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一 暗夜



1


 厚い雲が月を隠すと、江戸の夜の(やみ)は、ずしりとのしかかるように重かった。
 前も後ろもない、うっかりその闇の中に踏み込んだら、そのまま落ちていきそうな、ひやりとする暗さ。その黒一面の中を、(ちょう)(ちん)の明かりがぽつりと、わずかに夜をわけて進んでゆく。
 先刻まで雲はときおり切れては、月の光の中、町屋の姿とわずかな風に揺れる木の影を、浮かび上がらせていた。
 だが、その青い光も隠れてしまえば、いっそう闇を濃く思わせるだけだ。北へ行けば(なか)(せん)(どう)に続く道を、急ぎ足でお堀の方角に下る。小さな手元の光は、持ち主の足元を照らすばかりで心もとなかった。右手にあるはずの、湯島聖堂の塀の白壁にさえ、それは届きはしない。神社の外壁が続く坂道には、夜商う振り売りがともす明かりもなく、すれ違う人の影すらない。犬一匹、追い越してはいかなかった。かすかな甘い香だけが、遠くないところに咲く花があることを教えている。
「遅くなってしまった。これでは()(きち)たちに、出かけたのが分かってしまう……」
 ため息と共に出されたその声も、濃い夜の中、行方しれずになりそうだ。提灯と連れ立っている足音が、暗闇にせかされるように、せわしない音をきざんでいる。
 そこに突然、声がかかった。
「若だんな、お一人なんですか?」
 柔らかな若い響きの、女の言葉。呼ばれた若だんなの歩みが、からめとられたかのごとくに、ぴたりと止まった。
「誰?」
 五つをとうに過ぎた刻限の、闇の中からの問いかけ。
 相手も分からず、常ならば身構えるだろうそれに向かって返された声は、大してこわばった様子でもない。手にしていた提灯が顔の(そば)に掲げられ、声が来た方を照らす。明かりは若だんなと呼ばれた者の、白い細面、(しま)の着物をかすめたが、他の姿を見せはしなかった。
 提灯が、闇を見据えるように、ゆっくりと上下する。
「私はその先の道の傍にある、お稲荷(いなり)様にお仕えしているもので……」
 再び漆黒から言葉がわく。その(つや)のある話し声に、かすかに鈴の音が重なっていた。はかない音色を聞いた若だんなの口元に笑みが浮かび、体の固さがとれていく。
(つく)()(がみ)! 鈴彦姫か」
 誰ぞに稲荷に納められたのだろうか、鈴が化して(あやかし)と成ったものは、(けん)(ぞく)の中では鈴彦姫との名で呼びならわされていた。器物が百年の時を経て成る(よう)(かい)、付喪神という。この世の尋常のものから、一つ離れた存在だ。
 だが、そんなものに声をかけられたというのに、いぶかしむでも怖がるでもない。若だんなは人の身で付喪神の名をあっさり言い当てると、それ以上は気にする様子もなく、また提灯をめぐらせて夜道を急ぎ始めた。
 その足元の闇の中、先ほどのうら若い声が付いてくる。
「なぜ今日は、(いぬ)(がみ)さんも(はく)(たく)さんもお供していないのですか? こんな月のない夜に、危ないことで……」
「おや、お前、二人を知っているのかい?」
 わずかに驚いたような声が返る。おもしろがっている風でもあった。
「ここいらの妖ならば、たいていの者は存じ上げております。私のような小妖怪とは比べものにならないくらい、力の強い(かた)(がた)ですから」
「今日は二人に付いてきてもらう訳にはいかなかったのさ……そう、少し散歩に出ただけだからね」
「この闇の中をですか? こんな刻限にですか?」
 付喪神の声が低くなる。明らかに信用の二文字が欠けた返事だった。
「本当は、()()やの具合が悪くて、見舞いに行っていたのさ。いや、この言い訳はまずいか。乳母やはぴんぴんしているのに、怒られてしまう」
 自分の言葉を言った先から否定して笑うと、また別のことを言いはじめる。
「実は遠くにいる兄さんに会いに行ったのだよ。それで帰るのが遅くなった」
「からかっちゃぁいけません。若だんなは一人っ子じゃありませんか」
「知っていたのかい? 物知りだね」
 のんびりとした返事に、鈴彦姫の声が少しばかりとがった。
「そうやってごまかすところをみると、お二人には内緒で()(しゅつ)なさったんですね? はめを外して、本当に危うい目に遭っても知りませんからね」
窮奇(かまいたち)と鉢合わせして、切りつけられるか? それとも(じゃ)()に見つかって、夜の中を引き回されるか?」
 今度は、はっきりと笑いをふくんだ声に、鈴彦姫は語気を少し強めた。
「若だんな、笑い事じゃぁ、ありません。妖の中には、(たち)の悪いのもいるんですから。今日は私がお店までお送りしましょう」
「この坂を過ぎれば、いくらも行かないで(しょう)(へい)(ばし)に出るよ。渡って(すじ)(かい)(ばし)()(もん)からは繁華な(とおり)(ちょう)だ。夜鳴き()()も麦湯の店も出ているだろう。心配ないよ」
「そんな風におっしゃったって、離れませんよ。ここで若だんなをひとりで行かせたら、犬神さんや白沢さんに後で何て言えばいいんです? 大体、一番危ないのは……」
 言いかけた鈴彦姫の声の端が、すうっと夜にとけて消えた。
 その沈黙が、若だんなの足を止める。
「どうした?」
「……急に、血の(にお)いがしてきたんです」
「どこから? 分かるかい?」
「たぶん、その先の……右手の路地辺りから」
 聖堂の塀はすぐ先で暗闇に包まれていて、小道のありかも分からない。提灯を向けてみるが、光が届かないのは相変わらずで、黒く夜の壁が立ちはだかるだけだ。
「若だんな、行きましょう。血の臭いなんて気味悪いですよ」
「ああ……」
 気にはかかったが、木戸が閉まる四つまでには店に帰っておきたかった。提灯の灯を足元に向けると、振り切るようにまた道を急ぎはじめる。
 そのとき。ほんの二、三(げん)後ろから、という気がした。首筋のうぶ毛が総毛立つほど、思いもかけない近さで、人の声がしたのだ。
「香りがする……する、する……」
 思わず振り返った若だんなの提灯の明かりの先に、男と分かる姿が見て取れた。それよりもはっきりと分かったのは、その男の手元に不気味に光をはじくものがあることだ。
(短い。刀じゃないな)
 とっさにそれは判別できた。だがひと安心とは到底いきそうもない。今度は鈴彦姫に言われるまでもなく、若だんなの鼻にも血の臭いが届いていた。
「寄越せ……寄越せ……」
(物取りか!)
 分かったとたん、(あわ)てて駆け出したものの、足に自信はまったくない。おまけにこの暗さの中、提灯の明かり一つでは、死に物狂いで駆けると必定転びそうだった。(ぞう)()が石を踏んで体がよろける。提灯を持っていないようなのに、(たが)えずにすぐ後を足音が追ってきていた。鈴彦姫が泣き声を上げる。
「若だんな、あたしにはあいつから若だんなをお守りする力は、無いかもと……」
「分かっている。お前は鈴だもの。しかしまだ追ってくるよ、しつこい(やつ)だね」
 しゃべると息があがる。振り向くとそこに夜盗がいそうで、身が震える。
「提灯ですよ。その明かりを追ってきているんです」
 聞くなり、(ゆい)(いつ)の明かりを吹き消した。若だんなはとっさに、光がなくなる前に目に入った右手の路地に走り込み、道の傍に身を寄せてしゃがみこむ。後ろに張りついてきた土塀の冷たさが背中を()って、ぞくりと震えが走った。手がかりの明かりと足音が消えて、もう己の手の先も見えない闇に包まれ、追っ手の足も止まったようだった。辺りを手さぐりで探している様子が感じられる。
(若だんな、ここにいてもそのうち来るだろうし、逃げ出せば足音で居場所が分かる。見つかっちゃいますよう)
(もっと声を小さくして!)
 二人は吐く息の音すら何とか抑え込んで、必死に気配を消す。しかし付喪神に言われるまでもなく、このままで逃げきれるとは到底思えない状況だった。足音が少しずつ近づいて来ている。血の臭いと肌を(あわ)()たせる感触が、そこまで迫っていた。
 このままでは……。
 若だんなが連れの方を振り向いた。(とこ)(やみ)の中、見えはしなかったが。
(鈴彦姫、お前この辺りのお稲荷様にお仕えしていると言っていたよね。近くにお稲荷様があるんだね?)
(そうです。このすぐ先の……)
(妖は耳が良い。ならば呼べるかもしれないね。運が良ければ、だ)
(は?)
(まずいことになったら、お前だけ逃げるんだよ。妖の身ならできるだろう)
 その物言いに驚いたが、くわしい話を聞く暇もない。若だんなはせっかく隠れていた塀の隅から、なにを思ったか突然大きな声を闇に向かって上げた。
「お稲荷様にお仕えする身なら、この声を聞いておくれ。来い、来い、来い、ふらり火! 頼むから!」
(若だんな、どうして……)
 鈴彦姫がこわばって震える。(まど)っていた人殺しの足音が、すぐに二人に向いた。(ひいっ……)妖の小さな悲鳴が重なる。
 その男は路地の近くまで来たようだった。もうそれほど離れていない。ほどなく人の気配が感じとれるほど、側に来るに違いなく、そして……。
 不意にぽかりと明かりが向かいの土塀の上に浮んだ。
 白い光の玉だった。
 闇の中で目にまばゆい。大振りな提灯ほどの大きさで、自在に飛べるらしく、ゆっくりと上下している。その明かりの中に、羽が見えて、足がある。真ん中に犬のような顔が浮んでおり、かしこそうな黒い(ひとみ)がきょろりと動いて、眼下の人影をとらえた。
(呼んだか? 若だんな)
(ありがたい、来てくれたか……。夜盗に追われて困っている。ふらり火、お前の光で誘って、あいつをどこぞに連れ去ってくれないか)
(ああ、こっちに来るあいつか。嫌だねぇ。血の臭いをさせているよ)
 すでに明かり目指して近寄ってきていた男の少し前を突っ切り、ふらり火が低く飛んでゆく。闇一面の中、男はそのいざないに釣られた様子だった。
「逃がしはしない! 逃がすものか!」
 声と共に、男の足音が離れだす。早くなり細くなって、急速に遠ざかっていった。
「やれやれ、何とか逃げることができたね。怖い怖い」
 わずかに間を置いて、ほっとした声。若だんなの口調はまだ、固かった。
「ほんとに(いと)わしい。行き合って間が悪いことでしたね。まだ血の臭いが濃く残ってますよ。あいつ何をやったんだか」
「こっちの顔、見られただろうか?」
「この暗さですからね。分かっちゃぁいないと思いますが」
 若だんなは立ち上がって着物の(すそ)を適当にはらった。土塀の隅にしゃがみこんでいたのだから、着物を汚しているかもしれないが、まだ明かりの無いなか、着ているものの縞模様すらろくに見えない。困ったように手の中の(ちょう)(ちん)を振った。
「しばらくは、これを使っちゃぁまずいかな。あいつが引き返してきたら困るしねぇ」
「まったく、妖より恐ろしいのは人でございますよ。先刻私が申し上げたかったのは、そのことで」
 鈴彦姫は確信をもって言ったあと、若だんなの着物の(そで)をちょいとつまんだ。
「火はつけられないが、この闇の中じゃぁ、何も見えない。若だんなは歩けないでしょう。あたしが提灯代わりに、若だんなをお連れしますよ。なに、もう少しで橋に行き着きますから、明かりもそこで(とも)せます。それまで」
「そうだね。お願いするかな」
 二人は連れだって、入り込んでいた路地から(ひと)()のない聖堂沿いの道へ戻っていく。すると、広い道に着くか着かないうちに、不意に雲が切れて、夜の景色が辺りに戻ってきた。張り切っていた鈴彦姫の残念そうな声に、若だんながおかしそうに礼を言う声が重なる。
 だが辺りがうかがえるようになって、首を回した両人の声は、すぐに途切れた。言葉にならない驚きが、淡い月光と共に、その体を包む。
 二人の視線の先、今しがたたどってきた路地の奥、ほんの十何間か先に、土塀と寄り添うように、三本の松の木が生えている。その根元の間に押し込まれるように、五十(がら)みの男が転がっていたのだ。両の手を松の幹にもたれかけさせて、足は駆けている風に開いている。遠目には踊っているみたいにも見える格好だった。
 だが、男はわずかも動いてはいなかった。ざっくりと切られた首筋から流れた血が、月の光の下、暗い赤で着物を染めている。濃い臭い。ついさっきまで自分達を追いかけていた男の、その手の中でぎらついていた物を、己の首筋辺りに感じさせる異臭だった。
 若だんなは思わず口元を押さえていた。

