新潮社

試し読み

はじめに

 二〇一五年に小中学校の「道徳」が教科に格上げされ、教科書も検定教科書が使用されるようになった。あるとき、その小学「道徳」教科書の一部を見る機会があったのだが、意外に日本史上の人物の言行が多く採り上げられていることに驚いた。

  やまのうえのおく、良寛、二宮尊徳、吉田松陰、坂本龍馬、野口英世、杉原うね、などなど。

 はたしてこれらの人物が「道徳」教科書に採り上げる価値のある人物かどうか、さらにいえば、そもそも「道徳」という教科が必要あるのか、という問題はあるのだが、それはひとまずいておこう。むしろ私が面白いと思ったのは、ここで採り上げられている人物が、いずれも古代・近世・近代に活躍した人物ばかりで、私が専門とする「中世」の人物は誰一人紹介されていないということ、だった。
 そこで紹介されている人物は、いずれも質実、家族愛、立身、学究、憂国など、わが国で「道徳」的と考えられている徳目に合致する逸話や発言を(それが事実であったかどうかはともかく)残している者たちである。それに対して、まことに残念ながら、私にみのある中世の人びとは、おおむねそうした徳目とは無縁、もしくはそれらの希薄な者たちだったのである。教科書作成者がそれを意図的に行っているとしたら、それはそれで優れて鋭敏な配慮と思わざるをえない。たしかに中世を生きた人びとのなかには「道徳」的な人物は少ない。というよりも、むしろ、そうした私たちの既存の「常識」や「道徳」のらちがいにあることが、中世人の最大の特徴であり魅力なのである。
 本書で扱う日本の「中世」とよばれる時代は、一般的には平安時代後期(院政期、十一世紀後半)から始まって、鎌倉・南北朝・室町時代を経て、戦国時代の終わり(十六世紀中頃)まで、をさす。それぞれ、平清盛の政権や鎌倉幕府、室町幕府、戦国大名など、武士権力が大きな力をもった時代である。だから、この時期を「武士の時代」とイメージする人も多いだろう。しかし、現実には、この時期には武士だけではなく、天皇や公家、僧侶や神職たちも同じく支配階層として君臨していた。
 東国に鎌倉幕府がある一方で、西国には天皇を戴く公家政権が存在し、地方社会は彼らが支配する荘園によって分節化されていた。また、中世の終わりには、各地に戦国大名が割拠して、それぞれの支配地域を独立国として支配していたことは、ご承知のとおりである。そのうえ、庶民たちは「村」や「町」を拠点にして、独自の活動を展開していた。そこでは幕府法、公家法、本所法(荘園内の法)、村法など、独自の法秩序があり、幕府法が村法より優位ということは必ずしもなく、それぞれ等価に併存していた。それを考えるなら、中世は、日本の歴史のなかでも前後に類がないほど“分権”や“分散”が進行したアナーキー(無秩序)な時代だったといえるだろう。
 さらにいえば、彼らは、自分の利害を守るために「自力」で暴力を行使することを、必ずしも“悪”とは考えていなかった。やられたらやり返す。場合によっては、やられてなくてもやり返す。しかも、そうした衝動の発露を美徳とするようなメンタリティーを、彼らは持ち合わせていた。それは武士だけに限ったものではなく、僧侶や農民にまで通底するものであって、彼らは常日頃から刀を身に帯びて、往来をかっしていた。加えて、彼らは同じ仲間がこうむった損害を、みずからの痛みとして受け止め、万一、仲間が他の誰かによって傷つけられたときは、寺院や村をあげて集団で報復に乗り出す。それは、もう立派な戦闘行為という他ない。歴史教科書をみると、この時代は「〇〇の変」とか「××の乱」といった政変、戦乱が目白押しだが、それは史書に名をとどめたほんの一部の話であって、当時の社会では、現実にはそこかしこの様々な階層の間で、無数の無意味で名もない「変」や「乱」が巻き起こされていた。中世は、日本史上、最もハードボイルドな時代なのである。
 そんなアナーキーでハードボイルドな価値観をもった人びとが、現代の「道徳」教科書に載せられるわけがない! 「ちんが新儀は未来の先例たるべし(私の違法行為が将来の新ルールとなるのだ!)」(後醍醐天皇)とか、「よき友、三つあり。一つには物くるる友、二つには医師、三つには知恵ある人(友達にすると良いのは、物をくれる人、医者、知恵のある人)」(兼好法師)、「いずれの御方たりといえども、ただ強き方へしたがい申すべきなり(我々はどちらでも、ただ強いほうに味方するのだ!)」(和泉いずみくまとり荘の荘民)といった彼らの「名言」が「道徳」教科書に載る日は、今後も決して訪れることはないだろう。
 リーダーの主導のもと社会が統御されることもなく、異質で多様な価値観が拮抗して、先行きが見えない物騒な時代――。しかし、それは考えようによっては、特定の「主役」や、予定調和の「筋書き」や、お説教じみた「教訓」のない、躍動的な群像劇の時代ともいえる。また、彼らがまったく非常識で、非道徳的だったかといえば、そんなことはない。彼らには彼らなりの「常識」や、彼らなりの「道徳」があって、みなそれに従って行動していた。現代に生きる私たちの「常識」や「道徳」と、彼らの信じるそれが異なるだけであって、実は両者のあいだには優劣はないのだ。それどころか、ときには彼らの側の「常識」や「道徳」のほうが、私たちが奉ずるそれよりも優れていることすらある。中世を生きた人びとの最大の魅力は、同じ日本列島に住みながら彼らが私たちの「常識」や「道徳」から最も遠いところにいる存在であるという点にあり、彼らの社会を学ぶ面白さは、そんな私たちが安住している価値観を揺るがす破壊力にあるといえるだろう。
 以下、本書では、日本中世の特徴を物語る一六のテーマを、それぞれ「自力救済」「多元性」「人びとのきずな」「信仰」を主題とする四部に構成してお話ししていきたい。内容は、私が日々の生活で感じた現代と中世との相違や、出会った中世史料の詳細を紹介したエッセイなので、どこから読んでもらっても構わない。これ一冊で日本中世社会の概略が理解できるよう、扱う話題はなるべく多様なものを取り上げたが、そのために執筆では多くの先学の研究成果に依拠させてもらうことになった。それぞれのテーマを、より詳しく知りたい方は、ぜひ巻末の参考文献をご参照いただきたい。ただ、先学の学説をそのまま紹介するだけでは能がないので、その場合、なるべく先学も触れていない新史料をもとに解説を行うことを心がけた。また、すでに先学によって紹介されている既知の史料を紹介する場合は、その解釈や評価に私なりの多少のアレンジを加えることにも努めた。一般読者にとってはどうでも良いことかも知れないが、私の研究者としてのささやかなきょうを示したつもりである。
 では、皆さんを戦慄させる中世人の衝撃的な逸話の数々を紹介していこう!

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第2話 山賊・海賊のはなし
びわ湖無差別殺傷事件

第2話 山賊・海賊のはなし
びわ湖無差別殺傷事件

インドの山賊

 いまから三〇年近く前の学生時代、インドに一ヶ月ほど旅をしたことがある。そのとき、ある地方の街まで向かうのに、夕方から翌朝まで、現地の長距離夜行バスに夜通し乗らなければならなくなった。道はほとんど舗装されていないため車内の揺れは尋常ではなく、隣りの男の体臭も強烈で、真っ暗な車内で私はほとんど一睡もできなかった。窓際の席でもなかったから、退屈しのぎに夜空や夜道を眺めることもできない。しかも少し眠りに誘われると、きまって検問所や料金所にバスが停車して、せっかくの眠りが妨げられる。そんなことが深夜に何度も繰り返される。えらいところに来ちまったなぁ、と思いながら、翌朝、バスはどうにか目的の街に到着した。途中で何回か支払った有料道路代は運転手が頭割りに計算して、最後のバスステーションで乗客一人ひとりから追加徴収された。
 数日後、再び来た道を同じ長距離バスに乗って帰ることになった。行きの反省から、帰りは朝に出発して夕方に着く昼間の便に乗車することにした。ところが、乗っていて、行きの道とのある違いに気づいた。数日前、あれほどあった検問所や料金所がぜんぜん無い! バスは休憩用のドライブインまで、ほとんどノンストップである。ここは有料道路じゃなかったのか? 不審に思ったので、ドライブインで運転手にかたことの英語で問いかけてみた。すると、返ってきたのは驚愕の答えだった。
「ああ、あれは正規の料金所じゃないよ。山賊が勝手に建てた料金所なんだ。ここらには山賊があちこちにいるんだ。やつらは明るくなると警察の摘発を恐れて、ゲートや守衛小屋を片付けちまうんだ。だから、昼間はカネは取られない」
 えぇ〜! あのときの係員は「山賊」だったのか! 「山賊」といえば、私のなかでは髭づらで毛皮のベストを着た荒くれものという「まんが日本昔ばなし」に出てくる、あのイメージだったが、彼らはどうみても「有料道路公団職員」というふうていだった。じゃあ、そんないわれのない通行料なんて払う必要ないんじゃないか?
「いやいや、決められた料金を支払わないと、やつらは仲間を呼び集めてきて、大勢でバスを襲撃する。殺されたくなかったら、料金はそのつどちゃんと支払わないといけない。そのかわり料金さえ払えば、やつらは夜中でも安全にナワバリのなかを通してくれるんだ」
 頭がクラクラしてきた……。山賊は料金所職員であり、料金所職員は山賊でもある。通行料はりゃくだつに遭わないための山賊へのわいでもあり、というか、払わないと襲撃されるんだから、それは事実上、定額化された掠奪でもある。乱暴なんだか律儀なんだか。およそ現代日本では考えられない異常事態に、若き日の私はとんでもないカルチャーショックを受けたのだった。
 ちなみに、辺境ノンフィクション作家の高野秀行さんとの対談で、この話をしたところ、高野さんによれば、世界の辺境地域ではこんなことはいまも決して珍しい話ではないらしい(共著『世界の辺境とハードボイルド室町時代』集英社文庫)。

海賊は日本にもいた

 そんな大学生の私が大学院に進学して「日本中世史」を勉強しはじめて、いちばん驚いたのは、このインドで経験したのと同じようなことが中世日本でも起きていたということだった。
 室町時代の応永二七年(一四二〇)、日本にやってきた朝鮮国の使節ソンヒョンは、そのときの往復の航海の様子を紀行文として書き残してくれている。彼は京都で室町将軍にえっけんした帰路、瀬戸内海のかまがり(現在の広島県呉市)を通過するとき、地元の海賊の生態について、次のように記している(現代語訳)。

 この土地には東と西に海賊がいる。東から来る船は東の賊一人を同乗させて行けば、西の賊はこれを襲わない。西から来る船は西の賊を一人同乗させて行けば、東の賊はこれを襲わない。

