新潮社

 page 2奈落〔 page 3/5 〕

 13

 目を覚ましてから13日目、彼も病室に来てくれた。ちょうど母も姉もいないタイミングというのは運がよかった。
 個室の扉を何度かノックする音がした時、私はいつものように何の反応もできなかった。三回、二回、四回と扉を叩いて、ようやく靴音がベッドに近付いてくる。その人は恐る恐る私の顔を覗き込んできた。海くんだ。いつものように黒いベースボールキャップを被って、首掛けヘッドフォンを首に掛けている。一人で来てくれたらしい。
 正直、悲しかった。こんな姿を見て欲しくなかったから。案の定、海くんは10秒くらい私の顔を眺めた後で、口元を少し歪めた。それが哀れみなんだと、すぐに気が付いてしまう。彼にそんな感情を向けられるのは嫌で仕方がなかったが、今は涙を流すこともできない。そう思っていたら、海くんはきれいな白い歯を見せて微笑みかけてきた。何だかさっきの哀れみをつくろわれたみたいで、寂しさが全身に染みこんでいく。
「なんだ、元気そうじゃん。香織ちゃん、死ぬかもって言われたんだよ。みんなが今までどれだけ泣いたか知ってる? 俺でさえ、ちょっと泣いたんだよ。せっかく予約したロス行きのチケットもったいないって」
 つまらない冗談を言いながら海くんは右手を伸ばして、そろそろと髪をでてくれた。彼からそんなことをされたのは初めてで、心臓がびくんとなる。せめて瞬きで驚きを伝えたかったが、海くんは下を向いてしまったようだ。もしかして泣いているのだろうか。
 私と海くんは付き合っていたわけではない。セックスをしたことも、キスをしたことも、手をつないだこともない。代わりに、数え切れないくらいの言葉を交わした。それも「おはよう」や「おやすみ」といった意味のない会話ではない。その時の私たちにとって一番に必要な言葉を数え切れないくらい。
 おぼろげな記憶をたぐり寄せる。
 初めて海くんと電話で話した日。まだ恵比寿に引っ越す前、三軒茶屋に住んでいた頃。自宅でクリスマスパーティーをしていると、音楽ライターの洋介さんから電話があった。君に興味がある人がいると電話を海くんに代わった。
 向こうもパーティーをしているようで電話口はとにかく騒がしかった。だけどやけに印象に残る声だった。まるでダブルトラックで録音したような、複数の音程が引っかかるような声。私はその時、海くんのことをほとんど知らなかったけれど、彼の歌が発売されているなら聞いてみたいと思った。
 朝方、みんなが帰った後、窓際に置いたiMacで海くんのことを検索してみた。すぐに小さな写真とディスコグラフィのテキストだけが載せられた素っ気ない公式ページが見つかった。だけどカンゴールの帽子のせいで、顔がよく見えない。
 ライコスで検索していると、ファンが書いたらしいライブレポートが見つかった。その人は、海くんの声の良さばかりを書いていて、結局彼の音楽のことはほとんどわからなかったけれど。
 渋谷のHMVに海くんのCDを買いに行けたのは、年明けになってからだ。
 その頃には何となく彼への興味を失っていて、プレーヤーにCDを入れて一度か二度だけ曲を聴いたら、それでもういいやとなってしまった。
 だけどジャケットに描かれていた七色の旗だけは印象的で、歌詞カードを開けてデザイナーの名前だけは見ておこうと思った。するとそこにも海くんの名前が記されていて、彼が多才だということを知った。
 その夜のことだ。お正月だけど、もちろん実家には帰らなかった私は珍しく一人で部屋にこもっていた。携帯電話をいじっていると、いきなり海くんからショートメールが入った。「洋介さんから連絡先を聞きました」「友だちとご飯を食べているんですけどよかったら来ませんか」。いつもの夜なら出掛けていたと思う。
