立ち読み:新潮 2017年7月号

鶴見俊輔伝 第一回 政治の家に育つ経験/黒川 創

第一節 「平城ひらじろ」に住まう

 一九二三年(大正一二)三月も末近い、早朝である。
 福岡県門司生まれの秋山清という一八歳の若者は、進学を考えての上京まもなく麻布区(現在の港区)六本木の新聞店に住み込み、配達の仕事を始めたばかりだった。有島武郎の『生れ出づる悩み』『カインの末裔』といった小説を先ごろ知って、胸にしみ入る思いで、繰り返し読んでいた。
 当時の新聞店は、「諸新聞取扱」といった看板を掲げて、東京日日、東京朝日、時事、報知、都、二六、大和……といった各紙を一手に扱った。だから、新聞配達夫は、家ごとの注文を頭に入れておき、かなった銘柄の新聞を配っていく。
 秋山清が受け持つ配達区域は、桜田町(現在の元麻布三丁目、中国大使館付近)から天現寺にかけての一帯で、百軒ほど配達先があった。六本木交差点から霞町に向かう道を途中で左に折れ、桜田町への坂道を上がっていくと、通りの左側に、東京市長・後藤新平子爵の宏壮な屋敷がある。門番が控える立派な門から望むと、築山の周囲に車回しが巡っていて、さらに向こうに、壮麗な母屋と洋館が並んで見える。そこを中心に、車回しを挟んだ南北にも、立派な日本家屋がそれぞれに建っている。
 彼は、雑誌「改造」に断続して掲載される大杉栄の「自叙伝」を愛読してきた。だから、そのときは内務大臣だった後藤新平の屋敷に大杉が出向いて、まんまと三百円を無心するくだりのことなども、ここを通るたびに思いだす。
 政治家の家だから、この屋敷は五紙ほど新聞を取っている。牛乳配達は、さらに早く来るようで、一五、六本の牛乳瓶がすでに並んでいる。そこから一本、こっそり頂戴したりして、次の配達先を目ざして駆けていく。(秋山清『目の記憶』)