 そこで、彼の船を引率していた博多の商人は銭七貫文を東の賊に支払って、東の賊のメンバー一人を船に同乗させて、その地を通行しようとした。七貫文は現在の貨幣価値にすれば、およそ七〇万円ほどであるから、決して安い金額ではない。交渉が成立すると、小舟が近づいてきて、東の賊の一人が彼らの船に乗り込んできた。その海賊は「私が来た以上はもう大丈夫。お役人方はご安心なされよ」と語ったという。
 海賊や山賊というのは、いつの時代も、やみくもに掠奪目当ての荒っぽい暴力を振るうばかりの集団ではなかったのだ。だいいち、いつもそんなことをやっていてはビジネスとして効率が悪すぎる。多くの場合、関所のように、彼らのナワバリの通行を許可するかわりに通行料をせしめるというかたちで、金銭を徴収していた。瀬戸内の海賊の場合は、通行証明兼用心棒として海賊を同乗させるというシステムになっていた。これを当時の言葉で「うわり」といって、全国各地にふつうに見られる慣習だった。もちろん、それを拒めば暴力や掠奪をうけるわけだから、この慣習も海賊・山賊と紙一重のものだったといえる。
 中世日本には、こんな怪しい関所や慣習があちこちにあった。当時、京都と大坂を結ぶ水運の大動脈だった淀川には三八〇ヶ所もの関所があって、それぞれ通行料を徴収していたといわれている(六一六ヶ所という史料もある)。もちろん地元の連中が勝手に建てたものである。淀川の京都〜大坂間の流路距離はわずか約四〇キロ。単純に計算すれば約一〇〇メートルに一ヶ所の割合で関所があったことになる。「インド人もビックリ」という言葉は、こういうときに使うのが正しいのだろう。ただ、さすがに一〇〇メートルごとに料金を徴収されてはかなわないので、おそらくさきの東の賊と西の賊の話のように、どこかの関所にまとめて通行料を支払えば、その系列の関所はフリーパスというシステムになっていたのだと思われる。
 では、彼ら山賊・海賊たちはまったく無法なゴロツキ集団で、なんの根拠も無く他人の財産や命を奪っていたのか、というと、そういうわけでもなかったようだ。彼らが徴収する金品は、その土地の神々への捧げ物としての意味があったと考えられている。その土地を通行する以上は、その土地の神々に一定の金品を奉納するのが当然だというのが、彼らなりの言い分だったらしい。
 たとえば、瀬戸内の海賊として最も有名なのが、村上海賊である。彼らは瀬戸内を通行する船に対して、一定の金銭の見返りにしょとよばれる通行証を交付していた。その現物は現在も二点伝わっているが、いずれも四角い布地の旗の真ん中に「上」の一文字が大書されている。
 この過所旗の「上」の字については、一般的には「村上」氏の「上」の字と理解されているようだが、「上」の字は動詞で「たてまつる」と読む。また、中世では神への捧げ物のことを「じょうぶんもつ」といったり、「はつ」といったりしたが、古辞書によれば「上」の字には「はつほ」という読みもあるという。おそらく村上海賊の過所旗の「上」の字も、本来は神への捧げ物という語義が含意されていたにちがいない。つまり、その旗を掲げる船はすでに土地の神への捧げ物を納めた船、あるいは現在積まれている船の積み荷自体がすでに神への捧げ物と考えられ、村上氏配下の海賊からの襲撃をまぬがれることができたのだろう。中世は「神仏の時代」であり、一見無法にみえる彼らの行動のなかにも、その時代なりのロジックが存在していたのである。

琵琶湖の「海賊」

 当時、数ある海賊集団のなかでも、村上海賊と並んで有名だったのが琵琶湖に面した近江おうみかた(現在の滋賀県大津市)の海賊である(琵琶湖は海ではないので、厳密には「海賊」ではなく「湖賊」なのであるが、彼ら自身が「海賊」と自称しているので、ここではそれに従おう)。中世以来、堅田では琵琶湖に突き出したうきどうというお堂が土地のシンボルになっており、浮御堂越しに見る琵琶湖の夕景は昔から「近江八景」の一つに数えられている(現在の堂は一九三七年再建)。では、なぜこの風光めいな堅田が海賊の一大根拠地になってしまったのだろうか。
 それは滋賀県の地図を眺めてもらえれば、すぐわかる。琵琶湖は縦に延びた日本最大の湖で、中世では北陸から京都に向かう物資は、みな琵琶湖上の水運を利用して運搬された。しかし、この琵琶湖は堅田付近で、まるでひもで縛られたように細くくびれている。広いところでは湖東と湖西の間の距離は約二〇キロほどもある琵琶湖だが、この堅田付近だけは湖東と湖西の距離はわずか一キロほどしかない。堅田から対岸はいつでも見通せる距離にある。そのため琵琶湖を運行する船は、必ず堅田の目先を通行しなければならなかった。琵琶湖を運行する船から通行料を徴収しようとする場合、琵琶湖の自然の関門となっていた堅田は、最良の場所だったのである。
 堅田自体は小さな町ながら、この立地を活かして、当時「湖九十九浦ぎょう」といわれ、琵琶湖全域にわたる支配権を保持していた。この時期の堅田の風景を描いた『近江名所図』にも、湖畔の集落の端に、たけらいで囲まれた役所のような建物が描き込まれている。そばには腰を低くしてその建物に近づく人物が描かれ、その手前には積み荷を満載した船が接岸されている。これは関所の建物と考えられ、琵琶湖を往来する船は必ずこの場で停船して、通行料を支払うことが義務づけられていたのだろう。もちろん支払わずに強行突破しようとした船は、狭い水道でたちまちされてしまい、堅田の海賊衆からとんでもない制裁を受けることになる。中国の古典『すいでん』に、山賊たちが立て籠もる「りょうざんぱく」という治外法権の沼沢地が描かれているが、まさに堅田の存在は「日本版梁山泊」といったところである。

大量殺人、そして……

 さて、この町にひょうという名の青年がいた。この男も他の堅田の住人と同じく、周辺を通行する船から通行料をとったり、手広く水運業を行ったり、場合によっては海賊行為を働いたりして生計を立てていた。ある日、ぐろさん(現在の山形県)から一五人の山伏と一人の少年の一団が堅田に来訪した。彼らは少年を京都の総本山しょういんで出家させるための長旅の途中で、このとき兵庫の持ち船に乗って、琵琶湖を南下、淀川を下り京都をめざす予定となっていた。おそらく彼らは往復の旅費のほか、本山に納めるための、それなりの上納金も所持していたはずである。
 こともあろうに兵庫は、その彼らの所持金に目をつけ、強盗を思いたったのである。その計画は非常に巧妙かつ残忍なもので、船が堅田を過ぎ、五〜六キロほど南の対岸、烏丸ヶ崎(現在の草津市)に差し掛かったところで、手下の者たちの武装船を送り込み、一気に彼らを皆殺しにするというものだった。
 かくして、山伏一行の長閑のどかな船旅は暗転する。
 人目のない岬の陰にまわりこんだところ、船は突如、不審な海賊船に進路をはばまれることになる。それに呼応し、いままで山伏たちを乗せていた船の船頭も海賊の正体をあらわにする。船のまえには海賊、船のなかにも海賊。湖上はあっという間にきょうかんの修羅場と化す。なかには、逃げ場を失い水面に身を投じる者も出る。しかし、水練に巧みな兵庫の手下の者どもは、ひそかに槍を構えて船底に潜り込んでいた。彼らは湖に飛び込み逃げようとする山伏たちを水中から一人ひとり槍で串刺しにしていく。血に染まる湖面——。船上にいた山伏たちはひとたまりもなく、わずかな時間で、そのほとんどが殺害されてしまった。
 最後に船上に残ったのは、出家を予定していた少年と、その後見役の僧侶の二人だけだった。死を覚悟した僧侶は、海賊たちに対して次のような懇願を行った。
「船頭殿に申し上げる。私の命はもはや惜しくはない。そのかわり、ここにいる、まだ一三歳の少年の命だけは助けてほしい……」
 これを聞いた船頭は「心得た」とはいったものの、次の瞬間、僧侶も少年も二人ともに殺害してしまう。なんたる非情だろう。現代であれば、琵琶湖周航船の運営会社が組織ぐるみで乗客一六人を船上で皆殺しにして金品を奪ったようなものである。被害者のなかに命乞いまでした未成年の男児も含まれていたとあっては、間違いなくたいへんなニュースになるであろう。山賊・海賊にもそれなりの正当性があり、社会的にもその存在は必要悪として許容されてはいたものの、やはり、ひとつ間違えば、このような悲惨な事件が日常的に起こりうるのが、中世社会の実態だったのだ。しかも、現代のような警察機構もなかった時代、被害者を皆殺しにしてしまえば、事件自体を闇に葬り去ることも可能だった。
 しかし、「悪事、千里を走る」とは良くいったもの。皆殺しにしたと思っていた山伏たちのなかに一人だけ、死んだふりをして辛くも窮地を逃れた者がいた。彼は現場から逃げ出し、必死で二〜三キロ南のしもがさ村(現在の草津市)までたどり着き、村人に助けを求める。これにより兵庫の凶悪犯罪はたちまち露見し、大量殺人の事実は山伏の総本山聖護院にまで知られてしまうことになる。憤激した聖護院側は事の次第を室町幕府に訴え出て、事態は一人の海賊の逸脱行為にとどまらず、堅田全体の責任を問う流れとなっていく。
 事態の推移にあわてた堅田の住人たちは、事件を起こした兵庫と、その父だんじょうの行方を追う。そんなことになっているとも知らない兵庫親子は、琵琶湖の北端の村、海津(現在の高島市)にいた。おそらく彼らは琵琶湖を股に掛けた交易活動を展開しており、日夜、堅田にとどまらず、様々な琵琶湖の港湾をビジネスで飛びまわっていたのだろう。しかし、堅田からの飛脚で、わが子の犯した取り返しのつかない過ちを知った父弾正は、穏やかな口調で次のように語った。
「他人の身代わり、ましてわが子の身代わりに、わし一人が腹を切って、その首が京都に上ることになれば、堅田に災いが降りかかることもあるまい……」
 そういって弾正は堅田に急いで戻ると、自分の屋敷に戸板や畳を用意して、冷静な様子で切腹を行い、みずから命を絶った。彼の首はすぐに京都に届けられ、これにより聖護院の怒りはなだめられ、以後、堅田全体に事件の責任が波及することはなかった。
 しかし、自分の浅はかな行いによって父の命が失われたことを知った当の兵庫の衝撃は大きかった。世の無常を思い知った彼は、そのまま俗世を捨てて、遍歴の旅に出てしまう。そして近江のえいざん、紀伊のこうさんごろかわでら、大和の多武とうのみねなど、全国六〇余州の霊仏霊社に足を運び、魂の救済を求める。ところが、「五逆十悪の罪人」である彼の魂を救済する寺社など、どこにも見つからなかった。そんな彼が最後に生まれ故郷の堅田の鎮守、大宮に戻り、百度詣でを行い、おこもりしていたところ、彼の夢のなかに神が現れる。その神の啓示するところによれば、ほんぷくを訪ねよ、とのことであった。はたして彼は本福寺に赴き、そこで浄土真宗にし、阿弥陀如来への信心に目覚めるのだった。その後の彼の信心の堅固さは並みのものではなく、「悪に強きものは善に強き」とは、まさに彼をこそ指し示す言葉であると噂された——。