 だけどその日はやたら疲れていた。インターネット上で自分の評判を見聞きしてしまったせいだ。年末年始にいくつかの音楽番組に出演したことで、たくさんのコメントが掲示板で書かれるようになっていた。
「自意識過剰」「自分のことを美人だと思ってそう。不細工なのに」「オリジナリティゼロの薄い女」「レコード会社のごり押しでテレビに出てるだけ」「来年には消えてる」「顔が気にくわない」「ヤリマンだけどアナルは処女」「鼻の形が気持ち悪い」「蒲田の風俗店にいたでしょ」「頼まれてもできない顔」。そんなの無視をすれば済む話なのに、一つの意見を読むと次の意見も読みたくなる。半分以上は悪意と邪推にまみれた嘘ばかりだったというのに。
 その日から定期的に海くんからメールが来るようになった。発売されたばかりのF501iを買ってからは、iモードメールで250文字までを送り合えるようになったから、私たちはいくらでも会話を続けられた。「ケイゾクって観てますか」「『これが答えだ!』という本が面白かったです」「日の丸のニュース、どう思いましたか」。そんなやり取りをしているうちに、映画を観に行こうということになった。
 二人で会うのはその時が初めてだった。ホームページと同じように海くんは帽子をかぶって、オーバーサイズのパーカーを着ていた。身長はきっと168cmくらい。公称の170cmはたぶん嘘だと思う。
 21時くらいに映画を観終わって、しばらく歩いたんだった。ラブホテルに入っていくカップルを眺めたり、映画の感想を話したり。どこかのバーに行っても良かったけれど、何となくそんな気分にならなくて、もしくは翌朝に予定があったのか、だけどすぐに帰りたくはなくて、何の気なしに私たちは歩き始めた。
 通訳のシーンが秀逸だったこと。表層のごまかしでも世界の意味は変えられること。泣かせるためには笑いが必要なこと。そんなとりとめのない話をしばらく続けた。
 居心地のいい人だと思った。
 二歳年上で私よりもしっかりしているということもあったが、メールで随分と会話をしていたせいで、話していても他人のような気がしない。正直、顔は好きでも嫌いでもなかったけれど、鼻のあたりに手を置いたりとか、肩を上げながら首を斜めに傾けたりとか、そんな何気ない動作が好きだと思った。だけど不思議なことに、手を握ろうともキスをしようとも思わなかった。
 高速道路沿いを歩いていると、いくつもの光が通り過ぎていった。
 一定間隔に設置された街灯、自動車のヘッドライト、コンビニの看板、高層ビルの窓、明滅する赤色灯。
 夜が十分に眩しかったせいで、海くんは深く帽子をかぶり、私もうつむきがちに歩いていた。二人とも、まだ日本中が気付くような有名人というわけではなかったけれど、街で全く声をかけられないほど無名でもなかった。夜のせいで、昼間よりもだいぶ気が緩んでいたと思う。何の目的もなく、二人はとにかく歩いた。
 私たちはそれから随分と夜の散歩をするようになった。わざわざ「夜の散歩」と銘打ったわけではなくて、結果的にということが多かったけれど。
 映画を観た後、ご飯に行った後、仕事帰り。東京の夜は、明るくて、汚かった。
 遠くから見る高層ビルや、街並みは、こんなにも無機的に光輝いているくせに、歩道から眺めるその姿は時に人間臭く、猥雑わいざつだった。酔っ払いがバス停にうずくまっていたり、居酒屋の裏口からネズミが出てきたり、乱雑に捨てられたゴミ袋が異臭を発していたり、工事現場で大量の粉塵ふんじんが舞っていたり、少なくとも私が子どもの頃に憧れた都会は、そこにはなかった。
 だけど海くんは、その猥雑さが落ち着くと言っていた。東京都心に生まれた彼にとって、この不格好な街こそが東京なのだという。
