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「まえがき」全文公開 第一章冒頭公開

 まえがき

 日々繰り広げられる、0・1秒単位の競争

 2009年8月、ドイツ・ベルリン。アメリカの陸上選手であるタイソン・ゲイは唇を嚙んだ。世界陸上の男子100メートル走決勝、彼が出したタイムは9・71秒。銀メダルだった。表彰台の横に立つのはジャマイカのウサイン・ボルト。今も破られぬ9・58秒という世界新記録を叩き出した男だ。その差はわずか130ミリ秒。
 この130ミリ秒――つまり0・13秒という数字をあなたはどう思うだろうか。きっと、極めて短い時間だと感じる人が多いだろう。 
 しかし見方を変えると、あなたも毎日のように、1秒以下のわずかな時間で競争を繰り広げている。それが、会話だ。
 会話では、一人の話者が話し、それが終わると別の人が話し始める。話者が交替するまでの発話を「ターン」といい、話者の交替を「ターンテイキング」というが、イギリスの言語学者であるスティーヴン・C・レヴィンソンらの研究によると、ターンテイキングには平均して200ミリ秒――つまり0・2秒しかかからないという。タイソン・ゲイが涙を呑んだ130ミリ秒とさほど変わらない、極めて短い時間である。
 別の研究では、10の言語で「はい/いいえ」で答えられる質問文を与え、応答に要する時間を調べた。各言語の所要時間の中央値は0ミリ秒から300ミリ秒だったそうだ。やはり1秒どころか、500ミリ秒もかかっていない。僕たちは会話において、100ミリ秒単位の世界で高度な駆け引きを行なっているのである。

 この事実に対する反応は、大きく分けて二つだろう。僕はたまげた。そんなに短時間で応答できるなんてすごすぎる。だって、応答するためには、相手が言っていることがわからなければならないわけだ。その上で、何を言うかもまとめておく必要がある。もう一度言おう。この間、たった200ミリ秒だ。すさまじい高速処理だと驚くのが一つ目の反応である。
 一方で、「まあ、そんなもんだよね」と受け流す人も少なからずいるのではなかろうか。何しろ、あなたも毎日やっているのだ。
「一度読んだ文書はどんなものでもそらんじることができる」と聞けば、誰でもすごいと思うはずだ。これは言語学者ジョン・ライデンのエピソードだが、疑う余地のないほど超人的な技能である。こうした特殊な能力なら、評価が割れることはない(ただ、ライデン自身はこの能力に不便を感じていたようである。なぜなら、一つの箇所を探し出すには、文書全体を冒頭から暗唱しなければならなかったからだ)。
 一方、日々観察でき、自分自身でも行なっているターンテイキングを改めて評価されても、何がすごいのかピンと来ない人もいると思う。このすれ違いの原因はシンプルだ。あなたは相手の発言を理解したり、あるいは自分で文を作ったりすることの大変さを知らないからだ。後ほどじっくり説明するが、これはきわめて高度な処理が行なわれている。一時期、人間の言語を動物にも教えようとする研究が流行したが、ついぞヒトの言語を使いこなす動物は現れなかった。
 それから、200ミリ秒がどれほど短いのか、いまいちピンと来ていない人もいると思う。そこでもっと身近な例を挙げよう。あなたがスマートフォンで、何かのサイトにアクセスしたとする。その際、どのくらいなら待機できるだろうか。一般論として、人は400ミリ秒以上待たされると、興味を失う可能性がグッと上昇すると言われる。これは「ドハティのいき」と呼ばれ、ウェブサイトやアプリの開発をする人にとっては死活問題とされる。
 しかし会話研究の視点からドハティの閾値を見ると、まだまだ悠長だともいえる。ヒトはターンテイキングにおいて、400ミリ秒も待ってないからだ。
 ヒトはわずか200ミリ秒でターンテイキングをしている。この事実を知ってから、僕は友達と会話する際も、応答までのにどうしても注意が行くようになってしまった。そのせいで会話自体に集中できなくなったこともある。その功罪はさておき、どうやらこの事実に心を奪われてしまったようなのだ。かくして僕は、この魅力的な問題についてリサーチを始めることにした。
 ところが意外なことに、この問題について簡潔に、そして包括的にまとまっている本が見つからない。最も関係しているのは言語学だろうとは思っていたが、調べていくとどうやらそうとも限らないらしい。始めた当初はまったく予想もしていなかったが、結局、社会学や哲学、文化人類学などの文献にも目を通した。
 せっかくなので、このリサーチの結果を皆さんに楽しくシェアしたい。これが本書のコンセプトだ。本書は僕自身が調べながら、1章ずつ書いていったので、読みながら調査の過程を追体験できるようになっている。それから、後ほど詳しく説明するが、僕自身は研究者でも何でもなく、あくまで一人の言語学好きだ。学術論文の知見などを反映した内容にはなっているが、高校生だったころの僕でも読めるように書いたので、ぜひ気負わずに読み進めてほしい。

