新潮



立ち読み



【特別対談】情報革命期の純文学/東 浩紀+平野啓一郎(「新潮」2010年1月号より転載)

情報の過多をいかに統合するか

 そういえば僕は今回小説を書いていて、自分が批評家として何をやってるかが分かったことがひとつあるんです。それが分かったから、『クォンタム』の連載版を単行本にするときに全面的に書き直すことになったと言ってもいいんですが、じつは連載の時、僕は一人のキャラクターにかなりいろいろ悩ませてしまっていたんです。そうすると、みんな同じ悩みを抱えるようになる。当たり前です。だってみんな僕の分身でしかないんだから。で、これはよくないと思って、単行本では大修正をしたんですよね。そのとき、何をやったかというと、要はキャラクターを当てはめるということなんです。こいつはこれしか考えてないことにしよう、あいつはそれしか考えていないことにしよう、とそう割り切った。なるほど、小説を書くというのはこういうことなんだなと思ったんです。
 と同時に、僕が批評家としてやってることも同じことだと思ったんですね。つまり、東浩紀という批評家はこういうキャラクターを引き受けますと割り切っているわけです。本当の僕はいろいろなものが好きだし、たとえばカルチュラル・スタディーズだって、今の若い人たちは、単純に僕が反カルスタ派だと思ってるみたいだけど、実際には僕は骨絡みで彼らとの付き合いがあるし、『批評空間』にもいわゆる表象派にもじつに深く関わっている。だけど、ある時点で、彼らのことを分からないふりをする。知らないふりをする。その無知を引き受けることによって、状況が明確になるし活性化するわけですね。
 話を戻すと、小説の登場人物を設定するのはそういうことなのだな、とあるとき気がついたんです。人物に悩ませようと思ったらいくらでも悩ませられる。しかし、それこそ恋愛でいえば、このひとが好きかもしれないし嫌いかもしれない。そもそも僕は好きという感情がわからない……みたいなことばっかり考えていたら、リアルかもしれないけど物語は始まらないわけで、その時にあるひとつのキャラクターを設定し、責任を与えることで、ようやく物語は動き出す。
平野 ある人物についての情報量が多過ぎる中で、それをそのまま提示しても読者が受け止められないというときに、どう縮減するか。その縮減のしかたの一つとして、キャラクターというのがあるんだと思うんですね。ちょっと飛躍しますけど、最近、『発達障害当事者研究』(医学書院)という本を読んで、小説を考える上ですごく興味深かったんです。著者は自閉症なんですが――本の中では「発達障害」という言葉を遣ってますけど――、普通の人はお昼頃にお腹がグーと鳴ったら、空腹を感じてご飯を食べるけど、その人は、お腹のあたりに何か違和感があったり、なんとなくボーッとするとか、血の気が引くとか、そういう情報が一挙に殺到した時に、それを空腹という判断にうまく統合できないんですね。等価的に、バラバラのまま受け取ってしまう。これは、小説の登場人物の話でいうと、彼についての関連性が分かりづらい情報が次々と与えられる時、読書体験が豊富な人は、それらにアクセントをつけながら、自分なりに、一つの人物像へと統合していけるかもしれないけど、なかなか難しいと思いますね。物語全体に関してもそうで、複雑多岐に亘る情報が書き込まれると、それらをリニアにつむいで、一本のプロットを描き出す能力が誰にでもあるわけではない。
 そういう時に、登場人物の内面を奥に向かって複雑に掘り下げていくパースペクティブと、プロットを前進させるパースペクティブとは、互いに干渉し合ってしまう。片方が強まるともう片方が弱くなってしまうんだとしたら、個々の登場人物のキャラクターを類型化するというのは、小説の深さをある意味、外挿しつつページを前に進める工夫ということになるんだと思います。さもなくば、前進するプロットのラインをものすごく濃くしないといけない。