「東京には臭いがしないっていう人がいるけど逆だと思うんだよ。たくさんの臭いが集まりすぎて、一つ一つを嗅ぎ取れないだけなんじゃないかな。何百万の人々の体臭、彼らの食べ残し、そして排泄物。都市はその全ての臭いを巧妙に隠したつもりになっているけど、そんなことはできっこない。ただ混ざり合って、全体としてはなかったことになってるだけなんだよ。東京をよく観察すると、臭いのしない場所はない。現にさ、香織ちゃんはいつもいい匂いをさせてるじゃない」
 海くんには、変なこともたくさん打ち明けられた。
 子どもの頃からやたら宇宙の夢を見ること。音楽を作る時には必死にその夢を思い出そうとしていること。逃げ水のように消えていく夢で見た光景を何とか形にしたいと思っていること。笑いもせずに海くんはその話を聞いてくれた。もしかしたら彼にはしっかりと想像できていたんじゃないかと思う。私が夢で見ていた光景を。
 不意に便意をもよおす。ずっとオムツをつけられていたから、いつものようにそのまま排泄をすればよかったのだが、まだ部屋には海くんがいる。音や臭いが漏れてしまう心配以上に、そうした人間的な行為を海くんの前でしたくないと思った。
 私たちは、巧妙にそうしたことを避けてきた。二人きりでタクシーに乗ったとき。二人きりで映画に行ったとき。二人きりで食事をしているとき。何度も恋人になるタイミングがあった。だけどそうしなかった。
 顔がかわいいとか、いい匂いがするとか、そんな愛の言葉に変換されてしまいそうなフレーズは、いかにも冗談だという顔をして伝えた。
 うっかりとお互いに見つめ合いそうになった時には、決まってどちらかが全く色気のない話題を出すようにしていた。音事協についてのうわさ話だとか、印税率の交渉の仕方だとかを話している間、私と海くんには恋人になる余地なんてなかった。私が海くんの顔を好きでも嫌いでもなかったように、海くんもそうだったと思う。
 生理的に嫌悪でもしていない限り、隣にいる人間をうっかり好きになってしまうのは、ごくありふれたことだ。世界中の人々がそうやって、大して好きでもない男や女を恋人にしている。だけど私たちはそれを選ばなかった。
 一度だけ、海くんに下着を見られたことがある。ただ単に一緒にTSUTAYAに行って高い棚からCDを取ろうとした時に、Tシャツの胸元から黒いブラジャーが覗いてしまったというだけなんだけど。
 海くんは一瞬だけ胸のあたりを見ると、すぐに違う棚へと移動してしまった。下着なんて、バックステージで着替える時に何度男性スタッフに見られたかわからない。それなのに海くんに見られたブラジャーは何だか気まずくて、その日、家に帰ってからすぐに捨ててしまった。
 私と海くんが性的な関係にならなかったのはきっと、言葉のほうが大切だったから。少なくとも私は海くんの言葉を欲していた。仕事で困ったことがあると、すぐに最善の解決策を示してくれた。理不尽ないさかいに巻き込まれた時は、誰よりも怒ってくれた。本当は今の状況をどうしたらいいのか海くんに相談してみたいと思う。だけど何の言葉も伝えられない。いくら顔に力を込めようと思っても、口は少しも動かない。
 どんなに考えごとをしていても便意は収まらなかった。臀部でんぶの触覚が残っているせいで、だらしなく自分の便が体外に放出されていくのがわかった。せめて臭いがしなければいいけれど。
 こんなタイミングに限って、再び海くんは立ち上がり、私の顔を見つめる。そして右頬を少しゆがめて、微笑んだような、困ったような顔になった。
 その間にも私の身体からはゆるゆると便が流れ出ていく。泥のような半固形物が、膜のように臀部にまとわりつき始める。
 海くんは、鼻をすすったかと思うと、私の顔に自分の顔を近付けてきた。曲げた両肘を私の頭の脇につけて、そのままの体勢でいる。今まで、こんな距離で海くんの顔を見たことはない。食事でも映画でも散歩でも、彼と30cm以上近付きはしなかったし、海くんはいつも目深に帽子を被っていたから。猫のような切れ長の目と、よく通った鼻。彼が奥二重だということを今さらに知る。