 10分の激論を464ページで解説するように

 ということで、本書が扱う中心的な問いを改めて確認しよう。
 
「ヒトがわずか200ミリ秒でターンテイキングを行なうには、言語にまつわるどのような知識が頭の中に必要で、具体的にはどんな処理が必要か?」

 これを「200ミリ秒の謎」と呼び、以降の章で取り扱いたい。
 改めて見ると、たった200ミリ秒間の出来事だけで、何をそんなに書くことがあるのかと思えてくる。僕だってリサーチを始めるまでは、うっすらそう思っていた。
 しかし、過去にはこんな本もある。『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』というノンフィクションだ。1946年10月25日、イギリスの哲学者カール・ポパーとオーストリア生まれの哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学で初めて顔を合わせた。ウィトゲンシュタインが議長を務める定例の討論会に、ポパーが招待されたのだ。そこで「哲学が扱うべき問題とは何か」という議論が白熱しすぎて、ウィトゲンシュタインは興奮のあまり火かき棒を振り回したという。白熱しすぎである。
 ともあれ、この本はたった10分間の激論の全貌を解説すべく、そこに至るまでの背景や真相の解明を464ページかけて解説している。であれば、200ミリ秒の謎に240ページを費やしたってなんらおかしくない。

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 言語漬けの青春

 なぜ僕が200ミリ秒の謎にそこまで魅せられているのか、少しだけ補足したい。ここからは取るに足らない自分語りなので、興味のない方は第一章まで読み飛ばしてもらってOKだ。
 
