話が前に1回出てるんだから」と強気を貫いた。
 10、11日の衆院予算委員会で、野党は菅原の疑惑を追及した。菅は「堂々とやれ」と菅原を送り出した。立憲民主党の本多平直ひらなおは、菅原が有権者に配ったとする物品のリストを読み上げ、「110人にメロン、カニ、タラコ、筋子を配ったのではないか」と迫った。菅原は「確認したい」と歯切れの悪い答弁に終始した。それでも、与党内には「逃げ切れる」という楽観ムードが広がった。12日には台風19号が伊豆半島に上陸し、関東平野を縦断した。記録的な大雨で福島などの堤防が決壊し、死者・行方不明者は90人を超えた。政府は台風対応に追われ、野党の菅原への疑惑追及も尻すぼみに終わると思われた。
 だが、23日にがらりと雰囲気が変わった。週刊文春が電子版で、菅原の公設秘書が17日、地元支援者の通夜で、2万円入りの香典袋を渡したと報じたのだ。香典も公選法が禁じる有権者への寄付行為にあたる。政府・与党内には「過去の話ならいざ知らず、先週の話ではもたない」と辞任論が沸き起こった。
 さすがの菅もかばいきれなかった。25日朝、菅原は菅に会い、辞意を伝えた。菅は黙って話を聞いていた。菅原はその後、首相執務室に入り、「大切な国会審議の時間が自分の問題に割かれる事態になってしまった」と安倍に辞表を提出した。その場には菅も立ち会った。
 菅原は国会内で記者会見し、「任期途中で大臣の職を辞することは慚愧に堪えない思いだ。今朝自ら決意し、先ほど総理に辞表を提出した」と語った。菅は記者会見で「安倍政権として改めて襟を正して、国民の信頼回復に努めていかなければならない」と語った。心の動揺を悟らせない、いつものポーカーフェースだった。
 後任の経産相には梶山弘志が就いた。菅が「政治の師」と仰ぐ元官房長官・梶山静六の長男だ。無派閥で、菅との距離は近い。安倍の配慮で「菅枠」は何とか維持された。とはいえ、最側近の一人である菅原の閣僚更迭は菅にとって痛手だった。この夜、菅は「頑張ってたのにねえ」と無念そうにつぶやいた。

河井法相の辞任

 だが、菅原の辞任は菅にとって、悪夢の幕開けに過ぎなかった。わずか6日後の10月30日、またも週刊文春が電子版で閣僚の疑惑を報じた。先の参院選で菅が後押しして初当選した河井案里の陣営が、選挙運動を行うウグイス嬢に日当3万円を支払っていたというものだ。公選法施行令はウグイス嬢の日当の上限額を1万5000円としている。案里の事務所は当選前、夫・克行の事務所に置かれていた。記事には「もう一人の菅側近も『疑惑のデパート』」と見出しがついていた。
 克行は「記事が出るみたいですけど、問題ありません」と菅に報告し、菅も周囲に「大臣(克行)の問題じゃないでしょ」とかばった。
 一方、事の成り行きに麻生は危機感を覚えていた。30日、首相執務室で「法務大臣は死刑をやる立場です。河井はもちませんよ」と安倍に進言した。「あれは菅さんの話だから」と素っ気なかった安倍も、麻生の話を聞くうちに真剣な表情になっていった。
 その後の動きは速かった。安倍はその日のうちに更迭を決断し、後任に森雅子の起用を決めた。たとえ妻の疑惑でも、検事総長への指揮権を持つ法相に克行がとどまるのは難しかった。
 31日、克行は官邸を訪れ、安倍に辞表を提出した。菅原の時と同じく、菅が同席した。提出後、克行は「今回の一件は私も妻も全くあずかり知らない」と記者団に疑惑を否定した。その上で「確認・調査を行う間、法務行政への信頼は停止してしまう。妻と相談し、一晩じっくり考え、今朝決断した」と辞任理由を説明した。
 内閣改造から約1か月半で閣僚2人が辞任するという異常事態に、安倍は陳謝に追い込まれた。官邸で記者団に「河井氏を法相に任命したのは私だ。こうした結果となり、その責任を痛感している。国民の皆様に深く、心からおわびを申し上げたい」と語った。2人の側近閣僚を失った菅のダメージは、安倍よりもはるかに大きかった。順風満帆だったはずが、気がつけば逆風にさらされていた。
「菅原、河井は明らかに菅印だ。一連の騒動で、官邸や世論は菅がポスト安倍という雰囲気ではなくなりつつある」。麻生は菅の凋落を冷ややかに見ていた。

