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美しくさえなるのなら、
どんなにでも辛抱して見せましょうよ

谷崎潤一郎「刺青」

谷崎潤一郎 Tanizaki Junichiro 1886-1965
東京生れ。同人雑誌「新思潮」(第二次)を創刊。同誌に発表した『刺青』などの作品が高く評価され作家に。1949(昭和24)年、文化勲章受章。主な作品に『痴人の愛』『春琴抄』『卍』『細雪』などがある。

それはまだ人々が「おろか」とう貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しくきしみ合わない時分であった。殿様やわかだん長閑のどかな顔が曇らぬように、御殿女中や華魁おいらんの笑いの種が尽きぬようにと、じょうぜつを売るお茶坊主だのほうかんだのと云う職業が、立派に存在して行けた程、世間がのんびりして居た時分であった。おんなさだろう、女らい、女なるかみ、───当時の芝居でもくさぞうでも、すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。誰も彼もこぞって美しからんと努めた揚句は、てんぴんの体へ絵の具をぎ込むまでになった。芳烈な、あるいけんらんな、線と色とがその頃の人々のはだに躍った。
うまみちを通うお客は、見事な刺青ほりもののあるかきを選んで乗った。よしわらたつの女も美しい刺青の男にれた。博徒、とびの者はもとより、町人からまれには侍などもいれずみをした。時々両国で催される刺青会では参会者おのおの肌をたたいて、互に奇抜な意匠を誇り合い、評しあった。
清吉と云う若い刺青ほりものの腕ききがあった。浅草のちゃり文、松島町のやつへいこんこん次郎などにも劣らぬ名手であると持てはやされて、何十人の人の肌は、彼の絵筆の下にぬめとなってひろげられた。刺青会で好評を博す刺青の多くは彼の手になったものであった。だるきんぼかしぼりが得意と云われ、唐草ごんしゅぼりの名手とたたえられ、清吉は又奇警な構図とようえんな線とで名を知られた。
もと豊国国貞の風を慕って、浮世絵師のせいをして居ただけに、刺青師に堕落してからの清吉にもさすが画工えかきらしい良心と、鋭感とが残って居た。彼の心をきつける程の皮膚と骨組みとを持つ人でなければ、彼の刺青をあがなう訳には行かなかった。たまたま描いてもらえるとしても、一切の構図と費用とを彼の望むがままにして、その上堪えがたい針先の苦痛を、一と月も二た月もこらえねばならなかった。
この若い刺青師の心には、人知らぬ快楽と宿願とが潜んで居た。彼が人々の肌を針で突き刺す時、真紅に血を含んでふくれ上る肉のうずきに堪えかねて、大抵の男は苦しきうめき声を発したが、その呻きごえが激しければ激しい程、彼は不思議に云い難き愉快を感じるのであった。刺青のうちでもことに痛いと云われる朱刺、ぼかしぼり、───それを用うる事を彼は殊更喜んだ。一日平均五六百本の針に刺されて、色上げを良くするめ湯へつかって出て来る人は、皆半死半生のていで清吉の足下に打ち倒れたまま、しばらくは身動きさえも出来なかった。その無残な姿をいつも清吉は冷やかにながめて、
「さぞお痛みでがしょうなあ」
と云いながら、こころよさそうに笑って居る。
意気地のない男などが、まるでの苦しみのように口をゆがめ歯をいしばり、ひいひいと悲鳴をあげる事があると、彼は、
「お前さんも江戸っだ。辛抱しなさい。───この清吉の針は飛び切りにいてえのだから」
こう云って、涙にうるむ男の顔を横目で見ながら、かまわずって行った。また我慢づよい者がグッと胆をえて、まゆ一つしかめずこらえて居ると、
「ふむ、お前さんは見掛けによらねえぱり者だ。───だが見なさい、今にそろそろ疼き出して、どうにもこうにもたまらないようになろうから」
と、白い歯を見せて笑った。

