新潮社

試し読み
一篇全文公開

すげえ泣くじゃん

 ベッドの中でインターホンの音を聞き、(りょう)は寝坊してしまったのかと時刻も確かめず飛び起きた。お届け物はすべて宅配ボックス指定にしている。(あい)しか心当たりはなかった。やべ、怒ってるかな。モニターの通話ボタンを押すと同時に「ごめん」と謝ると、画質の粗い画面にはきょとんとした甥っ子が映っていて、一瞬まだ夢を見ているのかと思った。
(はじめ)?」
『うん』
 夢じゃない。ようやく覚醒した脳みそが黄信号を点す。俺の週末、つぶれそう。絶対ろくな用件じゃないだろ。
 正直、応答する前だったら居留守という選択肢もあったけれど、反応してしまった以上仕方がない。「入れよ」と解錠ボタンを押し、カメラを切った。ややあって今度は玄関のインターホンが鳴る。顔を洗う暇も水を一杯飲む暇もなかった。チェーンと二カ所のロックを外し、ドアを開ける。外の空気がむわっと流れ込んできて顔をしかめたのが、一には違う意味に映ったのかもしれない。リュックのショルダーベルトを両手でぎゅっと握っていた。
「……お前、でかくなったな」
 フォローより先に、素直な感想が口をついて出た。最後に会ったのは今年の正月、だから半年ちょっとしか経っていないのに、明らかに頭の位置が違う。
「うん」
「何センチ?」
「百六十八」
「小六で? 俺と五センチしか変わんねーじゃん」
 声のトーンも、変声期まではいかないものの、子ども特有の甲高さがなくなっていた。さなぎの中で組織がどろどろに溶けて再構成されるさまを連想し、思春期こえー、と思った。自分が当事者の時、この急激な変化をどう認識していたのか記憶にない。
「上がれよ」
「うん」
 スニーカーのサイズは、見たところ藍と変わらないから二十四センチくらいだろう。それにしても、ついこの間まで歩くたびプピプピ鳴るサンダルを履いていた気がするのに。1Kの部屋に椅子もソファもないので、フローリングの床に座らせてちょうど冷蔵庫にあったコーラのペットボトルをそのまま出した。一が手をつけようとしないので「飲めよ」と勧めたら「カロリーゼロのやつじゃないから」と遠慮がちに断られた。
「え、お前そんなん気にしてんの?」
 女子かよ、と言いかけて思いとどまる。「今はこういうのアウトなんだよねえ」と会社では(おもんぱか)られる側だけれど、一の世代はきっともっと「アップデート」されているに違いない。日頃、藍からノンデリの指摘を受けることも多い身として、注意しなければ。
「だって僕、太ってたじゃん」
「ああ、まあ、ころっころしてたよな」
 周りの大人は「かわいいねえ」とちやほやしていて、遼も特に気にならなかった。というか、離れて暮らす甥っ子の体型なんかどうでもよかった。でも本人はひそかに悩んでいたらしい。
「ダイエットしたいとか言ったら絶対おばあちゃんたちに止められるでしょ。だからごはんはおかず多めでお代わりしないで、おやつをさつまいもとかにしてもらって、スナック菓子とジュースやめた」
「へー、意識高いな。けどほっといても縦に伸びてちょうどよくなったんじゃね」
 努力を無下にされたと感じたのか、一はむっと顎に梅干しみたいなしわを寄せる。遼は構わずペットボトルの蓋を開けてコーラをひと口飲み「うめえ」と言った。
「おじちゃん、大人げないよ」
「お兄ちゃんと呼べ」
「三十歳っておじちゃんだよね」
「二十七だわボケ」
「変わんないじゃん。それより喉渇いた」
「冷蔵庫から勝手に取れ」
 といっても他には発泡酒か炭酸水しか入っていない。後者をコップに注いで持ってきた一が再び腰を下ろすと、遼はようやく「何の用」と訊いた。そしてちょっとつめたすぎるかと反省し「どしたんだよ、急に」とつけ足す。一は答えない。