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燃えさかる「桜」

燃えさかる「桜」

 11月に入ると、国会は「桜を見る会」を巡る疑惑で持ちきりとなった。
 8日の参院予算委員会で、共産党の田村智子は、安倍が桜を見る会に後援会関係者を多数招待しているとして「私物化」だと批判した。安倍は「地元の自治会やPTAなどで役員をしている方と後援会に入っている方が重複することもある」などと答弁した。
 桜を見る会は1952年から原則として毎年、時の首相が各界で功績を残した人などを慰労するために開いてきた。経費は国が負担する。民主党政権も2010年、首相・鳩山由紀夫の主催で開いたことがある。ただ、第2次安倍内閣以降、支出額は膨らんでいた。例えば14年(第2次内閣)の約3000万円から、19年(第4次内閣)は約5500万円に急増した。参加者も14年の約1万3700人から、19年には約1万8200人を数えた。
 野党は、2閣僚辞任で弱った安倍内閣をさらに追い込むチャンスだと見た。11日には立憲民主、国民民主、共産、社民の4党で、桜を見る会の追及チームを発足させると発表し、翌12日にさっそく初会合を開いた。桜を見る会の事務局を務める内閣府が招待者名簿を廃棄していたことも明らかになり、与党からも「運営に不透明感が否めない」(自民党幹部)との声が上がり始めた。
「桜? 時期外れもいいとこだよ。民主党政権の時だってやってたんだから」。余裕の構えを見せていた菅も、ついに火消しに乗り出すこととなった。12日の記者会見で、招待者の選定基準を明確化する考えを表明すると、翌13日の記者会見で来年度の開催を中止すると発表した。中止を主導したのは菅だった。不祥事などの火種はさっと消す。2閣僚辞任の時には切れ味が鈍ったものの、危機管理を担ってきた菅のお得意の手法だった。
 だが、今回は菅の狙い通りにはいかなかった。ここが攻めどころと見た野党の疑惑追及は収まるどころか、さらに勢いづいた。野党は、安倍事務所の対応に矛先を向けた。事務所が都内の高級ホテルで開いた桜を見る会の「前夜祭」で、1人5000円の会費との差額分を事務所が負担した可能性があると主張した。事実なら、公選法や政治資金規正法に触れるおそれがある。野党4党は15日、公開質問状を事務所に提出した。
 桜を見る会の事務局は内閣府だったため、菅が国会答弁を担うことになった。午前と午後の1日2回の定例記者会見でも、桜を見る会の質問が連日続いた。安倍絡みの案件で矢面に立たされた菅はストレスをため込んだ。
 安倍も一向に疑惑追及が収まらないことにいら立っていた。今井は「内閣委員会で菅さんにやってもらっても、安倍事務所の話まで言えない」と限界を感じていた。桜を見る会はともかく、前夜祭は政府と無関係で、菅が答えるのは筋違いでもあった。安倍と今井は幕引きを図ろうと、安倍が直接、疑惑について説明することにした。国会での集中審議は「野党ペースに巻き込まれかねない」として断念し、官邸で記者の質問に答えるという対応に落ち着いた。
 安倍は15日、官邸を出る際、3階のエントランスで記者団のインタビューに応じた。
「桜を見る会についてお答えいたします」。安倍はこう切り出し、用意した紙に目を落としながら説明を始めた。後援会員らが参加する「前夜祭」や観光ツアーの旅費、宿泊費などの費用は全額、参加者の自己負担で、「事務所や後援会としての収入、支出は一切ない」として、公選法や政治資金規正法に違反しないとの考えを示した。自らの事務所が参加者を募集し、参加人数が膨らんだことには「長年の慣行とはいえ、私自身も反省しなければならない」と陳謝した。
「もし質問されるなら今質問された方がいいと思いますよ。何かありますか?」
 自ら記者に促し、約20分間にわたって質問に答え続けた。安倍と記者団が共に立ったままやりとりする「ぶら下がり」は1問か2問で終わることが通例で、これほど長く質問に答えるのは異例だった。説明責任を果たしているという姿勢をアピールする狙いがあった。しかし、国会での説明を避けたことで、かえって野党の怒りを買うことになった。立憲民主党国会対策委員長の安住淳はこの日の夜、「突然で大変驚いた。不意打ちのようなもので、あらかじめきちんと準備をしたマスコミの質問や、我々の準備しているものに一切答えず、大変失礼だ」と批判し、引き続き予算委員会での集中審議を求める構えを見せた。

