新潮社

 page 1奈落〔 page 2/5 〕

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 気が付くと、私は白くくすんだ世界にいた。ここはどこなのだろう。すぐ近くには見覚えのある女性が立っていた。彼女は私に気付くと、絶叫に近い大声を上げてどこかへ行ってしまう。もう少し夢の中にいたかったのに。
 子どもの頃から何度も見てきた、憧れの宇宙旅行に出掛ける夢だ。地上を離れようとする機内では、耳障りな重低音と甲高い金属音が響いていた。小さな窓がついていて、空と海の間に伸びた脆弱な水平線が湾曲していくのが見えた。真夏の太陽光線が人工島に浮かぶピラミッド形のアーコロジーを照らす。繰り返し読んだ図鑑に載っていた未来が全て叶ったような世界だった。
 にわかに慌ただしくなる中で、ぼんやりと空を眺める。それは空などではなく、ただの汚れた白い天井だった。視界の隅に透明なチューブのようなものが見える。かろうじて瞼だけは動かせるものの、身体は一切の自由がかない。指先から足先まで、まるで自分のものではないようだ。
 眼球だけが透明な箱に閉じ込められてしまったような気分だった。
 ぼんやりとした意識で、何があったのかを思い出そうとする。さっきの女性とジャガイモのような顔をした男の子がベッドに近寄ってきた。ライトを目に当てられる。眩しい。そういえば、私は光の中にいた。歓声。そして悲鳴。
 そう、私は転んだんだ。ただ転んだくらいで、なぜ彼らはここまで大騒ぎしているのだろう。
 再びあの女性が近付いてきて、私の手を握りしめる。その手を握り返すことはできなかったけれど、しっかりとその体温は感じることができた。涙声になって何かを叫んでいる。よかったね、よかったねと繰り返しているのか。ついには男の子の制止を無視して、私に抱きついてきた。
 その人は私の母だった。
 それに気が付くと同時に不思議な気持ちになる。果たして私は、こんなに母と仲が良かっただろうか。18歳で家を出てから、実家に帰ったことは一度としてない。姉と仲の良かった母は、私をずっと邪険にしていたはずだ。その母が、どうして私を抱きしめるのだろう。
 身体を動かそうと思っても自由が利かないので、目の前にはずっと母の顔がある。実の親だけあって、目鼻立ちはよく似ている。小動物のような大きな目と、少し分厚い唇。ほとんど手入れをしていないせいで、いかにも下町のおばさんという風体だが、美しいという言葉さえ違和感がない整った顔。今は大声で泣いているせいで、くちゃくちゃになっているけれど。
 母自身、その恵まれた容姿には自覚的だったと思う。子どもの頃はよく、若い頃の写真を見せられた。当時としては珍しい一人っ子だったせいか、それほど裕福な家ではなかったはずなのに、上質な服を身にまとっていた。写真では決まって母の周りを男の子が囲んでいる。異性からもてたというよりも、ただ単に女から嫌われていたのだろうと思った記憶がある。
 実際、母はどんなに小さくてもいいからクイーンダムを作りたがるタイプの人間だった。自分よりも鈍臭い父を結婚相手に選んだのは、きちんと統制を利かせたかったからだろう。岐阜の農村出身で高校教師をしている父親は、家では全て母の言うことに従っていた。
 しかし私だけは、母の家臣になりきれなかった。
 ほとんど仕事をした経験のない母が家で威張っている姿には納得できなかったし、その世界の小ささにいつも呆れ果てていた。母の国は、家と親戚、町内会、そして私たち子どもの保護者会で完結する。その中で女王であろうとすることに異様なまでに努力を傾注する母をずっと軽蔑していた。だから家ではずっと部屋に立て籠もり、図鑑に囲まれて過ごすのが日課だった。
 母もまた私を苦手としていたはずだ。特に私が世の中で注目を浴びるようになってからは、電話も一切来なくなった。小さなクイーンダムの女王にとって、有名人の母親というポジションは居心地が悪かったのだろう。ワイドショーやスポーツ新聞の取材が実家まで行った時は、けんもほろろに追い返されたらしい。
 それなのに一体、何があったのか。母はまだ私の胸の上で泣き続けている。
 急に不安になってくる。もしかしたら私はどこか違う世界に飛ばされてしまったのではないか。それともあの日から、とんでもない時間が経ってしまったのではないか。ひょっとして私は死期の近い老人になってしまったのか。