「ばあちゃんたちには言ったのか?」
 黙って首を横に振る。
「じゃあ何つって出かけたんだよ。新幹線代だってかかっただろ」
「友達とレイクタウン行くって出て、新幹線のお金はお年玉から」
「俺の住所なんか教えたっけ」
「おばあちゃんのスマホのアドレス帳見せてもらった」
「勝手に見た、だろ」
「……ごめんなさい」
「俺に謝られてもな」
 コーラのげっぷにため息を混ぜ込む。わざわざ新幹線に乗って越谷の実家から大阪まで来たのには、相応の事情があるのだろう。遼は再度「どうした」と尋ねた。今度はぽつりとひと言、返ってきた。
「……お母さん」
 いやな予感がする単語だった。
「に、会いたくて」
「やっぱりな」
 遼はべたっと床に横たわった。だるいこと言いやがって。
「やっぱりって?」
「そんくらいしか心当たりないから。会いに行きたきゃ勝手に行けばいいだろ。俺は付き添わねえぞ」
 父親や祖父母──遼にとっての両親──に気兼ねして、自分を頼ってきたのかと思った。けれど一の話はさらに面倒だった。
「どこにいるかわかんない」
「は? 俺だって知らねんだけど」
 大学以降は大阪住まいで、姉とは年に数回、帰省の時に顔を合わせる程度だった。三年前に離婚し、一を置いてどこかに行ってからは、本当に消息を知らない。
「電話とかLINEは?」
「とっくに繫がんなくなってる。おばあちゃんが怒ってた」
「怒ってただけ?」
「ていうか呆れてた。あの子はほんとにいつまで経っても、って」
「お前の父ちゃんは?」
「連絡取れないって言ってたけど……あんま深く訊けない。今、船乗ってるし」
「ひょっとして俺に捜索願とか出させる気? たぶん、まじめに捜してもらえねえぞ」
「手がかりは、ある」
 そこだけ妙に力強く一は言うと、スマホを取り出し、互いの中間にあるローテーブル越しに身を乗り出してくる。
「見て」
「んだよ」
 仕方なく身体を起こし液晶に目をやると、テレビのニュース動画らしかった。一の視線に促されて再生の三角マークをタップすると、数秒後に姉の泣き顔が現れてのけ反った。
 ──今までありがとうって、お礼を言いに来たんです。あっちに行っても元気でねって……。
 ──きょうは、どちらからいらしたんですか。
 ──奈良です。
 ──ちゃんと、お別れできましたか。
 ──はい……。
 肩をふるわせ、ハンカチを口に押し当てる姉の姿は、身も世もないという形容がぴったりだった。画面の右上には「白浜パンダ きょうでお別れ」というテロップが入っている。和歌山にあるアドベンチャーワールドのパンダがすべて中国に返還され、いなくなる。関西では大ニュースなので、もちろん遼も知ってはいた。「へえ」以外の感想はなかった。しかし姉は、カメラの前で号泣している。
「すげえ泣くじゃん」
 思わずつぶやく。一は何の感情も窺えない顔でスマホを引っ込めた。
「で?」と甥っ子を見る。
「まさか、これが手がかりとか言うなよ」
「奈良って言ってた」
「うん、あいつ飛行機嫌いだから海外の線はないとして、四十七分の一まで絞れたね、おめでとう。で? 言っとくけど奈良ってまあまあ広いし、鹿よりは人の数のほうが多いんだけど?」
 言いながら自分がいやになった。一だってそんなことはわかっているし、遼から突っ込まれるのも想定内だろう。でも、大枚(はた)いて新幹線に乗ってまで、関西に来た。そうせざるを得ない理由が、一の中にはある。それを解きほぐしてやるのが大人の役割ってもんだろうと頭では思いつつ、まずもって面倒だし、原因が姉というのがむかつく。子ども置いてった女がパンダに置いてかれて爆泣きするとか、アホかよ。