「日本版梁山泊」を束ねた浄土真宗

 以上は、堅田の本福寺(浄土真宗本願寺派)に伝わる戦国時代の記録『本福寺あとがき』に記されている逸話である。しかし、この話、最後をイイ感じにまとめているようでいて、実のところ、現代人の私たち読者を戸惑わせるに十分な内容をもっている。
 そもそも何の罪もない旅人を一六人も殺害しておいて何とも思わなかったのに、たった一人の身内の死によって世をはかなむとは、最後まで兵庫は自分勝手が過ぎるだろう。しかも、仏道への帰依の根本的な動機も、罪のない人々の命を奪ったことへの反省ではなく、父を死なせてしまったことへの後悔、もしくは自身の後生への不安があったようにしか思えない。要するに、最後まで彼に海賊行為への反省はうかがえないのである。しかし、それは彼ひとりの独善的な思考でもなかったようだ。その証拠に、この話を記録した本福寺の僧侶も、これを心温まるイイ話として紹介しており、そこに作者の躊躇ためらいはない。この逸話には、あえて兵庫の過去の罪業の深さを強調することで、そんな「悪人」すらも救済されるという浄土真宗の教義と、彼の帰依心の崇高さを際立たせる意図があったのだろう。しかし、それにしては、あまりにその闇が深すぎるのである。いったい、これをどう考えればよいのだろうか。
 思うに、当時の人々にとって、人間の生命というのは、つねに等価とは限らなかったのだろう。生活空間の外部からやってきて通り過ぎていくだけの山伏や旅人のような人たちは匿名的な存在であり、通り過ぎれば、二度と生涯、出会う可能性もなかった。彼らがそのさきどうなろうが、知ったことではない。これに対して近隣住人や家族との間には、いまの私たち以上に濃密な関係が築かれていた。いざというとき、いちばん頼りになるのは同じ村や町の近隣住人や家族であって、彼らはつねに村や町あっての私、家あっての私だった。当然、彼らにとって、外来の旅人と内輪の知人では、その命の価値はおのずから異なるものとなった。旅人を何人殺しても悪びれるところのなかった兵庫が、たった一人の身内を失っただけで自我の不安におちいったのも、無理からぬところであった。
 とはいえ、私たちもそんな彼らの人間観を野蛮なものと軽蔑することは許されないだろう。海外の見知らぬ国で大規模なテロや事故が起きた際、決まって「この事件での日本人の犠牲者は確認されませんでした」などとおくめんもなく報道されるテレビニュースや、それを聞いて少しほっとした気持ちになってしまう私たちの心性にも、それと似たものがありはしないだろうか? 私たちも知らず知らずのうちに「日本人」と「外国人」と、人間の生命の重さに一定の偏差を設けているのである。そう、中世日本人にとって、村や町の人と、その外部の人の間には、現在の私たちでいうところの「日本人」と「外国人」に似た、あるいはそれ以上の、小さからぬ隔たりがあったようなのである。この心性が、中世社会において、様々な悲喜劇を巻き起こしていくことになる。
 なお、この事件を起こした兵庫が、最後に心の拠り所にした浄土真宗は、鎌倉時代にしんらん(一一七三〜一二六二)が興した宗派として広く知られている。親鸞時代にはさほど有力ではなかった浄土真宗であるが、この時期、親鸞の「あくにんしょう」(自力で功徳を積むことができない「悪人」こそがむしろ救われる)の思想が多くの人々に受け入れられ、一気に教線を拡大する。さらに戦国時代になると、その力は一向一揆として、世俗権力を圧倒するまでの勢いを示すようになる。
 しかし、一方でそこに身を投じていった人々は、兵庫のような殺人をものともしない真の「悪人」で、しかも水運業にけて、首都圏の富の動きを一手に握るようなたくましい者たちでもあった。浄土真宗本願寺教団は、そんな全国各地の「日本版梁山泊」と、そこに拠る山賊・海賊的な人たちを束ねて組織化することに成功した。戦国大名や織田信長(一五三四〜八二)をしんかんさせた一向一揆の強さの秘密の一端は、そんなところにもあったのである。

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第7話 人身売買のはなし
餓身を助からんがため……

第7話 人身売買のはなし
餓身を助からんがため……

能「自然居士」

 (一三六三?〜一四四三?)の父、かん(一三三三〜八四)が作ったとされる能で、「ねん」という作品がある。主人公の自然居士は、鎌倉時代の京都に実在した半僧半俗のせっきょう。彼の説法は庶民にもわかりやすい解説とパフォーマンスで知られ、彼が登壇する説法会はいつもファンで超満員だった。いわば当時のカリスマ・タレントである。
 ある日、京都東山のうん寺というお寺での出来事である。この日は、寺の修繕費集めのための七日間におよぶ、自然居士スーパー説法ライブの最終日だった。境内は自然居士目当ての信心深い男女で大賑わい。そんな聴衆のなかに、死んだ両親の供養を願って、美しいそでをおとして持参してきた一四〜五歳の少女がいた。
 じつは彼女は、自分の身を人買い商人に売って、それで得た代金で小袖を買い、両親のための読経を依頼しにきたのだった。両親の供養のために我が身を犠牲にするとは、あまりにも切ない。この日がイベント最終日だったことを考えると、ここ数日の彼女の時間は、小袖を買うために方々に頭を下げてまわる金策に費やされたのか。あるいは、数日間のしゅんじゅんのすえ、ついに彼女は、この決心に行き着いたのか。
 そんな彼女のお布施がわりの小袖を受取った自然居士は、一瞬でその深い事情を察知する。「これは少女がわが身を売って手に入れたものにちがいない」。しかし、彼にはどうしてやることもできない。小袖に添えられた手紙には、「こんなつらく恨めしい世など早く離れて、亡き父母とともに極楽の同じ蓮の花のなかに生まれ変われたら……」との哀切な思いも記されていた。
 と、そこへ非情な二人の人買い商人が少女を捜しに現れる。少女はわが身を売った後、少しの時間が欲しいといって、雲居寺の説法会に出向いたのだった。しかし、彼らはそのまま彼女に逃げられてはかなわないと、しびれを切らして連れ戻しにきたのである。少女を見つけた人買いたちは、説法も聴かせず、そのまま無理やり彼女を引っ立てる。それを見ていた自然居士は、まわりが止めるのも聞かず、説法を中断して、そのまま小袖を手に彼らのあとを追って飛び出していく。
 ところ変わって、琵琶湖のほとりの大津(現在の滋賀県大津市)。人買いたちは少女を国(現在の東北地方東部)に売り払おうと舟に乗せ、いまにも漕ぎ出そうというところであった。少女は気の毒にも縄で縛られ、口には猿ぐつわがかまされていた。そこへ自然居士が追い付いて、待ったをかける。舟に取りついた彼は「小袖は返すから、少女を引き渡すように」と、人買いたちに交渉を持ちかける。これに対して人買いたちは、次のように答えて、自然居士の提案をいっしゅうする。
「返してやりたくても、そうはいかない。オレたちのなかには『たいほう』があって、それは『人を買い取ったら、ふたたび返さない』という『法』なのだ。だから、とても返すわけにはいかない」
 これに対して自然居士も「それならば、私たちのなかにも『大法』がある。『こうして身を滅ぼそうという者を見かけたら、それを救出しなければ、ふたたび寺には帰らぬ』という『法』だ」と、反論する。腕っぷしが自慢の人買いたちは一歩も引かず、逆に自然居士は命も危ぶまれる状況に陥る。かくして、「そなたの法をも破り申すまじ、またこなたの法をも破られ申し候ふまじ(そちらの法も破るわけにはいかない。また、こちらの法も破るわけにはいかない)」。両者はにらみ合いの形勢となる。
 中世の日本社会は、朝廷や幕府などの定める「大法」とはべつに、様々な社会集団に独自の「大法」があって、それがおのおのきっこうしながら、併存していたところに特色がある。人買いたちの「大法」も、そのうちの一つである。もちろん特定のコミュニティーのなかに固有のルールが存在すること自体は、現代の学校の校則や会社の就業規則を思い浮かべればわかるように、いつの時代でも決して珍しいことではない。ただ、当時の社会の独特なところは、ここでの人買いたちの態度からもわかるように、それが公的に定められた法に反するものであったとしても、彼ら自身、それを堂々と主張し、時としてそれが公的に国家が定めた法よりも優越することがありえたというところだ。話は「赤信号は渡ってはいけないが、現実にはそのルールを破る人もいる」といったレベルではなく、「赤信号は渡ってはいけない、というルールがある一方で、赤信号を渡って何の問題があるんだ、というルールも存在する」という状況だったのだ。
 能「自然居士」は、その後、人買いたちの求めるままに自然居士が即興でみごとな舞をまってみせて、彼らを感嘆させ、少女の解放に成功するというハッピーエンドで終わる。しかし、これはあくまでフィクション。現実の人身売買の現場では、そうはうまくいかなかっただろう。まして人買いたちの行為は、「大法」によって守られていたのである。今日は、そんな人身売買という中世日本のダークサイドの実態と、それを成り立たせていた社会の実像を考えてみよう。

東国はフロンティア

 室町時代の文芸作品で人身売買を主題にしたものは、他にも意外に多い。なかでも有名なのは、能「すみがわ」だろう。幼いひとり息子、うめわかまるを人買い商人に誘拐されてしまった母が、遠く京都から武蔵むさし国(現在の東京都と埼玉県)の隅田川まで、行方を追い求めて訪れるという話である。わが子を奪われた悲しみに半狂乱で隅田川までたどり着いた母は、渡し舟の船頭から、梅若丸は去年の三月一五日にこの川のほとりで息絶えていたことを聞かされる。慣れない旅路で体調を崩した幼い梅若丸は川岸まで来たところで動けなくなったため、人買いたちに捨てられ、そのまま息を引き取ったのだった。亡くなる直前、梅若丸は地元の人々に自身の素性を語り、せめて死後も都を懐かしむために、都の人々も往来するであろう、この道端に塚を築いてくれるように言い遺す。以来、近所の人々は梅若丸の塚のまえで大念仏を催して、少年の霊を慰めているのだった。息子の非情な運命を知った母は塚のまえで悲嘆に暮れるが、最後にわずかな救いとして、大念仏の声に混じって微かながら梅若丸の声とその姿が現れ、幻想的な気配を残したまま物語は終局を迎える。
 この作品の場合は、「自然居士」と違って、みずからの意志で身売りするのではなく、人買い商人に騙されて売られてしまったケースであるが、似たような能は「さくらがわ」「しの」「はま平直ならし」「そうてん」「いなぶね」など数多い。それだけ、当時の社会で人身売買はありふれた「悲劇」であったということなのだろう。
「自然居士」でも「隅田川」でも、売られた先で彼らを待ち受ける運命は詳しく描かれていないが、当時、売られた男女は「にん」とよばれる奴隷とされ、裕福な家の召使いとして使役されることになった。「自然居士」では、少女は縄で縛られ、猿ぐつわをかまされ、時に人買いたちに舟のかいでさんざん殴られたりしているし、「隅田川」では梅若丸は重病を患うと、そのまま道端に捨てられてしまっている。まさに非人間的な「奴隷」としての扱いである。ちなみに、当時の人身売買の標準相場は一人につき銭二貫文。現代の価値には単純に換算できないが、米相場から類推すれば、一貫文はおよそ一〇万円ぐらい。つまり、わずか二〇万円ほど、安い中古バイク一台ていどの値段で、人間ひとりが売買されてしまうのである。
 鎌倉後期、おおすみ国(現在の鹿児島県東部)のたけきよつなという武士が、財産を子供たちに相続させるために作成した財産目録が残されている(『禰寝ねじめ文書』)。それなどを見ると、彼の所有していた下人は、なんと九五人にものぼる。なかには下人同士で夫婦や家族を構成していた例も九組(二七人)あり、おそらく彼らについては、独立して住居を営んでいたのだろう。ただ、独身男性一八人・独身女性二二人・父子家族三組(七人)・母子家族九組(二一人)については、建部氏の館のなかで共同生活を強いられていた可能性が高い。
 また、同じく鎌倉後期、安芸国のどころとおかねという武士の財産目録にも、男性五五人、女性二人の下人がリストアップされている(『田所文書』)。女性下人の記載は途中で欠けている。おそらく女性が二人だけというはずはなく、本来は男性と同数、全体でやはり一〇〇人前後の下人がいたものと思われる。彼らは館内の家事だけではなく、主人が領有する広大な田畑の耕作に従事させられたのだろう。ここまで来ると、もはや「企業」といってもいい規模である。しかも、これらの目録はいずれも遺産相続を前提にして作成された文書なので、彼ら下人たちは主人の死後、“財産”の一部として遺族たちで分配されてしまうのである。
 こうした富豪による大土地経営が大規模に展開されたのが、とくに東北地方だった。当時、畿内や西日本は政治・経済の中心地であったということもあり、田畑の開発は限界近くまで進み、飽和状態に近かったが、東北地方はいまだ未開の荒野が広がるフロンティアだったのである。そこにはまだ土地は無限にあり、労働力を投下すればするだけ、富を生み出す余地があった。当然ながら、東北地方での労働力需要は高かった。
 さきの「自然居士」で、少女を売り飛ばそうとした人買いたちが大津から琵琶湖を渡ろうとしたことを思い出してほしい。彼らは少女を最終的には陸奥国へ売り飛ばそうとしていたのである。また「隅田川」でも、かどわかされた梅若丸はやはり都から武蔵国へと連れられていった。その他、「桜川」の桜子は、生国の日向ひゅうが国(現在の宮崎県)を遠く離れたたち国(現在の茨城県の大半)で身売りをしているし、「稲舟」は、京都ではぐれた子が売られた先のがみがわ(現在の山形県)で父と再会する話である。いずれも人身売買のベクトルは東国(とくに東北地方)へと向かっている。それだけ、当時、身売りしたり、かどわかされた少年・少女は、フロンティアである東国に投入されるというのが定番だったのだ。
 そのためか、陸奥国の戦国大名たねむね(一四八八〜一五六五)が定めた領国内の法律(分国法)には、下人の所有をめぐる主人間のトラブルに関する規定が具体的で目立って多く、逆に土地領有をめぐる規定は少なく、内容も形式的である。それだけ当時の東北地方では、労働力の奪い合いが紛争の焦点になっていたのだろう。中世末期の日本の農業開発は、彼ら下人たちの辛苦で担われていたのである。