 僕は一介の言語好きだ。
 そのきっかけは小学2年生のときで、なんどく漢字にハマり、学校の漢字ドリルそっちのけで、画数の多い字をノートに書いて先生に見せていた。僕にとっては、ドリルの漢字があまりに簡単で退屈だったのでやっていただけだったのだが、先生は褒めてくれた。その結果どんどんエスカレートし、小学5年生のときには難読漢字に関する自由研究をノート8冊にまとめて提出する。先生には一通り褒められたあと、心配された。
 それから、当時はやることがないと国語辞典を読んでいた。親が「夏休みは1日1時間は勉強しなさい」と言うのだが、僕は勉強が嫌いだった。でも、辞書を読んでいる時間も勉強にカウントしていいと言う。ちょっとした反抗のつもりで読み始めたら、どんどん知らないことばが頭に入っていく。小学生にしては異常なボキャブラリーと漢字力を獲得した僕の当時の趣味は、テストの解答の中に難読漢字を多く盛り込むことだった。一回、国語の試験で解答欄に「雪隠(せっちん。トイレのこと)」と書いたら、先生に「読めない」と採点してもらえなかった苦い過去がある。
 漢字は中1のときに漢検二級をとってから、しばらくのあいだ飽きてしまった。しかし高校に入ると、今度は英語にハマった。現代英語の文法には、理不尽がいっぱいある。なぜ冠詞には a と an があるのか。なぜ過去形には不規則活用があるのか。なぜ night は綴り通りに読まないのか。なぜ仮定法だと I were となるのか。よくわからないのだが、とりあえず覚える。
 ところがある日、実はそこに理由があったことを知る。例えば冠詞の a/an は、もとをたどると one と源を同じくする。だから単数名詞につくわけだ。そして one と形が似ているのは an だ。そう、英語の不定冠詞はもともと an が主流だったのだ。歴史的に見れば a のほうが後発で、そしてイレギュラーな存在なのである。
 余談だが、この a/an の共存のせいで巻き添えを食らった気の毒な単語がいくつもある。例えばエプロン(apron)は、もともとネプロン(napron)だった。ところが a napron という形を見た人々が、an apron と切れるのではと誤解した。その結果、現代では napron という語形は忘れ去られ、もっぱら apron が覇権を握るようになったのだ。こうした現象を異分析といい、ほかにもニックネーム(a nickname)ももともとはイックネーム(an ickname)だったと考えられている。
 こんな調子で、英文法の疑問には大体理由があることを知ると、学校で習ったことすべてについて深掘りしたくなってくる。こうして高校時代の僕は青春を犠牲にして、英語について調べる日々を送っていた。
 進路選択は迷わなかった。僕は高校のテスト週間になると地元の図書館のことばコーナーをハンターのような目つきでうろつく習慣があり、そこで言語学という学問分野があることを知っていたからだ。また、近所の名古屋大学文学部には、著書をいくつも読んでいて、テレビで見たことのある町田けん先生もいる。迷わず言語学研究室のドアを叩いた。
 ここまでは順風満帆なのだが、大学時代は友達と遊ぶことに夢中で、さっぱり勉強しなかった。大学院への進学をまったく検討することなく就職活動をしたのだが、そこでも漠然と「ことばを扱える仕事がいい」とは思っていた。運よく出版社が拾ってくれたので、ありがたいことに、今は編集者として毎日のようにことばと向き合っている。
 記事タイトルをつけるとき、「キーマンを直撃!」と「キーマンに直撃!」はどちらがいいだろうか。そもそもこの二つはどう違うのだろうか。こんなことを、お給料をもらいながら考えられるのはとても楽しい。
 ことば漬けの時間は、本業だけでなくプライベートも侵食し始めた。というのも僕は今、「ゆる言語学ラジオ」という YouTube、Podcast(インターネットを通じて配信される音声コンテンツ)番組をやっているからだ。これは作家の堀元けんさんに誘ってもらって2021年に始めたインターネットラジオで、言語学に関するトピックを中心に扱うゆる〜い番組だ。現在 YouTube 登録者数は36万人(2025年7月6日時点)で、多くの方に聞いてもらっている。
 おかげさまで、朝から晩まで、平日から土日まで、ことばのことで頭がいっぱいだ。ことば関係の蔵書だけで、家の本棚は二つ埋まっている。
 ありがたいことに「ゆる言語学ラジオ」では、話のスキルを褒めていただけることがある。しょっちゅう「テンポがいい」と言われるのだが、実際に僕たちの会話のテンポはものすごく速い。何かを問われて沈思黙考することはほとんどないし、言いよどみやつっかえも少なくて、いつもスラスラ話している。相方はどうか知らないが、僕なんかはプライベートで人と会うときにも幾度となく「会話が速い」と言われてきた。
 そんなわけで、僕は「ことば」と「会話」を仕事にしている。そして普段からテンポが速いこともあって、200ミリ秒の謎というのは個人的な関心にもマッチしたのだった。

 謎解きの鍵は「文脈」から

 そろそろ本題に入ろう。コミュニケーションにおいて、発話された文はしばしば解釈が割れる。
 例えばある芸能人が亡くなった際、ある YouTuber が動画内で「あの人のこと、誰も悪く言わないんだよねー」としみじみと語った。ところがそのコメント欄には、「あなたがそんな人だとは思わなかった」と憤りを表明する人が現れたという。どうやらその人は、先の発言を「もっと悪く言う人がいてもいいのに」という非難だと感じたようなのだ。真意としては、単に「それほどまでに、その芸能人はいい人だった」と言いたかっただけなのに。
 このように、しばしば僕たちは一つの文に対して、異なる解釈を与えてしまう。文とは、文脈によって異なるニュアンスを持ってしまうのである。どうしてこんな悲劇が起きてしまうのだろう?
 200ミリ秒の謎を解き明かす第一歩として、まずは「文脈」という厄介者と向かい合うことから始めよう。