次のページ 

「とりあえず、ばあちゃんに一報入れとくわ」
 遼は立ち上がり、飲みかけのコーラを冷蔵庫にしまってベランダに出た。まだ六月だというのに、外もアホみたいな蒸し暑さだった。母に電話をかけ「一、こっち来てんだけど」といきなり本題から入る。
『何で』
「姉ちゃんに会いたいんだってよ。何か、アドベンチャーワールドで号泣しながらテレビのインタビューに答えてた」
『え、ひょっとしてパンダ? あの子、妙に好きだったもんねえ。あんたもちっさい頃一回連れてかれたでしょ。ほら、あの時も大変だったじゃない』
 いいよその話は、とぶっきらぼうに母の言葉を遮った。
「あいつ、奈良にいるらしい」
『それで、母をたずねて三千里? 十三歳、真夏の大冒険だね』
「齢も季節も違うんだけど何だそれ」
 もうボケたか?
『ほら、いたじゃない、東京オリンピックで金メダル獲った……ローラースケートだっけ?』
「スケボーじゃね。てかどうでもいいから。そんな漠然とした情報で見つかるわけなくね」
『うーん、でもいてもたってもいられない気持ちってあるんじゃないの。気の済むようにさせてやってよ。うちじゃ母親のことなんかちっとも言わないのに、やっぱり寂しいんだよ。こっちには、日曜の夜に帰してくれればいいから』
「いや勝手に決めんなよ」
 と抗議したものの、さすがに炭酸水を飲ませただけでUターンさせるのも忍びない、程度の情はある。母の適当とも思える寛容な反応は、長年姉の尻拭いに疲れて無駄にスルースキルが磨かれたせいだ。一にもそれが伝わっているのかもしれない。早くも首すじににじんだ汗を拭い、通話を切ると下の道路から藍が手を振っているのが見えた。
「なーなー、車のとこで待っとったらええ?」
「あー……悪い、ちょっと上がってきてくんない? 緊急事態」
「えーなんなん? お腹でも壊した?」
「いいから、とにかくきて」
 室内に戻ると、一は体育座りでスマホを(いじ)っていた。背丈が伸びても、厚みのない子どもの身体はぎゅっと折り畳まれるとたちまち頼りなく見えた。
「コーラ、早く飲んじゃったほうがいいよ。口つけたら雑菌が繁殖するし」
 したり顔でこんな忠告をしてくるくせに。
「細けーな、誰に似たんだか」
「お父さん?」
「だろうな」
「おばあちゃん、何て言ってた?」
「お前の気の済むようにさせてやれ、だってよ」
「やった」
「やった、じゃねえよ。そもそも、俺にも予定があんだから──」
 と言いかけたところでタイミングよく玄関のドアが開いた。
「あれ、誰か来てんのー?」
 部屋に上がった藍は一をひと目見て「隠し子?」と言った。
「何でだよ、齢考えろや」
「やんちゃしてた過去があるんかなって。でもまじでちょっと似てるやん」
「甥っ子だから」
 さっきまでの経緯をざっくり説明すると、藍は「ええやんそれ」と目を輝かせた。
「どうせ行き先決まってへんかったし、奈良に決定。一くん、わたしも交ぜて。邪魔せーへんから」
 一は、初見の成人女性に対する緊張丸出しで、「こちらこそ、突然お邪魔してすみません」と言葉遣いだけ一人前に答えた。
「ほな決定」
「いやいや、漠然と奈良行ってどうすんだって」
「その、お姉さんの動画、わたしも見たい」
 一のスマホを凝視していた藍は、「ちょっと貸して」と画像をキャプったり何やら検索していたかと思うと、「これ」と画面を向けてきた。魚のゆるキャラっぽいものが表示されている。
「何それ」
「アマゴン、やて」
「は?」
「お姉さんのハンカチの隅っこに、あんま見たことないワッペンがついてんなあと思って。拡大して画像検索かけてみたら、神北山村っていうとこのマスコットキャラクターらしいわ。名産のアマゴをモチーフにしたアマゴン。せっかくやから行ってみーへん?」
「そこに住んでるとは限らないだろ」
「何かしらの目的地は必要やん。こっからやと車で三時間弱、ドライブには程よいし。一くん、どお?」
 一がこくっと頷いたので、行き先が決定した。不満かつ不本意ではあったが、一の飛び入り参加でほんの少しほっとしたのも確かだった。藍とふたりきりだと、何を話せばいいのか正直怖かった。藍は屈託なく「途中、どっかでお昼食べよな」と笑う。
 
 納車されたばかりの軽で出発すると、ファミレスで腹ごしらえを済ませた。一がトイレに行っている間に藍が「お姉さんってどんな人?」と尋ねる。
「アホ女」
「そんなんじゃわかれへんやろ」
「リセット癖があって、時々飛ぶ」
 ドリンクバーのアイスコーヒーを氷と一緒にストローでかき混ぜながら言った。
「ストレスに弱いんかな」
「逆。楽しいことあると逃亡すんだよ。昔っからそうだったみたい。遠足の日にリュック背負ったまま近所の河川敷うろついてたり、準備頑張った文化祭の当日にゲーセンに引きこもってたり。理由は本人にもよくわかんないんだってよ」
「大変やな」
「周りがな。大人になってもふらっとどっか行ったきり、番号ごとスマホ替えて連絡つかないとかざら。で、一の父親は外航船の機関士やってんの。長距離の船。一回海に出たら半年以上戻ってこないのがよくて結婚したっつってたな。自分が『待ってる側』になるから落ち着くんだって。まあ、それでも十年が限界だったっぽいけど」
 一は今、父親が陸にいる時は父子ふたりで、航海中は遼の実家で暮らすという二拠点生活を送っている。あいつもいろいろ複雑なんだろうな、と気の毒ではある。
「知らんかったなあ」
 藍はパフェグラスのアイスをみるみる掘り進めていく。
「いちいち言わないだろ、やばい身内のことなんか。俺だって藍の家族のこととか知らないじゃん」
「それはそう」
 店を出ると阪神高速に入った。藍は後部座席で一と並んで座り、あれこれと話しかけるので若干いらついて「助手席来いよ」と言ったら「直射日光やばいからいや」と一蹴された。
「一くんのスマホ、なんかちらちらしてんの、なに? 白黒の水玉みたいなん」
「車両モーションキューです。車の揺れに合わせて水玉が動いて、それを見てると酔わないです」
「へー、そんな便利な機能あるんや。知らんかった。白と黒、パンダカラーやな」
「はい」
「お母さん、昔っからパンダ好きやったん?」
「グッズとか集めてました。上野動物園にも連れてってくれたり」
「ふーん」
 藍はさして興味なさそうに大きなあくびで車内を満たし「あかん、眠い」と訴えた。