「今、何考えてるの? ちゃんと起きてるんでしょ。何か話してよ」
 瞬きはできても、息はできても、口は動かない。それなのに肛門は勝手に動いて、やがて水のようになった便がオムツの中にたまっていくのがわかった。海くんはそんなこと構わずに顔をさらに近付けてくる。
 やめて、と思った。海くんが顔を30度くらい傾けて、私の唇に自分の唇を重ねる。せめてその数秒間くらいは目を閉じていたかった。なんで望みもしない排泄をしながら、大切な人と初めてのキスをしないといけないのだろう。こんなことなら、もっと早くにキスでもセックスでもしておけばよかった。
「やっぱりキスくらいじゃ目は覚めないか。うまくいくと思ったんだけどな」
 全然うまくいってないよ。やっぱり私たちには言葉がないとだめだね。大げさな動きで後頭部を掻く海くんを、冷めた目で見てしまう。
 最悪のタイミングでのキスだったよ。
 病室の扉が開く。席を外していた母が、家からたくさんの荷物を抱えて戻って来た。海くんは立ち上がり、母に挨拶をする。母は海くんに会釈をするが、誰かはわかっていないようだ。彼氏か何かだと勘違いしてしまうのだろうか。彼らの会話が断片的に聞こえてくる。
「香織さん、意識はあるんですよね」
「先々週、お医者さんに鎮静を解いてもらって目が開いた時は大喜びしたんです。本当によかったって。だけどね、どんなに呼びかけても反応があるかどうかわからないの。どう思われました?」
 その母の問い掛けに海くんが何と答えたのか聞き取れなかった。そのあと、面会時間だとか、連絡先だとか、いくつか事務的な確認事を済ませると、海くんは部屋を出て行った。結局、海くんとは何の言葉も交わせなかった。言葉でつながっていた私たちから言葉が奪われると、そこには何が残るのだろう。
 海くんとのとりとめのない散歩。あの時は何とも思っていなかったけれど、今から考えれば幸せな時間だった。せめて二人が話したはずの何十時間、何百時間は、プロパンガスのようにどこか靖国通りや、骨董通りや、六本木通りやらの地面のそばに今でも滞留しているといいなと思った。

 *

 病室を出た瞬間、本当は泣き崩れてしまいたかった。何とか涙をこらえて男子トイレに駆け込むと、もうそこからは涙が止まらなかった。想像していたよりもずっと香織ちゃんの容体が深刻そうだったからだ。
 洗面所の蛇口を大きくひねってうがいをする。うっかりキスなんてしてしまったことを深く後悔する。怒って目を覚ましてくれるんじゃないかなんていう、甘い見積もりをした俺が間違っていた。
 彼女の口元からは腐ったザクロのような臭いがした。絶対に俺が嗅ぐべきではなかったし、もしかしたら彼女自身も気が付いていない臭い。思い出すとまた涙がこぼれて、身体が震える。何だかそれは、死そのもののような気がしたから。
 香織ちゃんが事故に遭ったことはその日のうちにニュースで知っていた。共通の知人からは入院先の病院も教えてもらっていたが、お見舞いに行く勇気が持てなかった。
 やっぱり今日も来るべきではなかった。もしも香織ちゃんがこのまま目を覚まさなかったらどうしよう。香織ちゃんのいない世界は不安で仕方がない。
 人目もはばからずにトイレで泣く俺に、入院患者たちが気の毒そうな顔をして通り過ぎていく。点滴をした小学生くらいの男の子が「お兄ちゃん、大丈夫なの」と心配してくれる。咄嗟とっさに「ありがとう」と言おうとしたけれど、口の臭いが気になって俺は黙って男の子の顔を見つめてしまう。
 誰かが乱暴にトイレの扉を開けた。目の下に溜まった涙が少しひやりとする。

 32

