なにをやってるんだ、お前は!
沖崎は、膝の上で拳を握りながら、自分自身を叱りつけた。
いいか、これは、誘拐捜査だ。身代金目的誘拐の、その最も重要な局面なのだ。身代金を運んでいる被害者に同行し、犯人を捕らえるのが、お前の仕事だ。
それがなんだ?
こんな、脳天気娘と自己紹介などやってる場合か!
平岡メイだ? なんだそれは。
落ち着け……いや、落ち着け。
沖崎は、自分に言い聞かせた。
お前が熱くなってどうする。もっと冷静に対処しろ。
たとえば、擬装だと考えればどうだ?
「…………」
そう。と、沖崎はうなずいた。
擬装、その通りだ。そう考えればいい。こんな脳天気娘と一緒にいるのが捜査員だなどとは、誰も思うまい。そう。彼女に、自分の名前を教えたのもそうだ。教えなければ、いつまでもこのメイは「刑事さん」と沖崎を呼ぶ。それは具合が悪いではないか。
その通り。だから、自己紹介もやった。擬装なのだ。そう。そう。
「あのさ、ちょっと訊いてもいい?」
メイが、肘で、ツンツンと沖崎の腕を突いた。
「あ? なんだ?」
「沖崎さん、奥さん、いる?」
「……なに?」
沖崎は、思わずメイを見返した。
「結婚、してるんでしょ?」
「あ……ああ」
「だったらさ、奥さんと旅行とか、行くよね」
「…………」
沖崎は、目を瞬いた。
「ハワイとかぁ、パリとかぁ」
「ち、ちょっと待ってくれ。いったい、何の話だ?」
「だから、旅行だってば。行ったりするでしょ?」
い、いや……と、沖崎は自分の頬を掻いた。
「行かないの?」
「いや、旅行なんか、その……どうして、そんなことを訊く?」
「ぜんぜん?」
「……宮崎には」
「宮崎ィ?」
メイが、素っ頓狂な声をあげた。思わず、沖崎は、ごくりと唾を呑み込んだ。
「宮崎って、あの、宮崎県の宮崎?」
「ああ……」
「海外は?」
「いや……ない」
「一度も? 奥さん、行きたいって言わない?」
「いや、だからその……それは、どういう話なんだ?」
擬装だなどと考えたことを反省した。
とんでもない。こんな娘と旅行の話なんぞしている擬装がどこにあるか!
あのね、とメイが言いかけたとき、電車は上野に到着した。
沖崎は、車内へ視線を巡らせた。
正面のシートから、男が立ち上がった。
「…………」
降りる?
男は、ドアの前に立って停車を待っている。続いて女のほうも立ち上がった。
ドアが開くと、男と女は、さっさと電車を降りていった。
では、あの二人は無関係か――。
そのドアから3人の乗客が乗り込んできた。長髪の若い男が一人。あとの二人は夫婦者だろう。長髪の男は、いま降りたばかりのカップルが座っていた席へ腰を下ろした。夫婦者の夫のほうは、沖崎の左のシートへ着き、妻はゆっくりとその隣へ腰掛けた。
斜め前のサラリーマンの二人組は、中央の扉から降りていった。ネクタイを鉢巻きにしたヤツが出て行くと、そのあとにもう一人が続いた。
後方のドアからも、さきほど稲荷町から乗ってきた奇妙な風体の男と、男の子を連れた若い母親が降りた。そのドアからは、男が二人、乗り込んできている。片方は、最後尾のドアの脇に立ち、もう片方の学生風の男は親子が座っていたあたりの席に着いた。
下車7人、乗車が5人か――。
「たとえばさ、奥さんが、自分の貯金で旅行に行こうって言ったら、どんな気持ち?」
メイが、いきなり言った。
沖崎は、ギクリとして息を吸い込んだ。
「そういうのって、男の人は、イヤかなぁ」
オレは、お前に話しかけられるのがイヤなんだ!
沖崎は、叫び出したかった。
ドアが、閉じた。
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