新潮社

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はじめに

 いま、言葉の時代だなと思う。写真や動画が、かつてないほど手軽に撮れて発信できるので、「いや、言葉よりも画像の時代でしょ」と思う人が多いかもしれない。確かに、仔猫の可愛さをわかってもらうためには、百の言葉を費やすより、一枚の写真や数秒の動画のほうが雄弁……ということはある。
 けれど、コミュニケーションということに関しては、時代の中で言葉の比重は増しているように思う。たとえば、生まれ育った村で一生を過ごすとしたら、周囲の人とのやり取りは、言葉以外のものがたっぷり助けてくれるだろう。なんなら、笑顔を見せるだけで、こぶしを突き上げるだけで、いつもと違う服を着ただけで、あなたの気持ちを伝えられるかもしれない。ひと言つぶやいた「いやだ」という言葉の背景に、小さいころからの性質や日ごろの習慣や最近の体調なんかも加味して、理解してもらえるかもしれない。小さなコミュニティでは、わかりあうための情報として、言葉は数あるものの一つに過ぎない。同じ言葉を発しても、「この人が言うんだから、よほどのことだ」から「また言ってるよ、しょうがないな」までグラデーション付きで伝わってゆく。
「村で一生」は極端な例だが、このような「個人の言葉の背景を理解してもらえる環境」ではないところで、多くのコミュニケーションをしていかねばならないのが現代社会だ。家族や友人、恋人同士などはこの限りではないけれど、行動範囲がグンと広がり、ネットでのやり取りが日常になっている今、背景抜きの言葉をつかいこなす力は、非常に重要だ。それは、生きる力と言ってもいい。
 村の道なら、すれ違いざまに肩が触れたとして、「あ、ごめん」と顔見知り同士が軽く会釈をすればすむ。それがネットでは、大事故になったりする。相手のバックグラウンドを知らないまま始まる言葉の応酬。そもそも前提としている常識が違えば、互いに「なんて非常識な!」ということになる。イメージとしては、違うルールで高速道路を走っているようなもの。さらにSNSの場合、事故で燃えている車があるという情報が広がると、消火活動よりも、何故か油を注ぎに来る人が群がるという傾向がある。いわゆる炎上という現象だ。
 便利で、やっかいな時代を、私たちは生きている。顔の見える関係が広がった先に、さらに顔の見えない関係が追加された。
「顔」といえば、思い出すエピソードがある。電車の中で「面と向かって電話した」と聞こえてきたのだ。その時の驚きを拙著『言葉の虫めがね』に綴っているので、抜粋してみよう。1999年出版のエッセイ集なので、今から四半世紀前の言葉の観察記録である。

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 あるとき電車に乗っていたら、若い男の子が「オレ、そんときばかりは腹立って、面と向かって電話しちゃったよ」と言っていた。「ん?」と思って耳をダンボにする私。面と向かえないから、電話をするのではないか? この子は「面と向かう」を間違って使っているのだろうか……。が、よくよく聞いてみると(失礼!)そうではなかった。話は、こうである。
 その男の子は、日常的にパソコン通信をしているようで、近ごろ通信相手とかなりひどいトラブルがあった。ちょっとしたことなら、電子メールで抗議するぐらいですませるのだが、あまりに頭にきたので、そのときばかりは電話をかけて文句を言った――と。つまり、電話をかけて肉声で直接話すというのは、彼にとっては立派な「面と向かう」行為なのである。
 私たちの日常において、電話というのはかなり「濃い」コミュニケーションの部類になってきているようだ。かつて電話が登場したときには「そんな、直接顔も見ずに、機械を通して話をするなんて、非人間的だ!」という意見があったそうだ(この話にはオチがついていて、電話を使って人々がまず何を話したかというと、次に会う約束についてだった、とか)。
 今や、電話が非人間的なものだなんて、誰も思わないだろう。急速に普及しはじめているファクシミリや留守番電話に比べると、肉声がリアルタイムで聞こえる電話というのは、かなり生々しいとさえ感じられる。

「耳をダンボにする」という死語はさておき、電話での会話が生々しいという感覚は、今ならより共感を得られるのではないだろうか。「急速に普及しはじめたファクシミリや留守番電話」は下火になり、昨今はメールが主流になった。同じエッセイで、ネットの言葉については以下のように書いている。

 パソコン通信上で交わされている言葉を観察すると、書き言葉と話し言葉とが、限りなく近づいてきているなあと思うことがある。特に、リアルタイムのチャットといわれるおしゃべりなどがそうだ。「あ、○○さんがきた!」「もう、そろそろ寝よっと」「そうそう、このまえ話題になってた○○のことなんだけど」といった具合。言文一致の新しい局面、といったら大げさだろうか。

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 いっぽうで、お互いの意見やメッセージを書き込む掲示板のようなスタイルの場では、やわらかめの書き言葉が多い。そこに文章を書いている人は、文筆を仕事にしているわけではなく(なかには文筆業の人もいるが)ごく一般の人たちだ。そういった人たちが、これほどまでに頻繁に、しかもなかば公に向かって、ものを書くということをした時代が、かつてあっただろうか? パソコンという道具を手に入れることによって、「ものを書く」という時間が、人々のあいだで急速に増えているように思う。そういう意味では、書き言葉としての日本語が、一部の人のものから多くの人のものへと開放されたとも言えるだろう。
 もちろん、そのためにさまざまな問題もおこっている。ルールやマナーを無視した、人を傷つけたりする、無責任な書き込み。誰もが発言、発信できるという素晴らしさの陰には、誰もが発言、発信できるという恐ろしさがある。新聞の投書の場合には、採用か否かというふるいがかけられるが、パソコン通信の場合には、それがない。明らかにひどいものを、事前にチェックする機能はあるものの、あとは個人の良識にまかされている。こういう便利で素晴らしい道具を手に入れたことをきっかけに、普通の人が普通に使う書き言葉としての日本語の、足腰が鍛えられなくては、と思う。

 書き言葉と話し言葉は、いっそう近づいてきている。ネットのメリットとデメリットについては、25年前も今もほとんど変わらないと感じる。そして「ルールやマナーを無視した、人を傷つけたりする、無責任な書き込み」が、社会の大きな問題に育ってしまった25年でもあった。
 一番の違いは、ネットはもはや新しい場所ではなく、日常のものだということだろう。ここで取り上げているのはパソコン通信がメインだが、その後スマホが普及し、SNSが登場した。「書き言葉としての日本語が、一部の人のもの」という感覚は、今の若者にはほぼないだろう。最後に記した「普通の人が普通に使う書き言葉としての日本語の、足腰を鍛える」ことが、よりいっそう重要になってきた。
 言葉が生きる力とも言える時代に、どんなトレーニングが有効だろうか。自分の発した言葉が、真に「生きる言葉」となるために大切なことは何だろうか。あるいは生きた言葉とは、どんな表情をしているのだろうか。本書では、そういったことを意識しながら、現代の言葉にまつわるあれこれについて考えてみたい。
 今一番気になる場所として、まずネットを話題にしたが、元より言葉が活躍するのはネットだけではない。できるだけ幅広い現場を歩く気持ちで書いていこうと思う。子ども時代の言葉や、芝居の言葉、あるいは日本語ラップや小説、AI、そしてもちろん、私自身のフィールドである現代短歌や和歌の世界も。あれこれ考えるその道のりを、一緒に楽しんでいただけたらと思う。言葉を生かすためには、まず自分が愉しみ、言葉と仲良くなることが大事だから。

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