文体・プロット・場面

平野 さっきの話に戻っちゃうんですけど、小説家としての僕の中には、やっぱり最後は「小説家は文体だ」という信仰はあるんですね。
 それはそうでしょう。
平野 それを手放すと、僕の小説を読む必要なんかなくなってしまう。他方で、エンターテインメントがただ面白いだけだとは勿論思ってなくて、実際、読んですごく感動する人もいるわけだし、それを悪いとは誰も言えないと思うんですよ。
 そうですね。
平野 だから、自分は作家として、文体こそ文学だという信仰は否定しないけど、環境としてそれを今喜ぶ人がどれぐらいいるのかということだと思うんです。今、本を読む人たちのジャンル分けって、純文学かエンターテインメントかというよりは、「重たいの読みたい」とか、「癒されるの読みたい」とかいうようなものになってきてますよね。
 いわゆる動物化ですね。このあいだ『クレア』で文学特集をやってて、驚いたのだけど、年下の草食系男子に恋して困ってる時に読む五冊とか(笑)。
平野 ものすごく限定的(笑)。今っぽいですね。
 この合目的性はすごいなと。そういう時は小説は読まなくてもいいんじゃないかと思いましたけど(笑)。
平野 それは内面の「動物化」なのかもしれないけど、同時に、環境として処理情報が増え過ぎてることが大きいと思うんですよ。みんな最短経路を求めるようになってる。
 ですかね。
平野 『ドーン』を書いていても思ったし、東さんの小説を読んでも思ったのは、世界観がテーマの小説で、読者に設定を伝える難しさです。設定を後出しにすると「分かりにくい」と思われ、前倒しして説明が続くと、そこでつまずかれる(笑)。そのバランスは『ドーン』を書いてる時にかなり調整しようとしたところで、結局、読者数をどれぐらいに設定するかってところに行き着くと思うんですね。『ドーン』でいうと、政治議論の話をどれぐらいのボリュームにするかってけっこう考えて、もっと売ろうと思ったら、絞ったほうがよかったと思うんですけど、僕自身が面白いと思って、担当編集者も面白いと思ったことで、あれくらいになったんですが。
 そういうことを考えるようになったのってわりと最近なんです。二十代の頃は正直一切考えなかったし、それで生活も成り立ってたんですけど、三十代になった今、ネットとケータイにみんなが膨大な時間を費やしていて、あらゆるエンターテインメントのジャンルが人間の余暇の壮絶な奪い合いをしている時に、文学だけは常に優先的に読むなんて人は限られてると思うんです。みんなそれこそ、等価に並べて、気分次第で選択してる。
 批評の話にずらして答えます。僕は若い人から彼らが書いた批評を読んでくれと言われることが多いわけですけど、批評の良し悪しって本当に驚くくらい簡単にわかるんです。段落の長さとか、一段落の中にどのくらい固有名が入ってるか、そういうリズムだけですぐわかる。なぜかというと、そのリズムは構造化のリズムだからです。構造化の精度は、結局その人間がどのくらい頭がクリアになってるかを示している。
 さっきメディアのレイヤーという話がありましたけど、たとえば段落の長さは、視覚情報として文章の理解を支援するわけです。そういう技術をどう使うかが、実は評論を書くうえですごく本質的です。おそらく小説も同じだと思うんです。
平野 そこで東さんが瞬時に判断するのは、文体も含むんですか。
 文体はもっと細かい判断になります。「である」とか「だ」とか、あと句読点とか接続詞のリズムですよね。だからそう瞬間的には判断できませんね。けれども、評論だと、やはり構造化の力のほうが重要です。だから原稿の質は印刷された時の形でわかる。
 じつは僕が評論を書く時に一番最初にイメージするのは、画面上での長方形の形なんですよね。五段落ぐらいを一ユニットにして一行空けて、というのが僕の評論のスタイルなんですけど、その五段落の中で問題提起と結論があるという構造に大体なってて、その中にどれぐらいの固有名が入るか、それがかなり経験則で決まっているんです。だから、今回僕が小説書いてて一番きつかったのは、そのような経験がないことでした。何がいい小説か、視覚情報として見えてこない状態で手探りで書くほかなかった。
平野 僕もメタ視点から構造を考えたりする方ですけど、どういうフォーマットがいいのかというのも、これまた、どういう読者をどれぐらいのボリュームで意識するかによると思うんですね。伊坂幸太郎さんがエンタメに徹するということで書いた『ゴールデンスランバー』を読んで、「ああ、今みんなこういうのが気持ちいいんだな」ってすごいよくわかったんです。謎解きと逃亡っていうページを捲らせる二大エンジンがあって、伏線とその回収がものすごくシンプルに、前半と後半とできれいな線対称になっている。構造的には、問題集みたいな作りです。
 そのとおりですね。
平野 そういうのを浅薄だって思う人もいるかもしれないけど、認知のパターンとして、強いんだと思いますね、そのフォーマットは。小説を読ませる一番強い力って、やっぱり「知りたい」っていう欲求だと思うんです。ただ、行き先が提示されてないバスに乗る人はいなくて、やっぱり行き先が見えてるからこそ乗るわけですね。そういう意味では、話がどこに行くかが適度に示されつつ、でも絶妙にそれが確定しないような感じで先延ばしされていく時に、人はページをめくるんだと思います。『クォンタム』は、物語の途中の込み入ったところで、僕はプロットをトレースしきれないところがあったんですけど、ただ時々、ぴょーんと跳んだあと、着地する場所が何箇所かあって、それはやっぱり文章を書き慣れてる人の感覚なんだろうなとは思いました。
 それはよかった。
平野 あとやっぱり僕は、小説家が見せ場を描く力って重要だと思うんですよ。ドストエフスキーとかやり過ぎなぐらい、コテコテにやるでしょう?(笑)
 そう、彼はすごいです。
平野 で、東さんの小説を読んでの感想ですけど、ひとつは場面に力強さを感じましたね。どんなに考えていることが面白くても、場面の立ち上がりが緩い小説はしまらないですけど。自作でも場面の強さはかなり気にするんですが。