次のページ 

 前のページ

「ステーキ二五〇グラムは多かったかも」
「パフェまで食っといてよく言うよ」
「でもおいしかったー……ちょっと寝ます、適当に起こして」
 それきりしゃべらなくなったので、一に「まじで寝てんの?」と尋ねると「そうみたい」と返ってきた。
「ドライブの意味ねえじゃん」
「おじちゃん、ごめん」
「お兄ちゃんと呼べ、何だよ」
「彼女と約束あるって思わなかった」
「思えや」
「どれくらいつき合ってる?」
「この夏で二年」
「結婚する?」
「しねえよ」
「何で?」
「俺ひとりで決めらんねーだろ」
「結婚したい?」
 午後のアスファルトは陽炎でぐらぐら煮えたっているように見えた。前を走る車のリアワイパーが陽射しを跳ね返して目に刺さるほどまばゆく光り、遼はぐっと眉間に皺を寄せてアクセルを踏み込んだ。一は敏感に空気を読んだのか、「ほんとはどこ行くつもりだった?」と質問を変えた。子どもの察しのよさは、大人に便利に扱われてきた証拠みたいで哀しい。助かるよ、とか、ありがとね、という言葉でそっと口を塞がれて。
「別に。車買ったから適当にドライブしてどっかで適当に泊まるつもりだった」
 最悪、車中泊でも別にいいよな、と宿の予約もしていない。
「それこそ、白浜のアドベンチャーワールドでも行ってたかもな」
「パンダもういないよ」
「象とかライオンはいるだろ。パンダじゃなくたって、近所で見かけない生き物には変わりないんだからおもしろいって」
 ルームミラー越しに、一が声を立てずに笑うのが見えた。きょう、笑顔を見たのは初めてだと気づくと、自分が情けなくなった。
「すごいね」
「何が」
「大人って、計画立てずに遠くに行ってもいいんだと思って」
「そうだよ」
「僕も、いつかやってみたい」
「やる時は日程伝えて連絡は無視すんな。父ちゃんもばあちゃんたちも心配するからな。そんで、ちゃんと帰ってこい」
「うん」
 一の顔がすぐ神妙に固まり、説教じみたつまらないことを言ってしまったと後悔した。藍は松原ジャンクションを過ぎ、美原ジャンクションを過ぎ、奈良県に入ってから盛大な伸びとともに目覚めた。
「めっちゃよお寝た。男同士の話、弾んだ?」
「まあな」
 高田バイパスを通って国道169号線を南下する。建物が木々に取って代わられ、新緑を過ぎた色濃い木立と、水気をたっぷり含んだ、夏空の青さにはまだ及ばない淡い空が視界を占める。悪くない気分だった。「ようこそ神北山村へ」という看板が見えると、藍が「止めて」と言った。
「道の駅寄ろ」
「買い物なら帰る時でよくね」
「アホ、聞き込みせな。お姉さんの名字は?」
「俺と一緒だから小沢だよ。結婚してた時は(もり)()
 駐車場に車を停めて外に出ると、当然暑かった。けれど眼下を流れる透き通った川のどうどうと豊かな水音を聞き、鼻腔から肺をみずみずしく膨らませる山の匂いを感じると、運転で強張っていた全身がゆるっとほぐれる。藍は道の駅に入ると、売り場の人間を手当たり次第捕まえ、スマホ片手に訊きまくっていた。
「ちょっとすみません、この辺にお住まいですか? 実は人を捜してるんですよー、この女の人なんですけど。盛田さんか、旧姓は小沢さん。ご存じないですか?」
 ニュースのキャプチャ画像を見せても「さあ」「知らんなあ」という反応ばかりだった。それでもめげずにアタックを続ける藍を、遼は感心して眺めていた。一が心配そうに「手伝わなくていい?」と窺ってくる。
「いいよ。俺は男だから不審者感が出るし、お前も、知らない人に流暢に話しかけらんないだろ」
 結局、姉の手がかりは見つからず、特産品のとち餅やら調味料やらを実家への土産に買い込んで一のリュックに詰めただけだった。藍は近くの駐在所にまで聞き込みを敢行したが、そこでも姉に関する情報は得られなかった。