 頭がかゆい。頭皮に生えた毛の、一本一本の根元の全てに汗がこびり付いているのではないかという気がする。眉毛も、眉間みけんも痒い。鼻の中も痒い。思いっきり人差し指を鼻の穴に突っ込んで欲しくなる。耳の奥も痒い。いつも使っていた黒い綿棒で、耳の中をなで回したい。まるで列島中が高気圧に覆われた時のように、痒みがずっと頭や顔の上空を漂っている。気にするほどに痒みは飛び火する。腰のあたりも痒いし、足先も痒い。
 エアコンの効きが悪いのか、今日は一段と身体中が痒い気がする。意識がはっきりしてからの私は、痒さとの戦いに苦しんでいた。身体をそのまま大型の自動洗濯機にでも放り込んで欲しいほど、とにかく不愉快な時間が続いている。褥瘡じょくそうを防止するために数時間おきに母や看護婦が身体を動かしてくれるが、ピンポイントで痒い箇所をさすってくれるなんてことはまずない。
 目覚めてからもう32日が経つというのに、眼球以外が全く動かないことから、私は本当に意識があるのかさえ疑われ始めていた。
 何でそんな自明なことがわからないのだろう。藪医者ばかりのこの病院から、早く誰か連れ出してくれないかな。一般人の母や姉には期待できないとして、事務所の人間はきちんとまともな病院を探す努力をしてくれているのだろうか。
 ツアーもシングルもどうするんだよ。私が事故に遭ったことは大きなニュースになったはずだ。この病院の人々は私が誰かわかってくれているのだろうか。特別扱いを望むわけではないけれど、せめてもう少し本気になって欲しい。こんな時に期待できるのは海くんくらいしかいないけれど、彼は13日目にお見舞いに来たきりだ。
 こうやって何のメモもなく目覚めてからの日を数えられるのだから、意識なんてあるに決まっているのに。
「藤本さん、わかりますか?」
 骸骨顔の年老いた医師が私の耳元で耳障りなほど大きな声を出す。加齢のせいか息が排水口のように臭い。聴力は普通にあるのだから、耳障りなほどの大声を出してもらう必要はないのに。こんな医者から治療を受けていること自体が屈辱だ。
「私の声が聞こえていたら、目を二回上に上げてみて下さい」
 医師に言われた通り、視線を上に向けようとする。しかし悲しいことに、たったそれだけのことが中々できない。視力は事故前とそれほど変わっていないはずなのに、眼球が自由にならないのだ。特に左右にはまるで動かないし、上下にもいつも自分の意思で目線を移せるわけではなかった。
 母と医師が真剣な顔で話し合っている。その隣では姉が興味のなさそうな顔で携帯電話をいじっていた。くちゃくちゃとガムを噛む音がうるさい。
「最終結論ではありませんが、遷延性意識障害の可能性が高いと思います」
「せんえんせい?」
 母が聞き慣れない言葉の意味を尋ねる。私も初めて聞く単語だ。iモードがあればすぐに検索できるのに。
「長引くという意味ですね。いわゆる植物状態のことです」
 彼が想像以上の藪医者だということがわかり、私は改めて打ちのめされる。植物状態? そんなわけがない。「植物状態」という言葉を聞いて、さすがに携帯電話をいじっていた姉も驚いたのか、私のそばに寄ってきた。
「自力移動や自力摂食が難しいのはご覧の通りなのですが、眼球は動くものの、私たちを認識しているかどうかが微妙なところなんです」
 老いぼれた医師は、胸元に入れていたペンを私の目の前で振ってみせる。ペン先を追おうとするが、やはり眼球がうまく動かない。
「開眼は保たれているんですが、ペンを追っているようには思えないですよね」
「そんな犬じゃないんですから、動くものを追いかけるとは限らないでしょう。今もこうやって目を開けているじゃないですか。何とか障害って決めつけるのは早いんじゃないですか」
 母だけが医師の説明に食い下がる。やはり私の知っている母とは違う気がする。娘の病気に本気で向き合うような親ではなかったはずだ。それほどまでに私がひどい状況にあるのかと思うとぞくっとする。
「ご家族は愛情がありすぎて確証バイアスに陥りがちなんですよ」