 いや、そんなわけはない。少し太ったとはいえ母はそれほど老け込んでもいない。
 先ほどの若い男の子が、白衣を着た高齢の男を連れてきた。どうやら彼らは医師らしい。骸骨がいこつのような見た目の、今にも倒れそうな風貌だった。彼は丁寧に母をどかすと、ゆっくりと私の目を覗き込んでくる。
「藤本香織さんですね。わかりますか? 私の声が聞こえますか?」
 わかる。聞こえる。だけど声が出ない。口も声帯も動かない。この時になって初めて、私は事の重大さに気が付いた。自分は今、とんでもない状態にあるのではないか。何とか合図をしようと思って、小さく瞬きをしてみた。それが白衣の人々に認識されたかどうかはわからない。
 高齢の男性は、何度も大きな声でゆっくりと話しかけてくる。
「私は医師です。ここは病院です。わかりますか?」
 わかります。今度はさっきよりもきちんと声を出そうとしてみたがだめだった。まるで自分の身体ではないみたいに全身が動かない。右手の親指、人差し指、中指、薬指、小指。次は左手。そして右足。左足。右頬と左頬も。順番に確かめたけれど、どこも微動だにしない。
「あなたはステージから落ちたんです」
 医師は私の瞳を何度も覗き込んで来る。わかります。何度もそう伝えようとした。しかし鉄製の拷問具で固定されたように、身体中、どこの部位も動かない。
 一体、何が起きてしまったのか。理解は追いつかないけれど、記憶だけは鮮明になってきた。あれはツアーが始まったばかりの代々木第一体育館。何のトラブルもなく一日目が終わり、二日目が始まった。子どもの頃に好きだった図鑑からヒントを得て、レトロフューチャーをテーマにしたステージを作ってもらった。空飛ぶ車やロケットが行き交う、実際には来なかった21世紀の風景を詰め込んだ舞台は、2001年に開催するライブにふさわしいと思った。
 デビューからの三年はあっという間だった。CDを発売する。ラジオで曲がかかる。ミュージックステーションに出演する。オリコンで1位を取る。漠然と抱いていた夢は全て叶ってしまった。家を出て、夢が現実になるにつれて、歌いたいことは減ってしまったけれど、声援に包まれている間だけは、楽観的になれた。
 まだ私の人生には多くの余白が残されていて、それをどんな色で埋めていけるのかが楽しみで仕方がない。そう信じることができた。
 デビュー曲を歌い終えて、ステージが暗転する直前だった。私は、丸い窓が特徴的な宇宙船のようなサブステージから足を滑らせた。床に落ちるまでの間は、スローモーションのようでもあったし、一瞬でもあった。歌手がステージから落ちるのは決して珍しいことではない。今日もすぐにライブが再開できればいいけど。そんなことを冷静に考えていた。
 大きな音を立てて身体が床に打ち付けられる。痛くはなかった。身体を強く打ったせいか息はできなかったけれど、頭は冴え渡っていた。喚声と悲鳴の中で、まるで私だけが地中に落ち込んでしまったような感覚になる。
 視界の限り世界は白い。まるで天井が白い海のように見えた。
 Cメジャースケールのような質素で清らかな空間。数え切れないくらいの光が跳ねて、それが星座のように輝く。その光があまりにも強烈で、目を閉じそうになる。
 このまま死ぬのかなと思った。だけど、私は必死に目を開け続けた。この光景を見ておかないとだめだ。だってまだショーは終わってないんだから。
「藤本香織さん、わかりますか? あなたがステージから落ちて一ヶ月が経ちました。わかりますか? 少しずつ治していきましょう」
 一ヶ月という期間にぎょっとする。それほどの長い間、眠り続けていたというのか。本当にそんなことってあるのかな。だって代々木のステージはつい昨日のことのように思い出せる。
 もしも本当に一ヶ月が経ったというのなら、海くんの誕生日も過ぎてしまったことになる。今年は何とか休みを作って一緒に海外にでも行こうって話していたのに。その後のツアーや制作予定のシングルはどうなったのだろう。
 それだけじゃない。誰か「救命病棟24時」の最終回を録画していてくれたのかとか、ハチと章司は本当に別れてしまったのかとか、携帯電話に保存してある画像が誰かに見られていないかとか、どうでもいいことも気になった。