「郵便局とか村役場で訊けたらええねんけど、きょう土曜日やもんな」
「こんな人口少なそうな村でお巡りさんも知らないんだったら、住んではないだろ。観光で来たとか、そもそもハンカチは人からもらったとかじゃね」
「んー……一くん、どないする? 集落の方行って、もうちょっと頑張ってみる?」
 一は困ったように目を伏せた。アポなしでやってくる度胸があるくせに、決断を委ねられると怖気づくアンバランスさはいかにも思春期だった。ぱんぱんに膨らんだリュックの重さに耐えかねて背中から引っくり返ってしまいそうなほど頼りなく見える。「とりあえずどっか泊まろうぜ」と遼は助け舟を出した。
「聞き込みするにも、もう夕方だから迷惑だろ。疲れたし」
「せやな、あしたのことはまた考えよ」
「うん」
 素直に頷く一を見て、何がなんでも会いたいってわけじゃなさげ、と思った。空振りでも、行動を起こしたことで多少なりともすっきりできたならいい。幸い近くの旅館に空きがあり、藍が「別にええよ」と言うので三人でひと部屋を取った。夕食に出されたアマゴはうまくて、温泉は気持ちよくて、日が暮れると今までの人生で見たことない密度の星空で、一泊だけなのが残念なほど満ち足りた夜だった。姉も、この空を見ただろうか。和室に三組敷かれた布団を見て、一があからさまにもじもじと恥ずかしがっているのがおかしかった。余計な気を遣わせないようジャンケンで寝る位置を決め、一が真ん中になった。
 夜中、自分の「ふがっ」といういびきで目が覚めた。ほぼ同時に、トイレから水音が聞こえてくる。やがて足音が近づき、襖が開く。隣に人の気配が戻ってくる。おねしょしなかったか、とからかってやろうと思ったがまあいいやと背中を向け、再び寝入ろうとすると、「大丈夫?」と藍のちいさな声がした。
「寝られへん?」
「大丈夫です。……お姉さんこそ」
 俺のことはおじちゃんなのにそっちはお姉さんかよ。同い年だぞ。
「昼間、車で爆睡してもうたから」
 布団と浴衣が(こす)れるかすかな音が、闇の中ではやけに響く。一くんはさあ、と藍の声。
「お母さんが、もし再婚とかしてたらどうする気?」
 それは遼も気になっていて言及できずにいた問題なので、どきりとした。
「離婚しはってから三年やろ。見た感じ、お母さん若々しかったし」
「たぶん、四十二歳とか、そのくらい」
「あー、割といってんな。でもまだまだいけそう。一くんの弟さんとか妹さんとか生まれてたり、さ。お母さんにもし会えても傷つくことにならへん?」
「あんま、気にしない」
 一の顔は見えないけれど、やせ我慢をしているふうには聞こえなかった。
「お父さんとお母さんが離婚して、お母さんが出て行く時、ごめんねって僕の顔じっと見てた。一生懸命まばたき我慢して、泣かなきゃ、って思ってるのに全然涙出ない顔してた」
「逆ちゃう? 涙見せたないから必死で堪えてたんちゃうの」
「ううん。目、からっからだった。それは別によかったんだけど、あの、パンダのニュース見た時、もやもやっとして。ムカつくとか悲しいとか、そういうのもあるんだけどそれだけでもなくて……うまく言えない」
「うん」
「もやもやがずっと取れないのやだなって思って、お母さんに会って何か話したら、取れる気がした」
「何かって?」
「それもわかんなかったけど、お母さんの動画見せたら、おじちゃんが真顔で『すげえ泣くじゃん』って言って、おもしろかったから僕も言いたいかも」
 なるほど、と藍はつぶやいた。なるほどねえ、と。
「その、もやもやする感じ、わかるわ」
「ほんと?」
「めっちゃわかる」
「どうしたらいい?」
「うーん、わたしの場合は一くんと逆で、もやもやの元と離れること、かな」
「それで何とかなる?」
「たぶん」
 遼はふたりに背を向けたまま「ふがっ」「ふごっ」といびきを偽装し続けた。おやすみ、と藍がやさしく声をかける。