「俊輔」という名の生後九カ月の赤ん坊が、このとき、邸内のどこかで眠っていたはずである。おそらく車回しの右手、ここの者たちが「南荘」と呼ぶ日本家屋の一室ではないか。(邸内の地所は、桜田町に隣接する他町にもわたっており、「南荘」は三軒家町五三番地)。
「俊輔」の父は、鶴見祐輔、満三八歳。鉄道省運輸局総務課長で、このときは中国に出張中。母は、愛子、満二七歳、後藤新平の長女である。このとき祐輔は中国で第三次広東政府の孫文を訪ねている。
 こうした中国出張にも、舅の後藤新平からの意向をいくばくか体するところがあった。後藤は、自身が寺内内閣で外務大臣を務めたさいに断を下した革命ロシアへの干渉戦争(シベリア出兵、一九一八年)が、政治的には失敗となって、いまだ収拾できずにいることに責任を痛感していた。そこで、この年一月、革命ロシア政府(ソビエト社会主義共和国連邦)の極東代表ヨッフェが訪中した機会に、みずから打電して来日を求め、東京市長在任中ながら、個人的な交渉という体裁を取りつつ、日ソ間の国交樹立に向けて局面打開を図ろうとしたのだった。ヨッフェはまだ日本にいて、後藤との接触が続いている。
 一方、このヨッフェ来日に先だって、彼の中国滞在中には「孫文・ヨッフェ共同声明」(同年一月二六日)が発されて、中国統一運動に対する革命ロシアからの支援姿勢もすでに表明されている。鶴見祐輔による孫文訪問には、これを受けての様子見とご機嫌伺いという役回りも負わされていたようである。(鶴見祐輔『壇上・紙上・街上の人』)
 こうした政治家の住まいであるから、この後藤邸内には、それなりの騒ぎも起こる。
 この年二月一八日には、革命ロシアとの国交樹立路線に転じた後藤新平に反発する「赤化防止団」の一員が、邸内に押し入って、家財や窓ガラスを破壊する乱暴を働いた。さらに一〇日後にも、ふたたび右翼の暴漢が母屋の玄関に押し入る。このときは、面会に応じようとした後藤新平の長男・一蔵(愛子の兄)が、下駄で頭を殴りつけられて大けがを負う。俊輔の姉、満四歳の和子は、眼前にそれを見た。彼女は、祖父・新平にかわいがられて、母屋で過ごすことが多かったからである。これらの事件は、いずれも記事差し止めが命じられ、国内紙では報じられなかった。だが、外字新聞には大きく報道されて、すぐに世間の知るところとなった。
 これら二度にわたる乱入事件のあいだに、同月二〇日、邸内で同居していた後藤新平の老母・利恵が、数え九九歳で没する。新平自身は、もうじき満六六歳である。親孝行な後藤新平は、老母をエレベーター付きの洋館の二階に住まわせたいと考え、チェコ人の建築家アントニン・レイモンドの設計で、その普請が続いていた。エレベーターは間に合わなかった。だが、後藤は、もとの計画通りに洋館を完工させて、エレベーターは孫たちの遊具としてのみ使われる状態になっていく。途切れずに続く来客との面会にも、この建物が使われる。
 後藤新平の夫人・和子は、五年前の一九一八年(大正七)四月に、満五一歳で没した。岩手の小藩(留守氏)、水沢城下の貧しい家臣の家に育った少年時代の新平を学僕に取り立ててくれた恩人、胆沢県大参事・安場保和の次女だった人である。この妻の没後二カ月に、長女・愛子と婿の鶴見祐輔のあいだに惣領孫にあたる女児が生まれた。そこで、この子を亡妻の「生まれ変わり」と考え、同じ「和子」と名付けたのだった。
 邸内には、さらにもう一人、老女が暮らしている。水沢の婚家(椎名家)に籍を残したまま、早くに出戻って一族の世話を焼いてきた新平の姉・初勢はつせで、満七六歳。親類から東大法科に通う若者を養子(椎名悦三郎)に迎えており、その青年も、ときおりこの邸内に遊びに来る。
 このように、武家育ちの女たちが、かんしゃく持ちの家長・新平の身辺を固めて暮らしてきた。官職にある者の家庭は質素と清廉が身上とわきまえ、家長が権勢を上りつめても、奢侈や賄賂を近づけなかった。ただ、来客は心を尽くして饗応した。いまは長女の愛子が、この家風を引き継ぎ、一族の主婦役を懸命にこなしている。母屋を中心に、周囲にいくつもの家屋が並ぶ邸内の配置は、郷里水沢から持ち越してきた一族郎党の平城ひらじろを思わせる。
 新平の八歳年下の弟・彦七の一家も、門から望むと車回しの左側、「北荘」と呼ぶ日本家屋に暮らしていた。もとは官吏だったが、財政上の不始末があったことから、新平は彼を公職から退かせて、邸内の世話役にあたらせていた。子、孫たちに恵まれ、多人数な一家だった。
 新平の長男・一蔵は、米国コロンビア大学を卒業して帰国後、実業界に入って、結婚。この年、最初の子、利恵子が生まれる。そのときも、新平の老母・利恵が死去した直後だったことから、こうした名前が付けられた。この一家も、屋敷内に住んでいる。
 ほかに、二人の執事、常時数人の秘書と書生たち、門番、運転手、女中たち、母屋の北東側に花畑があり、そこには園丁の老人がいた。来客があるときは、和洋中華の有名店から料理人が呼ばれて、広い厨房で調理にあたった。
 後藤新平には子ども好きな一面があって、少年団(ボーイスカウト)の日本連盟初代総裁(のち総長)という役職まで引き受けた。洋館の広い庭などがしばしば少年団に開放されて、子どもらが駆けまわる。新平本人も、少年団の制服“健児服”を好んで着込み、行事などに参席した。

 ところで、「南荘」で眠る赤ん坊の名は、なぜ「俊輔」になったのか?
 むろん、父・祐輔にあやかり、「輔」の字をもらった。だが、由来はほかにもあって、日本の初代総理大臣、伊藤博文の青年時代の名前が、「伊藤俊輔」なのである。

(続きは本誌でお楽しみください。)