東京島

孤島には、31人の男とたった1人の女。

清子は、暴風雨により、孤島に流れついた。夫との酔狂な世界一周クルーズの最中のこと。その後、日本の若者、謎めいた中国人が漂着する。三十一人、その全てが男だ。救出の見込みは依然なく、夫・隆も喪った。だが、たったひとりの女には違いない。求められ争われ、清子は女王の悦びに震える──。東京島と名づけられた小宇宙に産み落とされた、新たな創世記。谷崎潤一郎賞受賞作。


「東京島」2010年8月公開
1,540円(定価)

購入

693円(定価)

購入


第一章

   1 東京島

 夫を決める籤引きは、コウキョで行われることになっていた。清子はいつもより早起きしてオダイバへ下りた。黒い小石に覆われた入り江は南洋とは思えず、いつ見ても陰鬱だ。突き出た大岩に両端を挟まれているため、圧迫感がある。海水が盛り上がって見えて、海そのものが出口を塞ぐ壁のようだ。閉じ込められた思いが増すので、どうしても好きになれない浜だった。大破したクルーザーから、夫の隆とこの浜に何とか上陸を果たしたのは五年前。その時は、嵐の中で島影を見つけて狂喜したのに、今度は脱出できなくて、海を眺める日々を送っている。
 清子はぼろぼろになった黒いワンピースを脱いで素裸になり、海に浸かった。ところどころに深みがあるので、注意が必要だった。波に揺られながら海底の小石を踏みしめ、温い海水で顔を洗う。今日は主役なのだから綺麗にしなくっちゃ、と呟いたが、意識せずに笑みが洩れ出ていた。清子はいつだってどこだって主役だった。島の誰もが清子を見つめ、清子に気に入られようと機嫌を取り、奪い合う。それもそのはず、三十二人の島民中、女は清子たった一人だった。清子はもつれた髪を手櫛で梳き、波間に浮かぶホンダワラ状の海藻でひとつにまとめてみた。今年で四十六歳になったが、髪が薄くなった以外、まだ衰えはない。そんな自分を巡って、どれほどの死闘が繰り広げられたか。清子はまたしても笑いを浮かべた。人が死んだり、怪我したり。これほど男に焦がれられた女が世界に何人いるだろう。
 清子と隆夫婦が島に漂着して三カ月後、今度は二十三人もの日本の若者が島に流れ着いたのだった。彼らは、与那国島の野生馬調査に雇われた首都圏のフリーターたちで、全員、男。馬糞を集めて磨り潰し、寄生虫の卵を探すバイトがきつい、汚い、臭い、安いと怒り、廃船同様の漁船で脱走を企てたのだが、台風に遭って漂流し、這々の体で島に辿り着いたのだった。彼らが沖合の壊れた船から島に泳ぎ着いた夜、隆と清子は、不眠不休で彼らを救った。仲間が増えて嬉しかったが、閉じ込められた人数が多くなっただけで、島がどこの国の領土で、何という名かもわからなかったし、依然、救出も来なかった。
 いつしか、若者らは島をトウキョウと呼ぶようになった。隆は若者の望郷だろうと馬鹿にしたが、清子には、どうせ帰れないのなら似非東京にして楽しく生きていこうという覚悟にも思えた。その覚悟は自分にもあった。

 清子は頭を巡らせて島を振り返る。トウキョウはこんもりした緑に覆われ、高い山がない。踏査した隆によれば、潰れた腎臓の形をしており、縦が七キロ、横が四キロ程度だという。毒蛇や山猫など危険な動物は棲息せず、野生種のバナナやタロイモが豊富に採れて、椰子も大量に生えているので食物には恵まれた島だった。無人島で助けが来ないことを除けば、楽園と言えないこともなかった。
 清子は気配を感じて振り向いた。背後にホンコンが三人立っていた。三人とも、薄笑いを浮かべて清子の裸体を眺めている。無論、顔見知りだが、名前は知らない。腹の突き出た中年が一人、あとの二人はまだ若く、黒い山羊髭を生やしていた。歯っ欠けの方の若い男が、両手でデブというジェスチャーをしてみせた。清子は怒って横を向いた。清子はどういう訳か、島で一番太っていた。困窮生活なのになぜ太るのか、自分でもよくわからない。脂肪がたっぷり付いた小太りの体は、島の生活が性に合っていることの証左みたいで気に入らなかった。男の精気で太ったんだろう、と嘲ったのは、口の悪いワタナベだ。ワタナベは共同作業に非協力的だということと、ひねくれた性格が嫌われ、反対側にあるトーカイムラという浜に追いやられてしまった。
 トーカイムラという名が付いたのは、そこに謎のドラム缶が大量に転がっているせいだった。アルミのような艶消しの金属で頑丈に造られたドラム缶は、黄色くペイントされた蓋でしっかりと封印され、ごろごろと数十個も浜に放置してあった。好奇心でこじ開けようとした者もいたが、誰かが「放射性廃棄物ではないか」と言いだしたため、恐怖に駆られて誰も近寄らなくなった。以来、ドラム缶の浜をトーカイムラと言い慣わすようになったのだ。トーカイムラは、オダイバと違い、白い砂がどこまでも広がる美しい浜だったから、そこを放擲するのは残念だった。が、放射能とあっては逃げるしかない。ワタナベが、久しぶりにブクロに現れた時、頭髪がなくなって歯が抜け落ちていた、という噂が広がり、ますますトーカイムラに近付く者はいなくなった。

