プロローグ
午前七時二十分、蓮沼乃愛はハンディファンを片手に駅までの道を急いでいた。東武伊勢崎線・竹ノ塚駅から東西に伸びる竹の塚けやき大通りである。冬場にはシャンパンゴールドの光で彩られる人気スポットだが、いまは八月、そのうえ土曜の早朝ということもあり、人通りはまだそれほど多くない。あたりは閑散としていて、どこか寝惚けたような倦怠感に包まれている。
交差点で信号に捕まり、トートバッグからマイボトルを取り出す。家を出てまだ五分と経っていないが、すっかり息は上がり、汗ばむ身体にインナーが張り付いていた。七月の終わりから猛暑日が続いており、今日も朝から30℃を超えているという。メイクは崩れるし、髪は纏まってくれないし、夏はすべてが不快だ。
思い返せば、十五年前のあの日もそうだった。だから私は夏が嫌いなのかもしれない。反吐が出るほど、虫酸が走るほどに。
キンキンに冷えた麦茶で喉を潤し、ハンディファンの風量を上げる。なかなか変わらない赤信号に焦れつつ、左腕のアップルウォッチに視線を落とす。この調子だといつもの電車には間に合いそうもない。普段はテレビアニメに夢中で出勤する母親のことなど気にも留めない娘の日葵が、珍しく駄々を捏ねたからである。「いかないで」と乃愛の太腿にしがみつき、見かねた夫が無理やり抱きかかえてからも大泣きし続けたのだ。後ろ髪を引かれはしたものの、かといって仕事を休むわけにはいかない。次の電車だと確実に遅刻してしまうが、職場に連絡を入れるのは駅のホームに着いてからでもいいだろうか。そんなことを考えていると、不意に右手から自分を呼ぶ声がした。
「あれ、乃愛ちゃん?」
顔を向けると、すぐ隣に白の軽自動車が停まっていた。助手席のパワーウインドウが降りており、こちらを窺う運転手と目が合う。
「えっ……」
「わかる?」
「はい、もちろんです」
面影はあるし、声もほとんど変わっていない。それにしても、どういう風の吹き回しだろう。
「テレビで観たよ。大活躍みたいで」
「いえ、そんな……ありがとうございます」
「今日も出勤?」
「ええ、まあ」
「暑いし、送っていこうか?」
ありがたい申し出ではあるものの、易々と飛びつくのは躊躇われた。偶然にしてはあまりにもできすぎている。
あとさ、と運転手はハンドルに目を落とした。
「ちょっと話したいこともあって」
とくん、と心臓が跳ねる。なんの件かは、あえて確認するまでもない。問題は、この人がどこまで知っているかだ。単にあの日の真相を探ろうとしているだけなのか。あるいは既にそれなりの仮説を携えているのか。もし後者だとすれば、いまここで手を打っておく必要があるかもしれない。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
遠慮がちにドアを開け、助手席に乗り込む。車内は適度に空調が効いていて快適だった。急速に汗が引いていき、身体が幾分軽くなる。シトラス系だろうか、芳香剤の香りが鼻先をかすめる。
「行き先は?」
「とりあえず草加駅の方面に向かっていただければ──」
信号が青になる。
瞬間、バチッと弾ける音がして、乃愛の意識はそこで途切れた。
午前十時十五分、黒石鉄平は自宅カーポートでアルファードのエンジンを掛けた。自慢の直列四気筒エンジンが豪快に唸り、足元から武者震いのような振動が這い上がってくる。走行距離三・二万キロ、五年落ちの中古ではあるものの、いまのところ不満はない。走りは安定していて力強いし、車内は家族四人だと持て余すほどに広くて快適だ。