秋元IR担当副大臣の逮捕

 桜を見る会の疑惑は、じわじわと政権の体力を奪っていた。
 読売新聞社が11月15~17日に行った全国世論調査で、安倍内閣の支持率は49%となり、前回調査(10月18~20日)の55%から6ポイント低下した。5割を下回るのは9か月ぶりだった。内閣を支持しない人に聞いた理由では、トップの「首相が信頼できない」が45%(前回35%)と大幅に上昇した。桜を見る会が影響していることは歴然としていた。
 安倍は週明けの18日、再び官邸で記者団の前に立った。1問答えて立ち去ろうとした安倍は、記者が質問を続けると、引き返した。だが、安倍がいくら丁寧に説明しようとしても、疑惑は晴れなかった。「この問題はまだしばらく続く」。菅も長丁場を覚悟していた。
 そんな中、安倍は20日に首相通算在職日数が戦前の桂太郎を抜き、憲政史上最長の2887日となった。
 安倍は官邸で「短命に終わった第1次政権の深い反省の上に、政治を安定させるため日々全力を尽くし、一日一日の積み重ねで今日という日を迎えることができた。チャレンジャーの気持ちで、令和の新しい時代をつくるための挑戦を続けていきたい」と語った。だが、記者の質問は桜を見る会に集中し、喜びに浸る間はなかった。せっかくの記念日は、安倍にとってほろ苦い一日となった。
 菅もこの日の衆院内閣委員会で、桜を見る会の答弁に忙殺されていた。菅は19年の桜を見る会の招待者として、安倍に約1000人の推薦枠を設けていたことを明らかにした。
 妻・昭恵の関与については、菅と官僚の答弁が食い違う場面もあった。内閣審議官の大西証史しょうじは「安倍事務所で幅広く参加希望者を募るプロセスの中で、夫人からの推薦もあった」と述べた。これに対し、菅は「夫人付(のスタッフ)に確認したところ、推薦作業に一切関与していないということだった」と答弁し、野党は「おかしい、おかしい、どっちが正しいんですか!」(立憲民主党・黒岩宇洋たかひろ)と声高に攻め立てた。
 その後の記者会見で、菅は「(夫人の推薦は)承知していなかった」「詳細不明ですけど、安倍事務所において幅広く、参加希望者を募る過程で夫人からの推薦もあったということです」と釈明に追われた。
 12月9日、臨時国会が閉会した。安倍は閉会にあたり、官邸で記者会見に臨んだ。ここでも、桜を見る会が話題となった。安倍は本音のところ、桜を見る会がここまで問題視されることに「法律違反があるわけでもあるまいし、尋常じゃないよ」と思っていた。それでも会見では、「国民の皆様から様々なご批判があることは十分に承知している」「招待者の基準が曖昧で、結果として招待者の数が膨れ上がってしまった。これまでの運用を大いに反省する」などと低姿勢に徹した。
 安倍は「国会が終われば外交が続く」と巻き返しを期していた。会見ではイラン大統領のロハニの来日を調整していることを明らかにし、「この地域(中東)の緊張緩和、情勢の安定化に向けて、可能な限りの外交努力を尽くしていきたい」と力を込めた。下旬には中国での日中韓首脳会談に合わせ、中国国家主席の習近平、韓国大統領の文在寅との個別会談も予定していた。