飢饉は法を超える

 それにしても、人間をまるでモノのように売買する「人身売買」などと聞くと、現代に生きる私たちは、まったくおぞましい忌むべき話にしか感じられない。ところが、話はそう簡単に善/悪で割り切れるものではなかった。
 延応元年(一二三九)四月、鎌倉幕府は次のような法令を出している(現代語訳)。

一、かんの大飢饉(一二三〇〜三一)のとき、餓死に瀕して売られた者については、彼らを買い取って養育した主人の所有を認可した。本来、人身売買はかたく禁じられていることであり、これは飢饉の年だけの特例措置である。しかし、その後になって、身売りした者を飢饉のときの安い物価で買い戻そうというのは、虫が良すぎる話である。ただし、売買した双方が納得ずくで現今の相場で買い戻すのなら問題はない。

 寛喜の大飢饉とは、日本中世を襲った飢饉のなかでも最大級のもので、当時「全人口の三分の一が死に絶えた」(『立川寺年代記』)といわれたほどの大災害である。わが国では古代以来、原則的に人身売買は国禁とされていたが、このとき鎌倉幕府は時限的に超法規措置として、人身売買を認可したのである。その理由は、餓死に瀕した者を養育した主人の功績を評価して、とのことだった。
 もちろん、それは表向きの理由で、実質はこの機会に貧乏人の足元を見て下人を買いあさり、経営を拡大しようとする富豪たちの利益を幕府が保護しようとした、と考えることもできる。しかし、幕府法以外でも、飢饉における人身売買は特例である、という意識は思いのほか社会に浸透していたようだ。次に紹介するのは、この頃に父母がわが子を他人に売却したり、質入れした人身売買文書のなかの一節を現代語訳したものである。

*「去る寛喜の大飢饉のとき、父も息子二人も餓死寸前であった。このまま父子ともに餓死してしまっては意味がない」(一三歳と八歳、代四〇〇文と一一〇文、一二三六年、『嘉禄三年大饗次第紙背文書』)

*「この子は飢餓で死にそうです。身命を助けがたいので、右のとおり売却します。……こうして餓身を助けるためですから、この子も助かり、わが身もともに助けられ……」(八歳、代五〇〇文、一三三〇年、『仁尾賀茂神社文書』)

*「今年は飢饉で、このままではわが身も子供も飢え死にしてしまうので、子供をご家中に置かせてもらいます」(九歳、代二〇〇文、一三三八年、『池端文書』)

 これは現代まで残された人身売買文書の一部に過ぎないが、いずれも飢饉でやむを得ずわが子を売却するのだ、という親の心情が切々とつづられている。このうち、まず注目してもらいたいのは、ここでの彼らの売却価格である。さきに述べたように、当時の人身売買の相場は一人二貫文である。それに比べて、彼らは五〇〇文から一一〇文と、相場の1/4から1/20の値段(ほぼ五万円から一万円!)で売却されてしまっている。それだけ飢饉時には困窮者や破産者が続出して、人身売買相場も異常なデフレ現象をみせていたのだろう。ただでさえ人身売買は禁じられているのに、こんな破格の値段での人身売買は到底許されることではない。
 しかし、それでも飢饉時の人身売買は幕府も黙認せざるを得なかった。理由は、これらの文書に綴られているとおり、「しんを助からんがためにて候」、あるいは「父子ともに餓死のじょう、はなはだ以てそのせんなし」。すなわち、このままでは当人も親も餓死してしまう、死んでしまうぐらいなら、一人が下人に身を落として、当人も親も助かるほうがマシである、というギリギリの選択だった。「自由や尊厳を奪われるぐらいなら名誉ある死を」というのは、それ自体、聞こえのいいものだが、それはしょせん衣食住が満たされた者のぜいたくな望みなのかも知れない。それよりも、ともかく「生きる」こと、それが彼ら中世人にとっての価値だったのである。
 こうした当時の人々の意識に押されて、鎌倉幕府も飢饉下の人身売買には目をつぶらなければならなかったし、本来違法である人身売買でも、その売買契約書に「飢饉下である」旨が記載されていれば、合法扱いとされたのである(さきに挙げた人身売買文書の一節も肉親の情愛がされた文面とみることもできるが、一方で、本来は違法であるれんの人身売買契約を合法化するため、主人側から求められて書かされた可能性もある)。この後も戦国時代まで、日本中世では「飢饉」や「餓死」を理由に、人身売買は半ば合法化されることになる。飢饉にともなう人身売買は、中世社会を維持するためのサブ・システムとして、社会の構造に組み込まれていたわけである。

人買いの「正義」

 さて、そう考えると、冒頭で紹介した「自然居士」で、人買い商人たちが主張した「人を買い取ったら、ふたたび返さない」という「大法」も、あながち不当な言い分とはいえなそうである。さきの延応元年の鎌倉幕府法の前段では、飢饉下では特例として人身売買を公認したと述べていたが、その後段では、「しかし、その後になって、身売りした者を飢饉のときの安い物価で買い戻そうというのは、虫の良すぎる話である」という文章が続いている。これは、人買いたちのいう「人を買い取ったら、ふたたび返さない」という主張によく似ている。
 日本を揺るがした未曾有の大飢饉が収束して八年、当時、破格の値段でわが子を手放した親たちが自身の生活を立て直し、あのときに手放したわが子を買い戻そうという動きが全国で現れていた。しかし、問題なのは、その際の値段交渉である。飢饉下では貧乏人の足元をみて二束三文に買い叩いておきながら、飢饉が収まったら、常識的な相場でないと返さないなんて、あまりにあくらつだ、というのは親たちの当然の言い分だろう。しかし、さきの人身売買文書で売買対象になった者たちの年齢に注目してほしい。ほとんどが一〇歳未満なのである(これは数え年なので、現代の年齢なら九〜八歳未満にあたる)。これは現存する他の人身売買文書についてもいえることだが、飢饉下で身売りをする下人というのは、ほとんどが現代なら小学生ていどの年齢なのである。無理やりに働かせることもできなくはないだろうが、まず成人と同じ労働量は見込めないだろう。それでも生きている以上は、彼らに食事や衣服は与えなければならない。
 だとすれば、もし飢饉収束後に飢饉当時と同価格での買い戻しが認められてしまったら、下人を購入した主人たちは、将来への投資として彼らを養育しておきながら、その投資をまったく回収できないことになってしまう。これでは、バカをみるのはタダ飯を食わせた主人たちである。不景気のときは平身低頭して身売りしておきながら、景気が良くなったら恩を忘れて、現在の物価を無視して買い戻そうとするなんて、ありえない。これは、主人たちの側の当然の言い分だろう。鎌倉幕府法で飢饉当時の価格での買い戻しを禁じているのも、それなりに意味のあることだったのである。
 現存する人身売買文書のなかには、「飢饉のため当時(=現在)の二〇〇文は、日頃の二貫文にも当たり候」という一文を書き加えているものもある(『池端文書』)。これも、後日、購入価格が不当であるというクレームをつけさせないために、購入者側の要望で加えられた一文なのだろう。おそらく「自然居士」の人買い商人たちが「人を買い取ったら、ふたたび返さない」というのも、購入時の相場と買い戻し時の相場の激変があることを見越して、そうしたトラブルを未然に防ぐために生み出した法慣習と見るべきだろう。「正義」の反対は「悪」ではない。「正義」の反対には「もう一つの正義」が存在していたのである。

悲劇の誕生

 東京都墨田区の隅田川沿いの公園に、もく寺という寺がある。そこは能「隅田川」に出てくる、母に逢うことなく死んだ梅若丸少年を祀る寺で、寺内にはガラス張りの梅若念仏堂、隣には梅若丸を葬った梅若塚が残されている(寺号の「木母」は「梅」を二字に分割したもの)。「隅田川」のストーリー自体はフィクションであるが、室町時代には無数の「梅若丸」がいたはずで、そうした悲劇をいまに語り伝える遺跡といえるだろう。毎年、梅若丸が絶命したとされる四月一五日(旧暦三月一五日)には、「梅若忌」が営まれている。春は、現代人にとっては生命の活力蘇る季節として花見だ入学式だと喜ばれるが、中世では三〜四月は、前年秋の収穫物を消費し尽くして、五月の麦が収穫される前の、最も飢餓に襲われやすい過酷な季節だった。実在の「梅若丸」たちも、この時期に身を売られたり、はかなくなったにちがいない。梅若丸の命日が「三月一五日」というのも、そんな中世の記憶を反映しているのかも知れない。
 室町時代は飢饉や戦乱で人身売買がさらに盛んに行われた時代だが、唯一の救いは、そうしたなかで、「自然居士」や「隅田川」など人身売買を「悲劇」とする文芸が多数生まれたという点だろう。一方では鎌倉時代以来の「餓身を助からんがため」人身売買を許容する風潮も根強くあったが、時代はしだいに人身売買を「悲劇」として語るようになり、人々に「人身売買は克服すべきあくへいである」という自覚が生まれていったのである。ここに、わずかながらの歴史の「進歩」を認めることができるかも知れない。
 天正一八年(一五九〇)四月、小田原北条氏を滅ぼし天下統一を果たした豊臣秀吉は、関東の大名たちに宛てて人身売買の全面禁止を命じている。とくに東国は、人身売買が野放しの土地柄だった。「東国の習いとして女・子供を捕えて売買する者たちは、後日でも発覚次第、成敗を加える」(真田昌幸宛て朱印状)。中世から近世へ、時代は人身売買を必要悪として黙認する社会から、それを憎むべき悪弊とする社会へと変化していったのである。
 しかし、残念ながら現代の日本社会においても、「奴隷」は存在している。借金で縛られ、あるいは口ぐるまに乗せられ、体罰や脅しによって自由を奪われ、売春や不当な低賃金長時間労働を強いられる人々は、明確に「奴隷」と定義される。国際NGOのウォーク・フリー・ファンデーションによれば、その数はわが国だけで三万七〇〇〇人にものぼるという(二〇一八年現在「世界奴隷指標」)。人間を隷属させることを「悲劇」とする発想を中世日本人は獲得したものの、いまだそれを完全に克服した社会は訪れていないのである。まだ私たちは長い歴史の発展途上にいる。この事実のもつ意味は、重い。