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 第一章  コミュニケーション上手になるための「語用論」

 イギリスの裁判所を揺らした発言

 1952年に実際にあった事件の話から始めたい。イギリスの中央刑事裁判所は、「Let him have it, Chris!」という、たった一つの文の解釈で割れていた。
 ことの発端は、同年11月2日の夜のこと。2人の若者が、ロンドン南部のクロイドンにある製菓会社の倉庫に侵入しようとした。19歳のデレク・ベントレーと、16歳のクリストファー・クレイグである。ところが近隣住民からの通報が入り、警官が現場に到着。クレイグは持っていたリボルバーを発砲し、頭に当たった警官が即死した。2人は警官殺害の罪で起訴されたのだった。
 クレイグが致命傷となる弾を撃ったということは間違いない。ベントレーは銃を持っていなかったし、警官が撃たれたとき、彼はすでに取り押さえられていたのだから。ところが問題となったのが、クレイグが引き金を引く前、ベントレーが「Let him have it, Chris!」と叫んだという陳述である。
「let him have it」という表現に聞き覚えのある人は多くないだろうが、これはイディオムで「〈人〉をぶちのめす」といった意味になる。ゆえに検察側は、公判で「警官を撃て、クリス!」という発言だったと主張した。それは「意図的な殺人のきょう」を意味し、重罪である。
 ところがベントレーの弁護人は、異なる解釈を提示した。let は「〜させてやる」という意味も持つが、him は警官を、そして it は銃を指したのであり、全体で「警官に銃を持たせてやれ」、つまり「銃を警官に渡せ、クリス」と勧めていたと言うのだ。確かに「let him have it」という文だけではどちらの解釈も可能で、そしてどちらの解釈も排除できない。
 結論から言うと、弁護人の「銃を渡せ」解釈は法廷で否定され、ベントレーには有罪の判決が下る。彼に用意されたのは絞首刑だった。事件発生からわずか2ヵ月後の1953年1月、ベントレーの死刑は執行される。なお、実際に弾を撃ったクレイグは未成年だったこともあり、少年院に送られただけだった。

 大ポカした就職面接「会いたい人は?」

「200ミリ秒の謎」を追う上でまず浮かぶ疑問は、「ヒトは文をどう解釈しているか?」である。そんなに短時間で、ヒトはどうやって文の解釈を決めて理解し、即座に反応しているのだろうか。「let him have it」という短い文でさえ複数の解釈が可能で、大の大人が何人も集まって話し合って結論を出したというのに。
 ここで少しだけ自分の話をしたい。僕は就活生のころ、ある出版社の面接で「今、会いたい人はいる?」と聞かれた。そこで僕は「最近大学を退官した恩師が地元の福岡に帰ってしまったので、会いたいですね」と答えた。1秒ほどだっただろうか。面接室をすさまじい沈黙が襲った。「いや、そういうことじゃなくて……」と面接官が言う。
 出版社の面接で「会いたい人は?」は鉄板の質問である。これは「インタビューや取材に行きたい、まだ多くの人が魅力に気づいてないホットな人は誰?」と同義である。編集者としての目利き力をアピールする絶好のチャンスで、面接という場においてこの上ないナイスパスだ。ところがアホ大学生だった僕はそんなこともつゆ知らず、本当に会いたい人を答えてしまったのである。改めて振り返っても、目を覆いたくなるほどのアホである。面接にはもちろん落ちた。
 何を隠そう、その出版社こそ新潮社である。それがこうして、書籍を出版する機会をいただけるのだから人生はわからない。
 話がそれたが、この失敗談は200ミリ秒の謎の核心をついている。なぜなら、面接官の質問は「会いたい人」を聞いているわけで、僕の回答は理屈上は間違っていないからだ(別に面接官を責めているわけではない)。でも、実際にはすれ違い、すさまじい沈黙が訪れてしまっている。なぜ当時の僕はしくじってしまったのだろうか?
 僕たちが日常会話をする上で、「相手が発話した文の意味がわからない」ということはあまりない。僕だって「会いたい人」という表現がどんな意味を持つかはわかっていた。そこまでアホではない。
 自分の例を使い続けていると切なくなるので、別のシチュエーションを考えてみよう。「あなたよりお姉さんの方が礼儀正しかったよ」と親戚に言われたとしたら、どう思うだろうか? これも、文の意味が理解できない人はいないはずである。とりあえずその人と比較して、お姉さんの方が礼儀正しいということが成立しているわけだ。
 ところがその発話をどう解釈するかは人による。自分に対するイヤミと取る人もいるだろうし、純粋に姉が褒められたと感じて嬉しく思う人もいるはずだ。

