波 2004年10月号より

次郎さんの想い出

白洲次郎 白洲正子 青柳恵介 牧山桂子ほか
『白洲次郎の流儀』(とんぼの本)

細川護煕


 白洲家と私のところとは、いつ頃からのつきあいか私にもはっきりわからないが、戦前からのつきあいであることは間違いない。次郎さんは戦後吉田内閣とマッカーサー占領軍との交渉役として活躍されたが、その前に私の父が近衛文麿の秘書官として、あるいはその後も終戦に向けての水面下での工作に走り回っていた時、次郎さんとはさまざまな形で接点があったと聞いている。
 年もそれほど離れていなかったし、当時政治の中枢で、スタッフとしてその補佐にあたった牛場友彦さんとか、岸道三さんとか、いずれもケンブリッジなどをでた俊秀の人たちで皆親しい仲間だった。
「メイド・イン・イングランドの日本人」といわれた次郎さんは晩年第一線を退いてから軽井沢のゴルフクラブに長い間君臨していて、その次郎さんと父が冗談を言いあっているのを何回も見聞したことがあるが、実に楽しそうにやりあっていたのを覚えている。
 ある時、次郎さんが「クラブの中に商品の広告がチラチラするのはけしからん。広告にはすべて絆創膏を貼ってしまえ」と言い出して、理事会でもそれが決まり、〇〇電気の冷蔵庫も〇〇食品のアイスボックスもみな紙で隠された。そんなことがあってほどなく、父が同クラブにプレーしに出かけたところ、まさに次郎さんが1番のティーグランドからスタートするところで、いたずら心を出した父が、つかつかと次郎さんのところへ行って、「ちょっと待った、待った」といったところ、明らかに次郎さんは気勢をそがれて「なんだ!」と不快気な顔をした。そこで父が笑いながら「あなたは商品の広告に全部絆創膏を貼れといわれたが、あなたのそのボールにも私が絆創膏を貼ってあげましょう」というと「バカ野郎」といって上機嫌でスタートしていかれたという。何回か父から聞かされたエピソードだが、「メイド・イン・イングランド」人らしく、その類のユーモアやウィットを解する人に対しては誠に好意的であった。その反面、私のような若僧から見ても、肩で風を切って歩く大臣や官僚ら権威主義的人間に対しては真っ向から立ち向かっていくその姿勢が痛快であった。
 次郎さんは祖父とも近く、戦後祖父が白洲さん夫婦が住んでいた東京郊外の鶴川に農家を買って、週末などによく出かけるようになったのも、戦後の食糧難ということもあったろうが、白洲さんご夫婦や河上徹太郎さんが鶴川におられたことが大きな理由だったと思う。鶴川はいまはすっかり東京のベッドタウンになってしまったが、当時の鶴川は武蔵野特有の雑木林と芋畑のなだらかな斜面が入り組んだまさに国木田独歩の武蔵野に描かれているような風景が広がっていて、次郎さんもそこでお百姓さんの格好で、カントリーライフを実践されていたわけだ。
 イギリスにカントリージェントルマンという言葉があるが、それは単なる「田舎紳士」ということではなく、いつもは地方に住んでいながら、中央の政治にも目を光らせている人たちのことで、だからそういう人たちが集まれば当然政治の現状について鬱積した思いも噴出するし、それが昂ずれば直接中央へ乗り出していってやかましい御意見番ともなる。そういう種類の人たちのことだそうだ。白洲さんはそのカントリージェントルマンをもって任じておられた。
 若い頃からオイリーボーイと言われた車好きは八○歳になってもまだポルシェを運転し、またよくあちこち旅行にも出ておられた。よくもてるハイカラなオジサンだった。私とはもちろん親子ほど年が違ったわけだが、たまたま将棋の腕前は同じくらいで軽井沢で夏などよく「おい、ひろちょっとこい」といわれて白洲邸まで将棋をさしに出かけたものである。次郎さんは大変な負けず嫌いだったから、負けそうになると「おい、ちょっと待て」「お前、ほんとにそれでいいのか、いいのか?」と威嚇して相手の手を変えさせるのが得意だった。私はその手には乗らなかったが、私の祖父に仕えていた家令で、アダ名を田村将軍という軍人あがりの大男がいて、その将軍は図体に似合わずよく次郎流の脅しに屈して逆転負けを喫し、それをまた次郎さんは殊のほか楽しんでおられた。
 次郎さんとのつきあいはそんなところだったが、正子さんとは亡くなるまでもっとずっと親しくおつきあいさせて頂いた。正子さんは私が子供の頃から美術の蒐集家であった祖父のところに、まるで先生の所に通うようにしょっちゅう来ておられたが、なんとなくそのスタイルが魔法使いみたいにみえて「あ、また魔法使いのおばさんがきた」といってはやしたてたものだ。しかし、成人になってからは私もいくらかは美術や芸術に関心を持ちはじめ、正子さんのところを訪ねては仏像のことやらあちこちに生き残っている職人芸のことやら、回峰行のことやらいろいろ教えて頂きに伺った。京都、湯布院、飛騨と随分あちこち旅行のお供もさせて頂いた。今は亡きお能の喜多流の友枝喜久夫さんの最後の「弱法師(よろぼし)」にご一緒させて頂いたこともよき思い出として残っている。
 とんぼの本『白洲次郎の流儀』に寄せられた次郎さんの長女・桂子さんの文章を読むと、これらの私の思い出と重なりあうところもあり、収録された写真ともども、懐しく次郎さん、正子さんのことを思い起す。
 お二人が逝かれてもう結構時がたつが、そういうお二人の生き方も、私が今閑居という生き方をするようになった上で、あまり意識したことはないが、あるいは結構影響を与えているかもしれない。


(ほそかわ・もりひろ 陶芸家)