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第9話 婚姻のはなし
ゲス不倫の対処法

第9話 婚姻のはなし
ゲス不倫の対処法

女たちの復讐

「みなさんは“うわなり打ち”って聞いたことありますか?」
 この問いかけで始まる授業を、私はもう何年繰り返しただろう。大学の教壇に立ってかれこれ一〇年以上になるが、毎年、大教室の講義で話題にすると妙に盛り上がるのが、このネタである。漢字で「後妻打ち」と書いて、「うわなりうち」と読む。その内容を簡単に説明すれば、こういうことになる。
 妻のある男性が別の女性に浮気をする。というのは、好ましいことではないにせよ、現代でも時おり耳にする話である。しかし、これが「浮気」ではなく「本気」になってしまったとき、悲劇は起こる。夫が現在の妻を捨てて、べつの新しい女性のもとに走る。そんな信じがたい事実に直面したとき、現代の女性たちならどうするだろうか? ただ悲嘆に暮れて泣き明かす? 証拠をそろえて裁判の準備? 週刊誌に告発? あまい、あまい。そんなとき、過去の日本女性たちは、女友達を大勢呼び集めて、夫を奪った憎い女の家を襲撃して徹底的に破壊、ときには相手の女の命を奪うことすら辞さなかったのである。
 これが平安中期から江戸前期にかけてわが国に実在した、うわなり打ちという恐るべき慣習である。夫に捨てられた前妻(古語で「こなみ」という)が仲間を募って後妻(古語で「うわなり」という)を襲撃するから、その名のとおり、うわなり打ち。今日は、そんなうわなり打ちの習俗を題材にして、日本史上の女性の地位と婚姻制度の関係について考えてみたい。

ハレンチ代官の罪状

 その凄惨な事件は、室町時代の中頃のびっちゅうかんばらごう(現在の岡山県総社市)という荘園で起こった。上原郷は京都の東福寺が支配する所領で、京都から代々東福寺の僧が代官として派遣されて、荘園の管理業務が執り行われてきた。ところが文安元年(一四四四)一二月、その代官の不正に耐えかねた百姓たちが、荘園領主である東福寺に対して告発状を送りつけ、その非法の数々を暴露したのである(『九条家文書』)。
 代官の名前は、こうしん。室町期の荘園史上、最もハレンチな代官として、その悪名を知られた人物である。彼に対する百姓たちの告発状は、一七ヶ条にも及ぶ。その一部を紹介すれば、以下のとおりである。自分の田地の耕作のために、郷内の男女を食事もやらずに日の出前から日没後まで強制的にこき使う。困窮して年貢を支払えなくなった百姓たちの年貢滞納額を、そのまま借金として貸し付けたことにして、そのうえどんどん利子を加えていく。本来、上原郷は東福寺領荘園として、備中国守護であろうとも手出しできない特権が認められていたにもかかわらず、備中守護細川氏とつながり、まるで上原郷を細川氏の所領のようにしてしまう。あげくは、ことあるごとに「東福寺がオレを任期途中でクビにしたら、この荘園を守護領にしてやる」と、脅迫まがいのことを口にする、などなど。
 この手の告発状の常として、書かれていることのすべてが真実とは限らない。とくに告発状の最後で守護細川氏による荘園侵犯の危険が述べられているくだりは、光心の存在が自分たち百姓だけでなく、それを放置すれば荘園領主にとっても害悪になりうるということをにおわせていて、東福寺への巧妙な揺さぶりとなっている。むしろ、ここからは光心の横暴さよりも、当時の百姓たちの交渉能力の高さを読み取るべきかも知れない。しかし、この前後に東福寺も光心の周辺の独自調査に乗り出しており、そこで得られた情報も、おおよそ同じようなものだった。光心が東福寺の眼が届かないのを良いことに、公私混同を極めて私腹を肥やしていた事実は、揺るがないようだ。

嫉妬に狂う未亡人

 さて、この告発状のなかでも、とくに目を引くのが、禅僧にあるまじき光心の醜聞スキャンダルの数々である。光心は、とんでもない女好き坊主だったのだ。なかでも彼がごしゅうしんだったのが、上原郷の西、山田という土地に住む長脇殿の未亡人だった。この直前、上原郷では「山田入道」とよばれる人物が没落して、その所領が光心の黙認のもと細川氏の支配下に入っている。あるいは夫であった長脇殿も、そうした郷内の権力抗争で敗れた人物で、彼はこれ幸いと、その未亡人に手を出したのかも知れない。もちろん彼は僧侶なので彼女と正式に再婚することはできないが、いつしか二人の関係は郷内の誰もが知る、公然の内縁関係になっていった。
 しかも、彼は長脇殿の未亡人のもとにお忍びで通う、その往復の道筋で、カワウソを見つけては斬り殺し、代官所でその肉を食べるのが日課だった。現在、ニホンカワウソは絶滅したとされているが、当時は岡山県あたりにも普通に生息していたのである。彼はよほどのカワウソ好きだったらしく、食べきれない分の肉はしおからにして保存し、残った獣皮はなめして毛皮として愛用していたという。もちろん当時は、僧侶どころか一般人にも獣肉を食べるなどという文化はない。あるいはカワウソは、いんのまえの精力剤のつもりなのだろうか。「私たちがいうことでもないですが、東福寺の荘園になって、こんなお代官様は見たことがありません」と、告発状で百姓たちも呆れた様子である。
 そのうえ彼は、この長脇殿の未亡人をろうらくしただけでは飽き足らず、同時進行で郷内の百姓の女たちにも次々と手を出していく。百姓の娘で気に入った子がいると、自分のものにしようと代官所に呼び寄せて、それをこばめば、その親を無実の罪に陥れて処罰する。人妻でも好みのタイプだったら、夫がいようが子供がいようが、家来たちを差し向けて自分のものにしようとする。それに従わない場合は、やはり言いがかりをつけてその一家を捕縛しようとするので、耐えかねた者たちはみな土地を捨てて逃げてしまったという。まったく“女性の敵”としかいいようのない人物である。そのうち彼の好色はさかいが無くなってゆき、やがては百姓のじょ(身分の低い召使い)にまで手を出すようになる。
 しかし、悪事も長くは続かない。このことが、たまたま内縁の妻である長脇殿の未亡人の耳にも届いてしまったのである。百姓の女性に浮気をするというだけでも許しがたいのに、自分よりも遥かに身分の低い下女と通じているということに、彼女のプライドはズタズタに傷ついた。嫉妬の念に駆られた彼女は、ついに長脇家のにんたちを大挙動員して、その百姓の下女の家にうわなり打ちを仕掛けることになる。そして、未亡人の命令をうけた者たちは、その下女を召し取ると、冷酷にもそのまま彼女を殺害してしまう。なんたる非道……。百姓たちも告発状のなかで「言語道断の事に候」と、その悲劇を嘆き悲しんでいる。
 じょうを逸したセクハラ代官の淫欲と、嫉妬に狂う未亡人、そして、その犠牲となってれんな命を散らす一人の下女。二時間サスペンス・ドラマにもなりそうな筋書きだが、ここで私たちの注意を引くのは、やはり、うわなり打ちという謎の習俗である。このあと、長脇殿の未亡人が殺人の罪に問われた形跡はない。また、百姓たちは告発状で、この修羅場にいきどおってはいるものの、それは未亡人の行為に対してではなく、すべての原因を作った光心に対してのものである。この時代、男を奪われた女が新たな女に復讐するという行為は、慣習的に許容されていたようなのである。
 ちなみに、百姓たちの告発をうけたセクハラ代官光心は、東福寺によって、この年をもって代官契約を打ち切られ、クビになっている。当然といえば当然の話で、彼のぎょうじょうはその後も“最悪のケース”として東福寺内の語り草になっている。ただ、後年の史料によれば、彼はその後、禅僧の身分を捨て、神主家の婿むこに収まり、地元に住み着いたと伝えられている。殺人事件など素知らぬ顔で、僧侶から神主への華麗な転身! いやはや、どこまでもふてぶてしい、あきれたゲス男である。