 謎まみれの解釈メカニズム

 ここで、重要な区別を導入する。発話のうち、文脈によって変わってしまう部分を「解釈」、変わらない不変の部分を「意味」と呼びたい。さっきの例で言えば、「あなたよりお姉さんの方が礼儀正しかったよ」という文の意味は、「礼儀正しさの度合いを比べるとしたら、あなたより姉の方が優っている」である。ここまでは善意も悪意もなく、ニュートラルな事実を言っている。これに対して、これをイヤミだと捉えるのが解釈である。
 そして本章では、「文の解釈」について考える。さっき見たように、ことばの意味については説明されなくてもわかるわけだから、こちらはまあ取るに足らない問題だ。
 ところが解釈のメカニズムは謎まみれだ。「あなたよりお姉さんの方が礼儀正しかったよ」がなぜイヤミに感じられるのか、問われるとよくわからない。字面だけ見れば肉親が褒められているわけで、イヤミ要素はないはずだ。ところが実際にイヤミと受け取る人は一定数いるわけだから、何かしらのメカニズムが働いていることは間違いない。
「そんなん、文脈でわかるじゃん」と答えたくなる人もいるだろう。だとしたら、その文脈って何なんだろう?
 そう、この章のテーマは「文脈の解剖」と言い換えてもいい。いかにも再現性がなさそうで、「ケースバイケース」のひとことで済まされてしまいそうなフワフワした概念にメスを入れ、全容を解明しようと挑んだ研究者にこれから登場してもらう。せっかくなので補足しておくと、勇敢な挑戦を続けるその分野の名は「よう論」だ。
 冒頭の事件だって、きっと現場に居合わせて発言の文脈を知っていれば「let him have it」の解釈は確定させやすかったはずだ。
 実はこの話には続きがある。その後の調査で、当時の裁判官が「Let him have it, Chris!」という発言のあいまい性に十分な注意を向けなかったことが明らかとなったのだ。死刑執行から45年後、控訴院はベントレーの有罪判決を破棄した。文脈は人命を左右するのだ。これは誇張でも何でもない。

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 ことばとは、世界への働きかけである

 語用論の出自は哲学だ。哲学と聞くと身構えてしまう人もいるかもしれないが、面白がり方を提案しておきたい。この後別の章でも出てくるのだが、哲学では「そんなの、雰囲気でわかるじゃん!」って話に、べらぼうに頭のいい人たちがひたすら理屈っぽく取り組んでいる。これは近い距離で見るとおっかない。文章が難解だったり議論が抽象的だったりして、しかめっ面しながらテキストと格闘しなければならないからだ。
 でも、一歩引いた目で見てみよう。最高峰の知性たちが、僕たちが苦労せず運用できていることについて一生懸命考えているのって、なんだかいとおしくないだろうか。少なくとも僕はニンマリしてしまう。ふんだんに例を使いつつ、さらに僕なりに大胆に嚙み砕いて説明するが、それでも難しいと感じたらぜひ一度この視点を思い出してほしい。
 というわけで、まず最初にご登場願うのはイギリスの哲学者ジョン・オースティン(1911〜1960)だ。
 言語学の教科書を読むと、しばしばこんな例文が出てくる。
 
