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 24:01 稲荷町-上野駅
 沖崎勲
(おきざき いさお)


     なにをやってるんだ、お前は!

 沖崎は、膝の上で拳を握りながら、自分自身を叱りつけた。
 いいか、これは、誘拐捜査だ。身代金目的誘拐の、その最も重要な局面なのだ。身代金を運んでいる被害者に同行し、犯人を捕らえるのが、お前の仕事だ。
 それがなんだ?
 こんな、脳天気娘と自己紹介などやってる場合か!
 平岡メイだ? なんだそれは。

 落ち着け……いや、落ち着け。
 沖崎は、自分に言い聞かせた。
 お前が熱くなってどうする。もっと冷静に対処しろ。
 たとえば、擬装だと考えればどうだ?

「…………」

 そう。と、沖崎はうなずいた。
 擬装、その通りだ。そう考えればいい。こんな脳天気娘と一緒にいるのが捜査員だなどとは、誰も思うまい。そう。彼女に、自分の名前を教えたのもそうだ。教えなければ、いつまでもこのメイは「刑事さん」と沖崎を呼ぶ。それは具合が悪いではないか。
 その通り。だから、自己紹介もやった。擬装なのだ。そう。そう。

「あのさ、ちょっと訊いてもいい?」
 メイが、肘で、ツンツンと沖崎の腕を突いた。
「あ? なんだ?」
「沖崎さん、奥さん、いる?」
「……なに?」

 沖崎は、思わずメイを見返した。
「結婚、してるんでしょ?」
「あ……ああ」
「だったらさ、奥さんと旅行とか、行くよね」
「…………」

 沖崎は、目を瞬いた。
「ハワイとかぁ、パリとかぁ」
「ち、ちょっと待ってくれ。いったい、何の話だ?」
「だから、旅行だってば。行ったりするでしょ?」
 い、いや……と、沖崎は自分の頬を掻いた。

「行かないの?」
「いや、旅行なんか、その……どうして、そんなことを訊く?」
「ぜんぜん?」
「……宮崎には」
「宮崎ィ?」
 メイが、素っ頓狂な声をあげた。思わず、沖崎は、ごくりと唾を呑み込んだ。

「宮崎って、あの、宮崎県の宮崎?」
「ああ……」
「海外は?」
「いや……ない」
「一度も? 奥さん、行きたいって言わない?」
「いや、だからその……それは、どういう話なんだ?」

 擬装だなどと考えたことを反省した。
 とんでもない。こんな娘と旅行の話なんぞしている擬装がどこにあるか!

 あのね、とメイが言いかけたとき、電車は上野に到着した。
 沖崎は、車内へ視線を巡らせた。
 正面のシートから、が立ち上がった。
「…………」
 降りる?
 男は、ドアの前に立って停車を待っている。続いてのほうも立ち上がった。
 ドアが開くと、男と女は、さっさと電車を降りていった。
 では、あの二人は無関係か――。

 そのドアから3人の乗客が乗り込んできた。長髪の若い男が一人。あとの二人は夫婦者だろう。長髪の男は、いま降りたばかりのカップルが座っていた席へ腰を下ろした。夫婦者ののほうは、沖崎の左のシートへ着き、はゆっくりとその隣へ腰掛けた。

 斜め前のサラリーマンの二人組は、中央の扉から降りていった。ネクタイを鉢巻きにしたヤツが出て行くと、そのあとにもう一人が続いた。
 後方のドアからも、さきほど稲荷町から乗ってきた奇妙な風体の男と、男の子を連れた若い母親が降りた。そのドアからは、男が二人、乗り込んできている。片方は、最後尾のドアの脇に立ち、もう片方の学生風の男は親子が座っていたあたりの席に着いた。

 下車7人、乗車が5人か――。

「たとえばさ、奥さんが、自分の貯金で旅行に行こうって言ったら、どんな気持ち?」
 メイが、いきなり言った。
 沖崎は、ギクリとして息を吸い込んだ。
「そういうのって、男の人は、イヤかなぁ」

 オレは、お前に話しかけられるのがイヤなんだ!
 沖崎は、叫び出したかった。

 ドアが、閉じた。


 
    平岡メイ  男    女  
    長髪の 
若い男
 夫    妻  
    鉢巻き男 もう一人 奇妙な
風体の男
    男の子  若い母親 片方
    学生風の男

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