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●福岡ダイエーホークス成功の軌跡 そうしたお金の使いみちの一つが、文化・芸術である。福岡の場合、特定のお金持ちが文化・芸術をはぐくむのではなく、むしろ普通の人たちが知らずしらずのうちに“団結”して、そうしたものを育てる気風があるように思える。いい例がプロ野球である。日本のプロ野球が文化の名に値するものかどうかという問題はとりあえずおいておく。 一九五〇年のシーズンからプロ野球がセントラル、パシフィックという二つのリーグに分かれたとき、福岡には二つのチームができた。セ・リーグに西日本パイレーツ、パ・リーグに西鉄クリッパーズが、それぞれ新しくチームを作って参加したのである。当時の福岡市の人口は現在のおよそ三分の一、三十九万人ほどだった(現在の市域で換算すると四十九万人)から、これはどう考えても無謀な試みであった。 案の定、その年のシーズンの終了を待たずに、西日本パイレーツは経営難におちいってしまう。結局、シーズンオフになると、さまざまな紆余曲折はあったものの、西鉄と西日本が合併し、新たに西鉄ライオンズとして発足、パ・リーグに加盟することになった。 一九五一年、東京から元巨人軍総監督の三原脩を監督に迎え、新生西鉄ライオンズはスタートしたのだが、一九五四年に初めてリーグ優勝を果たす。このときは福岡、いや九州全体が爆発的な盛り上がりを見せたという。 その後も、西鉄ライオンズは一九五六年から三年連続でパ・リーグを制覇し、いずれもセ・リーグで優勝した読売ジャイアンツを撃破、V3を達成する。三年目の一九五八年には、稲尾和久投手の投打にわたる大活躍で、三連敗の後に四連勝という、奇跡の大逆転でジャイアンツを破り日本一になった。福岡市民、そして九州全体がこの劇的な日本一に酔いしれたのは言うまでもない。 当時西鉄のスカウトをしていた中島国彦の「……西鉄が阪神を叩いても人気もお客も呼べん。九州人の気質からいっても“お江戸”ですよ。お江戸のチームを叩く事に快感があった」(立石泰則『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』)という言葉はかなり真実をついている。 そして、このときの西鉄の快進撃を支えたのはもっぱら一般市民であった。ただ、当時の西鉄は、福岡という一都市の代表というより、九州全体の代表であった。そのためファンも九州全域におり、いまのダイエーホークスより福岡色が薄かったと言える。しかし、そのぶん三原監督や選手たちにとってはシビアな環境であった。 同じ本の中で、立石はこう書いている。「(西鉄がプロ野球を)やるからには、強い野球チームを作らなければ意味がない。ただ、(プロ野球をやっていますという)形だけでやるというのなら、もうやめろ。九州という土地柄は、福岡・博多の気風というのは、何でも『強く』ないと受け入れられない。あの『花と龍』に象徴されるように、(福岡の人間は)遠賀川の川筋気質を持っているから、……」 たしかに、「『強く』ないと受け入れられない」ところがあるのは事実だろうが、筑豊の炭鉱地帯でつちかわれてきた「遠賀川の川筋気質」に比べると、福岡の場合、それほど強烈ではないという気がする。 むしろ、「九州はもともと熱しやすく冷めやすいという土地柄で、しかも地元福岡のファンは『宵越しの金を持たない』という江戸っ子気質にも似た一面も持っていた。ありていにいえば、短気で勝負事が好きなのが地元福岡のファンなのである。それゆえ、勝負事である野球の応援も半端ではなく、試合に負けたり不甲斐ない試合を見せたりすると、ライオンズの選手といえども罵声を浴びせたし、守っているグラウンドに平気で飲料水のビンを投げ込んだりもした。贔屓の引きたおしなど日常茶飯事なのである」(同書)という見方のほうが正しいだろう。 だから、その後西鉄がさっぱり勝てなくなり、あげくの果ては一九六九年の、いわゆる“黒い霧事件”(注・パ・リーグで選手による八百長が発覚し、多くの選手が処分を受けた。処分を受けた選手がいちばん多かったのが西鉄だった)の発覚でさらに落ち込んでいったとき、福岡、また九州のファンは西鉄を見捨てた。その結果、一九七二年秋、最下位でシーズンを終えた西鉄はチームを手放すことを発表したのである。 代わって球団を買収したのはゴルフ場を経営する太平洋クラブという会社だったが、本業の不振もあって、四シーズン後にはクラウンライターに売却してしまう。