 今すぐ事務所の人間に確認したかったが、彼らが来たところで今の私は何も話せない。母の泣き声がうるさい。

 *

 正直に告白すると、あの時の私は不思議な高揚感に包まれていた。
 第一報は午後8時頃だったと思う。8月だというのに少し肌寒かったあの夜。リビングでテレビを観ていた私のもとに一本の電話があった。香織がライブ中にステージから落ちたというのだ。
 夫に運転させた車に乗って救命救急センターに駆けつけた。助手席に座っている間中、家を出てから一度も会っていない娘にどうやって対峙しようか考えていた。
 だけど全くの杞憂だった。香織は手術中だったが、その場に居合わせた誰もが私に気を遣い、懸命に励まそうとする。その時、私は自然と泣き崩れ、娘を愛する母親そのものになれていたのだ。
 香織は三回の手術を経て一般病棟に移されたが、鎮静剤で眠らされている状態が続いていた。日が経つに連れ、見舞客は減っていったが、私は一日も欠かさずに病院へと向かった。JRと地下鉄を乗り継いで、しかも駅から病院までは歩いて10分以上かかったが、言葉を発さない香織といるのは全く苦痛ではなかった。
 病室はあまりにも殺風景だったので、壁にバラのポスターを貼ったり、エッフェル塔の置物を置いてみたりした。本当は地味なカーテンも変えたかったのだけど、規則だからといって断られたのは残念だ。
 周囲は一日も早く元気になることを祈っているようだったが、私は複雑だった。誰にも言えなかったが、香織にはこのまま意識を取り戻して欲しくない。そんなことをうっすらと思っていた。だから鎮静を解かれ、目を覚ました香織を前に号泣してしまったのは自分でも不思議だった。
 正直に告白すれば、それは嬉しさよりも動揺の涙であったと思う。

 9

 一ヶ月にわたる眠りから目を覚ましたというのに、私は日がな、病室のくすんだ天井を見ていた。今日でもう9日。どういう訳だか、何も話せないし、身体が全く動かない。何度も悪い夢を見ているのだと思ったが、どうやらここは、きちんとした現実世界であるらしい。
 その証拠に、しっかりと感覚だけはあるのだ。それが本当にたちが悪い。頬がかゆくなった時。髪が少しだけ目に入ってしまった時。右手の位置を少し変えたくなった時。鼻をすすりたくなった時。たんが喉元にたまってしまった時。脇の下の汗を拭きたい時。喉が渇いて仕方がない時。それを誰に伝えることもできなかった。
 せめてもの救いは、時々あの夢の続きを見られたことだ。地球周回軌道に浮かぶ宇宙ホテルに私は滞在しているらしい。汚れが一つもない真っ白い客室には、丸形の小さな窓が三つ並んでいた。スーツケースを置いてベッドから窓の外を覗き込むと、漆黒の闇が広がっている。子どもの頃から憧れていた闇の世界。この病室の天井にもせめて窓がついていたらいいのに。
 どうやら私は、あまり信頼のおけない病院に担ぎ込まれてしまったようだ。骸骨みたいな医者はぶっきらぼうな回診を繰り返すだけだし、若いジャガイモ顔の医師はいつもメモを取っているだけだ。
 もう21世紀だというのに、ただステージから落ちただけで一ヶ月以上も身体が動かないなんて本当にあり得るのだろうか。ただ彼らがやぶ医者なだけじゃないのか。絶対にもっといい病院があるはずだ。医療に詳しい知り合いが頭の中に何人も浮かぶが、どちらにせよ今の私には電話を掛けることさえできない。病気の友達や知り合いもいなかったし、これから自分がどうなるのか全くわからない。
 この病院はやたら検査が多い。特に針は、毎日のように刺された。
 子どもの頃から注射が嫌いだった。予防接種があるとなると一週間前から自分の中でカウントダウンを始め、前の晩にいたっては、絶対に眠りに落ちたくなくて、目元に少しだけウナコーワを塗る。それでもどこかで眠りに落ちて、朝を迎えてしまう。
 当日も保健室に入る前から、いつも恐怖で泣き崩れそうだった。クラスの中で一匹狼を気取っていた私としては、そんな場面で失態を見せるわけにはいかなかった。震える足がばれないように、さも何事でもないように医師に手を差し出していた。だから消毒液の匂いを嗅ぐたびに、あの小学校の頃の記憶が鮮明によみがえる。
 どうせなら痛覚も消えてしまえばよかったのに、どの針もきちんとした痛みを伴っていた。医師や看護婦が病室に入ってくるたびに身がすくむ思いがする。