次のページ 

 前のページ

 翌日、一は朝食の茶粥をかき込むと「アドベンチャーワールドに行きたい」と言った。
「パンダおらへんで?」
「うん、でも行ってみたい。それから、家に帰る」
 ゆうべの藍との会話がどういう化学反応を起こしたのかわからないけれど、一の中で何かが腑に落ちたのかもしれない。宿を発ち、きのうと違う道を走るのは楽しかった。白浜までは二時間ほどだった。
 アドベンチャーワールドに着き、パンダがいた屋外運動場に向かうと、芝生のエリアにはまだ遊具が残されていた。「柵が低いんだね」と一は驚いていた。
「上野は、ガラスの部分が多いのに」
「ひょいっと越えられそうやもんな。ここで何頭もごろごろしとってん。白浜行けばパンダなんか普通に見られるっていうんが、関西が東京に勝てる唯一のマウントやったのになあ」
「パンダ一強すぎね?」
 柵に両手をつき、あるじがいなくなった運動場を見渡す。意外にも、周囲にはけっこう客がいた。遊具を見つめてせつなげなため息をついたり、写真を撮りまくったり、パンダロスがまだまだ癒えないらしい。
「パンダって、そんなかわいいか?」
「ここで言わんといてよ、しばかれそうやから」
「だって、あの縁取りの中の目、けっこう怖いぞ。そもそも熊じゃん」
 ──全然かわいくないよ、ライオン見に行きたい。
 あの日、幼かった自分は訴えた。姉は「何でよー」と言いながら屋内の展示に引っ張って行き「ほら、パンダのうんこのにおい嗅げるってよ」と濃い緑色の排泄物を示した。恐る恐る顔を近づけると、茶葉のようなにおいがした。
 ──パンダが食べてる竹ってほとんど消化されてないんだよ。だからいやなにおいがしないの。
 ──何で?
 ──熊だから、元々は普通に肉食だったんだって。でも生き延びるために、竹しか生えてない山で暮らすしかなかった。
 ──え、じゃあ、おいしくないって思いながら食べてんの?
 ──そうかもね。でもあのおっきい身体を維持するためには、食べ続けなきゃいけない……。
 屋内の運動場にもパンダがいて、外と繫がる鉄格子の前で「ぶおおん」みたいな声でしきりに鳴いていた。パンダがそんなふうに鳴くとは知らなくて驚いた。
 ──それって幸せかな? 遼だったらどうする?
 ──我慢するしかないじゃん?
 ──えー、やだよ。
 姉は、鳴き続けるパンダを見て笑っていた。夏で、繫いだ手は互いの汗でじっとり湿っていた。
 ──わたしなら、飢え死にするかもしれなくても、肉が食べられて、敵がいない山を探し続けると思う。だから、それができなかったパンダが、かわいそうでかわいくて好きなの。
 そして、「ちょっとトイレ行って来る」と遼の手を離してどこかに消え、戻ってこなかった。十歳だったから、スタッフに迷子のアナウンスを頼むのはとても恥ずかしかった。何度放送が流れても姉は現れず、家に電話して両親に迎えに来てもらった。母は疲れ切っていて、父は「だからあいつとふたりで出かけさせるなって言っただろ」と怒っていた。手のひらはいつの間にかすっかり乾いていた。姉は帰ってこなかった。
 なのに、三年経った冬、中学校から帰宅すると姉が「おかえり」と平気な顔でこたつにあたっていた。翌年には結婚し、その翌年には一が生まれ、ようやく落ち着いてくれたかと両親が安心しかけたところでまた離婚、出奔に至った。一応、書類上の手続きを踏んで息子にも別れの挨拶をしたのだから姉なりに成長していると評価すべきだろうか。
 たぶん、手を繫げば繫ぐほど、ほどきたくなる人間なんだと思う。それが大切であればあるほど、振り切る自分の瞬発力や馬力を確かめられるから。姉の発作みたいな衝動について、遼はそんなふうに理解していた。どんなにはた迷惑でも、姉本人にもどうしようもないんだろう、とも。愛しては捨てる不毛な繰り返し。捨てる瞬間がいちばんいとおしい。でもそれを、一がわかる必要も許す必要もない。
「おじちゃん、喉渇いた」
「何か飲むか」
 フードコート形式のレストランに入って注文し、一と藍に席取りを任せてドリンクを待っていると、聞き覚えのある声がした。
「うん、だからね、わたし、許せなくって」
 スマホで誰かと通話しながら、ずんずん進んでいく。姉だった。遼はとっさに背を向ける。まじかよ。中腰で一たちのいるテーブルに走り寄ると、小声で「いた」と報告する。
「あの、奥の四人がけに座ったの、姉ちゃんだ」
 一が即座に立ち上がり、遼が視線で示したテーブルに目をやってまた着席した。
「ほんとだ……」
「え、すご、運命的。親子やからかなあ」
「一、どうする? 一緒に行くか?」
 甥っ子はテーブルの上でぐにゃぐにゃと十本の指を絡ませていたが、やがてぎゅっと拳を握る。
「ううん、ひとりで行ってくる。おじちゃんたちはここにいて」
「……わかった」
 姉に向かって歩いていく一の姿を、なぜか直視できなかった。異様に緊張して心臓が痛いほど鳴っていた。姉は別に悪人ではないから、一を邪険に扱ったり、暴言を吐いたりはしないだろう。でも、怖い。姉を「捜し当てた」現場は初めてだった。遼が物心ついた頃には、両親は既に娘の(とん)(そう)(へき)に半ば匙を投げ、「生きてればそのうち戻ってくるでしょ」という態度だった。それがいちばん傷つかずに済むスタンスだと、遼も自然に学習していた。でも一は、自分の意思で、自分のために姉を捜した。
 お前、すげえな、尊敬するわ。
 俯いたまま、藍に「どんな雰囲気?」と尋ねる。
「何かしゃべってる。隣に来た家族連れが邪魔でよお見えへんけど……近づいてこよか?」
「いや、邪魔しないでやってくれ」
「……あ、話し終わったみたい」
「もう?」
 一は、遼が受け取り損ねたトレイを持って戻ってきた。席に着くなり烏龍茶をストローでちゅーっと吸い上げ「コーラにしとけばよかった」とつぶやく。
「買って来るか?」
「いい。お腹たぽたぽになる」
 どう探りを入れたものかと、遼と藍が顔を見合わせていると、一はちいさくかぶりを振った。
「お母さん、僕のことわかんないみたいだった」
「え?」
「背が伸びて瘦せたし、しょうがないかな」
 確かに、遼だって三年のブランクを経ていきなり対面していたら自信はないけれど。
「それで、おばさんの顔、ニュースで見ましたって言ったら、ちょっと嬉しそうにした後、あのニュースは間違ってたって。(ゆい)(ひん)(さい)(ひん)のテロップが逆だったとか怒ってた」
 ひょっとして、「許せなくって」というのはそのことだろうか。
「……ちょっと、一発殴ってくるわ。さすがにない」
 腰を浮かせかけると「やめて」と一に手首を摑まれた。
「僕、怒ってないよ。悲しくもない。お母さんってバカなんだなあって思っただけ」
 一の眼差しは冷静で、遼が憤りをぶつけたところで喜ばないのは明白だった。
「ほんまやな」
 藍が反対の手首に手を添えた。