続きは『東京島』にて
[桐野夏生『東京島』刊行記念インタビュー]
人間が生きるために必要とする物語を


無人島に漂着した31人の男と1人の女が島内で曝け出す人間の根源。
ご自身が「これから生まれる物語の母親みたい」だと評する
ノンストップ長編『東京島』について桐野夏生さんにお話を伺いました。

――潰れた腎臓のような形をした謎の無人島。そこに漂着した夫婦、若いフリーターたち、中国人グループ、あわせて三十一人の男と一人の女の物語。人間とは、社会とは、生きるとは、と『東京島』を読んでいろいろなことを考えさせられました。どういうきっかけで構想された小説なのでしょうか?

桐野 人間が外部との関係が遮断された場に集団で閉じ込められた場合、一体何が起こるんだろうか。元々そういう問題に興味を持っていたんです。原稿の依頼をいただいたとき、無人島のなかに、男がたくさんいて女が一人だけいる状況が浮かびました。でも、その女が男たちに追いかけられるような若くて美しい女ではおもしろくないと思った。島の中で最年長、下手すれば男たちの母親くらいの年齢だったら、男も女もどういう動き方をするだろうかと想像が膨らんでいったんです。非常にグロテスクな状況下で、小説として実験をしてみたいなと。それで、たった一人の女として、脱サラした元銀行マンの夫と一緒に漂着した四十六歳の清子が生まれました。子どもの頃に、『十五少年漂流記』や『ロビンソン・クルーソー』、『蠅の王』などの島に流された人間を題材にした小説も楽しく読んだし、好きでした。ただ『東京島』では、『十五少年漂流記』のブリアンやドノバンのような、誰もが認めるリーダーを絶対に書くまいと思っていました。リーダーがいて漂流者たちが協力しあい、何かを、おそらくこの場合は脱出、を成し遂げるのではなく、みんなが我を主張し、立ちゆかなくなってばらける集団。そういうイメージが最初から核としてあったんです。当初は短編としての依頼だったので、自分のことしか考えず、無人島で作られようとする社会に決して組み入れられない、わがままな女を中心に、第一章の1に当たる「東京島」をひとつの物語のつもりで書き始めました。籤引きで決められた四番目の夫を好きになり、やっと見つけたこの愛とともに島で生きると言いながら、脱出できるチャンスが巡ってくるとあっさりと捨てる。そういう身勝手な女の話。長編として連載することになっても、サバイバルな状況下で自分のことしか考えない女という存在はテーマとしてずっと残っていました。連載中は、この小説のなかにどんな可能性があるだろうかということを毎回考えながら書いて、少し進んでの繰り返し。「新潮」という媒体の自由度は高かったと思います。割と自由に好きなことを書いていた意識が強かったのですが、連載を纏めて単行本にするため章立てをした際に、この小説には強い流れがあったんだなと感じました。書いているときは意識していなかった小説としてのまとまりが、自分のなかにあったと気づいたわけです。

――島にたった一人だけの女、清子。平凡な妻、普通のおばさんだった彼女が、漂着後、島内で特別な存在となります。男たちに求められる。夫の隆に、暴力の権化であるカスカベとのセックスを見せつける。蛇は振り回す。漂着したことによって、清子の心には何が起こったんでしょうか?

桐野 着いた当初は、男たちに欲望の対象として扱われ、「魔性の女」だと自画自賛する清子ですが、無人島に漂着して初めて、女としての自分をさらけ出したんだと思います。自分のなかにあった野性が無人島で生活を続けることで爆発したんでしょう。だから、男たちが諦め半分でコミュニティを作る一方で、自分だけは生きたい、脱出したい、という強い気持ちを持ち続けます。危険な状況に追い込まれれば平気で嘘をつくし、生き抜くためには権力を持っている人間に媚を売る。島の中での清子には、女という種族を私が代表しているんだ、という傲岸な満足感があるんです。私は島における絶滅危惧種のトキであると。自分が島内に存在していることによって無人島の生態系が保たれているという自負です。男たちにとってはどうでもいいことなのに、清子一人が拘っている。だから、男たちが女としての清子に飽きたあとも、その思いは変わらない。これは清子という人間が持っていた内面の特殊性だけではなく、誰もが極限状況に追い込まれたら足を踏み入れる可能性がある精神状態ではないかと思います。