購入の決め手は、今年の春に職長へ昇格したことだった。十四年前、中学卒業と同時に鉄平は家を出て、アスファルト防水の職人となる道を選んだ。着実に現場経験を積んでいく傍ら、将来を見据えて一級防水施工技能士と一級建築施工管理技士の資格も取得した。そうして泥臭く腕を磨く姿が認められたのか、社長の馬渕から直々に推挙があったのだという。責任と重圧は増したが、それに伴い給料も増えた。家のローンと併せて月々約十六万円、実に手取りの四割が返済に消えている計算ながら、その懐の痛みは思春期の成長痛のようで、たしかな充足感をもたらしてくれる。
「忘れ物はないな?」
運転席を下げつつ尋ねると、後部座席の妻の沙織は「ありませーん」とバックミラー越しに親指を立てた。その隣では、髪を二つ結びにした娘の妃菜がむくれたように頰を膨らませている。ぬいぐるみをいくつ持っていくかで、出掛けに沙織と火花を散らしたせいだろう。「お気に入りを一つだけ」という母の一喝に対し、妃菜は「一つじゃない! 一匹!」とすかさず言い返していた。五歳とは思えないほどに口が達者だし、先々を思うと末恐ろしくもあるのだが、やはり沙織のほうが一枚上手だった。「じゃあ妃菜ちゃんはお留守番ね。何匹もお友達がいるから寂しくないでしょ。偉いなー、すごいなー」とおだてられてしまうと、さすがの妃菜も口を噤むしかなかったようだ。そんなこんなで、彼女の膝の上にはお気に入りのクマのぬいぐるみが一匹ちょこんと乗っている。
「じゃ、出発するぞ」
バックミラーの角度を調整し、いざハンドルを握った瞬間だった。
ジー、ジー、と耳障りな音が車内に響き始める。
「パパ、電話」と助手席の玲央がカーナビ横に取り付けられたスマホホルダーを顎でしゃくった。紐の伸び切った麦わら帽子を被り、胸の前で大事そうに虫かごを抱いている。中にいるのは、この前の日曜に多摩川の河川敷で一緒に捕まえたトノサマバッタだ。どうせすぐ飽きるだろうと思っていたのだが、なにやら愛着が湧いたのか、毎日甲斐甲斐しく世話を続けている。
「出なくていいの?」
「出るよ」
そう返しつつ、鉄平は手を伸ばせずにいた。画面に表示された相手の名前を見つめたまま、ひたすら自問を繰り返すばかりだった。なぜいま。どうしてこいつから。
「仕事?」という沙織の問いに、いや、と首を振る。平静を装ったつもりが、絞り出した声は上ずり、掠れていた。
「じゃあ、誰?」
こんな土曜の朝っぱらから……とでも言いたげだ。
「昔のツレ」
「出ればいいのに」
その通りだ。さっさと出ればいいのだ。むしろ、出ないほうが不自然ではないか。
しかし、鉄平は動けない。今日はこれから、千葉にある沙織の実家に向かう段取りとなっている。夏休みの恒例行事で、とりわけ玲央と妃菜は毎年この日が来るのを指折り楽しみにしていた。
忘れ物はない。三泊四日分の着替えも、水着も、浮き輪も、水鉄砲も、レジャーシートも、浴衣も、花火セットも、虫よけスプレーも、日焼け止めも、お気に入りのぬいぐるみも、全部持った。あとは行くだけだ。電話など無視して出発してしまえばいいのだ。
ジー、ジー、といまだにスマホは震えている。
「ねえ」痺れを切らしてか、沙織は語気を強めた。「どうしたの?」
直前に確認した渋滞情報によると、東京湾アクアラインの浮島出入口から海ほたるPAまでは、いまのところ「混雑」らしい。が、「渋滞」に変わるのも時間の問題だろう。できれば、それだけは回避したい。玲央と妃菜の機嫌が悪くなるからだ。念のためニンテンドースイッチを持たせてはいるものの、それだって一台しかないし、むしろ新たな兄妹喧嘩の火種になりかねない。だからこそ、一刻も早く出発すべきなのだ。わかっている。わかってはいるのだが。
「そうだな」ようやく鉄平は腹を決めた。「ちょっと出てくる」
ホルダーからスマホを引き抜き、車を降りる。視線を送ると、玲央は手元の虫かごを覗き込み、妃菜は膝の上のクマさんを撫でていた。父親の不自然な挙動などまるで意に介していない。