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2


「本当に、人を呼ばなくてもよかったんだろうか」
 月の顔が見えて夜道は歩きやすくはなっていたが、足取りは重くなっている。歩きながらも迷う言葉が思わず口に出る。その思いを断ちきるように、鈴彦姫の声が決め込んだ。
「あの人はもう死んでいました。若だんなだって、確かめたじゃぁないですか」
「それは分かっているけど……」
「なら、あしたの朝、誰か別の人に見つけられたって、全然不都合はありませんよ。死人がちょいと起き上がって、寒かったって文句言うはずないですからね」
「でも、あの男の家の者が、心配しているよ、きっと」
「若だんな、()けてもいいですけどね、(いぬ)(がみ)さんも(はく)(たく)さんも今ごろ若だんなのこと、血相変えて探してますよ。騒ぎに巻き込まれて、これ以上帰るのが遅くなるのは、まずいんじゃないですか?」
「職人みたいだったね、死んでた男の格好」
 聖堂前の坂を過ぎ、橋にかかってもまだ、若だんなの気持ちから先刻の出来事が離れないようだった。(しょう)(へい)(ばし)に近づけば橋番もいる。鈴彦姫も黙り込んで影の中を追うのみだ。
 橋の手前でつけた(ちょう)(ちん)の灯は、足元を照らしながら、ゆるく弧を描いて進んだ。橋番の小屋の前を抜け、少しばかり開けた場所に出ると、先に夜目にも黒々と(おお)(だな)(かわら)屋根の連なりが影となって見えた。これでひと安心と、ほっと息が漏れた。
 今ならまだ開いているはずの木戸へと足を向ける。だがかなり手前で、目の前に並んだ二つの提灯に行く手を(ふさ)がれた。
「あ……の、いたのか」
 月明かりの下でさえ、提灯を持って前に立っている二人が、渋い顔をしているのが見て取れる。向かい合った三人の言葉が続かない中、足元の暗がりから取りなすように、割って入る声があった。
「犬神さん、白沢さん、お久しぶりでございます。鈴彦姫でございます」
 呼ばれた二人の顔が、瞬間、一層の険しさを帯びた。
「その名を呼ぶな! 誰が聞いているやもしれないだろうに」
「申し訳ありません、今は……手代でいらっしゃるんでしたっけ」
「佐助、()(きち)、迎えに来てくれたのか」
 見つかるかもとの不安の中にいるよりも、事が起こってしまえばいっそ落ち着くのか、あっさりと若だんなが(そば)に寄っていく。すると、二人の手代は(りょう)(わき)から守るように、その細い姿に寄り添った。
「こんな夜に、どこに行っていたんです?」
 早々に聞いてきたのは、佐助……鈴彦姫が犬神と呼んだ方だ。
 六尺とはいかないまでも、背の高い偉丈夫で、実際大層力が強かった。そのおかげで父の店、(かい)(せん)問屋長崎屋に出入りの()()たちにも一目置かれているらしい。顔もごつくて(にら)みがきく。今もその目でじっと若だんなを見下ろしていた。
 だが答えなかった。
 器用にその強い視線を外して、返事をしないまま歩き出そうとする。だが、今度は仁吉が目を合わせてきて、先にはいけなかった。
 仁吉……白沢と呼ばれた手代は、切れ長の目といい、整った顔立ちといい、呉服屋の店先にでも置いておけば、反物の売り上げも上がろうという色男だ。()(きゅう)(ねずみ)(しま)の着物なぞ着こなして得意先を回れば、帰りには付け文が(たもと)をにぎわせる。
 だが今日のように、聞いて欲しくないことがあるときは、仁吉の方がごまかしにくい。思わずこみ上げてきたため息を押し殺していると、目の前の白い顔が、にこりと笑った。
 若だんなには覚えのある笑い方で、あんまり見たいものではない。朝焼けの後は雨なのと同じで、その後に小言が山盛りで来ること、請け合いだからだ。
「若だんな、佐助が()(しゅつ)の理由を聞いているでしょう? おや、言いたくないんですか? それは……」
 話をしていた仁吉が突然言葉を切る。その顔つきが、みるみる引きつった。
「血の(にお)いがする! 一太郎ぼっちゃん、()()をしたんですか?」
「もう、ぼっちゃんはよせと言っているのに! いつまでも子どもじゃぁないんだから」
「怪我!? どこに?」
 言い返した若だんなの言葉なぞ聞いてもいない。あっと言う間に佐助の手が伸びて、赤子のように軽々と抱え上げ、傷の有無を確かめにかかる。
「怪我なぞないわ!」
 思わず声を上げたが、こうなると手代たちは、確認するまで引き下がりはしない。
 幼い日、祖父に連れられた二人が、寝ついていた一太郎の(まくら)(もと)に来て(あい)(さつ)をした。二人とも十ばかり。幼く見えたが、廻船問屋長崎屋に奉公するという。祖父に仕込まれ、店で暮すようになった二人の態度は、その日から一貫している。
 一太郎がとにかく第一で、二からが無いのだ。
(おじい様が、この子を頼む、守れと言い残したりするから)
 実際にあの日から、一太郎の周りには、夜となく昼となく不可思議な者たちが、添うようにいる。佐助は母のおたえよりも長く、病で寝込みがちの一太郎に付き添っていた。仁吉は一太郎にはいない兄代わり、商売で忙しくて側についていられない父の代わり、(じい)やそのもの、(やく)(しゅ)の商いを切り回してもらっている片腕だ。
 いつもいて、側にいて、息苦しく感じ、守られてきた。
 だが、(あやかし)の感覚はやはり人とは微妙にずれていて、今日のように困ることがある。
「犬神……じゃぁなかった、佐助さん。若だんなは傷なぞ負ってはいませんよ。道の途中で人殺しと行き合ったものだから、臭いが移ったんでしょう」
 困った顔の若だんなを助けるつもりだったのだろう、鈴彦姫が影の中から口を挟んだ。
「鈴彦姫、お前、それは……」
 そのことは黙っていてくれと、店に入る前に、気の良い小(よう)(かい)に、念を押しておくつもりだった。うっかり夜道で、危ない目に遭ったなぞと言おうものなら、今夜の一人きりでの他出に対するお小言が、かゆにした米みたいに膨れ上がること間違いなしだからだ。
「人殺し……!」
 手代たちの視線が、一太郎のたどってきた道を、木戸から橋へとすばやく走った。
 雲が流れて、月を(おお)ってきていた。また(やみ)の勢いが増してくるなか、目に入るのは、橋の(たもと)辺りに、二八()()の振り売りと、(うま)そうに蕎麦をたぐっている客が一人。その手前に少々気の早い茶飯売りが、のんびりと煙草(たばこ)をふかしながら腰を下ろしている。
 他に人影も刃物のぎらつきもない。ただ、一段と暗くなってゆくだけだ。
 佐助はゆっくり振り返ると、
「鈴彦姫、ご苦労だった、もう帰れ」
 小妖怪にはやさしげに告げる。
「早く店に入るのが、上策でしょう」
 仁吉も一太郎の背に手をかけて促した。やっとまた、木戸の方へ歩き出した一太郎だったが、すぐに足を止めると振り返って、小声でささやいた。
「鈴彦姫、今日はお前がいて助かったよ」
 すぐに澄んだ音色が、かすかに伝わってくる。妖が返した情味のあるいらえは、夜の中未練げにとけていった。