 一方、菅にはさらなる試練が襲いかかった。報じたのは、やはり週刊文春だった。12月12日発売号は、首相補佐官の和泉が厚生労働省官房審議官の大坪寛子と京都に出張した際、私的な観光をしていたと報じた。2人は不倫関係にあるとして、何枚もの「証拠」写真を掲載した。
 和泉は国土交通省の技官出身である。若い頃から頭角を現し、住宅局の課長補佐時代に「局の人事を動かしている」という風説が流れたほどだ。本来のキャリアパスであれば住宅局長止まりのはずが、持ち前の才覚で次官級ポストである内閣官房の地域活性化統合事務局長まで上り詰めた。第2次安倍内閣では内閣官房参与を経て、首相補佐官を務めてきた。横浜市出身で、菅とは市議の頃から面識があり、霞が関の「菅人脈」の中では最古参に当たる。菅は和泉に政策を任せるだけでなく、省庁人事でも和泉の意見を参考にしていた。
 菅は12日の記者会見で「和泉氏に報告を求めたが、公私は分けていたということだ」と問題視しない考えを示した。ただ、ほとぼりが冷めるまで、和泉は自由に身動きが取れなくなった。菅の力の源泉は霞が関を自在に使いこなすところにある。その際、司令塔となる和泉を使えなくなったことで、菅は大きなダメージを被った。
「文春は完全に菅を狙っている」「菅の台頭を警戒する安倍側近がリークした」。様々な臆測が飛び交った。問題となった和泉の出張は8月だったのに、12月になって報じられたことも様々な臆測を招いた。
 菅への逆風は、年の暮れを迎えても終わらなかった。
 12月25日、カジノを含む日本の統合型リゾート(IR)事業への参入を目指していた中国企業側から現金300万円などの賄賂を受け取ったとして、東京地検特捜部は内閣府のIR担当副大臣だった衆院議員・秋元司を収賄容疑で逮捕した。現職国会議員の逮捕は、2010年1月の元衆院議員・石川知裕(政治資金規正法違反で有罪確定)以来、約10年ぶりのことだった。
 IRはカジノのほか、ホテルや国際会議場が一体となった施設で、安倍内閣が掲げる成長戦略の柱の一つだ。特に旗振り役となっていたのが菅だった。25日の記者会見では、今後のIR開業に向けたスケジュールについて「できるだけ早期にIRの整備による効果が実現できるよう着実に進めていきたい」と強調した。ただ、会見を終えた菅は「IRのイメージがおかしくなっちゃうよな」と、つい本音を漏らした。
 麻生は12月発売の月刊誌「文藝春秋」20年1月号のインタビューで、「菅さんは改元以来、注目されていますが、総理の座を狙おうという官房長官には全能感が出てくるもの。菅さんには今、安倍さんの代わりになろうとするオーラは感じませんけどね」と切り捨てた。
 さらに、麻生は「安倍総理が本気で憲法改正をやるなら、もう一期、つまり総裁四選も辞さない覚悟が求められるでしょうね」としたうえで、ポスト安倍候補に岸田、厚生労働相の加藤勝信、防衛相の河野太郎の3人の名前を挙げた。
「オーラなんて感じられるわけねえだろう」。麻生にこき下ろされた菅は、気にもとめない風を装った。得意の絶頂から失意のどん底へ──。菅にとって激動の1年となった令和元年は、こうして幕を閉じた。

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