世界観の代理人としてのキャラクター

 そういえば、『ドーン』の分人主義の描写を読んでも感じましたし、自分の小説でも第二部を書いていて痛感しましたけど、一つの体の中に複数の人格があるという状態は、小説で書くのは無理かもしれませんね。それをやろうとすると、描写がどうしてもおかしくなる。そのせいで、小説の後半部は本当はもう少し複雑なことをやりたかったのに、できなかった。
平野 読んでいて、その感じはわかりました。
 設定上は可能だったはずなのに、能力の限界で不可能になってしまったというか、そういう歯がゆさがあります。『ドーン』ではいかがでしたか。
平野 それについては、技術的なこともあるんでしょうけど、小説という形式の問題もありますね。結局、小説って記号の連なりによって登場人物ができてるから、先ほどの内面の葛藤の話と同じで、主人公がさっき言ったことと違うことを言ってると何なのかわかんなくなってくるんですよ(笑)。
 そうそう。
平野 だけど、舞台だと、いくら不条理な、とんちんかんなこと言ってても身体というのが常に現前して、一人の人間の形に纏め上げている。だから、東さんがキャラクター化といわれる通り、ある種の類型化によらないと、記号の連なりの中から一人の人物を立ち上げづらい。
 小説はじつは、人間を単純化させて描くほかないメディアなのかもしれないですね。平野さんが舞台についておっしゃったことは映画でも同じだし、アニメーションでも同じだと思う。
平野 ええ、そうですね。
 ビジュアルとして同一性が保たれていれば、多重人格だろうが何だろうが描ける。だって同じやつがしゃべってるから。
平野 だからツンデレとかっていうのはアニメだと描きやすい(笑)。小説自体の問題についてずっと考えてたことが一つあって、映像を通じたコミュニケーションが圧倒的に増えてる中で、文字記号からビジュアルイメージを喚起する力というのは、相対的に弱まっていると思うんです。昔の文字しかない時代、たとえば平安貴族は『源氏物語』を読んでも、文字数の短い和歌を読んでも、そこからすごいイメージを喚起できたと思うんです。だけど今、読者自体の喚起能力が必然的に下がらざるを得ない中で、小説を、登場人物の複雑さを単純化しつつ、読者の感情や頭の中を動かす機能的なインターフェイスとして仕上げるというのはすごく難しくて、そういう意味ではキャラクター化というのはわかりやすい方法だとは思いますね。
 ドストエフスキーの小説で「キャラが立っている」ことには、とても大きい意味があると思うんです。僕はもともと小説家ではドストエフスキーが一番好きなんですが。
平野 僕も、最近はそうかもしれない。
 主人公が延々と悩み、描写がどんどん複雑になっていくタイプの小説ってちょっと苦手なんですよね。それが僕がSFやミステリーに近づいてしまうことの原因なんですが、ただ、それは小説というか文学の本質でもあるかもしれないと今回小説を書いて思いました。悩む主体を書こうとすると、主体を一個にせざるをえない。私小説にせざるをえない。「俺は、俺は……」と悩み続ける主体はたしかに書けるんだけど、キャラクターをいっぱい作ってそれぞれが悩んでたら、物語がまったく動かない。というより、何が起こってるのか、読者にわからなくなってしまう。