 江戸の大店の軒下、大戸を立てた外側は、夜になると道として使われている。夜なべの仕事でもあるのか、まだ起きている家からの明かりが、所々この通路にこぼれている。こちらのほうが少しは明るいことと、暗い中、通りにある(てん)(すい)(おけ)などにぶつかっても(けん)(のん)なので、一太郎たちはこの一間ほどの幅を通っていった。
 (すじ)(かい)(ばし)()(もん)前から()()町を通り、そのまま()()ぐ日本橋を渡る。さらに道なりに歩めば父親の店、長崎屋に行き着く訳だが、一太郎は先ほどからずっと、何とも居心地の悪い思いにかられていた。佐助も仁吉も、口をきかないのだった。
 駄目だと言われていた夜の(そと)()をした上に、二人の顔を引きつらせるような物騒な者に出会ってしまったのだ。それみたことかと、口うるさい説教を海の波のように繰り返し繰り返し、道すがらにぶつけてくるかと思っていれば、言わず語らず、一言も無い。
 初めは説教がなければその方がありがたいと歩んでいた若だんなだったが、()()(たたみ)(おもて)の大店の立看板の横を過ぎる頃になると、総身を走るむずがゆさに、口を閉じていられなくなってきた。
「佐助、仁吉、聞こえているかい?」
「何です? 若だんな」
 佐助の返事はそっけない。
「何で一言も無いのさ。お説教が待っているのかと思ったのだけど」
「小言が欲しいんですか?」
「そうじゃぁないよ。ただ、妙に黙っているからさ」
「こんな町中で、若だんなをどやしつける訳にはいかないでしょうが」
 そう言って振り向いたのは、一歩先を歩いていた仁吉で、顔の下から提灯の明かりが当たっているせいで、顔が(すご)()をおびている。
「お店が見えてきました。帰ったらたんと、今日のことを話していただきますからね」
 京橋もほど近いところに、瓦の屋根に(しっ)(くい)の壁、土蔵作りである長崎屋の店が、大きな影となって姿を見せていた。(じっ)(けん)もある間口は他の店と同様、すでに固く立て切られている。仁吉が通用口の前に立つと、小僧を呼んだ風も無いのに、戸口が中から開いた。
「お帰りなさいまし」
 帰宅したところを出迎えたのは、鳴家(やなり)という妖だった。身の丈数寸というところの小鬼だ。家の中のあちこちで、(きし)むような物音を立てる他は、これといって何をする訳でもない。一太郎の部屋には幾人(いくたり)もが姿を見せ、時には茶菓子などを(もら)ってゆくのだが、不思議なことに、家の者がこれを見かけたと聞いたことがない。
 三人は店の横手から、裏庭の小さな稲荷(いなり)の前を通って、そのまま若だんなが寝起きをしている、以前は隠居の住まいだった離れに向かう。長崎屋の店の方から、誰ぞが起き出してくる気配はなかった。
「おとっつぁんには、他出のこと言っていないの?」
(だん)()様にそんなことを言ったら、大騒ぎですよ。店の者総出で、夜の中を探し回ることになりますからね」
 言われてみればその通りで、心配性の父親に見つかりたくないのは、一太郎も同じだった。ついでに手代にもそうとは知れないように、手を打っておいたつもりだったのだが。
(どうしてばれたのやら)
 理由が分からないまま、一つ首をかしげて風雅な離れに上がる。建物のあがりはなにある柱は、()年に作ったからと、くねる蛇の様子を写した形のものだったし、(つい)(たて)には祖父の友人だったという浮世絵師が、酔って描き散らしたという、(すずめ)が遊ぶ姿があった。
 だがこの夜の離れに(おもむき)は縁がないようだった。()()に使っている十畳間の(ふすま)を開けると(あん)(どん)がついていて、畳の真ん中、(てつ)(びん)のかかった火鉢の横に、()い巻きで巻かれた上から(ひも)をかけられた妖が転がっていた。
 上からも周りからも、数多(あまた)の小鬼達がそれを押さえ込んでいて、身動きもできない状態だ。
(びょう)()のぞき……お前、見つかっていたのか」
 古い屛風が化した(つく)()(がみ)は、部屋の隅に置かれている屛風の絵そのままに、市松模様とあだ名のついた、派手な(いし)(だたみ)(もん)の着物をぞろりと着て、役者絵のような姿を見せる。人型をなしていたので、若だんなはこれまでも時々、身代わりを頼んでいた。
 長崎屋の大甘の主人夫婦は、寒いと言っては一人息子を店から出さず、暑いと言っては他出は体に(さわ)ると止める。くしゃみでもしようものなら、目と鼻の先の、菓子屋に行くのでさえ良い顔をしないのだから、若だんなは(ごう)を煮やして何とか抜け出そうとする。
 さいわい暖かくして寝ていれば、親達は安心しているようだった。それではと、搔い巻きを屛風のぞきの頭からかぶせて身代わりに寝かせては、一太郎は()(はる)()に菓子を食べに行ったりしていたのだが……。
「若だんなが常々屛風のぞきと成り代わっていたこと、あたしらが気づいていないとでも思っていたのですか?」
 佐助が若だんなを、()(とん)巻きの前に座らせる。小鬼達が梅模様の搔い巻きの上から引いて、薄暗い部屋の隅に散った。
「とうに知っていたの?」
「甘い物を食べに行くくらいかまわないと、見逃していたのがいけませんでしたかね」
 仁吉が一太郎の正面に、たいへんきちんとした姿勢で座った。若だんなはため息をついて、()()(まき)の格好に巻かれた布団を指さした。
「ねえ、出してやってくれないか。私が頼んだことなのにこのままじゃぁ、胸が痛んでいけないよ」
「頼まれたからって、体の弱い若だんなを夜歩きに出すなんて、論外ですよ」
 仁吉の返事には険があった。
「こやつは勝手を楽しむ(くせ)がある。(なま)(なか)なことじゃぁ、悔い改めたりしませんからね」

