司馬遼太郎が考えたこと 2
─エッセイ1961.10~1964.10 ─


徳川家康

 ちかごろ、徳川家康の再認識ということがよくいわれる。もっとも再認識といっても、べつに高度な意味ではなく、家康の堅実そのものの人生とその成功が、ちかごろの経営者の「ためになる」というだけのことらしい。つまり、戦前の少年雑誌的関心である。読めばためになる、ということは。
 しかし、わるいことではない。家康は確かに教訓の材料になる人であり、教訓になる以上にもっと文明論的に研究されていいひとだ。
 決して名門のうまれではない。
 家康はえらくなってから、「おれは源氏の嫡流だ」とか、「新田義貞の子孫だ」とかいって家門に箔をつけたが、そういう家ではない。家康から数代前といえば、三河松平郷のいまいえば村長といった程度の家で、血統もあいまいなものであった。この点は、のちに「平家の血流である」といっていた織田信長の家系にしても似たようなものである。
 家康の数代前、北国のほうをうろうろしていた乞食坊主(高野聖であろうか)が、松平郷にやってきた。当時はこういう無銭旅行者がうようよいて、祈祷などもする。京のはなしや諸国のはなしなどもする。いわば、コミュニケーションの役をはたしていた。だから、田舎の豪族や名主などは、よろこんで泊めてやるのである。
 その男も、松平郷の松平家に長逗留していたが、やがて当家の後家さんとできてしまって子がうまれた。こういう坊主が諸国をうろうろするたのしみは、こういうことがあったからであろう。
 その子が、家康の祖である。
 この坊主は、よほど好色であったらしく、隣村の酒井家にもとまりこんでそこの後家どのともできて、子供がうまれた。この子が、のちに徳川家の譜代大名の筆頭になった酒井家の祖である。
 家康はえらくなってから家門をかざるために「じつはその乞食坊主が新田義貞の子孫であり、従がってわが家は源氏の名門になる」などというようになった。
 家康の松平家が大きくなったのは父の代で、近隣の諸豪族を切りなびけて範囲を三河半国にまでひろげたが、家康の幼少のころに家来にころされて死没し、あとは家康一人がのこった。戦国のことだから、幼主では家がつぶされる。このため隣国駿遠両国の大大名今川家に人質にとられ、領地は今川家管理ということでかろうじて温存された。
 その後、家来に売られるような形で織田家の人質になったり、さまざまな苦難をなめて成人し、こういう生いたちから来るのか、家康には信長のような坊ちゃん育ちのわがままさがつゆもなかった。
 が、これは教訓にはならない。信長の天才的な状勢判断や行動は苦労育ちや貧乏そだちでは持てなかったものである。信長が家康のような育ちなら、おそらくかれの天才はそだたなかったであろう。
「若いころの苦労は薬になる」
 というのは、よほどの大才の場合か、たまたま成功した人のいうことで、苦労というのはほとんどのばあい、人間を小さくするほかは役立たない。
 家康は、信長や秀吉のような天才はもたなかったが、なによりもこの両雄よりすぐれていることはその義理堅さ、律義さであり、家康のこの性格に対する信用が、かれをして天下をとらしめたといっていい。
 家康は、だまさない人だった。
 家康は成人してから自分の領国の三河にかえってたちまちのうちに三河全土を平定したが、このころ、信長とのあいだに、織田・徳川攻守同盟というのを結んだ。
 攻守同盟などというものは戦国時代に掃いてすてるほどあったもので、そのほとんどが、いや、そのすべてが長く守られたためしがない。
 たった一つの例外は、織田・徳川同盟である。
 しかも同盟の片っ方の織田信長という人はたんげいすべからざる外交家で、かれには武田信玄でさえだまされた。徹底的な狡猾外交で、しかもそのだまし方のうまさは天才というよりも神様に近かった。
 だから、織田・徳川同盟などは、朝露のように頼りないものであるはずだったが、これが、信長の死までつづいた。つづいたのは、家康が絶対違約しなかったからである。家康は律義そのものの男で何度か信長に煮え湯をのまされたが、それでも裏切らなかった。
「三河どのの律義」
 というのは、天下に知られるようになった。どの大名も家康の言葉だけは真にうけて大丈夫という見方をもった。戦国の世でこれほどの信用のある男はいなかった。
 話はずっとのちになるが、秀吉が死んで幼主秀頼がのこり、天下がゆらいだとき、豊臣恩顧の大名でさえ、きゅう然と家康に款を通じた。
 当然なことであった。
「内府(家康)にさえついておれば、わが家を悪くなさることはあるまい」という信用が、むしろ神話的になっていたのである。
 徳川家の天下を決定した関ヶ原の戦いはこういう条件のもとに行なわれたもので、家康方で必死に働らいたのは秀吉の子飼いであるはずの福島正則、加藤清正(たまたま肥後に在国中で合戦は近隣の西軍が相手だったが)、浅野長政らであった。かれらは、感傷としては豊臣への恩義を思っているが、現実では数十万石の大大名である。家来も多い。もし政治的に失敗すれば、多数の家来を路頭に迷わさなければならない。一片の感傷で自分の処世を決するわけにはいかなかったのである。家の保存のためには、何よりも安心なのは徳川家康につくことであった。「内府は悪いようにはなさらぬ」
 家康は、後世「たぬきおやじ」といわれているが、かれは権謀術数のすきな男でもなく、上手な男でもない。おなじ戦国の英雄でも権謀術数の大家は、武田信玄であり、毛利元就であった。かれらにくらべると、家康などは生涯子供のようなものである。
 半生、信用に生きた。
 だからこそ他人の家来(太閤の遺臣)まであらそって家康を総帥に押したてたのだ。
 家康はそういう男である。
 かれが、たぬきおやじになったのは七十前後からで、当時大坂城には秀頼がいた。すでに二十になろうとしていた。
 家康自身は、七十の老人で、老いさき、長かろうはずがないが、秀頼はこれからの年齢である。もし自分が死ねば、せっかく自分になびいている豊臣恩顧の大名はふたたび豊臣家に帰るであろう。家康がせっかく得た天下は、砂上の楼閣になりかねない。
 ここで家康は、がらにもないたぬきおやじになった。まるで死にものぐるいのように秀頼をいじめ、だまし、ついにその家を覆滅した。
 家康が律義のカンバンをおろしたのは、そういう事情からであった。このため後世食えぬ男といわれるようになった。同情されていい人間である。
(昭和37年11月)


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