平野 そうですね。分人主義も、結局、あれを通じて登場人物の人間性を立ち上げようとすると、接触する人間の数を増やしていくしかない。しかし、そうすると、三人称体では限界があります。
 あと、自問自答って、やっぱり小説の効果としては地味なんですよね。だけど、議論は派手に書けるし、ドストエフスキーは身体表現の記述がうまいから、登場人物たちが歯を剥き出しにしてフーフー言いながら議論してるのは、劇的ですよ、すごく。彼にそれができるのは、自身の中に分裂があったからでしょうけど、もうひとつは、『死の家の記録』を読むとよく分かりますけど、極端な人間のサンプルをすごくいっぱい見てるでしょう? 奇人変人の博物館みたいなところで(笑)。いきなり『悪霊』とか読むと、こんな人間いるのかなと思いますけど、『死の家の記録』を読むと、スタヴローギンのモデルらしき人とか、何となく分かりますね。
 ロシア文学はああいうところがすごいですね。
平野 前回の三島賞の選考では、世界観から発想された小説とキャラクターから発想された小説が本当に明確に分かれていたんですね。青木淳悟さんの『このあいだ東京でね』を僕は面白いと思ったんですけど、選評にも書いたように、建築の分野で批判的工学主義というのを唱えてる人たちがいて……。
 僕に近い人たちですね(笑)。
平野 ああ(笑)。そういう議論があるところに『このあいだ東京でね』が出てくるのが面白いなと思ったんですが、あの小説の場合、ああいう世界観の代理人みたいな強いキャラクターがいないから、それに対するアクションが起きないんですね。不動産屋はそうなのかもしれないけど、やっぱり小説として盛り上がりを欠くところはありました。他方で、世界で何が起こってるかは直接書かないけど、この世界の状況をシャーマンのように受け止めているような人物を造形できるんであれば、キャラクターから出発しても広がりのある作品を書けるんだと思うんです。ただ、下手をしたら、単に近くにいる面白い人を書いたって話になってしまう。
 そのとおりだと思います。
平野 だから、世界観とキャラクターの両方が備わってる作品がいいと思うんだけど、『ドーン』は、全体的には世界観のほうから入った小説なんです。で、その世界観のエージェントをどういうふうに作っていくかというところで発想していったんで、キャラクターに回収しきれないような揺らぎを、些細なエピソードで積み重ねていくのは、書いてて難しかったことの一つでした。
 結局、人間を一人描くというのは、とてつもない情報量で、しかも、その人間が人格的に分化してるとなると、大変なことになるでしょう? だけど、それが現代人だと思う。で、その時に、小説の場合、読者の記憶の中に残るのって、細部の書き込みよりは、特徴的なエピソードとかクセとかなんだと思うんです。それでマーキングしていく。「キャラクターに仕立てろ」と言うと反発があるかもしれないけど、印象的なエピソードで人格を固定していくということは誰もがやってることです。『悪霊』のキリーロフはいつも白湯を飲みながら部屋の中をずっとうろうろしてて、客が来ると「白湯を飲みなさい」とかって勧めますけど、なんとなくああいうことを考えてるやつは白湯を飲んでそうという感じがするんですよね(笑)。上手く説明できないですけど、すごくよく彼の特徴が表れてます。