 だから扉が開いて母が枕元に来た時は、嬉しくて仕方がない。あんなに嫌いだった母なのに、針を打たれないというだけで、彼女がとんでもない救いに見えてしまう。
 点滴や血液検査の時は、平気で何度も打ち間違えが起こった。さすが低級病院である。何度も針を刺すうちに血管を探すのが大変になってくるのかも知れないが、そのたびにしっかりと痛みを感じるのだからたまらない。何の反応もできない私に対して、看護婦たちはまるで林檎を切るかのような気軽な調子で、一切の躊躇ちゅうちょなく繰り返し針を刺してきた。
 ある日は急に看護婦が訪れ、二人がかりで身体を横向きにされ、腰のあたりを丸められた。乱暴にアルコール液で消毒されるあたりから、不安で胸が覆い尽くされる。看護婦たちは一切、何の説明もしてくれない。普段、身体を拭いてもらう時とはまるで勝手が違うので何かをされるのだろうとは思った。
 果たして、腰にゆっくりと注射針が打たれる。腰全体が重機で押しつぶされたのかと思った。だけど絶叫することも拒絶することもできない。一度だけかと思った針は二度目も刺された。ずっと心の中で、三度目の針が訪れないことを祈るしかなく、今の自分の非力さを呪った。
 私は、自分の姿を知ることもできなかった。病院の天井には鏡なんてついていない。身体を起こされる時に、何とか窓に目線を向けようとしてみたが、眼球の動きさえそれほど自由にならない。特に左右に動かすのが難しい。
 ある日、オムツを換えてもらう時にたまたま窓が見えたけれど、薄ぼんやりとしたシルエットしかわからなかった。ノーメイクの上に伸び放題になっているはずの髪。事故の影響で、顔のどこかが腫れていたり、傷ができていてもおかしくない。絶対にファンには知られたくないと思った。本当は誰にも会いたくない。
 それでもここ数日は、定期的に来客があった。真っ先に飛んできたのは事務所の社員たちだ。チーフマネージャーの山根は大げさに「よかったですね」と手を握ってくれたが、私が全く声を発せないと知った後は、ずっと母と話し込んでいた。
 しかしほとんど仕事をしたことがない高卒の母に、いきなり契約の話をしても理解できるはずがない。あらかじめ呼んであったのか、しばらくして姉が現れた。
 明るく茶色に染めた髪に丸顔。黒いセーターに、水色のドットのスカートという服装は、夫に合わせているのだろうか。それとも不倫でもしているのだろうか。少し前に会った時は、ジャージにチュチュをして、草履を履いていた。彼女は男に合わせてすぐに趣味を変えられる女なのだ。
 すぐ隣には、姉の子どもも一緒にいる。確か翼という名前だった。お世辞にもかわいいとは言えない間抜けな顔の男の子だ。鼻が潰れているせいで、ウーパールーパーのような見た目である。もう二歳のはずだが、床に寝っ転がったまま足をばたつかせてみたりと、とにかく落ち着きがない。
 私は姉が嫌いだ。主義主張が一貫していないところもそうだし、とにかく依存体質が強いところが気にくわない。これまでの人生は、自分が頼れる存在を見つけることにほとんどの時間を費やしてきたのではないか。
 子どもの頃は過剰なほど母に従順で、一緒になって父のことを馬鹿にしていたのに、母が腸閉塞ちょうへいそくで二週間だけ区立病院に入院した時の豹変ひょうへんぶりはすごかった。
 夕食時には自分から父に話しかけたり、宿題を相談したり、これまでに見せたこともない態度を取り始めた。父も嬉しかったのだろう。母が退院してからも、母がいる前では父に素っ気なく振る舞いながらも、母が消えると父にびを売り、自分だけ小遣いなどをもらっていたようだ。
 私がデビューして、少し有名になってからは、頻繁に連絡をよこすようになった。一度、相談事があるからといって夜の予定をこじ開けて呼ばれたレストランへ行ったら、姉の友人が十人近く待っていたということもあった。
「『トリック』の主題歌やってたんですよね」
「サオリさん、写真、一緒に撮ってもらっていいですか」
 姉の友人たちは私にさしたる興味もなかった。『トリック』の主題歌は鬼束おにつかちひろだったし、名前さえ間違えられたが、いちいち訂正するのも面倒くさかった。仕事中は絶対にしないと決めていた愛想笑いでその場をやり過ごした。もちろん食事代は私が払うしかない。