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「いっそ、この格好のまま、井戸にでもつるしておきましょうか。一晩もすりゃぁ、少しは後悔しようってもので」
「佐助、それは使える考えだよ。ねぇ」
「やめておくれよ。元もとが紙なんだもの。水に落ちたら、ほどけて溶けてしまうよ」
 若だんなは(ひざ)の前の畳の目を見ながら思う。仁吉も佐助も一見、屛風のぞきを怒っているようで、実は一太郎のことを器用に責めている。済まなかったの一言で二人が引き下がる当てもなく、それでも謝るしかないことに、かなりなところうんざりしていた。
「勝手に出かけて悪かったよ。屛風のぞきを代わりに立てたことも、気がとがめているよ。だからさ……」
 精一杯困った顔を手代に向けて、力なく笑ってみせる。自分は悔いているんだよ、怖い思いもしたよ、だから疲れてもいるし、お願いだから、そう険しい顔をしないでおくれ、と。
 いつもなら佐助なぞ、この辺であきらめて笑ってくれるのだが、今日はやけに慎重な手つきで、鉄瓶から湯を注いで、茶を()れてくれただけだった。話の方は仁吉が続けた。
「他出の理由は後できっちり聞くとして。若だんな、人殺しに行き合ったんですって?」
「うん……話すから、さ。屛風のぞきを許してやってよ」
「しょうがないですね」佐助の手が搔い巻きを縛っている紐の端を引っ張ると、あれほど幾重にも巻かれていた(いまし)めがはらりと解かれて落ちた。中から現れた派手な妖は、手代たちを(にら)みつけると、「ごめんよ」という若だんなの声にも答えずに屛風に戻っていったので、仁吉が不機嫌な顔をまた新しく作ることとなった。
(この分じゃ屛風のぞきが絵の中に収まっているうちに、焼き払ってしまえとでも言いかねない気配だね)
 こうなったら、お白州に引き出された罪人より神妙にしないと、手代たちの()(けん)のしわが取れそうもない。一太郎は湯島聖堂前の土塀にはさまれた坂道で、刃物を持った男に追われた話を、漏らさずすることとなった。
「追ってきたその人殺しは、間違いなく男だったのですね」
「そうだよ。がっしりした体つきに見えたね。町人だと思うよ、あれは」
「暗くて、周りが見えなかったと言っていたのに、よくそこまで分かりましたね」
「そりゃぁ、必死だったもの。あいつ、しつこく追ってきたからね」
「若だんなの前に立った時はもう、松の木の根元にいた男を、殺した後だったんですね」
「そうさね。その前から血の(にお)いがしていたし。鈴彦姫が気がついたんだよ」
 話すにつれて、少しは和らいでくるかと思っていた手代の表情が、ますます曇ってゆく。考えを巡らすように湯飲みからひと口茶を飲んで間をとると、しぶい顔で言った。
「まずいですね。若だんな、顔を見られたかもしれませんね」
「えっ……」
 突然仁吉に言われて、一太郎は戸惑いの表情を見せた。あの場を逃げ切ったことで、人殺しとの縁は切れたつもりでいたのだ。
「あのね、本当に暗かったんだよ。(ちょう)(ちん)を持っていても、いくらも先が見えなかった。私だってそいつの顔までは、見ちゃぁいないよ」
「その男は自分の提灯は持っていなかった。そうですね?」
 佐助が横から口を挟む。こちらも苦い(やく)(とう)を飲んだ後のような顔だ。
「では、明かりは若だんなの手元にあった提灯一つだ。若だんなの姿が一番明るく見えたはずです。そいつは顔を覚えたかもしれない」
「それでなくとも提灯には屋号があったはずです。薬種、長崎屋、と。これは顔よりも見やすい」
 と、仁吉。
「すぐに吹き消したんだけど……」
 一太郎は、また畳に視線を落とした。行灯からはなれた部屋の周りの暗がりで、小鬼達が小さな声を盛んに立てている。思っていたよりまずいことになっていると、じわじわと()み込めてくる。仁吉達は一太郎の身を案ずべき、(けん)(のん)な事態だと思っているのだ。
「あたしがその人殺しなら、若だんなを放っちゃぁおきません。こいつが人殺しだと、お役人の前で言われるかもと思うと、きっと夜も眠れない」
「私は顔を見ちゃぁいないのに……」
 一太郎の声に力がない。言われてみればそのとおりで、言い返す言葉が見当たらない。
「そんなこと、下手人には分からないでしょう?」と、仁吉。
「でも人殺しが必ず私の顔を見たとは限らないよ。とっさに提灯の字を読んだとも決まってないじゃないか」
「どっちが真実だか、そいつの腹の中をここで見抜くことはできませんよ。だから人殺しが捕まるまで、若だんな、今度こそ何があっても家から出ないで下さいましよ」
「そんな。いつまでかかる話なんだよ」
「八丁堀の旦那にお尋ねして下さいまし。岡っ引きの(せい)(しち)親分さんなら、どんなお調べの様子か、聞けば少しは教えてくれるやもしれません」
「捕まらなかったら、どうするんだい? ずっと家にいることなんか、できやしないよ」
 一応文句を言うが、佐助も仁吉も聞く耳持たずといった()(ぜい)で、今後のことについて話をしている。
(おもしろくないね)ではといって二人の話し合いに口を出す程の代案がある訳ではない。ただこの身の危険と言われたこととて、何とも実感に乏しかった。そうしている間に手代たちの間で考えがまとまったらしく、仁吉が若だんなの方に身を向けた。
「とりあえず見知った(あやかし)に、殺された男のことを聞いて回ってもらうことにしました」
 単なる夜盗だとしたら、下手人を知るのは難しい。だが物取りではないかもしれない。恨みによる殺しなら、下手人は殺された男の知り人だ。
「どっちにしても物騒この上ない話です。若だんな、しばらくは本当に気をつけて下さいよ」
「うん、分かっているよ。大丈夫、おとなしくしているから」
「では人殺しのことは、今日はここまでで」
 やっと説教が終わったと、若だんなはさっそく羽織を脱いで寝間着に着替えはじめた。仁吉がすぐに着なれた木綿の寝間着を差し出し、着物を受け取ってたたむ。佐助が後ろで乱れていた布団と搔い巻きを丁寧に敷きなおしている。
「それじゃぁお休み」
 そう言って眠ろうとするが、佐助が手に(まくら)を持ったまま、置こうとしない。
「若だんな、寝る前にもう一つ、言うことがあるでしょう?」
 火鉢の火の始末をしながら、仁吉がちらりと若だんなの方を見る。
「どうして夜に外出なんかしたんですか?」
「息抜きしたかったんだよ。だって(せん)(のど)()らして以来、まだ寒い、(ほこり)っぽいって出してくれないんだもの」
「それは分かるんですがね」
 仁吉はどうにも納得がいかないらしく、またきっちりと(ひざ)(そろ)えて若だんなの方を向く。佐助が一太郎の肩に羽織をかけてきた。その暖かさに、この話が終わるまで二人が引かないつもりだと知れた。
「それで三春屋にわらび(もち)を食べに行ったとか、まだ残っている八重桜を見に行ったとか、それなら分かります。若だんなも十七なんだから、もしかしたら(よし)(わら)へひやかしに行きたくなるということもある。三春屋の(えい)(きち)さんに連れていってと頼むとかね。そうだったら、こうは聞きはしないんですがね」
 仁吉の目が()()ぐに自分に向いている。その強さを感じて、若だんなは顔をあげなかった。ほとんど布団と(にら)めっこの風で、同じことを繰り返す。
「だから違うことをしたかったんだよ。夜歩きなんかしたことないからさ」
「それなら何で人っ子一人いないような、夜の聖堂(わき)になんか行ったんですか? 麦湯を飲むなり()()をたぐるなり、夜を楽しむなら妙な方角だ」
「初めてだもの、どっちへ行ったがいいかなんて、分かりゃぁしなかったんだよ」
 妖には、(ぬか)(くぎ)の感じがしたに違いない。得心がいかない様子の仁吉がさらに言葉を重ねようとしたとき、唐突に部屋にいた小鬼たちが姿を()き消した。
 仁吉も佐助も一瞬身構える。だが離れに入ってくるその足音で、訪れたのが誰か分かったらしく体の力を抜き、部屋の隅に座りなおした。
「一太郎、まだ起きていたのか」
 (ふすま)を開けるなり、そう心配げな声を出したのは、長崎屋の主人(とう)()()だ。今年で五十二を迎えたとは思えない力強さを感じさせる男で、五尺五寸の背丈がある。店や町内での評判は大体のところで大層よい人物だった。
 何もかもとはいかないのは、おかみも含めて長崎屋の主人夫婦は子どもにとんでもなく甘いと(うわさ)が立っているからだ。口の悪い近所の呉服屋の主人が、長崎屋が一太郎を甘やかすこと、大福餅の上に砂糖をてんこ盛りにして、その上から(くろ)(みつ)をかけたみたいだと言ったことがある。
 金もある、大いに甘い親もいるで、これでは息子が勘当間違いなしの極道者になってしまいそうなものだったが、その息子はしょっちゅう寝込み、時々死にかけていて道を外す暇がない。そのことがまた長崎屋の親心に訴えると見えて、息子への哀れは一層ますのだった。
「もう四つになるじゃないか。早く寝ないと体に(さわ)るよ」
「驚いた、おとっつぁんこそ、もう寝ているとばかり……」
 見れば藤兵衛のいでたちは松葉模様の寝間着に羽織をはおったもので、寝支度は済んでいる。
(かわや)に行ったら、離れから明かりが漏れているのが見えたから、来てみたんだよ。佐助、仁吉、一太郎をもっと早く寝かさなきゃぁ駄目じゃないか」
「申し訳ございません」
 二人の妖はそろって頭を下げた。手代として両人とも、日ごろからちゃんと主人は立てている。だが、
(なにか、死んだじい様に対する態度と違う……)
 一太郎にはそう思えて仕方がなかった。
 そんな考えのよりどころは、仁吉達が父に妖の性を見せていないということで、長崎屋は普通の奉公人として二人を扱っている。父は婿(むこ)に来たもので、長崎屋の血は引いていない。そのせいなのかと、若だんなは不可思議に思っている。
「お前、前の冬に(なが)(わずら)いをしたばかりじゃないか。お願いだから体を大事にしておくれ」
「おとっつぁんそれ、もう三月も前の話だよ。心配ないってば」
「そんなこと言ってこの前の夏みたいに、生きるか死ぬかの大病をしたらどうするんだい?」
麻疹(はしか)には二度はかからないよ」
 どう返事をしても、結局心配なのは変わらないらしく、一太郎はその場で寝床に追い立てられた。仁吉達もこうなってはいつまでも問答を続ける訳にはいかず、(あん)(どん)の灯を落とすと、藤兵衛に続いて部屋を出る。後にはまた手の先も見えない(やみ)が残った。
 ほっと一つ息をつく。やっと横になって体を休めると、何とも大変な夜だったように思えて苦笑いが浮んだ。
(佐助たちは人殺しの話ばかりしてたね)
 一太郎にとって、この後どんなに困ることになろうとも、殺しの場に行き合ったことはある意味ありがたかった。聞かれたくないことは、他にあったからだ。手代たちはまた襲われたらどうするのかと騒いでいたが、そんなことになるとは、とても思えなかった。
 あの闇の中でまいたのだ。もう一度あの下手人と会うことなぞ、あるはずもない。
 寝返りを打つと、(たもと)に手を入れる。着替えるときに移しておいた書き付けを(つか)むと、かさりと(かす)かな音がした。()(とん)の中ですぐに、にぎりつぶす。書いてあることはもう頭に入っていて読み返すまでもなかった。明日、佐助たちに見つからないように、火にくべてしまわなければならない。
(はぁー……)
 思わずこぼれたため息に(あお)られたように、ぞろりと闇の中で妖の気配が動いた。若だんながまだ眠りについていないと見て、うかがっているのだ。
 それでも言葉をかけずに横になっていると、あちこちから妖達の話が小さく聞こえだした。一応押し殺した声ではあるものの、口にしている内容は今日の若だんなのことで、どうにも評判はよろしくない。
(ふらり火に助けてもらったらしいよ)
(あれが都合よくお助けできるところにいて、よかったこと)
 何とも耳に甘い声がするのは、琴の妖、(こと)(ふる)(ぬし)まで出てきているからだろう。
(離れたところにいるふらり火を、若だんなが大声で呼ばわったんだ。声が届いてめっけ物だったってことさ)
(それは危ないことを!)
(そうさね、誰が聞くかも分からないのに危ういことを)
(妖が皆、若だんなの味方とは限らないのに)
 闇にひそむ者たちの声は更に(ひそ)やかになって続く。
(いやいや、どんな妖が来るにしたって、人よりはましさね。怖いのは(やっこ)だよ)
(一番怖いのは犬神だよ、白沢だよ)
(違いない、違いない)
 疲れてはいたものの妙に目が()えていて、一太郎はなかなか寝つけなかった。妖の言葉は今日は効き目が薄いが、普段なら子守(うた)代わりのものだ。聞こえればかえってよく寝られた。若だんなはそれほど妖になじんでいるのだ。
(そうだね、まだ小さくって寝込んでいたあの日から……)
 祖父が仁吉と佐助を連れてきた日から、妖は毎日の一部、一太郎の半身と言ってもいいものになっていた。