純文学の淘汰と再生

平野 僕はまあ、言葉そのものに興味があったから、辞書を読んだり、古典だとか、明治の文語文なんかから言葉を掘り返してきたりして、初期には蒼古とした文体を試したりしてましたけど、ネット登場以降は、あらゆる言葉が本当に平べったくなっている。情報交換のスピードにあわせて、スリム化せざるを得ないところもあります。かつて読むだけだった人たちがフィクションもノンフィクションも含めてネットで書く中で、小説家の文章を差異化するために、「最後は文体だ」みたいな話になるのは、一つの考え方だという気はするんですね。つまり、この文章はあいつだなというようなマークみたいなものを作るというのは。
 そこは難しい話ですよね。僕はすごくツルツルした文章を志向してる人で、僕がネットに親和性が高いのはそのせいもあると思うんです。これってあまりサブカルとかそういうのとは関係なくて、例えば宮台真司さんなんかはかなりゴテゴテした表現が好きな人ですね。柄谷行人さんも一見ツルツルしてるように見えるけど、実は修辞が多い。僕はかなり極端にツルツル志向ですね。
平野 僕はやっぱり小説が好きだった人間だから、辞書を見て「あ、こんな単語があるんだ」とかってことに喜びを感じるほうですけど、批評に関しては、思わせぶりな、何言ってるのかわかんない文体は好きじゃないですよ。簡潔に言えることをもったいぶって書いてるのはいやだし、極端に重い、例えば「超越論的間主観性」とかいう用語って、もうコミュニケーションの流れの中に乗りようがないでしょう。そういう意味では、東さんの言葉は今のメディアとマッチしてると思うんですよね。ただ、東さんが小説を書く時に、とくに何作も書いていった時に、その平板さが気になりだすかもしれない。反復が増えるでしょうから。そのとき、作家の側がいろんな文体を使うことを読者が求めているのかどうかが問題なんですが。
 じつはこれは、なぜ僕が小説を書いたのかという最初の話題と関係します。つまり、三十五歳まではできるだけツルツルのマイナスの文章でよかったんだけど、これから長いあいだ生きていくうえでこの方向でやっていくと本当に書くものがなくなる、そんな気がしたんですね。生きてる僕というのは身体もあるし、いろんな体験をして楽しんだりしてるのに、それがまったく文章に結びつかないということはなんかいやだなと。
 ちなみに、僕より平野さんのほうが詳しいと思いますが、フランス語って非常にシンプルな言葉ですよね。ヨーロッパの言語の中でも、語彙が少ない。
平野 ええ、そうですね。
 僕はジャック・デリダを研究していた。そのときの実感なのですが、デリダの文章というのは、すごく複雑なのに語彙はむしろ単純なんですよね。直感的に思うに、デリダのほうがドゥルーズよりも使ってる語彙は少ないんじゃないか。統計は取っていないのでわかりませんが。フーコーなんかは歴史家だから、むろん語彙はとても多い。だから僕はデリダのフランス語は最初、むしろ読みやすいと思ったくらいなんです。語彙は少なく、読もうと思ったら読めてしまうんだけど、何言ってんだかよくわからない(笑)。
平野 村上春樹さんの文章は、やっぱりそういうことなんだと思うんですよね。
 そうそう。語彙としてはツルツルしてるんだけど。
平野 そこに独特の陰影を読者が見出してるということなんでしょうね。ちょっと変な例ですけど、イチローって多分誰にも理解できないような複雑なバッティング理論を持ってるんでしょうけど、アウトプットとしてはヒットを打つって単純なことしかないでしょう? 誰が見てもわかるんですよね。だけど、文学も含むアートって、複雑に考えていった時にアウトプットも複雑になりがちだと思うんです。
 同意見です。複雑なこと考えてもアウトプットは単純、というのでいいと思う。だからこそ、小説家はまずプロットで勝負するべきだと思うんですよ。
平野 同感です。要約できない文学のほうがいいって言う人がいますけど、間違ってると思う。
 それはたいへんな倒錯だと思う。本当に知的なのは要約されて生き延びる小説のほうですよ。文体は要約できないけどプロットは要約できる。その伝播能力はすごい。それで改めて思うけど、ドストエフスキーはやっぱりプロットが強力なんですよね。