カーゲートを抜け、門柱の陰に入ると、セブンスターの箱を取り出す。子供たちの前ではできるだけ吸わないようにしているが、いまはなにより気分を落ち着かせるのが先決だった。煙草を咥え、ライターの火を近づける。一服目を深く肺に取り込み、しばし滞留させ、やがて細く長く吐き出す。
「クソが」
死ぬほど不味かった。
結局、ひと吸いしただけで携帯灰皿に放り込むことにした。
スマホはいまだ震え続けている。連絡を取るのは十五年ぶりだ。つまり、十五年の沈黙を破らざるをえないほどの緊急事態なのだ。
通話ボタンをタップし、スマホを耳に宛がう。
「もしもし」
「てっちゃん?」
すぐさま懐かしい声が鼓膜を打った。
「ああ、俺だ」
「よかった、もし番号が変わってたらどうしようかと──」
「なにがあった?」
午前十時三十五分、善塔のワイシャツの胸ポケットでスマホが震えた。
「休日にすまんな」
電話に出ると、開口一番に剛田は詫びてきた。
「いえ」周囲を窺いつつ、善塔は声を潜める。「事件ですか?」
尋ねるまでもなかった。なんせ、管理官の剛田が直々に電話を寄越したのだ。それだけで、なんらかの重大事案──それも、よほどの緊急性を孕んだものだと想像がつく。
「東京足立区で誘拐だ」
「足立区?」
善塔の所属は神奈川県警刑事部捜査第一課である。東京の事件のお鉢が回ってくるということは、おそらく合同捜査に違いない。
「攫われたのは今朝方、出勤途中だと思われる」
そこで審判が笛を吹き、目の前の試合は一時中断となった。熱中症対策の飲水タイムに入るようだ。フィールドのサッカー少年たちは我先に給水ボトルのもとへ向かい、中身を口に含んだり、そのまま頭から浴びたり、各々のやりかたで暑さを凌いでいる。
釣られるように額の汗を拭う。が、それを上回る勢いで次から次に大粒の汗が噴き出してくる。まだキックオフから十五分と経っていない。しかも、こちらは木陰から観戦しているにすぎない。それなのにこの有様なのだから、実際にプレーしている選手たちは堪ったものではないだろう。
息子の広志は、タッチライン際で数人の仲間たちと話し込んでいた。身振り手振りを交えながら、険しい顔でしきりになにかを訴えている。開始早々に先制され、現在チームは一点のビハインドを背負った状況だ。劣勢を覆すべく打開策を練っているに違いない。せめて一度くらい目が合えばいいのだが、広志は頑なに視線を外している。わかってはいたものの、やはり少々応えた。
「被害者はハスヌマノア」
聞き覚えはない。
そう思ったのも束の間だった。
「旧姓サメジマだ」
「サメジマ……」
鸚鵡返しに唱え、そのまま言葉を失う。一秒、二秒。重苦しい沈黙が垂れ込める。頰を伝った汗が一粒、顎の先から足元に落ちた。
「まさか」
遠くでアブラゼミが鳴いている。
「まさか、あの鮫島乃愛ですか?」
「思い出したか」
たしかに覚えている。
いや、忘れられるはずがない。
鮫島乃愛のみならず、あの三人──桐原翔吾、黒石鉄平、猿渡大樹の名も、当時中学二年生の彼ら三人が成した完全犯罪を前に為す術を失った苦い記憶も。
「ええ。それはもう、ありありと」
このとき既に確信していた。
長い一日になるだろう、と。
第一部 二〇一〇年
1
ここに三人の人間がいたとする。ABCあるいは甲乙丙と仮置きしてもよいのだが、それだといささか記号的すぎて味気ない。
「だから、俺、てっちゃん、大樹ってことにしよう」
ちょうどいま三人だしさ、と翔吾が悪戯っぽく笑った瞬間、頭上から轟音が降り注いだ。ラジオの音声はたちまち搔き消され、梁に吊るしたキャンドルランタンが振り子のごとく揺れ始める。板張りの床が軋み、アルミサッシの窓枠がガタガタと震えだす。
鉄平はセブンスターに火を点けようとしていた手を止め、天井を振り仰いだ。隣では大樹が飲みかけの氷結を床に置き、じっと息を殺している。通過しているのはJR鶴見線の最終列車だ。カーブなのでそこまで速度は出ていないはずだが、毎度のごとく緊張の一瞬である。