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二 (あやかし)



1


 確か五つの時のことだったと一太郎は覚えていた。
 その年の夏は、とりわけ暑い日が続いていた。他に誰かが寝ついたという記憶がないから、そう感じていたのは一太郎だけだったかもしれない。とにかく体の中から()でられているようで、頭が上にあがらなくなった。
 思い出すのは、床の高さから見上げた、空や木や花の風景だ。
 (あめ)や金魚の振り売りの、長く伸びた声が塀の外に近づいても、見に行くこともできない。目に入るのは同じものばかりで、白く夏の光をはねかえしていて余計に暑さが増す。(もえ)()(いろ)の麻の()()をつった寝間で、日がな(せみ)の声を聞いて横になっていると、乾いていくばかりでどうにも食が進まなかった。
 かゆが食べられないのならと、親が白玉や甘酒の振り売りを呼び止めては、(まくら)(もと)にまで持ってきてくれるのだが、これも満足に(のど)を通らない。
 寝込むこと一月を超えると、診察に来る医者の顔が渋いものになってきた。一太郎のほうも明け暮れぼんやりしてきて、なにを聞かれても返事をするのもうるさい。とにかく気力が出てこないので、いい加減に声を出すか黙り込むかだ。
 そんな中こちらが寝ていると思うのか、蚊帳の外に見舞いに来ている(しん)(せき)の会話が、遠慮のないものになっていった。いわく、
「もうおかみさんには、次の子を望むのは無理だろうからな。これだけの(おお)(だな)、先はどうするつもりかね。跡取りは養子でも、(もら)うしかない」
「だとしたら、うちには四人も子がいるのだから……」
 聞きたくなくても耳に飛び込んでくる話はたんとあって、もちろん両の親がいるところで話されず、一太郎と親戚の一群の秘密だった。口を()くのも厄介になっていたから、親に伯父や叔母の、生き生きとした会話のことを告げる気はなかった。だが、こんな話を日々聞いていると、行き着く思いはあった。
(このまま死ぬんだろうか……)
 (せん)の年に長崎屋で飼っていた老犬の()()が突然、呼んでも顔を上げなくなった。さわると冷たい。これは死んだのだと言われ、店の者が裏庭に埋めてくれた。姿が土で見えなくなったとき、もう会えないのだと分かって、祖父にすがってひどく泣いたのを覚えている。
 動かなくなって固くなって、もう一緒にいることができなくなる。五つの一太郎にとって、死とはそういうことだった。
 だが、自分が消えたら、自分が犬のために泣きべそをかいたように、あのはかなげな母が泣くに違いなかった。
 それは嫌だなぁと思う。
 父も祖父も男だけれど、嘆くかもしれない。長崎屋は船を使って遠くの地と商売をしていると父が教えてくれたが、最近その荷のなかに方々から来た薬が増えていると、いつだか店の番頭が言っていた。自分には今までとんと効いたことがないし、本音を言えば苦い薬は嫌いだ。
 だが、そんなにしてもらっているのに、死んだらいけないのではないか。
「一太郎、起きているかい?」
 庭先から声がかかった。蚊帳越しに、夏の日ざしの中に立つ、背の高い祖父の姿が目に入る。珍しいことに他にも小さな影が二つ(そば)にいた。もっとよく見ようと、苦労して久しぶりに起きあがった一太郎の身を、部屋の中に入ってきた祖父が、(あかね)(いろ)(へり)をめくって蚊帳の外に出してくれた。
「お前たち、ここに来なさい」
 言われて()()の端に上がってきたのは、十ばかりに見える二人の子どもだった。「佐助でございます」「()(きち)でございます」手をついて、丁寧に(あい)(さつ)をする。
「今度うちに奉公に来た子らだよ」
 祖父の言葉に、()(とん)のうえに座り込んだ格好の一太郎は、少し首をかしげた。
 長崎屋にはいつも十人からの小僧がいる。入ったばかりの者は子どもと言ってもいい年だから、一太郎も興味(しん)(しん)、できたら一緒に遊びたい。だが皆、店で言いつかった仕事をせっせとこなしていて、離れに来ることはない。
「小僧が奥に来るなんて初めてだけど。じい様、なんでこの二人だけ連れてきたの?」
 一太郎の問いに笑い声を返したのは、驚いたことに当の小僧のほうだった。
「なかなか利発なお子だ」
「気に入りましてございます」
「お仕えすること、お約束申し上げる」
 交互に話す言い方が、なんとも子どもらしさがない。目を丸くする一太郎を見て、祖父が苦笑した。
「これこれ、お前たちは十の子どもなんだ。そんな物言いをするものかね」
「はい。すみません」
 そろって謝る声。祖父は笑いを浮べたまま一太郎のほうを向くと、唐突に尋ねてきた。
「お前に死んだ兄がいたことは知っているね」
 首を縦に振る孫に、物事を一つ一つ確認するかのように、祖父は(うなず)いた。元武士だったという、きちんとしたことが好きな人だった。
「兄さんが死んだあと、おっかさんはなかなか子どもに恵まれなかったんだよ。子どもが欲しかったおたえはお稲荷(いなり)様に願をかけることにしてね。庭に(ほこら)も作って、毎日毎日、そりゃぁ熱心にお願いしていたのさ」
 連れてきた子ども等のことなどそっちのけで、祖父が突然こんな話を始めた訳は分からなかったが、自分が生まれたときの話に一太郎は耳を澄ました。
「お供えもしてお百度も踏んで、おっかさんの必死の気持ちが伝わったんだろうね。おたえはお稲荷様のおかげで、お前を授かったんだよ。お前という子は、そうやって生まれてきたんだ。だから……」
 祖父はちらりと二人の子を見やる。
「一太郎はお稲荷様から、生まれてこのかた守られているんだ。そう、時にはご自分の代わりに(あやかし)を遣わして下さって」
「妖! この子たち人じゃぁないの?」
 思わず目をやった佐助の顔。そのとき子どもの口が耳まで裂けた気がして、一太郎は蚊帳の中に夢中で逃げ込んだ。となりにいる仁吉が相方の頭を手ではたくのを、祖父が落ち着いて見ている。
「お前は体の弱い子だから心配なんだよ。できる限りは私がついていようと思っているが、年だからね。それでお稲荷様にお願いしたのだ。孫を守るものをお遣わしになって下さいと。一生(そば)にいられるように今は若い姿でお願いしますと」
「……」
 人でないものを昼間っから、真正面で見たのは初めてだった。不思議と怖い気がしない。一太郎をそれはかわいがってくれている祖父が、落ち着いた顔で部屋にいるせいだろうか。今一度蚊帳からゆるゆると()い出すと、祖父の横にぴたりと張りついた。そこから首を伸ばして二人をうかがう。
「遊んでくれるの?」
 そう問うと頷いたので、目の前の二人は味方なのだと子どもながらに判じて、用心を解く。祖父の言うところによると、もちろん二人は小僧なのだから店で働くし、仕事も覚えなくてはならない。だが、小僧のできる仕事は限られているし、祖父が暇を作って、一太郎の相手をするのに離れに寄越してくれるという。