――作中で重要な役割を果たす航海日誌を書き残した後、サイナラ岬で死ぬ元の夫、隆。ヤンキー中のヤンキーで、暴力によって島民を支配する二番目の夫、カスカベ。男たちの清子に対する欲望が失われたあとに行われた籤引きで四番目の夫となる記憶喪失のGM。左のレンズが壊れたメガネを掛け続ける小説家志望だったオラガ。全裸に海亀の甲羅だけを纏い、超自然的な力で中国語が理解できるワタナベ。死んだ姉の声が聞こえ、終始ぶつぶつと独り芝居をするマンタ。ホモセクシュアルのカップル。個性の強い男たちも数多く登場します。印象に残るキャラクターはいらっしゃいますか?

桐野 誰か一人ということになれば、集団から排除され、ドラム缶が転がる浜トーカイムラに一人で住むワタナベでしょうか。清子とワタナベは、二人で一対なんだ、というイメージがありました。お互い心底嫌いあっているんだけれども、気になるところもある。ワタナベがもし女として生まれてきていたら、清子みたいな女だったかもしれません。そういえば、これまで小説を書いてきて一番下品な描写もワタナベが出てくる場面でした。他の男性キャラクターたちについても、書き進めていて自分が驚くことも多かった。この男はこういう人間だったんだ、と書くことによって発見するわけです。団地育ちのマンタさんもそうだし、GMもそうでした。

――「ホンコン」と呼ばれる中国人たちの驚異的なサバイバル力も印象に残りました。実際に取材はされたのですか?

桐野 これまで中国に何度か旅行に行ったときに、少なくとも食べるということに関して、この人たちは絶対に手を抜かないだろうなと感じていました。無人島に行くようなことがあったら、間違いなくサバイバル能力を発揮するに違いないと以前から思っていたんです。私がもし無人島に漂着したとしたら、ホンコンたちのような生活力のある人間についていくことを考えるかもしれません。あるいは、椰子酒を飲みながら、助けが来るのをぼんやりと待つか。『東京島』の人間たちも、トーカイムラに転がった放射性廃棄物と目される謎のドラム缶、それがあるから、希望を持ち、生きていけるのではないかと思うんです。また、誰かが捨てに来るかもしれないからそのときに助けてもらおうという希望です。実際に、その計画がうまくいくかどうかは関係なく、助かる可能性がわずかながらあるからこそ、自殺せずに生活ができたのではないかと思います。

――無人島に男が一人でほかは女性ばかりという『東京島』とは逆の状況下では、どういう社会になると思われますか?

桐野 『東京島』のようにリーダーに成りたがる人間が出てきたり、島の社会で序列ができたりすることなく、それぞれ自分の持ち場をきちんとこなして仲良く生活していくんじゃないでしょうか。猿山のボス猿を愛でるがごとき、一人の男を褒め殺ししながら、王様として持ち上げて大事にするだろうし、もし子どもができれば共有して教育する。誰かが男を独り占めしようとすると、殺されてしまうかもしれません。そういう突き抜けた怖さが女にはあるかもしれない。ただし、それは男が優秀な場合。ボスたる能力がなければ、仕方なしに適当に構ってあげるんでしょうね。

――無人島内でひとつの社会、共同体を作ろうと奮闘する人間とそれに抗う人間の争いが描かれているとも『東京島』を読んで感じました。これから読まれる読者の皆さんのために詳細を明かすことは控えておきますが、後半部、無人島内の新しい動きをきっかけにして始まる怒濤の展開から物語の終りまでを読むと、『東京島』という小説から神話的な何かを感じるのですが。

桐野 コミュニティ作り、共同体が形成される過程という意味では「週刊文春」で連載している『ポリティコン』と共通のテーマを扱っているところもあります。『ポリティコン』では、主人公の東一が、愛のない共同体を形成しようとしていきます。愛が不在であるという意味でも、『ポリティコン』と『東京島』は相似形を描いているかもしれません。また、詳細は明かせませんが、いま書き下ろしている神話も、『東京島』と少し似ているところがあります。『東京島』は、長期に亘る連載でしたから、他のものを書いているときに浮かんだいろいろなことが、知らず知らずのうちに投影されているのかもしれません。その点では、『東京島』がこれから生まれる物語の母親みたいなもの。神話に関しては、人間というより、社会にとって必要なものなのでしょう。権力を維持していくために必要とする恣意的な物語もありますが、人間が生きていくために機能する物語も必要、という意味です。悲しいときに読む物語、強く生きたいと願うときに欲する物語。状況によって違うのでしょうが、人間は生きるために物語を必要としているのではないか。だから、小説家の自分も、誰かが欲する物語を書きたい、と強く思うのです。