次のページ 

 前のページ

「こんなええ息子が、会いに来てくれたのにな」
 一がはにかんで笑う。
 
 新大阪駅に向かう車内で、一が「疲れたから寝るね」と言った。
「おやすみ。遼、前行ってええ?」
「うん。一旦停める」
 藍が助手席に移り、シートベルトを締めるのを待って車を発進させた。
「うわ、シートあっつ……まぶし」
「藍」
「うん?」
「ごめんな」
 ──妊娠してた。
 藍からそう告げられたのは、春の終わりだった。
 ──でも、知らんうちに流産してた。お腹痛くて婦人科行ったら、自然流産やって。
 藍が泣くところを、初めて見た。遼は、その涙についていけなかった。いつの間にか我が子が発生して死んでいたことへの悲しみも、あるいは責任を免れた安堵もなく、しゃくり上げる藍にとにかく何か言葉をかけなければと焦った結果、おそらく最悪のチョイスを口にした。
 ──すげえ泣くじゃん。
 藍は泣き濡れた目で遼を見つめ、黙って部屋を出て行った。でも翌日には、ふたりで観に行きたいと話していた映画の封切り日についてのLINEがきて、表面上は元の藍に戻った。謝罪を切り出せないまま時間が過ぎ、去年から納車待ちしていた車がやっと届いたと報告すると、「ほな、最後に旅行でもする?」と何でもない顔で言われて、自分が許されてなどいないと思い知った。
「本当にごめん。無神経すぎる発言だった」
「んー、そうでもないけど」
 藍が軽い口調でいなす。
「おい、そういうのやめろよ。最後なんだから、ちゃんと話そう」
「まじで言うてるよ。わたしも、病院で知らされてから『赤ちゃんごめんなさい!』って変なテンションになってもうてさ、覚めやらぬまま遼んとこ行って号泣したやんか。『すげえ泣くじゃん』て言われて、すっと冷静になってんな。ほんまや、みたいな。やからあれはあれで、まあそんなに」
「え、だったら俺は、何で振られるわけ?」
「『じゃん』かなあ」
「は?」
「『すげえ泣くじゃん』て標準語? ではないか、とにかく言い方がいややってんな。今まで遼とおってそんなん思ったことなかってんけど。『めっちゃ泣くやん』やったら気にならへんかったと思う。それがずーっともやもやしとって。でも遼に関西弁しゃべってほしいわけでもないし」
「……いや、それはひどくない?」
「ごめん、でもそうやねんもん」
「それ言うなら、俺だって藍が『噓やん』って言う時の発音が『うせやん』に聞こえるのすんげーいやなんだけど?」
「え、うせやん」
「そうそれ! 何か芸人気取ってるみたいでこっちが恥ずかしい」
「は? ちゃうし」
 藍もむっとしたのか、脚を組んでつま先を苛立たしげにぷらぷら揺らす。
「『じゃん』に言われたくないわあ」
「俺は素だっつうの!」
 後部座席で、一が吹き出した。
「こら、寝てるんじゃなかったのかよ」
「だって……すごい、ふたりとも、すっごいどうでもいい……プロポーズするのかと思ったのに」
「悪かったな」
「お似合いだと思う」
「彼女もできたことないやつが言うな」
 一が、自分たちに気を遣って寝たふりをしてくれていたのは当然わかっていた。狸寝入りを貫通するほど間抜けなやり取りを聞かせてしまったけれど、まあ一にならいいか、と思った。お前の母ちゃんも、俺たちも、大人なんかみんなバカだから、お前だけ賢くいる必要はないんだよ。