“女傑”北条政子

 うわなり打ちを行った人物として、おそらく史上最も有名なのは、北条政子(一一五七〜一二二五)だろう。源頼朝(一一四七〜九九)の“そうこうの妻”として鎌倉幕府の創業を陰で支え、頼朝死後は“尼将軍”として幕府に君臨した、いわずと知れた女傑である。
 まだ頼朝が平家を滅ぼす以前の話。頼朝と政子は親の反対を押し切って駆け落ちのすえゴールインしたとされる相思相愛の夫婦だったのだが、ただひとつ、頼朝には浮気性の悪癖があった。頼朝は政子という妻がいながら、かねてかめまえという名の女性を愛人にして、彼女の身を密かに家来のもとに預けていたのである。不遇時代を政子に支えてもらった義理もあって、頼朝は政子には生涯、頭が上がらなかった。そこで彼の浮気はおんみつに進められていたのであるが、ちょうど政子が出産のために別の屋敷に移ったこともあって、頼朝の動きは公然となった(このとき生まれた赤ん坊が二代将軍頼家である)。鎌倉幕府の歴史書『づまかがみ』によれば、亀の前は「容貌が整っているだけではなく、性格がとくに柔和である」とされるから、“女傑”政子とは正反対のタイプの女性だったのかも知れない。
 ところが、この浮気の事実が出産を終えた政子の耳に入ってしまったから、大変である。怒った政子は、寿永元年(一一八二)一一月、まきむねちかという配下の者に命じて、亀の前をしているふしひろつなの屋敷を襲撃させる。驚いた伏見は亀の前を連れて、命からがらおおよしひさという同僚の屋敷に逃げ込むことになる。このとき、もし伏見の機転が利かなかったら、亀の前はさきの上原郷の下女のように殺されてしまったかも知れない。
 この事件を聞いて顔面そうはくとなったのは、他ならぬ頼朝である。浮気がばれた……。しかも政子、すごく怒ってる……。さいわい愛人の命が無事だというのは救いだ。とはいえ、政子の手前、すぐに駆けつけるわけにもいかない……。震えて眠る夜を二晩過ごし、頼朝は翌々日を待って、亀の前がかくまわれている大多和の屋敷に、いそいそと駆けつける。しかし、このとき頼朝は一計を案じ、実行犯である牧宗親を騙して大多和屋敷まで同行させることを忘れなかった。そうとは知らず、頼朝にノコノコついていった牧は、大多和の屋敷で伏見と不意の対面をさせられる。ぜんとなって言葉を失う牧に向かって、頼朝は、烈火のごとく怒って、こう言い放つ。
「政子を大事にするのは大変けっこうなことだ。ただ、政子の命令に従うにしても、こういう場合は、どうして内々に私に教えてくれなかったんだ!」
 要するに、頼朝も政子の命令に従ったこと自体は責められないのである。いいたいことがあるなら政子に直接いえば良いものを、それがいえないから実行犯である牧に怒りをぶつけているわけである。頼朝、男として、かなりカッコ悪い。
 きょうして地べたに頭を擦りつけて謝る牧に対して、頼朝の怒りはなおも収まらず、ついにみずからの手で牧のマゲをつかんで、切り落としてしまう。当時の人々にとってマゲを切られるのは最大級の屈辱である。気の毒にも牧は泣きながら、その場を逃げ去ったという。なんとも頼朝の器の小ささがうかがえる、みっともないエピソードである。
 ちなみに頼朝は、このあと文治二年(一一八六)、政子の次女出産のときにもりずにだいしんのつぼねという女性と密かに関係をもち、のちにそれがバレて政子のげきりんに触れている。“懲りない男”というべきだろう。男性の浮気が妻の妊娠中になされるという話は現代でもよく聞くが、“天下の征夷大将軍”の浮気性もそれと同種のものだったようだ。
 さて、この逸話、北条政子の“男まさり”を語るエピソードとして歴史ファンのあいだには有名なもので、過去に大河ドラマなどでも、何度か映像化されている。ただ、そこでのこのいつの扱われ方が、私には少々不満がある。のちの“尼将軍”は、男に浮気をされても泣き寝入りすることなく、“倍返し”以上の報復をもって、これに臨む。さすがは天下の北条政子。といったふうで、ストーリー上、政子の特異な個性を際立たせるための材料として使われているのである。
 しかし、さきの室町時代の上原郷の逸話を思い出してもらえばわかるように、ここでの政子の行為は明らかにうわなり打ちである(頼朝は亀の前に乗り換えたわけではないので、その点は厳密にはやや変則例ではある)。夫を奪った女性に対して復讐を行うことは、なにも政子に限らず、中世の女性には当たり前に許されている行為だった。だから、この逸話を政子の“男まさり”を物語るための材料として使うとしたら、それは不正確で、それをいうなら、政子に限らず、中世の女性はみんな“男まさり”なのである。

女の敵は女?

 以上、「控えめでお淑やかな日本女性」という伝統的なイメージをくつがえすに足る、当時の女性たちのまことに勇ましい実態を紹介した。ただ、ここで少し立ち止まって考えてみてほしい。このうわなり打ちの習俗、どこかゆがんでないだろうか?
 男に浮気された上原郷の未亡人も、北条政子も、怒りの矛先が何か間違ってはいないだろうか? 彼女たちの怒りは、本来ならば浮気相手の下女や亀の前ではなく、すべての原因をつくった色情狂のハレンチ代官や、妻の眼を盗んでセコイ浮気を繰り返す頼朝に向けられて然るべきである。なのに、なぜうわなり打ちは浮気夫本人ではなく、浮気相手の女性をターゲットにしてしまうのだろうか?
 私の授業では毎時間、学生にリアクションペーパーを配って、その時間の感想や質問を求めているのだが、そんな疑問を授業で学生たちに投げかけると、男女を問わず、いろんなコメントが返ってきて、こちらも勉強になる。以下は、その一例である。

「いちど好きになった人は、その人がどんなに悪くても憎めないと思います。(1年女)」
——なにか哀しい実体験を踏まえているのだろうか……?
「高校でクラス公認のカップルが破局したとき、クラス中の女子が彼氏の新しい彼女の陰口をいうのをみた。女とは、そういうものだと思う。(1年男)」
——キミの女性観の歪みが心配です……。
「男性は浮気をされるとパートナーを恨み、女性は浮気されると浮気相手を恨むと、脳科学の本に書いてありました。(2年男)」
——それ、ホントか?

 もちろん全員ではないが、男女を問わず、浮気相手に怒りが向かうのを自然と考えている大学生がいるのが、私としては衝撃だった。なかには怪しげな「脳科学」の成果を信用して、それを生得的な女性の本能であるかのように理解している子までいるのは、少々心配である。しかし、このうわなり打ちの歪みは、どうも、それが成立した時代と、大きく関係しているらしい。私も歴史学者だ。この問題をあくまで歴史的に分析しよう。
 現在、確認される限り、うわなり打ちの最古の史料は、平安時代の中頃のものである。寛弘七年(一〇一〇)二月、摂関政治の全盛期を築いた藤原道長(九六六〜一〇二七)の侍女が、自分の夫の愛人の屋敷を三〇人ばかりの下女とともに破壊している(『権記』)。この侍女は、翌々年二月にも別の女の家を襲撃しており、そのときの事件は道長自身の日記にも、ちゃんと「なりうち」と書かれている(『御堂関白記』)。うわなり打ちの習俗は、おおよそ一一世紀初頭に成立したものだったようだ。では、なぜこの時期にうわなり打ちは生まれたのだろうか?
 女性史・家族史の研究成果によれば、この一〇〜一一世紀という時期は、ちょうど貴族層を中心に婚姻形態が確立してきて「一夫一妻制」が出来上がってくる時代とされている。俗に前近代の日本社会は「一夫多妻制」だといわれるが、厳密にいうと、それは正しくない。戦国時代や江戸時代の権力者が正妻以外の女性と関係をもつことを許されていたのは事実であるが、それは決して「妻」ではないのだ。あくまで正式の「妻」は一人であって、それ以外の女性は「めかけ」(側室・愛人)であり、非公式の存在であることに変わりはない。乱婚に近いようなルーズな婚姻形態から、建前上、しだいに一夫一妻制に変わっていったのが、平安時代中頃のことなのである。
 しかし、それは必ずしも女性の幸せにはつながらなかった。当時は「一夫一妻制」といいながら、実態は、男性にだけ不特定の女性との非公式な性交渉をもつことが許される「一夫一妻多しょう制」の社会だった。そのため、この時期、女性はそれ以前よりも、より過酷な状況に置かれることとなった。つまり、一人の男性と性愛関係をもつにしても、それが「妻」であるか、「妾」であるか、で雲泥の違いが生じる時代が到来したのである。当然、女性たちの間で、正式な「妻」の座をめぐる対立が表面化することになる。この時期の代表的な文学作品である『源氏物語』も『かげろう日記』もみな、男の愛を独占できない女たちの哀しみが主題の一つになっている。うわなり打ちで、女性たちの怒りが身勝手な男たちに向けられるのではなく、当面は正妻の座をめぐってライバルとなる同性へと向けられるようになったのも、同じ事情と考えるべきだろう。
 うわなり打ちの習俗は、この時期に一夫一妻制(実態は一夫一妻多妾制)が成立したのと軌を一にした現象だったのである。だから、うわなり打ちは必ずしも当時の女性の「強さ」の表われではなく、むしろ大局的には「弱い立場」の表われと見るべきなのかも知れない。彼女たちの嫉妬や怒りの方向性は歴史的に形成されたものであって、同性に嫉妬するのが女性の脳の構造に由来するなどというエセ科学の説明は、まったくナンセンスな話なのである。

復讐から儀礼へ

うわなり打ちは、その後、江戸時代にも受け継がれていく。いわたいら藩の内藤ただおき(一五九二〜一六七四)の正室てんこういんには、みずからなぎなたを取って忠興の妾を預かる家臣の家に押し入ったという武勇伝が伝わっているし(『かいこうしゅう』)、佐賀藩の鍋島なおしげ(一五三八〜一六一八)の前妻は離別後、後妻ようたいいんの家にうわなり打ちを仕掛けるが、そのとき陽泰院は動じることなく前妻を丁重に出迎えて、かえって評価を高めたという逸話も伝わっている(『葉隠』聞書三)。うわなり打ちは健在である。
 ただ、享保年間(一七一六〜三六)に書かれた『はちじゅうむかしばなし』という随筆には、「百二三十年以前」(一六世紀末〜一七世紀初頭)のこととして、うわなり打ちの実態が次のように描かれている。それによれば、妻を離縁して五日ないし一ヶ月以内に夫が新しい妻を迎えた場合、さきに離別された妻は必ずうわなり打ちを実行したのだ、という。襲撃には男は加わらず、親類縁者の女など総勢二〇〜一〇〇人(!)で新妻の家に押しかける。その際は、事前に使者を立てて襲撃を通告する決まりになっており、武器も刃物は使わず、手にするのは木刀や竹刀や棒に限られていた。破壊は台所を中心に鍋・釜・障子などに対して行われ、やがて一通りの破壊が終わると、仲介者が和解を取り持つことになっていた。
 いかがだろうか。一〇〇人近い女性が怒りにまかせて家財道具を破壊する光景を想像すると凄まじいものがあるが、中世のうわなり打ちと比べると、やや牧歌的な印象がぬぐえないのではないだろうか。鎌倉〜室町のうわなり打ちは相手の命までが狙われたが、ここでは刃物は自主規制されており、事前通告や和解のルールも整っていて、さながらゲームのような趣きである。授業を聴いた女子学生のなかには、「これなら私も参加してみたい」という子までいたぐらいである。ターゲットが台所というのも、当時、台所が“女の城”と考えられていたことを思えば、そこを破壊することは物質的な破壊を目的にしたというよりも、象徴的な儀礼としての意味合いのほうが強そうな気がする。うわなり打ちは、江戸時代に入って〈復讐〉から〈儀礼〉へと姿を変えてしまったのである。
 しかし、この時期、べつに江戸幕府から「うわなり打ち禁止令」なる法令が出された形跡はない。むしろ当事者たちのあいだで、憎悪の感情に任せた復讐を自主規制する動きが現れてきた結果、うわなり打ちはその姿を変えたと見るべきだろう。中世から近世へ、時代は〈復讐〉や〈暴力〉をネガティブなものとする方向へと確実に変化しており、それにともなって、うわなり打ちも姿を変えていったのである。
 この逸話を載せる『八十翁疇昔話』も、すでにこの話を「百二三十年以前」の話として紹介しており、同時代である享保期にはすでにうわなり打ちは行われないものとなっていた。一夫一妻多妾制の弊害はなんら克服されてはいなかったものの、その怒りを同性に暴力で向けるような行為は、もはや時代遅れのものになっていたのである。

 そういえば、いまでも思い出す教室の光景がある。「考えてみれば、浮気をしたパートナーに怒りをぶつけず、浮気相手の女を恨むのって、筋違いだと思いませんか? 本来、悪いのは浮気した男のはずですよねえ。みなさん、どう思います?」。大学の教員になった初めての年、私が教室でうわなり打ちについての問いを投げかけたとき、前のほうの席でひたすら首を横に振っていた女の子がいた。「え? そこのキミ、納得できない? やっぱり悪いのは奪った女のほう?」。そう尋ねたら、その子は険しい顔で、ただ強くうなずいたのだった。「……(冷汗)」。たぶん彼氏と、いろいろあったんだろうな……。
 あの場で、教員としてうまい返しができなかったのが、いまでも少し悔やまれる。大学教員は古文書が読めるだけではダメなのだ。それ以来、女性の嫉妬をどう学問的に説明するか、試行錯誤の講義を重ねた。あれから一〇年、教員として多少の実力もついた。いまならあの女子学生にも、もう少しマシな返答ができるかも知れない。