【特別対談】佐藤 優 vs 桐野夏生
『東京島』のリアルな「官能と混沌」


30人あまりが漂着した無人島。けれど女はただひとり。ここは地獄か楽園か――。
人間の本質とは何かを現代の日本人に突きつける、桐野夏生氏の新作『東京島』(小社刊)。
そこに描かれた「官能と混沌」のリアリティーを、著者と作家・佐藤優氏が縦横に語り合った。

佐藤 僕ね、『東京島』、3回読みましたよ。
桐野 3回も。ありがとうございます。
佐藤 読むほどに新しい発見があってね、個人的にはリアリズム小説として読みました。今、小林多喜二の『蟹工船』が売れてるじゃないですか。プロレタリア文学の代表作として。
桐野 私も子供のころからわりとプロレタリア文学や貧窮物は好きでした。『蟹工船』も読みましたし、『女工哀史』とか『にあんちゃん』とか。
佐藤 でね、桐野さん。先週号の「週刊新潮」も書いてるように、小林多喜二ってもともとは銀行員だった。そのせいか、作品中には労働現場の現実とは乖離した、思わずツッコミ入れたくなるところも見受けられるわけですよ。民間船で起きたストライキ事件に海軍が介入する。でも、あれは本来、警察じゃないとおかしい。
桐野 頭で書いているんでしょうか。佐藤さんは、以前から、葉山嘉樹の方が地に足が着いていると仰っていましたね。私は葉山の名を知りませんでしたが、娘に聞いたら、『セメント樽の中の手紙』を、高校の授業で読んだというので驚きました。
佐藤 葉山自身が労働者だったので、彼の作品には現実の裏付けがある。そうして考えると、『東京島』には徹頭徹尾、今の社会の現実がすべて一分の隙もなく描かれている。これぞリアリズム小説。こんな決めつけは怒られちゃうかな。
桐野 全然怒んないです。てか、光栄です。
佐藤 去年ね、国税庁の相当に緩い統計でさえ、年収200万円以下の低所得層が1000万人を超えるという数字を出しています。日本には、そうした食うや食わずの人たちが1000万人以上もいる。
桐野 異常なことですよね。あれよあれよという間に、所得格差が広がっている。
佐藤 しかもユーロとの比較で考えれば、8年前と比べて円の価値は約半分。つまり一面、日本は極貧国だという現実がある。東京島に流れ着いてきて、ロクに食うモノもなく暮らす連中の姿には、そんな現状も投影されているように読めるんです。椰子蟹を食べて体の具合をおかしくしちゃうヤツなんて、僕の中では博士号をもってる高学歴のワーキングプア、ってなイメージ。
桐野 なるほど。あれは一応、島で唯一の大工仕事ができる男だったのに、悪食で命を落とす、という設定でした。
佐藤 それから、東京島の一角、のどかで美しい浜辺に産業廃棄物を詰めたと思しき大量のドラム缶がうち棄てられてるでしょ。実際、ちょっといい感じの地方の山へ分け入ると、それこそドクロマークのついたドラム缶が放置されているなんていう状況を、日常的に目にするわけですよ。
桐野 産廃問題ですね。ドラム缶の話が出ましたけれど、東京島の連中は、それを定期的に棄てにくる船をアテにして、何となくいつか生還できるんじゃないかという希望をもって生きています。つまり、非常に怖いけれども緩い状況です。
佐藤 主人公である清子の後から漂着した、日本人の若いフリーターたちね。彼らは島の中で何らかの約束ごとを作り上げていかねばならないと、非常に強迫的な思いを抱いてますね。