 新大阪駅のホームで、コーラを買って持たせてやった。
「ばあちゃん、東京駅まで迎えに来てくれるってよ」
「こっちがおばあちゃん見つけるの大変なんだからいいのに」
「生意気なこと言いやがって」
 今はまだ自分より低い位置にある頭をくしゃっと撫でると、子どもの、さらさらと細い髪が指に心地よかった。
「ほんとに、あいつ殴っとかなくてよかったのか?」
「うん。自分のお母さん殴るのは駄目でしょ。お姉ちゃんでも駄目だけど」
 あまりにさらりと言うので、聞き逃すところだった。
「一、お前」
「お兄ちゃん」
 と一が言った。
「……いつから知ってた?」
「春ごろ、おばあちゃんが親戚の人と電話で話してるの聞こえた」
「うかつだな。俺もそんな感じで知った記憶あるわ」
 東京行きののぞみが入線してくる。
「お母さんのこと、恨んでる?」
「いや、別に。姉ちゃんは姉ちゃんって感じ、未だにぴんときてない」
「僕のことは? 嫌いじゃない?」
 コーラのペットボトルを両腕で抱きしめるように抱え込み、一が尋ねた。
「僕だけ何も知らずにお母さんの子どもしてて、いやな気持ちにならなかった?」
「なるかよ、バカ。ほら、ドア開いたぞ、早く乗れ。すぐ出るやつだから」
 こんなことしか言えない自分もバカだ。十歳の遼なら、手のひらの汗が蒸発していくのを感じながら佇んでいたあの夏の遼なら、一にもっといいことを言ってやれたかもしれないのに。
 あの夏。パンダを見ながら遼はどきどきしていた。姉の──母の口から、本当のことを聞けるのかもしれないと思った。父親は誰なのかとか、どうして自分を産むことにしたのかとか。でもやつは全部ぶん投げてどこかに行ってしまい、遼は傷ついた。傷ついたけど気楽になった。汗まみれの手を繫いでいなくていい。このもやもやを捨ててしまっていい。自分は姉を、愛さなくていい。
「僕のために怒ってくれてありがとう」
「おう」
 右手を差し出すと、一は「えー」と照れつつ握手してくれた。コーラのおかげでひんやりしていた。
 間もなく発車のアナウンスが流れ、車両のドアとホームドアが閉じられていく。窓側の席に座った一が手のひらでしきりと目を擦っていた。階段を降りながら、一の「お兄ちゃん」を反芻した。「おじちゃん」より特別に感慨深いわけでもなく、ほっとした。
 想像がよぎったことはある。藍との子どもが無事にお腹の中で成長していたら、藍と家族になって、そして俺もある日突然、手を放して走り出したくなるんだろうか。本当は消化できていない竹がいやになって。だからあの時「すげえ泣くじゃん」と茶化すような言葉しか出なかったんだと、今ならわかる。俺は怖かったんだ。まだ見ぬ誰かを俺みたいにしてしまうのが。
 そういうことを、改札の外で待ってくれている藍に打ち明けてもいいだろうか。姉と見たパンダのことも。姉に置いていかれたことも。自分を哀れむ気持ちはないのに、泣いちゃうかも、と思った。俺、すげえ泣いちゃうかも。そうしたら藍は「めっちゃ泣くやん」と笑ってくれるだろうか。

 前のページ