 帰りがけにはカードローンが払えなくて困っていると言われたので、仕方なく財布に入っていた現金を全て渡してしまった。それからも定期的に金の無心があった。そのやり取りを回避したくて、一年ほど前から毎月10万円を姉の口座に振り込んでいる。姉とのコミュニケーションが10万円で絶てるなら安いと思ったからだ。
 彼女の結婚式も嫌な思い出である。一生に何度もないことだと思って、われるままに結婚式場に向かった。会場に入った途端、やたら白いエナメルの靴を履いた男の子たちと、手入れのされていない金髪の女の子たちが多いのが気になった。新郎側と新婦側の友人たちのファッションセンスは完全に一致していて、両家がお似合いなのだろうということはわかった。
 絶対に歌だけは披露しないと約束したにもかかわらず、アカペラで歌わされたのはまだいい。姉や新郎の友人たちに、勝手に写真を撮られていたこともまだいい。事件は、式の後半で起こった。
 トイレから出てくると、酔っ払った新郎側の友人に絡まれ、適当にいなしていると「さすが有名人だな」と言って、急に私の身体を壁に押しつけて、ワンピースの裾から手を入れてこようとしたのだ。
 式場の職員が気付いて制止してくれたからいいようなものの、他の参列者は遠くから私たちのことをにやにやと眺めているだけだった。私はこのまま警察に行くと主張したが、ウェディングドレスを着たままの姉が駆けつけてきて「私たちの式を滅茶苦茶にしないでよ。酔ってただけなんでしょ」と私に冷たい目を向けた。
 集まってきた参列者も同様だった。ただの酔っ払いに本気になっている空気が読めない有名人。そんなレッテルを貼られて、私は悔しくてたまらなかった。
 それは、私の姉、つまり自分の家族や、その仲間たちが、このレベルの人々なんだと悟ったからだ。本来は私自身もそのグループの一員に過ぎなかった。どんなお洒落な部屋に住んで、都会的な歌を歌っても、自分の根っこにはこの人たちがいる。それに気付くと途端にむなしくなって、酔っ払いを訴えようという気も失せた。
 そんな姉のことだから、山根に対してどんな過大な要求をするかわからない。そう思ったのに、耳を疑うようなことを言い始める。
「とにかく香織のことを一番に考えてあげて欲しいんです。もし彼女がやりたいと言っていたことがあればそれを叶えて欲しいし、逆に本人が望んでいなかったことはしたくない。お医者さんの話では、回復は決して無理ではないらしいんです。だから、変にお金儲けに走らないで下さい。できるだけ香織のイメージを崩さずに、回復を待ってあげたいんです。私たち、あんまり仲のいい姉妹ではなかったから、こんな時くらいは香織のためにできることは全部したいと思っています」
 その話を母は泣きながら聞いている。何なんだ、これは。悲劇の事故に打ちひしがれる母と姉。他人から見たら仲睦なかむつまじい家族そのものではないか。人間はここまで態度を豹変させられるものなのだろうか。
 頭の中で次々と花火が破裂するように、感情が抑えられなくなる。
 喋れないことがたまらなく悔しい。何を勝手にいい母といい姉を演じようとしているんだ。今まで嫌というほど私を邪険にしてきたくせに、都合よく悲劇のヒロインぶるなんて最悪だ。分をわきまえろ。怒りの波が脳天から指先まで行き渡る。叶うならば彼女たちを打ちのめす言葉を、これでもかというほど浴びせてやりたい。

 *

 病室に入ると妹はベージュのパジャマを着ていた。それを見て結婚式のことが苦々しく蘇る。香織は私の結婚式にベージュのワンピースで現れた。白を着るのは花嫁の特権であるはずなのに、照明の加減によって彼女の服はほとんど白に見えた。その気遣いのなさに怒る私に対して、夫が無関心だったこともまたしゃくさわった。
 さらに私を苛立たせたのは、来賓者たちが主役の私ではなく香織に夢中だったことだ。式場では、彼女に向かって数多くのフラッシュが向けられていた。ついには酔っ払っただけの夫の友人を訴えると騒ぎ出して式は大変なことになってしまう。いつも香織は私から主役の座を奪っていくのだ。その妹が大きな事故に遭ったと聞いても心は痛まなかった。
 母がトイレに立った隙に、スターバックスで買ってきたコーヒーを香織のパジャマに一滴だけ垂らしてみる。小さくて黒い染みがベージュ色のコットンに少しずつ広がっていく。思わずその様子にうっとりと見とれてしまう。その染みは、まるで模様のようで悪くないと思った。もしかしたら今度こそ、私が主役になれるのかも知れない。