  秩序を求める男たち

桐野 男たちは習い性としてか、ルールを決めたりして社会みたいなものを作る。そういうところは意識して、戯画的に面白くしようと書いてます。だから、特に日本の状況を描こうと意識したわけではなく、ただ無人島という限られた空間の中での混沌を、描きたかったんです。
佐藤 下手をすると母親くらい年の離れた清子という女を巡って、男たちが蠢(うごめ)く。清子も自分のことを「魔性の女」だとうぬぼれている。凄い実験的なストーリーですけれど、僕の獄中の経験からすると、実際の男たちはこういう東京島のような状況に置かれたら、多分、性欲は出ないと思うな。
桐野 そうですか。東京島でも最初はみんな、性欲だけでなく寂しさからワーッと清子のところに行くんだけれども、あとはみんな飽きてしまって、それどころではなくなっていくんです。この物語は、何年か経って清子が飽きられた頃の話から始まっています。
佐藤 僕の場合、自分では比較的元気でやってるつもりなのに、やっぱり独房に入ったら、150日目くらいまで勃ちませんでしたからね。鈴木宗男さんによると、岸信介さんは「巣鴨プリズンの中で夢精をして、毎朝ふんどしを洗ってたのはオレだけだ。あとの連中はフニャッとしとる」と怒ってらしたそうですが。
桐野 巣鴨拘置所に収監されたのって、50歳も目前だったはずでは。ということは、佐藤さんは150日過ぎたら……。
佐藤 ちょっと元気になりました(笑)。
桐野 よかったですね(笑)。東京島の連中はもっと、ヘナーッとしてます。
佐藤 その点、中国人グループである「ホンコン」はタフで旺盛ですね。あのあたりは僕、中国人というより、僕の母の郷里である沖縄のイメージが強かったんですが。
桐野 ホンコンは棄てられた人たちというか、一種の流刑にあっているので何も持っていないのです。だから、いっそうサバイバル能力を高くしなけりゃならないと思いました。
佐藤 あと、セックスやオチンチンもよく出てくるような印象だったんですが、そこへのこだわりは?
桐野 あら、よく出てきましたっけ?
佐藤 回数にして3ケタは行ってると思いますよ。
桐野 それはおおげさです(笑)。
佐藤 いや、本当に本当に。なのに、ですよ。必ず出てくるはずの、男の世界の議論が出ていない。
桐野 それは何ですか?
佐藤 包茎であるか否か。
桐野 ははは。
佐藤 この議論は、男の世界では出てくるはずなんですよ。皮と形状の話は。
桐野 すみません、気付きませんでした(笑)。清子は要するに、自分を見た男が欲情するかどうかが、島における自分のアイデンティティになって、生きていけるのです。だから、包茎か否かよりは勃起してるか否かが重要なんだと思います。それで書いていないというのもあるかと。ま、しどろもどろの説明ですが。あと、私があまり知らないというのもあると思います。包茎うんぬんについて(笑)。
佐藤 先ほど混沌という言葉が出ましたけれど、ここで描かれているのは、混沌=カオスよりも秩序=コスモスですね。
桐野 そうですね、確かに。清子だけがカオスなのでしょう。そして、男たちは秩序を求める。

  「実はエッチなこと」

佐藤 誰が清子の夫となるかを決めるにあたって、クジ引きが行われるじゃないですか。
桐野 男たちが公平性を担保するように見せかけて作ったシステムで、清子はそれに仕方なく従わされているというイメージで書きました。つまり、清子には男を選ばせない、選ばせれば男たちの間に殺し合いが起きるから、という意味です。
佐藤 でも、そのクジ自体にはインチキがない。
桐野 はい、一応。伏せた貝殻を順番に開けていく、みたいなやり方です。
佐藤 まさにそこ。それが世を統べる神事なんですよ。神事はギリギリのところで偶然性に頼る。
桐野 偶然性というのは、やっぱり神事なんですね。
佐藤 清子はいろんな形でシンボリックな神事を行ってもいるわけです。話は逸れますが、僕は、偶然性に頼る神事は今こそ大切だろうと思っています。
桐野 今こそ、というのはどうしてですか?
佐藤 衆院の定数は480ですが、あんなの1500にすればいいんですよ。そこからクジ引きで選ぶと。
桐野 誰がなってもいいってことでしょうか。裁判員制度みたいに?
佐藤 いえ、とりあえず1500人は選挙で絞る。あとはクジ。いくら後援会が大きかろうが、選挙運動の資金が多かろうが、最後は運、ということ。
桐野 そうか、わかってきました。
佐藤 こういう制度だと、家業としての政治っていう発想はなくなりますよ。
桐野 議員って、世襲制だったのかと思うほど多いですからね。2世、3世の議員って。
佐藤 そう。だからこそ、ある程度の努力を超えて最後のところは運なんだ、努力は意味がないんだというシステムにする、と。そうでないと、競争競争で煮詰まっちゃうわけです。悪事が起きる土壌にもなる。
桐野 小学校はクジ引きで入ったという人がいます。
佐藤 国立の小学校ではそうですよね。でも、それでいいんですよ。でないと、お受験競争が煮詰まった末に、ライバルのあの子を殺せってな話になる。
桐野 競争の果てに、行き着くところまで行くってことですね。
佐藤 東京島でクジ引きの神事を導入しなかったら、何が起きたでしょうか?
桐野 殺し合いですね。
佐藤 男の欲望はしょうもないから、実際には神事があっても平穏無事には行かなくて、まさしく東京島みたいなことになっちゃう。
桐野 そうそう。
佐藤 それとね、清子の亭主が書いていた日記を、日本人グループの共同体から締め出された男、ワタナベがこっそり盗み読むところ。あれはまさに谷崎潤一郎の『』の雰囲気なんですが、そういう関係性、嫉妬の中からエロスを感じるというのはあるんでしょうね。
桐野 はい、意識はしてなかったけれども、谷崎の中で、私は『鍵』が一番好きな小説です。
佐藤 それこそ性欲も露骨に描いた『蟹工船』顔負けの、リアルな官能性が『東京島』には盛り込まれている。
桐野 プロレタリア小説って、確かに官能的ですね。
佐藤 そうなんです。その中に欲望がすごく凝集していると思う。
桐野 持てるものは己の肉体しかない。肉体にだって階級性が出るものでしょうけれども、それも意味がなくなるほど、ギリギリで剥き出しという感じですね。欲望が生きることのみに集約されているのも、実はエッチなことです。