「うん……」
 一太郎は分かったつもりで返事をした。この妖達は人としてこれから長崎屋で暮してゆくこと。だから妖であるとは言っちゃぁいけないこと。自分がそうして良い子にしていれば、遊んでもらえること。
 床につきがちでろくに遊び相手もいない五つの子にとって、これは(うれ)しい知らせだったので、話の不思議なことも、世の中にはそういう考えもあるのかと思って終わってしまった。新しい友達に手を振ると、にこにこした顔が返ってくる。大事なこととはそういうことで、それでよかった。
 祖父は一太郎の楽しげな顔を見て、意を得たとばかり頷く。それからおもむろに、枕元においてある美しい青いギヤマンの水差しから湯飲みに水をつぎ、(ふところ)から小さな紙包みを取り出した。開くと大人の指先ほどの黒い(がん)(やく)が一つ、入っていた。
「弱った体に大層よく効く薬がいただけたんだよ。飲み込むのに大きいかもしれないけど、我慢して飲んでおくれ」
 寝込んでこのかた色々な薬を飲んだが、とんと体は良くならない。祖父もそれは知っているはずだ。その祖父が特別効くと言うなら、これは何という薬で、そんなもの誰がくれたのかと少しばかり興味があったが、それきり祖父は詳しくは語らない。黒い粒を飲み下すには苦労はなかった。子どもながら薬のことなら一太郎はすでに、(ふる)(つわ)(もの)だったからだ。
 蟬時雨(しぐれ)がうるさいのに、薬のせいか飲んだ後ほどなくして眠気が襲ってきた。今は寝るより遊びたかった。ぐずると、仁吉たちはこれからずっと側にいるからと言われて安心する。そのまま眠気に身をまかせ……ふと、一つだけ聞きたくなってまぶたを開いた。
「ねえ、佐助たちは何ていう妖なの? お堀の河童(かつぱ)? それともお墓の幽霊?」
 この問いに祖父や妖達が笑っている。どうやら河童ではないようだった。
(いぬ)(がみ)と申します」
(はく)(たく)と申します」
 佐助と仁吉はそう返事を寄越したが、言われても一太郎には、それがどんなものか見当もつかない。それでも聞き続けることはできなかった。もうまぶたが開かなかったのだ。
 暑さも気にならない、久しぶりに気持ちの良い眠りが待っていた。


2


 目が覚めても板戸を立ててある部屋は薄暗かった。
 だが毎朝布団の上に身を起こすと、不可思議なほどすぐに佐助が姿を現して部屋の戸を開ける。今日も早々に()()(ふすま)が開き、いつものごつい顔がひょいと顔を出した。
「おはようございます、若だんな。よく眠れましたか?」
 言いながら顔色を確かめ(たぶん、生きていると分かると)安心したようにさっさと一太郎の身支度にかかる。
 佐助の好みである()(ぐさ)(いろ)の地に(ろく)(しょう)(ほそ)(じま)の着物を着せつけ、すばやく髪の乱れを直す。()()をはかせ、若だんなが紙入れの中身を確かめてから懐に入れている間に、そそくさと夜具を片づける。
 今では(あやかし)がこうして側にいるということが、どんなにとんでもなく尋常でないことか、一太郎にも分かっている。だがなぜ自分の側にだけ彼らがいるのか、くわしい話を聞こうにも、肝心の祖父はもうとうに他界していなかった。その上若だんなのほうも、今の毎日に慣れ切っている。廊下を歩けば足で()()ばすほどいる鳴家(やなり)も、呼べば姿を見せる(いく)(たり)かの妖も、いるのが当たりまえな毎日で、他の暮らしは考えようもなかった。
 佐助や()(きち)がいなかったら、自分はどうするのか? 思ってみたことはあるのだが、想像がつかない。
「今日は店のほうで(あさ)()にしますか?」
 佐助の問いにすぐに頷く。体の具合が悪ければ、隣の日当たりの良い小部屋で食べることとなるのだが、ここのところ調子の良い一太郎は、手代とそのまま長崎屋の(おも)()に向かった。
 朝四つを回っていて、店の廊下を忙しそうに行き交う奉公人の姿が見えた。若だんなは表に回ろうと台所を抜ける。朝餉のあとすでに掃除も終わり、昼の算段をしていた女中たちが、若だんなの姿に一斉に頭を下げ、朝の(あい)(さつ)を寄越す。
 ()()たちに飯を出すこともある長崎屋の台所は大きい。片側にはずらりと六つも(かまど)が並ぶ。土間を挟んで向かいは大きな素通しの棚になっており、(おけ)(まな)(いた)(ぜん)などが所狭しと置いてあった。奥は一段高い板間になっていて、右手は()()やら塩やら、蓄えのものを入れておく部屋、反対側の隅に(わん)や皿などを入れておく棚がある。
 水は内井戸から()むようになっていた。それは庭の奥、一番蔵と土塀の間に作られた、内湯のある離れの土間にある。長崎屋は大勢の水夫を抱えた(おお)(だな)であるということで、湯殿を持つ許しを特別に得ていたが、やはり火事は怖い。そのせいで()()は母屋からはかなり離れた場所にあった。雨が降れば水を汲むには不便だがしょうがない。毎朝女中が棚の横にある三つの(おお)(がめ)を満たしておくのが日課だ。
 台所で五人の女中を仕切っているのがおくまという女だ。これは気の荒い水夫に向かってさえ、ずけずけとものを言う。だが主人夫婦に(なら)うように、若だんなにはやさしい顔ばかり向ける。乳の出が大層悪かったおたえに代わって、一太郎の()()やになっていたせいもあって、今も子ども扱いしてくることが若だんなの悩みの種を増やしていた。
「おはようございます、ぼっちゃん。今日はお好きな(しじみ)汁ですよ。すぐ支度しますからね」
「ありがとうね、乳母や。毎日手数をかけて、すまないね」
「嫌ですよ、当然のことじゃありませんか。ぼっちゃんは本当に優しくておいでだから」
 おくまは(いま)だに若だんなとは呼ばない。自分の子どものような一太郎が、さっさと大人になってしまうのは寂しいのだろうと、仁吉は言う。
 一太郎が朝餉前に店のほうに姿を見せるのは調子の良い証拠で、おくまは機嫌よく自分の手で遅い朝食の支度にかかる。
 その間に二人は廊下を抜けて、(かい)(せん)問屋長崎屋の方に向かった。板間である(みせ)(おもて)のすぐ奥に、十畳ほどの部屋がある。声をかけて襖を開けると、手代が帳面を読みあげて、番頭が(そろ)(ばん)を入れているところだった。銭箱の横でそれを見ていた(とう)()()が、息子の姿に顔を上げて笑いかけた。
「目が覚めたんだね。今日は体の具合はどうだい?」
「おはようございます、おとっつぁん。いい調子ですよ」
「そりゃよかった。じゃあ、ご飯を食べておいで。たんとあがるんだよ」
「はい。番頭さん、途中で邪魔をしてごめんなさいよ」
 とんでもなく朝寝坊の息子に、(しか)るでもなく心配ばかりして、本当に甘い親だと思う。いつものこととはいえ、何だか遅く起きたことが悪いという気が余計にしながら、廊下を今度は店の奥へと取って返す。一番端の南東の角が、おかみが日ごろ使う居間だ。庭が見渡せ日当たりが良くて暖かい。一太郎が遅い朝飯を食べるのは、たいがいこの部屋だった。