 ロートルの医師は吐き捨てるように言い放つ。顔だけではなく内面も骸骨のように枯れ果てた人間なのだろう。この失礼な老人の話を母はうやうやしく聞いている。一般人はただの医者の話をありがたく聞きがちだ。医師免許を持った人間なんて全国に何人いると思っているのだろう。
「お母さんの言うとおり、香織さんには明晰な意識があるんじゃないですか。脳波はきちんと保たれているように見えます」
 割って入ってきたのは、あの若い医師だった。
 私が目を覚ました時に真っ先に駆けつけてくれた子だ。細い目にジャガイモのような輪郭に天然パーマの髪。話し方もどこか幼い。まだ研修医なのだろうか。彼の言うことに高齢の医師は取り合おうとしない。
 私には明晰な意識がある。
 もしも意識がないというのなら、この痒みは何なんだ。肌の毛穴一つ一つが痒くて仕方がない。もちろん痒みだけではない。右手の人差し指と中指がおかしな位置で固定されてしまっているし、腰に当たっているシーツの皺も気になるし、また唾液が気管にたまり始めている。この痒みや痛みや不快感は意識ではないというのか。
 意識があると言ってくれているのが、若い医師だけというのが心許ない。顔つきで判断する限り、とても切れ者とは思えないからだ。結局、母との話し合いは平行線のまま、医師たちは部屋を出て行ってしまった。部屋には、姉がガムを噛む音だけが響く。よくこんな時にくちゃくちゃと無神経な音を立てられるものだと驚く。
 思ったよりも状況は悪い。身体が動かずに意思疎通ができないばかりか、意識がないと思われ始めているなんて。何とか方法はないのだろうか。
 祈る。もうそれしかないのかと思うと悲しくなる。大人になってからの私は、祈るなんてことが嫌いだった。レコード会社の中で、ヒット祈願と書かれた垂れ幕を見るたびにかっかしていたものだ。祈っている暇があるのならば、ラジオ局に片っ端から営業はかけたのかとか、影響力のある音楽ライターをその気にさせられたのかとか、一人一人の社員に問い詰めたい気分だった。
 だけど子どもの頃の私は、よく祈る子どもだった。テストでいい点数が取れますように。席替えで苦手な子の隣になりませんように。学校生活では、自分の力でどうにもならないことが多かったから。特に学区のせいで顔見知りがほとんどいなくなってしまった中学一年生の一学期はずっと気が塞いでいた。
 その頃、私が信じようとしたのは、全力で祈ったのなら時間を止められるという魔法だ。一生分の願い事と引き換えに叶えることのできる一度きりの魔法。
 小さな祈りをあきらめる代わりに、ある一日を永遠に繰り返すことができる。その魔法は、憂鬱ゆううつな月曜日に使うべきではない。無限に月曜日だけがループする世界なんて悪夢そのものだから。そうやって平日をやり過ごして週末になると、今度は夏休みまで我慢してみようかと思う。月曜日に怯えて過ごす日曜日よりも、有り余る時間が心の余裕を与えてくれる長期休暇中に時間を止めたほうがいい。
 ずっとそんな風に毎日を乗り切っていたけれど、音楽という居場所を見つけた私は、いつしかその魔法のことを忘れていた。
 あの魔法はまだ有効なのだろうか。だけど今の私にとって必要なのは、繰り返される一日を過ごす権利ではなく、この状態から抜け出すことだ。それさえ叶うのならば、後は全て自分で何とかしてみせるから。一度、売れなくなってもいい。交友関係が全て絶たれてもいい。自分の周りにいる人が次々と不幸になってもいい。何もかもを犠牲にしても、この身体から自由になりたい。
 しかしそう願いかけた後、ほんの少しだけ心が躊躇するのがわかった。
 完全に身体が回復したところで、私は何をしたいのだろう。もうほとんどの夢は叶ってしまった。もちろん東京ドームでライブが開けるなら嬉しいし、ビルバオとかドブロブニクとか行きたい場所はまだあるし、一度くらいは結婚なんてものをしてもいいのかも知れない。だけどそれは全てを犠牲にしてまで叶えたい夢と言えるだろうか。