  脱構築と創造神話

佐藤 そういうこともひっくるめて言うなら、『東京島』こそ官能性を感じさせる社会小説だ。
桐野 畏れ多いです(笑)。でもね、佐藤さん、男たちは東京島で社会を作ろうとするんですが、それを異物である女が壊していく、というような構造ではあります。
佐藤 ええ。ただし、これは劇的な結末につながるところだからあまり言えませんが、男どもの上に君臨するかに見える清子は、破壊者のように見えて破壊していない。これは一昔前の言い方をするなら、脱構築ってことですよ。
桐野 なるほど。確かに破壊者にはなりきれていません。
佐藤 それに登場人物みんなが色んな場面でウソをつく。僕、人間の特徴って小ウソをつくことだと思う。
桐野 大ウソじゃなくて、小ウソというのはどういう意味ですか。
佐藤 だって、旧約聖書の創世記の一番最初のところでも、リンゴの実を食べた男が神様から『食ったかどうか』を聞かれているのに、『あなたが創った女が言ったから食べた』と言い逃れして、女は女で『蛇が“なぜあの実を食わねえんだ”と言ったからです』と責任転嫁する。小ウソと責任転嫁の集積が人間文化だと。
桐野 興味深いですね。とはいえ、聖書にならうなら、どこかにそういう人間の罪を問う存在はいるってことですよね。
佐藤 どこかにね。『東京島』にもやはり、責任を問う、超越的な存在がいますよ。それは桐野さんと読者。
桐野 そうですね。小説書いている時って、自分がひとつの世界を好きなように動かしているわけですから、神様みたいなものではあります。
佐藤 東京島に流れ着く日本人の若者たち、ひとりひとりの物語も書くことができるでしょ。
桐野 はい、できますね。
佐藤 だから、ある意味で創造神話ですよね。ここで描かれているのは。計算された面白さというのじゃないですけれど。
桐野 『東京島』は、最初は一編の短編のつもりで書き始めました。続くことになったので、その場その場で想像して書き足し、次第に色んなモチーフを取り入れているうちに、世界がわりと濃くなってきたんですよね。実はちょうど今、神話の仕事もしていまして、どこかに神話的要素も入ったと思います。やっぱり神話作ってたんですね、私。
佐藤 そう思います。これ、映画にだってできますよ。様々なモチーフが繰り返し登場する、マトリョーシュカ風の構造になっているようにも僕には読めてね。そこがまた非常に面白かった。
桐野 先ほどお話に出た、清子の亭主の日記を盗み読むワタナベ、私は彼を清子の男版みたいなイメージで書いたんです。ふたりで一対。表と裏です。
佐藤 イザナギとイザナミのような感じですね。教えてほしいんですが、共同体から退け者扱いされた彼にだけ驚くような展開が用意されていますが、あれは?
桐野 いや、何だか一番の外れ者が特別な目に遭う、といった構想が頭をもたげてきてしまって。でも彼は、やっぱり悪意の塊でもあるわけです。それもさっき仰ったように共同体の破壊者まではいかない小悪党ですが。