平野 強いし、切り方がまたうまいんですね。日本の小説は、海外で読まれようと思った時、特にヨーロッパ系の言語に訳される時には、文体は大半が失われますけど、プロットというのは文化的な差異をかなりたくましく越えていきますね。神話が広まったのはそういうことでしょう。ちょっと前までは、物語批判の文脈で、プロットが強いと説話論的な還元に屈するみたいな感じで全否定されてたけど。
 説話論的還元で全然OKですよね。説話論的に還元されるからこそ人は読む。
平野 ドストエフスキーが分析的に考えてたかどうかはわかんないですけど、彼は、人間の認知パターンにとって何が自然かをすごく理解してたんだと思うんですよ。どういう場面が人間の頭に残りやすいとか、どういうプロットだと喜んでページをめくるかとか。
 ご存知の通り、『地下室の手記』に「二掛ける二は、ぼくの意志なんかなくたって、やはり四だ。自分の意志がそんなものであってたまるものか!」って有名なセリフがあって、二×二=四に抵抗するんだとか言ってるけど、ドストエフスキーこそ、じつは物語作家として二×二=四を粛々と実行している人ですよ。彼は、人間の頭の中の物語的な認知パターンに極めて忠実に作品を作っている。
平野 しかも、そのパターンを熟知しつつ、絶妙なタイミングで物語を中断して議論を挟んだり、内省させたりするんですよ。すると、そこを読まないと最終的に伏線が回収されないから、読者はついてくる。音楽のメロディというか歌に対応するのが、小説のプロットだと思うんですよ。どんなに馬鹿にしても、メロディの強い曲の方が聴く人は多いというのは現実ですよ。
 音楽でmp3が出た時に、というかすでにLPがCDになった段階で、音楽マニアは「これじゃ音楽のよさはわからない」とか言っていた。けれどもいまや着うたですよ。しかしたとえどれほど音質が悪くても、メロディがよければ人は聴いてしまう。それこそが音楽の力です。文体にこだわってるのって、その点で再生の音質とか環境にこだわってるというのとすごく似ている。
平野 しかも今、乖離が激しくなってますよね。それこそ昔は、文学というのは文体だというような価値観を共有してる人たちが多いということになってたと思うんですけど、みんながブログを書くようになった時に、そういうことを気にしてる人が実はものすごく少ないことが判明した。それでいいとは、書き手として言いませんけど。
 小説って、モニターにさえ向かって書いてればコンテンツができる、一番気軽な発表媒体じゃないですか。この気軽さが今はすごく不利に働いていて、参入障壁も低いし、作ってる側も責任感がないという状態になっている。そして全体の質がどんどん下がってると。
平野 去年から今年にかけて、いよいよ出版業界自体も尻に火がついて、作家の淘汰も現実的な問題として語られ始めましたが、ただこういう話は、今の四十代以下ぐらいの作家が一番考えるべきことなんだと思うんです。今の情報環境の中にあって変化しつつある読者と、文学が今後、どうつきあっていくのか。例えば古井由吉さんなんかと議論するなら、もっと別に話したいことがあるなと思うんですよ。
 そうですね。彼らはもともと考えてたし、責任感を持った上で、いろいろ崩してきた人たちですから。
 いずれにせよ今後、純文学の作家があるていど淘汰されるのは止めようがない。僕は現在の文学を、隕石が落ちてさまざまな種が絶滅したけれど、生き残った種がつぎの時代に多様に花開くみたいな、そういうイメージで捉えているんです。短期的に貧しくなるのはしかたないかもしれない。しかし、そこを生き残った想像力こそが、次世代に多様に伸びていくのではないか。
 今日は、批評家として半分、小説家として半分で話していて自分でも混乱しました。僕としては、その新しい時代に対しては、批評家として参加するのではなく、むしろひとりの作家として、片隅でこっそりいい小説を書いていたいですね(笑)。
(2009・11・5)



戻る

定期購読

雑誌定期購読はインターネットで簡単にお申し込みいただけます。

定期購読お申し込み




お問い合わせ

メールマガジン

「twitter」公式アカウント



ページの先頭へ戻る