「で、だ」
列車が去り、夜が静寂を取り戻すと、翔吾は床の上の氷結を顎で示した。
「俺は大樹を殺害すべく、大樹の飲み物に致死量の毒を盛る」
「なんでだよ! 俺じゃなくていいだろ!」
不釣り合いに大きな目を引ん剝くと、大樹が抗議の声を張り上げる。ノーブランドのダボッとしたスウェット、素足にサンダル履き。後ろ向きに被った横浜ベイスターズのキャップは、彼が生粋の浜っ子だという証であり、野球少年だった頃の名残でもある。
「また、てっちゃんも大樹を殺害すべく、俺が毒を盛ったのと同じ飲み物に致死量の毒を盛る」
「了解。いま盛った」
セブンスターに火を点け、ひと口だけふかすと、大樹の氷結に放り込む。ジュッという音がして、飲み口から薄っすらと白煙が立ち昇った。
「おい! まだ飲んでんだけど!」
「未成年飲酒は法律で禁止だぞ」
「自分も煙草吸ってんじゃねえかよ!」
「うっせーな、酔っ払い」
「あ? 喧嘩か?」
上等だコラ、と弾かれたように立ち上がり、ヘッドロックをかましてきた大樹を背負い投げの要領で床に引き倒すと、あっけなく組み伏せる。「わかった、降参、ギブギブ」と大樹はすぐさま白旗を揚げ、床をタップした。いつものことなので、翔吾も止めに入ろうとはしない。二人が元の位置に座り直すのを待ち、何事もなかったかのように続ける。
「俺とてっちゃんの間に共謀関係はなく、俺もてっちゃんも相手が大樹に毒を盛ったことについて関知していない」
さて、と翔吾は黒縁眼鏡を押し上げた。レンズ越しの鋭い双眸が、鉄平と大樹を交互に射貫く。鉄平はこの時間が堪らなく好きだった。翔吾の十八番である法律談義。それはいつだって驚きと発見に満ちている。
「もし大樹がその毒入り飲料を口にして死亡した場合、俺とてっちゃんはいかなる罪に問われるか」
隣の大樹と顔を見合わせる。その怪訝そうな表情からして、大樹も同じ結論に至っているに違いなかった。
「殺人っしょ?」
当たり前だ。他に考えられない。
鉄平が答えると、翔吾は満足げに微笑んだ。その端正な顔立ちが、ランタンの灯りの織り成す陰影によってより艶っぽく、より妖しく浮かび上がる。さすがは弁護士一家の一人息子だ。全身から発せられる自信と余裕には、有無を言わさぬ威圧感と説得力がある。
「殺人未遂だよ」
「は? 死んでんのに?」
「因果関係がないから」
要するに、こういうことらしい。
翔吾が毒を盛らずとも鉄平の毒で大樹は死亡していた。同様に、鉄平が毒を盛らずとも翔吾の毒で大樹は死亡していた。つまり、翔吾と鉄平それぞれの行為と大樹が死亡するという結果の間には、因果関係が存在しないのだ。
「その行為が『なかりせば』被害者は死亡しなかった。そう言えない限り、殺人罪は適用できないんだ。まあ、学説はいくつかあるみたいだけどさ」
翔吾がそう締め括ると、大樹は「ほええ」と感嘆の声を漏らした。
「てか、これを使えば誰でもぶっ殺し放題じゃん」
「実際は無理だよ」
「なんで?」
「二人が共謀した時点で、それはもう共犯だから」
「バレないっしょ?」
「警察ナメすぎ」
二人のやりとりを聞き流しつつ、鉄平は次の煙草を咥え、ライターの火を点けた。口の中に煙を溜め、しばし転がし、自問してみる。だとしたら、自分にとっての「なかりせば」とはなんだったのだろう。なにが「なかりせば」、こうして高架下の空き家に夜な夜な集うこともなかったのか。深夜の産業道路をノーヘルで飛ばして警察に追い回されたり、近所のホームセンターからキャンドルランタンやラジオをパクったりせずに済んだのか。
思い当たる「なかりせば」はいくつもあった。いくらだって思い付いた。でも、強いて挙げるなら、あの晩の一撃が最大の分岐点だったように思えてならないのだ。
煙を吐き出し、握り締めた右手に視線を落とす。
いまでもこの拳の先は、あの日の生々しい感触を鮮明に覚えている。