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「おっかさん、おはようございます」
 一人息子が無事朝餉を食べに来たので、(なが)()(ばち)の横にいたおたえの顔がほころんだ。
(飯を食べるだけで、こんなにも喜ばれる(やつ)って、私くらいのもんだろうね)
 いささか情けない気もするが、調子が悪くて表に来ない日の多さを考えると、母が大げさだとは言えない。前に一太郎が朝起きて店にくるかどうかを、手代が()けていたことがあったほどで、あの時は藤兵衛が顔を真っ赤な鬼みたいにして怒ったものだ。
 おたえがいそいそと茶を()れる。その姿は()()()に近いとはとても見えなかった。
(若だんなのおっか様は、若いころこのあたりの小町、いや江戸一番の弁天様と呼ばれなすったものだよ。今でも本当にきれいでいなさる)
 いつだか()(はる)()(おや)()さんに、教えてもらったことがある。若い時たえは、雪でできた花のようだと言われていたそうだ。きらきらと美しくはかなげで、守ってやらなくてはならないと思わせる娘。まだ十五にもならないうちから、ひきも切らない婚姻の申し込みに、祖父が困るほどだったというのだ。
 身分の高いお武家から、(いっ)(たん)武家の養女にしてから、妻に迎えたいと申し込みがあったこともある。江戸でも名の知れた大店の若主人など、相手は選びほうだいだった。
 そのたえが、店の手代だった父を婿(むこ)に迎えたときは、やっかみ半分(かわら)(ばん)が出たほどだという。
(おとっつぁんを選んだのは、じい様だったのか、おっかさん自身だったのか)
 今さら母に聞くのも照れるので、答えは知らなかった。
 茶を飲んでいると佐助が朝の膳を運んでくる。若だんなは母親とこの朝の話題、種を()く予定の朝顔の、新しい花の形、色のことを神妙に話しながら、(わざわざ遅くに朝餉を用意しなくても、昼と一緒でいいのに)などと思っていた。
 思ってはいたが、恐ろしくて言い出せなかった。以前に一度、言ってみたことがある。そのときは(ふた)(おや)が、また息子が体を損ねたのではないかと大騒ぎをし、医者が呼ばれ、布団にむりに寝かされ、薬を何杯も飲むということになってしまったからだ。
 さすがに()きたての飯とはいかないので、佐助が熱い湯をそそいで湯づけにしてくれる。朝は佐助が、昼は仁吉が一太郎の給仕をするのが常で、具合が良くて表に出られた時は、おたえは大概、一緒にいるのだった。
(ぜい)(たく)なんだろうな、これは……)
 若だんなが思うのもどうりで、膳には朝から卵焼きや干物が並んでいる。香の物、蜆の味噌汁、(なます)まであって、あと(いっ)(とき)もすれば昼を迎えようというころの食事としては、やや重い。
 それでもあれこれ言う立場ではなく、一太郎はもそもそと何とか一杯口に流し込んだ。
 大人なら朝から四杯はかっこんでも、それは人並みなことだったから、お代わりが差し出せないことに情けなさがつのる。食べ終わると佐助は慣れているのかなにも言わずに、残り物の多い膳を抱えて、廻船問屋の手代としての仕事に消えた。
 いつもならここで母に挨拶をした後、若だんなも(やく)(しゅ)問屋長崎屋のほうに向かう。だが、今日はおかみが息子を引き止めた。
「朝店を開けてほどないころにね、()(ぎり)の親分が下っぴきを二人連れて、日本橋のほうへ急いでたんだそうな。聞いたかい?」
「いえ、まだ……」
 一太郎は立ちかけたのを母のほうに向かって座り直す。岡っ引きが朝から北に向かったというのなら、昨日殺された哀れな職人風の男が、誰ぞに見つけてもらえたのかもしれない。
 日限の親分というのは、(とおり)(ちょう)(かい)(わい)を縄張りにしている岡っ引き、(せい)(しち)のことだ。通一丁目を西に入った所の西河岸町にある、日限地蔵の近くに住まわっているところから、この名のほうが通りがよかった。
(下手人の見当はついたんだろうか)
 若だんなの関心はあの殺しのことに向かった。だが母の心配は別のところに行っていた。
「人が(あや)められていたんだそうな。あたしは思わず仁吉を(つか)まえて、お前がちゃんと部屋で寝ているかどうか聞いてしまったよ。だって一太郎、お前昨夜外に出ていたろう?」
「おっかさん……! 知っていなさったの?」
 一太郎は驚きの目を母に向けた。仁吉たちが話したはずもなく、この母はいつもながらに見透かすことが巧みだった。
「月もない晩にどこに行っていたんだい? お前は体の性が弱いんだから、ことに気をつけておくれでないと、心配でならないよ」
 火ばしで長火鉢の灰をかき混ぜながら話すおたえの目に、涙が浮んでくるのを見て、一太郎は(あわ)てた。
「夜に出たことがなかったから、つい……。悪かったから、おっかさん、そんな顔しないで下さいよ。親分のご用だって、わたしが殺された訳じゃぁないんだから」
「当たりまえだよ。そんなことになったら、おっかさん、生きてはいないから……」
 結局慰めるのに四半時もかかる始末で、一太郎は当たり(さわ)りのない言葉で謝りつづけた。だがその裏で、こみ上げてくる思いがある。それを目の前の親に知られぬように()み込むのに、どうにも苦労していた。
(毎日毎日心配のしどうしで。いっそ、この子も兄のところに行ってくれたら後が楽だと、そう思ったことはないのかしら……)
 今日生き延びていたところで、不安を重ねていく日々が明日に続くだけの気がする。毎年寝込まないことはなく、生きるか死ぬかの騒ぎにならなければ、親達は胸を()で下ろしている。
(だけど心配が、しゃぼんの泡のように消えてなくなる訳じゃぁなし……)
 もう疲れて胃の()が痛くて、いい加減にしてほしいとは思わないのだろうか。
(いっそすっぱり死んでくれたら……)
 そう思うのが、普通なような気がするのだ。
 聞いてみたくて、親に顔を向けたことがある。
 どうにも口にはできなかった。そう分かって黙りこむしかなかった。