  「日本が理解できる」

佐藤 面白いですね。だから僕は、ワタナベが一番、異化効果があるトリックスター的だと思ったんだけど、外務省の中って、ああいうのばっかりですよ。
桐野 本当ですか?
佐藤 たとえばですよ。僕が現役のころ、外務省の5階にある国際情報局の斜め向かいが大使室になっていました。人事が発令されて、海外へ赴任するのを待っている待命大使たちの部屋。で、ある時、5階トイレにウンチがなすりつけられる珍事件が頻発するようになったんですよ。
桐野 ウソ!
佐藤 それはね、人事に不満を抱いた人物が自分の思いを言葉にできないもので、そんな形で抵抗したというわけなんです。
桐野 恐ろしいですね。何が恐ろしいって子供みたい。
佐藤 官僚っていうのは歪んでて、マゾヒスティックなヤツが多いんです。鈴木宗男さんから怒鳴られまくっている中で、どこかきっと“気持ちいいッ”などと思っていたんでしょうね。
桐野 ほう、まったく驚くべき世界です。『東京島』なんかより、ずっと面白い(笑)。
佐藤 鈴木さんの前でブリーフ1枚になり、腹に顔の絵を描いてヘソ踊りする外務官僚もいたりね。ただ、同じ場所で素っ裸になってオチンチンを股に挟み、山本リンダの「こまっちゃうナ」を歌った人もいました。こちらは国会議員です。
桐野 そりゃ困っちゃうな(笑)。じゃあ政治家は、サドなんですか? マゾなんですか?
佐藤 サドもマゾも両方います。やっぱり歪んでいるんですよ。政治家は全員ひとり残らず、自分が政治家になったのは総理になるためだと信じてますし。
桐野 確かにそういう感じは、ひしひしと伝わってきますね。
佐藤 だから僕、捕まってね、ホントに日本ってありがたい、立憲君主制でよかったと思うんです。もしこれが田中真紀子総統とかの国だったら、鈴木宗男さんと僕、火あぶりですよ。
桐野 焚刑(笑)。
佐藤 ええ、それも反省が足りないとばかりに、とろ火か何かで延々と。
桐野 炭火かもね。備長炭。
佐藤 ま、僕はサドでもマゾでもないから、もし東京島に行ったら日本人グループの彼、そう「GM」クンみたいに生きていくかな。
桐野 GMはまともですからね。
佐藤 GMには転機が訪れ、ある重大なことに覚醒するんだけど、僕だったらそのことに知らん顔してやり過ごし、ひっそり消えて行くでしょうねぇ。
桐野 どうして消えて行くんですか?
佐藤 競争社会が好きじゃないんです。そのくせ競争はしてしまう。ダメなんです。アドレナリン出ちゃうので。ただ、本当に好奇心は強いんですよ。とにかく物事が知りたい。だから桐野さんの作品は大好きだし、イメージが膨らむから、桐野夏生という作家は、僕の中では一種のイコンなんですよね。パソコンでいうアイコン。
桐野 嬉しいです。ぜひこれからもどんどんクリックしてください(笑)。
佐藤 あと、『東京島』は海外でも読まれるべきです。今の日本は苦しみ(pain)に満ちた国“Japain”なんて海外で評されていますが、この国の閉塞状況がどういうことになっているのか、それが『東京島』には全部入っているので、日本を理解するための本として凄くいいと思うんですよ。各国からどういう反応があるのか、それもまた楽しみ。
桐野 ありがとうございます。早速、考えてみようと思います。

(「週刊新潮」2008年6月5日号より)
桐野夏生 キリノ・ナツオ

1951年金沢市生まれ。1993年『顔に降りかかる雨』で江戸川乱歩賞を受賞。1997年に発表した『OUT』は社会現象を巻き起こし、日本推理作家協会賞を受賞。1999年『柔らかな頬』で直木賞、2003年『グロテスク』で泉鏡花文学賞を受賞。以後、柴田錬三郎賞、婦人公論文芸賞、谷崎潤一郎賞、紫式部文学賞、島清恋愛文学賞、読売文学賞を受賞と、主要文学賞を総なめにする。現・日本ペンクラブ会長。

桐野夏生HP -BUBBLONIA-
ナニカアル

昭和十七年、林芙美子は偽装病院船で南方へ向かった。陸軍の嘱託として文章で戦意高揚に努めよ、という命を受けて。ようやく辿り着いたボルネオ島で、新聞記者・斎藤謙太郎と再会する。年下の愛人との逢瀬に心を熱くする芙美子。だが、ここは楽園などではなかった――。戦争に翻弄される女流作家の生を狂おしく描く、桐野夏生の新たな代表作。島清恋愛文学賞、読売文学賞受賞。

ISBN:978-4-10-130637-7  C-CODE:0193  発売日:2012/10/30

825円(定価) 購入


源氏物語 九つの変奏

時を超えて読み継がれ、日本人の美意識に深く浸透した『源氏物語』。紫式部が綴って以来千年を経た「源氏物語千年紀」に際し、当代の人気作家九人が鍾愛の章を現代語に訳す。谷崎潤一郎、円地文子らの現代語訳により、幾たびも命を吹き込まれてきた永遠の古典。その新たな魅力を、九人九様の斬新な解釈と流麗な文体で捉えたアンソロジー。『ナイン・ストーリーズ・オブ・ゲンジ』改題。