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第13話 呪いのはなし
リアル デスノート

第13話 呪いのはなし
リアル デスノート

ワラ人形、あります

 最近のネット通販の便利さには、つくづく感心させられる。欲しいんだけど、どこの店に買いに行ったらいいのかわからない。自分で作ることもできるんだけど、時間もないし、すぐに手に入れたい。そんな誰にでも良くある悩みが立ちどころに解決する。
 先日も、ネット通販のアマゾンで「ワラ人形」を売っていることを発見した。「本、ファッション、家電から食品まで」とめいっているが、まさかこんなものまで買えるとは。私が気に入ったのは、一八〇〇円の逸品。備考欄には「国産わら使用」、「一点ずつハンドメイド」、「よく一緒に購入されている商品」欄には「丸釘150ミリ」と、いろいろツッコミどころ満載である。販売会社の名前が「ジョイライフ」というのもイカしている。けっこう売れているらしく、カスタマーレビューの評価も高い。「すっごくいいです」、「効果はありました」、「おおむね満足」といったコメントが並んでいて、いつか必要となる日のために、思わず私も買ってしまおうかと思ったぐらいである。
 長年、人生を歩んでくると、きれいごとばかりでは済まなくなる。ときには「あいつさえいなくなればいいのに……」、「あいつが死んでくれればいいのに……」というどす黒い願望を抱くこともあるだろう。いや、むしろ、そうした思いを抱いたことが一度もない聖人君子のほうが、世間的には稀なのではないだろうか。とはいえ、まさかそれを実行に移すわけにもいかない。だから、そうした暗い思いをうけとめて、ネット上では、今日もワラ人形が売られ続けている。
 ちなみに現在の日本の法律では、ワラ人形を使用して、憎い相手を死に追いやっても、決して殺人罪には問われない。相手の死とのろいの因果関係が科学的に立証されないからだ。おかげで、こうしてネット通販でも安心してワラ人形が買えるわけだし、一般書籍上で、こうして「商品」の紹介をしても当局から怒られることもないのである。
 ただし、くれぐれも五寸釘を刺したワラ人形を相手の家の玄関先にさらしたり、じゅしていることを相手に告げたりはしないように。そこまですると、さすがに現代社会でも脅迫罪が成立してしまうので要注意である。あと、他人の所有する土地に夜間に立ち入って、ワラ人形に釘打ちするのも、不法侵入罪や器物破損罪が適用される恐れがある。呪詛はあくまで自宅敷地内で行おう。
 ともあれ、現代社会においては“呪い”と“殺人”のあいだには“科学”という大きな壁が立ちはだかり、その隔たりは決して小さくない。いま挙げた諸注意さえ守れば、呪詛自体が罪に問われることはないし、そもそも呪詛したところで、その効果があるかどうかは保証の限りではない。ところが、五〇〇年前の社会において、呪いはきわめて効果あるもの、と考えられていた。
 今日は、そんな「呪い」をめぐるお話。

室町の最終兵器

 京都の南の郊外にある醍醐寺は、平安時代にかいそうされた真言宗醍醐寺派の総本山である。現在は「世界遺産」にも認定され、国宝の五重塔をはじめ山中に多くのらんを配し、春は桜、秋は紅葉で知られた観光名所となっている。
 その醍醐寺で、応仁の乱の真っただ中の文明元年(一四六九)一〇月に事件は起きた。
 その頃、醍醐寺の周辺はまだ田畑に囲まれ、多くの村人たちがそこを耕作して、収穫の一部を醍醐寺に年貢として納めていた。醍醐寺は、その門前の集落のことを「けいだい」とよんで、そこから上がる収益を重要な財源としていた。ところが、ある日、そこの村人たちが混乱した世情に乗じて、とんでもないことをいい出した。門前のすべての田地の年貢をはんぜいにする、というのだ。
「半済」とは、荘園領主への年貢の納入を半分だけにすること。残りの半分は、その土地を実効支配している者の手に委ねられた。有名なのは、高校の日本史教科書にも載っている、室町幕府が出した「半済令」だろう。室町幕府は南北朝の内戦中に味方の武士を増やすため、幕府側についた者には土地の年貢の半分をあたえるという出血大サービスの超法規措置を命じたのである。この半済令というお墨付きを利用して、各地の武士が力をつけ、かわりに収入の半分を失った寺社や公家がきゅうはくするという事態が生まれることになった(ただし、半済令には「半分」以上の年貢を侵犯することを禁じる意味合いもあり、一方で武士たちによるむやみやたらな年貢の侵食を阻止する側面もあった)。
 しかし、今回は武士ではなく村人たちが「半済」を主張しはじめたのである。しかも、べつにこのときは室町幕府から半済令が出された形跡はない。「半済」というと聞こえはいいが、彼らは内戦下の混乱を利用して、事実上の年貢半減要求を醍醐寺に突きつけたのである。しかも、彼らはこの要求を貫徹するため実力行使に出て、寺に対して様々な「ろうぜき」(暴力行為)まで行っていたらしい。
 お坊さんやお公家さんというと、質実剛健なサムライたちとちがって軟弱で、こんな事態が起きたら、オロオロするばかりで、てんで頼りにならない、というイメージが読者の方々にはあるかも知れない。しかし、このときの醍醐寺はビックリするほど毅然としている。
 まず醍醐寺の僧侶たちは、この事態を放置すれば「一寺の滅亡」であると一歩も引かず、全山あげて村人たちに対する徹底弾圧に乗り出した。そのときの様子は、みな僧侶であるにもかかわらず「かっちゅう」や「弓矢」を帯びて、応戦に及ぶという過激なものだった。一方、対する村人たちも決して引き下がらず、門前は収拾のつかない大混乱に陥った。
 やがてこうちゃく状態を脱するため醍醐寺は、こういうときの「旧例」として、ついに恐るべき“最終兵器”の使用に踏み切ることになる。
 時は、文明元年一〇月一〇日。僧侶たちはとばりからしゅこんごうじん像を引っ張り出すと、それを本堂の内陣、東だんに安置して、そのまえで数日にわたり二〇人がかりでせんべんだんという呪文を唱えた。さらにその後は神像をじんに再安置して、再度、毎日、千反陀羅尼を唱えたのだった。執金剛神とは、釈迦に従って仏法を守護する守り神。その姿は、仁王像と同じくふんの形相で、甲冑を帯びこんごうしょという武器を掲げるいかめしい武人の出で立ちをしている。ふだんは寺内の奥深くに安置されているその像を引っ張り出し、二〇人もの僧侶たちが堂のなかでもうもうと護摩の煙を焚き、揺らめく炎のまえで呪いの文言をひたすらに唱え続けたのである。そのさまは、おそらくこの世のものとは思えない鬼気迫る情景であったにちがいない。
 やがて、その効果はてきめんとなって表れた。まず首謀者であった村人数人はすぐに捕らえられ、寺の僧侶たちによってあっなく処刑される。仏罰ここにむくい来たれり! かくて事件は落着したかに思えたのだが、話はまだここでは終わらない。
 その後、他の「御境内」の村人たちにも「病死」、「病悩」(重病)、「餓死」、「とん」(原因不明の急死)という悲惨な運命が待ち受けていた。年内のうちに村内の数えきれない人々が不可思議な理由で次々と命を落としていったのである。その災厄は人間にとどまらず、果ては彼らが飼育していた牛馬や、家中の下人(使用人)にいたるまでが「とんめつ」するという始末。わずかな期間に、決して広くはない村のあちこちで、醍醐寺に反抗した人たちや無関係者が僧侶たちの呪いをうけて連続不審死を遂げる。これこそが醍醐寺が秘蔵していた“最終兵器”だったのである。
 一つの村を、老若男女・牛馬けんぞくまでなぎ倒す“最終兵器”の威力は、われわれの想像を絶するものがある。生き残ったわずかな村人たちも、みなその霊力にせんりつし、いまさらながらに天を仰いだにちがいない。
 そんなバカな話があるか。と思われるだろうが、これは真実なのである。いや、少なくとも、当時の人々はこれを「真実」と考えた。こともあろうに醍醐天皇も祈願所とした霊験あらたかな大寺院に刃を向けた愚かな村人どもは、当然の報いとして、一村滅亡の災厄に見舞われることになったのである。その後、仏罰のれいげんが証明され、醍醐寺に盾突く村人があらかた死に絶えたことを確認した翌文明二年五月三日、執金剛神像は元の場所に戻され、ようやく呪詛の儀式は終結した。
「これは本尊の威力であり、すべては皆のたんせいめた祈りの結果に他ならない。尊いこと極まりなく、崇敬してもしたりないほどのありがたさである」
 一連の出来事を書き残した醍醐寺の僧侶は、右のような誇らしげな言葉でその文書を結んでいる(「三宝院文書」、『大日本史料』八編三巻所収)。

名前を書いたら、その人が死亡

 本来なら人を救済するべき僧侶が、その死を念じて呪詛を行う。しかも、その効果が表れるや、得意満面。宗教者にあるまじき所業というほかないが、これは醍醐寺に限ったことではない。大和国一国を支配した奈良の巨大寺院、興福寺では、それがさらに頻繁に行われていた。
 文明一八年(一四八六)三月、仲川荘(現在の奈良市)という荘園の年貢を、地元の武士であるはしためくにという男が横領してしまっていた。この年貢は荘園領主である興福寺に納められ、本来、ゆいしきこうという仏事の費用に充てられる重要な資金源だった。それを横領されてしまうと、もちろん仏事が開催できなくなってしまう。とはいえ、箸尾は強硬で、年貢を納入させることは難しそうだ。
 そこで興福寺の僧侶たちは「める」という、これまた“最終兵器”を使う決断をした。「名を籠める」とは、寺に反抗的な人物の名前を紙片に記して、寺内の堂に納めて、その人物を呪詛する、という禍々しい制裁であった。他のケースでの「名を籠め」たときの文書が残っているので、参考までに掲げると、それは下のような感じの紙片であったらしい。