 母と姉も帰ってしまい、すっかりがらんとした夜の病室に一人の来訪者があった。昼間も回診に来た若い医師だ。今は一人らしい。皓々こうこうと白く光る蛍光灯がジャガイモ顔を照らす。
 彼は顔をうんと私に近付け、目を覗き込む。
「藤本香織さん、僕の声が聞こえますか? 聞こえたら瞬きを二回してみて下さい」
 高齢の医師とは違い、彼は大声でもなく通常のスピードで話してくれた。私はできるだけ素早く瞬きを二回しようとする。その様子を若い医師は真剣に見守っているようだった。
「藤本さん、僕はあなたが遷延性意識障害とは思えないんです。脳波もクリアだし。画像を見る限り、脳底動脈の解離がメインなので、ロックドインなんじゃないかな。だとしたら辛いですよね。藤本さん、あなたのデビューは1998年で合っていますか。合っていたら目を上の方に二回、上げてみて下さい」
 急にデビューという言葉が出てきて驚く。この病院の関係者に歌手扱いされたのは初めてだった。少なくとも若い医師はテレビや雑誌に出ていた私を知っていたことになる。彼から今の私はどう見えるのだろう。メイクもしていないし、髪の手入れもできていないし、そもそも事故の後遺症がどの程度なのかもわからない。
 おそらく母は意図的に私から鏡を遠ざけている。急に恥ずかしくなってきた。もう看護婦にオムツを換えてもらうことにさえ何も感じなくなっていたのに。
 ゆっくりと二度、目線を上にあげる。少なくとも私としてはそうしたつもりだった。若い医師は黙って私の瞳を見つめる。
「僕、デビュー曲から買っているんです。医者一家なんで、無理やり医学部に入ったんですけど、絶対に向いてないよと思いながら毎日キャンパスに通ってました。周りは自分が命を扱う仕事に就くことに無頓着なお坊ちゃまばかりで、それが本当に嫌だったんです。そんな時、大学の前にあるファミリーマートで偶然、藤本さんの曲を聴きました。逃げたいけど逃げられないこともわかってる自分のことを歌ってくれてるようで、思わず涙ぐんじゃったんです」
 何の曲だろう。そんなに彼の心を打ったのなら、きっと高校生の頃に作った歌だと思う。デビューしてから作った曲は、自己引用とメタファーばかりになっていたから。若い医師は私の顔を見て少し涙ぐむ。昔の自分を思い出したのか。今の私の姿を見てなのか。前者だといい。
「絶対にあきらめないで下さいね。ちゃんと治しましょうね。色々調べたんですが、回復例がないわけじゃないんです。本当は医師として軽率なことは言えないんですが、きっと大丈夫です。いつか名曲を聴かせて下さい。こんな経験をした人の曲なんて、中々ないはずだから。ずっと待ってます。一年でも。二年でも」
 医師は私の手を握ろうとして一瞬、躊躇した。
「いつかライブをする日が来たら、観に行きますね。その時、握手してもらってもいいですか」
 そう言い残して彼は部屋を出て行く。私は医師の言葉にまだ頭が混乱していた。一年や二年? 一ヶ月や二ヶ月の間違いではなくて? 若いゆえの誤診だと信じたいが、そもそも彼以外の医師は私に意識があることさえ疑っているのだ。あまりの医療水準の低さに愕然とする。
 数ヶ月でも表舞台から姿を消せば、私たちはすぐに忘れられてしまう。デビューを待つ新人の数は、下手したらコンビニで発売される新製品のお菓子よりも多い。
 だからミュージシャンは三ヶ月おきにシングルを発表して、音楽番組や雑誌で大量の宣伝活動をする。そして年に一度はアルバムを売り出して全国ツアーを組む。二年も休止ということになったら、きっとファンなんてほとんどいなくなってしまう。
 その途方もない時間に唖然とする。私の存在なんて初めからなかったことにされそうで怖い。