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奈落

古市憲寿/著

1,540円(税込)

発売日:2019/12/24

書誌情報

読み仮名 ナラク
装幀 池内晶子「Oct.20,2017」gallery 21yo-j/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判
頁数 191ページ
ISBN 978-4-10-352692-6
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 1,540円
電子書籍 価格 1,540円
電子書籍 配信開始日 2019/12/24

これ以上の怖ろしさが、この世にあるだろうか。

17年前の夏、人気絶頂のミュージシャン・香織はステージから落ち、すべてを失った。残ったのは、どこも動かない身体と鮮明な意識、そして大嫌いな家族だけ。それでも彼女を生かすのは、壮絶な怒りか、光のような記憶か、溢れ出る音楽か――。生の根源と家族の在り方を問い、苛烈な孤独の底から見上げる景色を描き切った飛翔作。

書評

クリスタルが濁りだすとき

與那覇潤

 古市憲寿さんは「軽さ」を演じてきた人だと思う。
 彼はぼくより六つくらい年下で、学者としてメディアで発言した期間が少しだけ重なっている。『絶望の国の幸福な若者たち』(2011年)以来、何冊か出た初期のシリーズはページの下部に脚注の欄があり、まじめな出典(参考文献)の紹介と古市さんのギャグとがごちゃまぜに記されていた。「ふざけた書き手が出てきた」と本気で怒った研究者も多かったけど、一般書だと主張の典拠まで表記する余裕が普通は取れないなか、こういう茶化した形でしっかりスペースを手に入れるあたりが、なんとも評価に困る人だった。
 もっともそのころ、ぼくは大学の准教授をしていて、さすがに授業では「学者が論文につける注とは「本文に対するツッコミ」のことではありません」と教えていた。ツッコミ型の注の例として朗読させるのは『なんとなく、クリスタル』(1980年)。主人公のファッションモデルが「レイン・ブーツ」と言う箇所の注で、著者の田中康夫氏が「長ぐつのことですよ、長ぐつ!!」と嗤ったりする、あの小説だ。
 そんな経験があるせいか、古市さんが「なんとなく、2.0」のような『平成くん、さようなら』(2018年)で文学賞の候補になっても、あまり驚かなかった。近未来に流行しそうな富裕層の風俗描写をちりばめた同作に脚注はないけど、テレビで目にする著者のキャラクター自体がツッコミに――「こーいうのが格好いいって思ってる人、いそうだよね」という冷めた目線を伝える媒体になっている。古市さんらしいな。彼が小説を書くならこうだろうな、と思った。
 びっくりしたのは、その後だった。
 もういちど同じ賞の候補になった『百の夜は跳ねて』(2019年)は、本人の暮らしはまったくクリスタルでなく、むしろ仕事でクリスタルなタワーマンションの窓ガラスを拭き続ける青年が主人公。ただしデジタル機器の操作は得意で、「タワマンに住んでる人が言いそう」な価値観自体、実はいくらでもネットからコピペできることに気づいている。
 すべてが透明になりきった世界は、どこまで行っても「他に替えられないもの」が見つからない地獄かもしれない。先輩の墜落死がトラウマになった青年は、シャンパングラスの乾杯で似た音が出るのを怖れる。重力を無化するようだった古市さんの「軽さ」は、作品を救わなくなっている。
 そして今回の『奈落』は、ステージから落下して全身不随になった歌手の物語だ。意識は戻っても意思表示ができない彼女の視線で、『平成くん、さようなら』ではSF化されて煌びやかに回顧された同時代史が、裏側から辿りなおされる。ネタバレはしないけど、『百の夜は跳ねて』の主題とも関連した小道具が、より禍々しく使われるとだけ書いておく。
 彼女の境遇をこれ以上紹介したら、たぶん引いちゃって手にとる人が減るだろう。なのに不思議と読んでいて殺伐としないのは、定期的に主人公(香織)の父・母・姉・元彼へと視点が切り替わり、五人のあいだでのあまりの認識の不一致が、どこか可笑しさをそそるからだ。ある人の目線では大真面目な執念が、隣人の視点からはジョークにしかなっていない。そうした「視線のずれ」は、コメディの基本である。
 ふと思う。見る人が古市さんの言動や作品に感じてきた「軽さ」は、彼個人が軽い人だから出てきたものなんだろうか。そうではなく本作の笑いのような、何か集合的な相互作用の結果として、軽さは生じていたんじゃないか。
 ぼくの世代までの学者や物書きには、知的階級たるもの重々しくあらねばならず、「軽いやつと思われたら負けだ」とする暗黙の規範がある。古市さんはそうした老人たちを苛立たせてきたけど、ひょっとしたら彼より下の世代には「重たがられたらイタい」みたいな正反対の抑圧があって、それが無意識に「軽さ」の偶像を求めたのかもしれない。
『奈落』の香織は、女子高生のときスカウトされてデビューし、若者のカリスマになりかけた存在だ。事故の結果、彼女は当時の意識のまま、肉体だけが老いてゆく。『AKIRA』(映画は1988年)の「年老いた子供たち」のように、こうした精神と身体のアンバランスは、しばしば戦後日本の戯画として描かれてきた。そんな「歴史が重たかった」時代といちばん無縁に見えた古市さんが、大好きな平成歌謡史を素材にこの作品を書いたことを、ぼくは興味深く思う。
 一見軽やかな古市さんのような人にも、見えない重力がずっと働いているらしいことは、本作でわかった気がする。しかしなぜ私たちの社会では、クリスタルは濁らずにはいられないのだろう。それだけが、ぼくにはいまもわからない。

(よなは・じゅん 歴史学者)
波 2020年1月号より
単行本刊行時掲載

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著者プロフィール

古市憲寿

フルイチ・ノリトシ

1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』など。

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