3


 長崎屋は江戸十組の株をもつ、(かい)(せん)問屋の(おお)(だな)だった。
 日本橋から(とおり)(ちょう)を南に歩いて京橋近く、間口が十間もあり、(さん)(がわら)の屋根に(しっ)(くい)仕上げの壁の、土蔵作り二階建ての店構えだ。大坂からの船荷の扱いを許されていたのはこの十組の仲間だけで、長崎屋は自身の()(がき)廻船も三(そう)持っている。それ以上に持つ数が多かったのは(ちゃ)(ぶね)という名のはしけで、品川沖に着いた大坂からの菱垣廻船や(たる)廻船からの荷を、小分けにして運ぶ舟だ。
 長崎屋の店で働いているのは番頭以下、手代、小僧に女中や下男を合わせても、せいぜい三十人ばかり。しかもそのうち八人は、新しく始めた(やく)(しゅ)問屋のほうにいる。
 しかし()()の数は店にいる奉公人の人数をはるかに上回っていて、長崎屋の商売は大きかった。
 水夫たちは全員が店に来る訳でも、いつもいる訳でもない。まだ廻船問屋を手伝っていない一太郎には、店(ゆかり)の者の人数すら確かには分からなかった。荷は船からはしけに移された後、それぞれの品が集まる()()や荷主の蔵などに行くので、長崎屋に直接集まる品は扱う量からすると、わずかだった。
 もう一つの長崎屋、薬種問屋のほうは、廻船問屋長崎屋の南東隣の角地を小さめに一角占めていた。若だんなのために薬種を方々から集めているうちに、商いが大きくなって、とうとう一本立ちさせたものだ。もとより息子を助けたくて始めたことだから、良心的な値で良い物がそろっていると評判で、なかなかの商売になっていた。店先で出している(はく)(とう)()という(やく)(とう)も、風邪の季節にはことに(のど)にいいと名が上がっている。
 若だんなと呼ばれるようになってから、一太郎は薬種問屋のほうを任されている。とはいえ十七では真実店が切り回せる訳ではないので、実際店は番頭の忠七と三人の手代が主になって営んでいた。
「おはようございます、若だんな」
 一太郎が昼も近くなって現れるのには皆、慣れっこなので驚きもない。
「おはようございます。今日の調子はいかがですか?」
「うん、おはよう。大丈夫だよ」
 ここでも気遣いが山のように一太郎の上に降ってきて、いささか疲れる思いだ。おまけに店先に掛かりつけの医者、(げん)(しん)の供を連れた姿があった。(あい)(さつ)をしない訳にもいかず近寄ると、さっと手が伸びてきて、有無を言わさず若だんなの口を開かせ、喉のはれがないかを見る始末。
「先生、風邪なんか引いちゃぁいませんよ」
 あわてて身を引いてふくれつらを見せるが、源信も(そば)にいた()(きち)も、若だんなの都合などいっこうに気にしない様子。さすがにこれしきのことで医者も見立て代は求めないが、こういうときは仁吉がそっと、源信が買った薬種のかさを足しておく。そのせいか、源信はこまめに若だんなの様子を気にかけるのだった。
 だが一太郎はこれが嫌でたまらない。店の左奥にある帳場に逃げ込むと、源信は「今日は大事ないようだ」そう笑って帰っていった。
 帳場では番頭の忠七が帳簿を見せてくれたが、仕事は(そろ)(ばん)の立つ忠七がきれいに済ませていてやることがない。若だんなは何か手を出せることがないか、店の中を見回した。
 間口(さん)(げん)ほどの薬種問屋は、夜になると通路になる軒下を土間代わりに、ちょうど腰掛けるにいい高さに広い畳敷きになっていた。入って右手には大きな作りつけの棚が並んでいて、引き出しや年期の入った瓶の中にそれぞれ薬種が入っていた。真ん中に置かれたついたての奥では、よく仁吉が小さな(はかり)を使って調薬をしている。その横で、今小僧が一人、()(げん)(しょう)(やく)を刻んでいた。
 長崎屋は卸しと共に小売りもするので、店の一番前で小袋に入ったあかぎれ、打ち身用の(こう)(やく)も売っている。その右隣の長火鉢には、喉や風邪にいい白冬湯入りの()(かん)がかかっており、小僧がひとりついて老人に湯をすすめていた。
「ねえ、お前、なにを刻んでいるの?」
 ちょうど仁吉が秤の前にいないのをいいことに、一太郎は調剤の机の前に座り込んで隣の小僧に聞く。「せんぶりです」その答えと机に用意されている他の生薬とで、仁吉が名代の胃薬、(けん)(めい)(がん)を作る予定なのが分かる。その薬は効くのは大したものなのだが、苦さも一番で、口元が曲がるような味だった。
「じゃあ、今日は私が作るよ」
 そう言っていそいそと(てん)(びん)を使い始める。だがまだ最初の薬を計り終えないうちに、仁吉がとんできて若だんなから天秤の重りを取り上げた。
「若だんな、そんなことはあたしがしますから……」
「だいじょうぶだよ、仁吉。ちゃんと作れるって。私が薬にくわしいのは、お前だって知っているだろう?」
「そんな問題じゃぁないんですよ。健命丸は作るのを急いでいるというものではなし、疲れるようなことはしないで、若だんなは休んでいて下さいまし」
 そう言うと仁吉は一太郎を机から追い立ててしまった。それならというので、今度は暇なことの多い白冬湯の側に行く。「私が見ているから」と、小僧に言うよりも早く、また仁吉がやってきて引きはがす。
「薬缶の湯をかぶったら、大火傷(やけど)です。近寄らないで下さい」
「そんな間抜けはしないよ。小僧にもできる仕事じゃぁないか」
「駄目です!」
 これでは誰が主人か分かったものではない。(あやかし)ならではの傍若無人ぶりに、一太郎がふくれつらになって帳場に座り込んでいると、
「おや、若だんな、浮かぬ顔でどうなさったね」
 表から声がかかった。
()(ぎり)の親分さん」
 仁吉がほっとしたような声を上げて、岡っ引きを迎える。客が来れば若だんなに押しつけて、店から引き離せるからだ。
 このとき手代の考えが、ギヤマン越しに見るかのように見通せた若だんなは、おもしろくなかった。思うとおりになど動いてやるものかと身構える。だが、来た客が日限の親分というのは、何ともまずいと思う。あの殺しの話を知っているに違いないからだ。
「親分さん、今朝方、怖いことがあったそうで……」
 仁吉がさっそく水を向けると、親分は「耳が早いな」と、話に乗ってくる。手代は、
(そんな話は店先ではなんですんで)
 そう小声で言って、さあさあと親分を店の奥へと通す。そうしておいて若だんなに、
「親分さんのお相手、お願いしますね」
 しれっと言う。一太郎はこの場ばかりは何としても、仁吉の言葉なんか聞きたくなくてそっぽを向いていた。
 少なくとも十ほど数える間は……。
 しかし当の仁吉は茶菓子の用意のためなのか、さっさと姿を消してしまい、不機嫌な顔をしたところで見せる相手がいない。それにやっぱり知りたかった。あの人殺しは誰なのか。殺された職人風の男は誰か。どうして人なんか殺したんだろう。あんな(やみ)の中で人を殺す自分が、恐ろしくはなかったんだろうか。
 結局腰が浮いてしまい、客が訪れた時に使う裏庭に面した一室に向かう。障子を開け放つと、古い椿(つばき)の木が見える六畳ほどの角部屋だ。部屋に入るなり、岡っ引きの清七が感心したように、(ふすま)に墨で描かれた猫を眺めた。
「さすがに長崎屋ともなると、襖絵も違うね。凝ってるよ」
 親分の言葉に、いつの間にか茶と菓子鉢をもって現れた仁吉が笑う。
「日限の親分さん、そりゃぁ若だんなが描いたもので」
「そうなのかい。すごいもんだね。動き出しそうだよ」
「私はそんなことしか、させてもらえないんですよ」
 ほめられても渋い顔の一太郎は、すねた口調で()()(とん)の上に座り込んだ。その表情を見て、五十(がら)みの岡っ引きは唇の端を上げる。
「そいつはうらやましいことで。墓に入る前に、一度そういう身分になってみたいね」
 仁吉はその言葉に笑みを浮べながら、茶菓子を出すと部屋から消えた。さっそく一つつまむ岡っ引きに、若だんなは闇夜の殺しの一件を語ってくれとせがむ。
「血なまぐさい話だよ」
 清七はそうことわりを入れてから、朝見たことの(てん)(まつ)を語った。


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