ただ、地元ファンの間に親しまれていた「ライオンズ」というニックネームはこの間もそのまま受け継がれていた。 だが、相変わらず不振を続け、優勝とも縁遠い状況にファンもしだいに愛想を尽かしていく。「『強く』ないと受け入れられない」のである。というか、“野武士軍団”とも呼ばれた選手たちを率いて三原監督が築き上げた西鉄黄金時代との差があまりに大きかったためだろう。 そして、一九七八年、福岡からプロ野球チームが消える日がやってきた。クラウンライターが球団を西武グループに売却したのである。そのため、本拠地も埼玉県所沢市に移転してしまった。福岡のプロ野球ファンにとって長い冬が始まった。 ところが、それから十年後の一九八八年秋、ダイエーが、大阪を本拠地にしていた南海ホークスを買収し新球団を設立、福岡に移転することを発表したのである。ダイエーとは、言うまでもなく、かの立志伝中の人物・中内功が率いる神戸が本家のスーパーマーケットだ。 福岡でもすでに、一九七一年の「ダイエー・ショッパーズ・プラザ」(中央区天神)を皮切りとして店舗展開をしていたダイエーだが、地元資本の中小スーパーを強引に吸収合併したり買収したりしていたため、市民のなかには、「ダイエー」という名前を聞いただけで反発する者もいたにちがいない。 そのダイエーがよりにもよって福岡に球団の本拠地を置くというのである。しかも、当面は従来の平和台球場を使うものの、近い将来ドーム式の新球場を百道浜に作るとぶち上げた。チームのニックネームも、それまで長らく福岡の野球ファンを呪縛していた「ライオンズ」ではなく「ホークス」のままにした。もっとも、「ライオンズ」の名は西武にもっていかれていたから、使いたくても使えなかったのだが。 当初は成績が悪く人気もいまひとつだったが、それまで十年間、応援するチームもなくうつうつとしていた福岡市民だけに、ダイエーホークスへの関心はいやおうなしに高まりはじめる。現に、観客動員数は年々増えつづけた。 そして、一九九三年に福岡ドームが完成し、長らく人々に親しまれてきた平和台球場に別れを告げる。この年、ダイエーホークスの観客動員数は初めて二百万人を超えた(二百四十六万二千人)。だが、成績はなんと最下位であった。福岡ドームのものめずらしさが観客を呼んだ結果だと言える。 なにせ、九州、いな西日本で初めてのドーム型球場である。しかも、東京ドームと違って、屋根を開閉式にしたため、さまざまな仕掛け・演出を工夫することもできる。となると、ひと目この目で見てみたいと思わないほうが不思議だろう。 福岡にダイエーホークスが進出して以来、二〇〇二年までの成績と観客動員数を示すと、一九三ページのようになる。なお、一九九四年以降の観客動員数は、公式戦だけでなくオープン戦も含めてのものとなっている(ダイエー球団提供)。 翌一九九四年の観客動員数はさらに増え、三百万人という大台目前の二百八十二万七千人を記録する。だが、この年も成績は四位と振るわなかった。 一九九五年、ダイエーホークスは監督に“世界のホームラン王”王貞治を迎える。ところが、福岡ドームのものめずらしさが神通力を発揮することなく、この年から観客動員数はほぼ下降線をたどる。それに歯止めがかかったのは、王監督が就任して五年目の一九九九年、初優勝を達成した年だ。福岡のチームがパ・リーグを制したのは一九六三年の西鉄ライオンズ以来、実に三十六シーズンぶりのことである。「チームが強ければ観客も集まる」の法則どおり、実際、この年の観客動員数は二百五十九万四千人で、パ・リーグのトップであった。 そして二〇〇〇年、ダイエーホークスは再びリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは王監督の出身チームでもあるジャイアンツと対戦した。二勝四敗で日本一は逃したものの、かつてのライバルONが監督どうしとして初めてあいまみえたこともあり、日本中の野球ファンが沸いたものだ。 しかし、その前年(一九九九年)三月から福岡ドームの代表取締役副社長に就任し、経営をまかされていた高塚猛さんは、この年のある日福岡ドームで試合を観戦し、首位を走っているというのに観客の入りがいま一歩なのを目の当たりにして大きなショックを受けたという。「勝てばお客さんが入るなんて、ウソだと思いました」 実際、いわゆる“福岡三点セット(ダイエーホークス球団+福岡ドーム+シーホークホテル&リゾート)”の経営は累積で五十八億円の赤字となっていた。そして、その日から高塚さんの奮闘が始まったのである。 |