  神敵・寺敵の輩
  山田太郎次郎綱近
  文亀二年戌壬十二月二十三日

 罪状と名前と日付という、きわめてシンプルな記載だが、この紙片を包み紙にくるんで、表に「執金剛神/おんてきの輩 山田太郎次郎綱近」と書いて、仏前に捧げて、ひたすらその身に災厄が降りかかることを祈るのである。
 このときも「箸尾為国」の名前は、興福寺の五社七堂に籠められ、寺僧たちは南円堂に群集して、大勢で読経して彼を呪った。しかし、この時点では、彼はまったく悪びれた様子は見せず、むしろ居直って寺の悪口まで吐く始末だった。
 すると、どうだろう。翌四月になって、箸尾の支配する村で「悪病」が流行し、一三〇人もの人々が続々と死んでいったのである。そのうえ、箸尾の手下だった村の代官も、妻女とともに病に伏せってしまったという。箸尾自身は死ななかったようだが、ここでも「名を籠める」ことの効果は疑いなかった。
「名前を書いたら、その人が死ぬ」といえば、私などはどうしても人気マンガ『DEATHNOTEデスノート』(大場つぐみ・小畑健、集英社)を思い出してしまう。名前を書かれた人を死なせることができる死神のノート(デスノート)を手に入れた主人公が、犯罪者を抹殺して理想世界を築こうと暴走してしまう物語である。あのマンガがヒットした理由には、複雑なプロットによる頭脳戦の面白さもさることながら、誰しもの心に「あいつを殺してやりたい」という相手が一人か二人はあって(それは身近な人間であることもあれば、ニュースでみた凶悪犯罪者であることもあるだろう)、そうした秘めた暗い願望を巧みに創作に取り込んだというところにあるのではないだろうか。もちろん現実世界ではそれを実現することは叶わないのだが、マンガのなかでそれを実現してくれるダーティーヒーローに対して、読者が半ば共犯感を抱く設定の妙は大きい。
 しかし驚くなかれ、すでに述べたとおり、室町時代に「デスノート」は実在していたのである。死因や死亡時期は特定できないものの、複雑なルールや変な副作用もないので、ある意味で「名を籠める」のほうがシンプルで効率的ですらある。
 この他にも、同時代に「名を籠める」制裁は、興福寺をないがしろにする不届き者に対して、たびたびその威力が発動された。箸尾為国事件の前年、文明一七年正月には、ひらみずかわなる人物が死亡したが、この男はさきに興福寺の大乗院もんぜきの所領を不法占拠した罪で五社七堂に「名を籠め」られた者だった。そのため、このときも彼の死は「御罰」が下ったものと、多くの者たちに認識されている。
 くだって天正六年(一五七八)八月には、やはり興福寺への「悪逆」の罪で一人の男に「名を籠める」措置がとられた。男には息子が二人あったが、やがて一人は「らいびょう」(ハンセン病。当時は不治の病として最も恐れられ、不当な差別の対象とされた)にかんし、もう一人は「狂気」となってしまったという。このときも、この事実を日記に記した興福寺の寺僧は「めいざいがんぜん、冥罪眼前(仏罰がくだった! 仏罰がくだった!)」と、呪力の効果に歓喜かっさいしている。
 こんなわけなので、領民の側も、この「名を籠める」制裁を心底恐れていたようである。大和国まが荘(現在の天理市)の年貢二年分と運送料を横領した豊田なおわかという人物は、その罪によって「名を籠め」られたが、明応八年(一四九九)一二月、謝罪のうえ横領分を弁償することで、その名を堂内から取り出してもらうことを許してもらっている。
 また、さきに紹介した平清水三川は、その死後、名が籠められたことが寺僧たちにも忘れ去られ、気の毒にもそのままになってしまっていた。すると、彼の死から四年後の延徳元年(一四八九)六月、彼の息子がにわかに大病をわずらってしまう。四ヶ月が経っても体調は元に戻らず、周囲はもしもの事態を心配しはじめていた。そうしたなか自身の大病の原因が、父の名前がいまだに堂内から取り出されていないことにあると察した息子は、すぐさま興福寺にしゅうして、父の名を堂内から出してもらうことを求めている。
 このように、「名を籠める」習俗は、寺僧たちはもちろん、領民たちにまでその効果が強く信じられ、宗教的制裁としてのたぐいまれな威力を発揮していたのである。
 鎌倉〜室町時代というと、鎌倉幕府や室町幕府に集った武士たちが“歴史の主役”で、坊主や神主は“前時代の生き残り”、あるいは武士に比べて“無力な存在”というイメージをもつ人がいるかも知れない。たしかに武士たちがもった“武力”を侮ることはできないが、当時においては僧侶や神官たちがもっていた“呪力”というのも、場合によっては物理的な暴力よりも当時の人々を震撼させる巨大な力であったのだ。
 とくに「来世」の存在を信じ、「現世」は「来世」に至るためのステップに過ぎないという価値観をもっていた当時の人々にとってみれば、「現世」でのほうを失うだけではなく、死後も無間地獄に突き落とされる可能性のある呪詛の力は、まさに“最終兵器”であり、戦慄の対象であったにちがいない。

戦国のきょうゆう、呪詛に敗れる

 室町後期に活躍した越前国の大名で、朝倉たかかげ(一四二八〜八一)という人物がいる。彼はもともと越前国守護である斯波氏の家老の一人に過ぎなかったが、応仁の乱の最中に西軍から東軍に寝返るという離れ技を演じ、大乱の戦局を一転させたうえ、その功績で越前国の守護職を手に入れるという、“下剋上”の権化のような男だった。しかも、それによって手に入れた領国内に「朝倉孝景条々(別名、朝倉敏景十七箇条)」と呼ばれる分国法を制定したことなどから、北条早雲(伊勢そうずい。一四五六?〜一五一九)と並んで“最初の戦国大名”とも評される人物である。
 そんな目的のためには手段を選ばないマキャベリストの彼は、当然ながら、自身の領内にある寺社や公家の荘園に対しても容赦がなかった。荘園の管理役としての代官職を手に入れると、その権限をテコにして、彼は次々と荘園年貢を横領して、恐れ入る様子もなかった。そのため、当時、孝景の存在は公家や僧侶たちからのえんの的となり、彼が病死したとき、ある公家などは「おおむね、めでたいことではないか。彼は天下の悪事の張本人である」と日記でかいさいを叫んだぐらいである。前時代の権威など物ともしない、“最初の戦国大名”のめんぼくやくじょたる逸話であろう。
 さて、興福寺も越前国内に河口・つぼ荘という大きな荘園をもっており、そんな孝景の専横に頭を痛める領主の一人だった。
 寛正五年(一四六四)五月、孝景は興福寺領河口荘のうち、自分の意志に従わないほそ郷(現在の福井県あわら市)の村を、こともあろうに焼き討ちにしてしまう。しかも、現地では孝景に反抗的な態度を示している三人の百姓が、現在も拘禁されているという。それ以前からの不当行為も重なって、ついに興福寺はこれを重大視し、ことの次第を室町幕府に訴え出た。しかし、室町幕府も孝景には強く出ることはできず、訴訟は棚ざらしのまま、いっこうに進展しない。
 しびれを切らした興福寺は、ここでついにお得意の“最終兵器”の使用に踏み切る。悪逆無道な孝景の「名を籠める」のである。同年六月二四日、彼の名前を記した紙片は寺内のしゅじょう手水ちょうずどころの釜のなかに納められ、呪詛が開始された。
 さすがの孝景も、これには参ったようである。彼も“中世人”、やはり呪詛は恐ろしい。興福寺で隠然たる力をもっているあんきょうがく(一三九五〜一四七三)という大物に泣きついて、ひたすら制裁の解除を求めた。そこで、もともと孝景とは交流もあり、男気のあった経覚は、このとりなし役を快く買って出て、孝景に「二度とこのようなことはしない」と記したしょうもん(神仏への宣誓書)を提出すれば、罪を赦してやることを提案した。
 八月一〇日、京都の二条家の屋敷に孝景はしおらしく出頭し、経覚はじめ寺僧たちに「今後、興福寺をなおざりにすることはせず、忠節を尽くします」という起請文を提出し、彼らの見ているまえで文書に署判を据え、これまでの不届きの一切を謝罪した。かくして、“最初の戦国大名”とまでいわれた朝倉孝景も、興福寺という中世権力の権威のまえにみじめな屈服を強いられたのである。

「呪詛の時代」の終焉

 しかし、である。この一連の出来事を記す経覚の日記などを見てみると、不思議なことに気づく。上杉謙信が「景虎」→「政虎」→「輝虎」→「謙信」と名前を変えたように、この時代の人々が名前を変えるのは珍しいことではない。孝景も、もとは「としかげ」と名乗っていたが、長禄元年(一四五七)七月〜同三年一一月の間に「のりかげ」と改名しており、この事件のときは「朝倉教景」と名乗っていた。実際、六月二四日に修正手水所に「名を籠め」たときは「教景」という名前に対して呪詛が行われていた。
 ところが、それから一ヶ月余り後の八月一〇日に二条邸に謝罪に現れたとき、経覚の日記のなかで彼の名は「孝景」と記されている。つまり、呪詛をうけた後、この一〜二ヶ月の間に、彼は名前を「教景」から「孝景」に改名してしまったようなのである。あるいは、これは彼なりの「名を籠める」呪詛に対する対抗策だったのではないだろうか?
 そもそも、『西遊記』に出てくる、その名を呼ばれて返事をすると吸い込まれてしまう銀角大王が所持する魔法のひょうたん(きんべに葫蘆ひさご)の逸話や、わが国での妖怪や幽霊に名前を呼ばれても返事をしてはいけないという民俗禁忌のように、昔から洋の東西を問わず、名前にまつわる呪詛というものは存在した。「名は体を表わす」の言葉どおり、前近代において、名前はその人本人と一体のものと考えられていた。そうした認識を前提にして、「名を籠める」呪詛は成立していたのである。
 では、それを逆手にとって、呪詛された人が改名をしてしまったら、どうなるだろうか。本家の『デスノート』では、そこに名前を書かれたら、絶対に死からは逃れられないという話になっていたが、さすがに対象者が法的に改名してしまった場合のルールは無かったように思う。しかし、その理屈でいけば、彼らも呪詛からは逃れることができるはずなのである。
 どうやら朝倉孝景は、現代人が思いもつかない高度な裏技を編み出し、「名を籠める」呪詛を無効化しようとしていたようである。その後の歴史を見てみると、彼は応仁の乱の混乱に乗じて、けっきょくそれまで以上に荘園の侵犯を派手に展開して、ついには興福寺の二つの荘園を「半済」に陥れている。彼は謝罪を完全ににしてしまったのである。やはり、彼は“最初の戦国大名”とよばれるに相応しい、新しい価値観の持ち主だったようだ(ちなみに、興福寺はよほど悔しかったのか、改名の事実を知らなかったのか、その後もしばらく朝倉孝景のことを「教景」と呼び続けている)。
 むろん、呪詛を避けるためにわざわざ改名し、律儀にも謝罪の手続きを踏んだことを考えれば、それはそれで彼のなかにも呪詛を恐れる気持ちがあったことは否定できない。その点で、彼のなかには呪詛を不可避なものと恐れる中世以来の価値観と、呪詛すらも合理的に回避しようとする新時代の価値観が同居していたことになる。彼自身が、旧時代と新時代の境界的な存在だったといえるかも知れない。時代は、呪詛を恐れない、呪詛を合理的に回避可能とする人々を、少しずつ生み出していたのである。
 さらに、そこから考えを進めるならば、「名を籠める」呪詛は、決して古い時代から連綿と行われ続けたものではないことにも注意をする必要がありそうである。これまで呪詛を中世の宗教権力の特徴であるかのように述べてきたが、じつは領民に対する呪詛の事例はあまり室町時代以前には見られないのである。どうも「名を籠める」をはじめとするエキセントリックな呪詛は、中世も後期に入って、宗教領主の命令に従わない百姓や武士たちが続出するなかで活用されるようになったようである。考えてみれば当たり前のことだが、当時の人々に神罰や仏罰を信じる気持ちがあったならば、そもそも年貢を半減要求したり、横領したりすることはなかったはずである。
 だから、「名を籠める」という行為は、当時の人々が迷信に縛られていた証しというよりも、むしろ人々の心のなかから信仰心が希薄化していたことの表われとみるべきかも知れない。支配を継続するためにどうかつ的な手段を使わざるをえない、宗教勢力のあせりを示していると言い換えてもいいだろう。昔の人々がつねに迷信深くて純朴だったと思い込んではいけない。一見すると信心深い時代のように思える室町時代は、一方で“呪詛の時代”のたそがれの時代でもあったのだ。

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