 ・ネコはニャーニャー鳴く。
 ・ネコは哺乳類だ。

 
 こうした文を題材にして、「この文の意味とは?」みたいなことを考えたりするのだ。
 さて、今日した会話やチャット、メールのやり取りを思い出してほしい。こんな文ってあっただろうか? もちろんネコの話に限定したいわけではない。「富士山は日本にある」とか「三角形の内角の和は180度だ」のように、なんでもいい。とにかく、先方に何かの事実を伝えただけの発話って、どれくらいあっただろうか? ゼロとは言わないだろうけど、そう多くないのではなかろうか。
「ことばって実際に使われるときには、事実そのものを伝えることってめっちゃ少ないよね」
 オースティンが説いたことを僕なりに翻訳するなら、こういうことだ。言われてみれば極めて当たり前のことである。ただ、僕は初めて聞いたときは目から鱗が落ちる思いがした。
 では、ふだん使っている文って、どんなものが多いだろうか? 思い返してもらうと、あなたの日常を彩っているのはこういう会話が多いはずだ。

 ①「明日は3時集合ね」
 ②「ごめん、宿題手伝ってもらうことできる?」
 ③「この部屋、ちょっと寒いな」


 これらは世の中に成立している事実を伝えている、とはあまり感じられないだろう。では、何を伝えているのだろうか?
「発話って、事実を伝えるというよりは、それを通して聞き手や世界へ働きかけているケースがほとんどなんだよ」
 オースティンの主張を端的にまとめると、こういうことになる。
 例えば①であれば、「約束」という働きかけをしている。②は形式的には「宿題を手伝うことが可能か」という事実を確認しているわけだが、実際には「依頼」をしていると見た方がよさそうだ。③も同様で、確かに「この部屋がちょっと寒い」という事実は伝わっているだろうが、たいていの場合、暖房の温度を上げるなどの「提案」「要求」をしているだろう。
 このように、オースティンは「ことばを通じた働きかけ」のタイプを大きく分類した。例えば将来何かすることを約束する「拘束」や、影響力を使って指名や命令、催促、警告などを行なう「行使」、審判による評決など、評価を与える「判定」といった5つの型が挙げられている。
 オースティンのアプローチは「言語行為論」と呼ばれ、20世紀半ばに大きなムーブメントを巻き起こした。そのすごさを僕のことばで語るなら、「発話されたことば自体に注目するのではなく、それを通して実現された働きかけの方に注目した」ということになるだろう。これはコペルニクス的転回だ。

「させていただく」を「食べログ」で研究する

 どの時代でも、すぐれた研究者は目の前にある事実やデータを、違った視点で捉えて研究を発展させる。オースティンについて学んで思い出したのは、「させていただく」ということばの地域差を調べる研究だ。「させていただく」は関西方言から東京に取り入れられ、その用法も拡大しつつあると言われている。相手の許可を必要とするときに用いる(例えば「スケジュールを変更させていただきます」など)のが規範的だが、最近では相手の関与や許可を必要としない、「本日をもちまして解散させていただきます」などの用法も見られるようになった。人によっては後者の用法に眉をひそめたくなるかもしれないが、その是非はいったんおいておく。
 さて、現代での使用分布とその用法を調べたい場合、どうすればいいだろう? そこで研究者が目を付けたのが、グルメレビューサイト「食べログ」のデータだ。なぜなら、食べログにある投稿はその店の位置情報と結びついているし、その投稿内に「堪能させていただきました」「感動させていただきました」「行かせていただきました」などの表現が頻繁に見られるからである。
 8万6000件以上のレビューに対する調査を通して、研究者は「今や『させていただく』は実は東京で最も多く使われている」との結論を出しているが、僕にとって面白いと思うのは、食べログをいい飲食店を知るサイトとしてではなく、「させていただく」の現在地を知るためのデータベースと捉え直しているところである。これはオースティンが、発されたことばそのものではなく、それを通して行なわれた世界への働きかけに注目する姿と重なる。こうした発想の転換が、今日もことばの研究では日々生まれている。

続きは本書でお楽しみください。

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