ISBN:978-4-10-133962-7  C-CODE:0193  発売日:2011/04/26

737円(定価) 購入


ナニカアル

女は、本当に罪深い――。今この一瞬、あなたと抱き合えれば、愛さえあれば、私は構わない。昭和十七年、南方への命懸けの渡航、束の間の逢瀬、張りつく嫌疑、そして修羅の夜。見たい、書きたい、この目に灼き付けておきたい! 波瀾の運命に逆らい、書くことに、愛することに必死で生きた一人の女を、渾身の筆で描く傑作小説。

ISBN:978-4-10-466703-1  C-CODE:0093  発売日:2010/02/25

1,870円(定価) 在庫なし


ナイン・ストーリーズ・オブ・ゲンジ

異国の男相手の店から幼い少女が抜け出そうとする角田光代流若紫。真実の愛を求める源氏がベニーちゃんにとまどう末摘花by町田康。尼となった女三の宮がみずからの生涯を昔語りする桐野夏生の柏木――ほかに松浦理英子の帚木、江國香織の夕顔、金原ひとみの葵、島田雅彦の須磨、日和聡子の蛍、小池昌代の浮舟、の九篇。

ISBN:978-4-10-380851-0  C-CODE:0093  発売日:2008/10/31

1,540円(定価) 在庫なし


残虐記

自分は少女誘拐監禁事件の被害者だったという驚くべき手記を残して、作家が消えた。黒く汚れた男の爪、饐えた臭い、含んだ水の鉄錆の味。性と暴力の気配が満ちる密室で、少女が夜毎に育てた毒の夢と男の欲望とが交錯する。誰にも明かされない真実をめぐって少女に注がれた隠微な視線、幾重にも重なり合った虚構と現実の姿を、独創的なリアリズムを駆使して描出した傑作長編。

ISBN:978-4-10-130635-3  C-CODE:0193  発売日:2007/07/30

649円(定価) 購入


魂萌え!〔上〕

夫が突然、逝ってしまった。残された妻、敏子は59歳。まだ老いてはいないと思う。だが、この先、身体も精神も衰えていく不安を、いったいどうしたらいい。しかも、真面目だった亡夫に愛人だなんて。成人した息子と娘は遺産相続で勝手を言って相談もできない。「平凡な主婦」が直面せざるを得なくなったリアルな現実。もう「妻」でも「母」でもない彼女に、未知なる第二の人生の幕が開く。

ISBN:978-4-10-130633-9  C-CODE:0193  発売日:2006/11/28

737円(定価) 購入


魂萌え!〔下〕

夫の愛人と修羅場を演じるなんて、これが自分の人生なのか。こんなにも荒々しい女が自分なのか。カプセルホテルへのプチ家出も、「あなたをもっと知りたい」と囁く男との逢瀬も、敏子の戸惑いを消しはしない。人はいくら歳を重ねても、一人で驚きと悩みに向き合うのだ。「老い方」に答えなんて、ない。やっぱり、とことん行くしかない! 定年後世代の男女に訪れる、魂の昂揚を描く。

ISBN:978-4-10-130634-6  C-CODE:0193  発売日:2006/11/28

605円(定価) 購入


冒険の国

永井姉妹と森口兄弟は、姉と兄、妹と弟が同級生同士で、常に互いの消息を意識してきた。特に、弟の英二と妹の美浜は、強い絆で結ばれていた。が、ある日、一人が永遠に欠けた。英二が自殺したのだ。美浜は、欠落感を抱えたまま育った街に帰って来る。街はディズニーランドが建設され、急速に発展していた。そこで、美浜は兄の恵一に再会する。バブル前夜の痛々しい青春を描く文庫オリジナル。

ISBN:978-4-10-130632-2  C-CODE:0193  発売日:2005/09/28

440円(定価) 購入


残虐記

失踪した作家が残した原稿。そこには、二十五年前の少女誘拐・監禁事件の、自分が被害者であったという驚くべき事実が記してあった。最近出所した犯人からの手紙によって、自ら封印してきたその日々の記憶が、奔流のように溢れ出したのだ。誰にも話さなかったその「真実」とは……。一作ごとに凄みを増す著者の最新長編。

ISBN:978-4-10-466701-7  C-CODE:0093  発売日:2004/02/27

1,540円(定価) 在庫なし


ジオラマ

ベルリンのガイドで生計を立てる、美貌の男、カール。地方銀行に勤める平凡な会社員、昌明。金のため男に抱かれることに疲れ始めた、カズミ。退屈な生活。上下運動を繰り返す、エレベーターのような日々。しかし、それがある時、一瞬にして終焉を迎える。彼らの目の前に現れた、まったく新しい光景。禁断の愉悦に続く道か、破滅の甘美へと流れゆく河か。累卵の如き世界に捧げる、短編集。

ISBN:978-4-10-130631-5  C-CODE:0193  発売日:2001/09/28

572円(定価) 購入