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彼の年来の宿願は、光輝ある美女の肌を得て、それへおのれの魂を刺り込む事であった。その女の素質とようぼうとに就いては、いろいろの注文があった。ただに美しい顔、美しい肌とのみでは、彼は中々満足する事が出来なかった。江戸中のいろまちに名を響かせた女と云う女を調べても、彼の気分にかなった味わいと調子とは容易に見つからなかった。まだ見ぬ人の姿かたちを心に描いて、三年四年はむなしくあこがれながらも、彼はなおその願いを捨てずに居た。
丁度四年目の夏のとあるゆうべ、深川の料理屋ひらせいの前を通りかかった時、彼はふと門口に待って居る駕籠のすだれのかげから、真っ白な女の素足のこぼれて居るのに気がついた。鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持って映った。その女の足は、彼に取っては貴き肉の宝玉であった。おやゆびから起って小指に終る繊細な五本の指の整い方、絵の島の海辺でれるうすべに色の貝にも劣らぬつめの色合い、たまのようなきびすのまるせいれつな岩間の水が絶えず足下を洗うかと疑われる皮膚の潤沢。この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろをみつける足であった。この足を持つ女こそは、彼が永年たずねあぐんだ、女の中の女であろうと思われた。清吉は躍りたつ胸をおさえて、その人の顔が見たさに駕籠の後を追いかけたが、二三町行くと、もうその影は見えなかった。
清吉の憧れごこちが、激しき恋に変ってその年も暮れ、五年目の春も半ば老い込んだる日の朝であった。彼は深川佐賀町のぐうきょで、ふさようをくわえながら、さびたけえんの鉢を眺めて居ると、庭の裏木戸をおとなうけはいがして、そでがきのかげから、ついぞれぬ小娘がって来た。
それは清吉がじみの辰巳の芸妓はおりから寄こされた使つかいの者であった。
ねえさんからこの羽織を親方へお手渡しして、何か裏地へ絵模様をいて下さるようにお頼み申せって………」
と、娘はこんしきをほどいて、中からいわじゃくの似顔画のたとうに包まれた女羽織と、一通の手紙とを取り出した。
その手紙には羽織のことをくれぐれも頼んだ末に、使の娘は近々に私の妹分として御座敷へ出るはずゆえ、私の事も忘れずに、このも引き立ててやって下さいとしたためてあった。
「どうも見覚えのない顔だと思ったが、それじゃお前はこの頃此方こっちへ来なすったのか」
こう云って清吉は、しげしげと娘の姿を見守った。年頃はようよう十六か七かと思われたが、その娘の顔は、不思議にも長い月日をいろざとに暮らして、幾十人の男の魂をもてあそんだとしのようにものすごく整って居た。それは国中の罪とたからとの流れ込む都の中で、何十年の昔から生き代り死に代ったみめうるわしい多くの男女の、夢の数々から生れずべき器量であった。
「お前は去年の六月ごろ、平清から駕籠で帰ったことがあろうがな」
こうたずねながら、清吉は娘を縁へかけさせて、びんおもての台に乗ったこうな素足をさいに眺めた。
「ええ、あの時分なら、まだお父さんが生きて居たから、平清へもたびたびまいりましたのさ」
と、娘は奇妙な質問に笑って答えた。
「丁度これで足かけ五年、おれはお前を待って居た。顔を見るのは始めてだが、お前の足にはおぼえがある。───お前に見せてやりたいものがあるから、上ってゆっくり遊んで行くがいい」
と、清吉はいとまを告げて帰ろうとする娘の手を取って、おおかわの水に臨む二階座敷へ案内した後、巻物を二本とり出して、ずその一つを娘の前に繰りひろげた。
それはいにしえの暴君ちゅうおうちょうばっを描いた絵であった。さんちりばめた金冠の重さに得堪えぬなよやかな体を、ぐったりこうらんもたれて、りょうすそきざはしの中段にひるがえし、右手に大杯を傾けながら、今しも庭前に刑せられんとする犠牲いけにえの男を眺めて居る妃のぜいと云い、鉄の鎖でを銅柱へいつけられ、最後の運命を待ち構えつつ、妃の前に頭をうなだれ、眼を閉じた男の顔色と云い、物凄い迄にたくみに描かれて居た。
娘はしばらくこの奇怪な絵のおもてを見入って居たが、知らずらずそのひとみは輝きそのくちびるふるえた。怪しくもその顔はだんだんと妃の顔に似通って来た。娘はに隠れたる真の「おのれ」をいだした。
「この絵にはお前の心が映って居るぞ」
こう云って、清吉はこころよげに笑いながら、娘の顔をのぞき込んだ。
「どうしてこんな恐ろしいものを、私にお見せなさるのです」
と、娘はあおめた額をもたげて云った。
「この絵の女はお前なのだ。この女の血がお前の体に交って居る筈だ」
と、彼は更に他の一本の画幅を展げた。
それは「肥料」と云う画題であった。画面の中央に、若い女が桜の幹へ身をせて、足下にるいるいたおれて居る多くの男たちの屍骸むくろを見つめて居る。女の身辺を舞いつつ凱歌かちどきをうたう小鳥の群、女の瞳にあふれたる抑え難き誇りとよろこびの色。それはたたかいの跡の景色か、花園の春の景色か。それを見せられた娘は、われとわが心の底に潜んで居た何物かを、探りあてたる心地であった。
「これはお前の未来を絵に現わしたのだ。に斃れて居る人達は、皆これからお前の為めに命を捨てるのだ」
こう云って、清吉は娘の顔とすんぶんたがわぬ画面の女を指さした。
「後生だから、早くその絵をしまって下さい」
と、娘は誘惑を避けるがごとく、画面にそむいて畳の上へつッしたが、やがて再び唇をわななかした。
「親方、白状します。私はお前さんのお察し通り、その絵の女のような性分を持って居ますのさ。───だからもうかんにんして、それを引っ込めておんなさい」
「そんなきょうなことを云わずと、もっとよくこの絵を見るがいい。それを恐ろしがるのも、まあ今のうちだろうよ」
こう云った清吉の顔には、いつもの意地の悪い笑いが漂って居た。
しかし娘のつむりは容易に上らなかった。じゅばんの袖に顔をおおうていつまでも突俯したまま、
「親方、どうか私を帰しておくれ。お前さんのそばに居るのは恐ろしいから」
と、幾度か繰り返した。
「まあ待ちなさい。己がお前を立派な器量の女にしてやるから」
と云いながら、清吉は何気なく娘の側に近寄った。彼のふところにはかつ和蘭オランダ医から貰った麻睡剤のびんが忍ばせてあった。

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日はうららかに川面を射て、八畳の座敷は燃えるように照った。水面から反射する光線が、無心に眠る娘の顔や、しょうの紙にこんじきの波紋を描いてふるえて居た。部屋のしきりをて切って刺青の道具を手にした清吉は、暫くはただ恍惚うっとりとしてすわって居るばかりであった。彼は今始めて女のみょうそうをしみじみ味わう事が出来た。その動かぬ顔に相対して、十年百年この一室にせいするとも、なお飽くことを知るまいと思われた。古のメムフィスの民が、荘厳なる埃及エジプトの天地を、ピラミッドとスフィンクスとで飾ったように、清吉は清浄な人間の皮膚を、自分の恋でいろどろうとするのであった。
やがて彼は左手の小指と無名指と拇指の間にはさんだ絵筆の穂を、娘の背にねかせ、その上から右手で針を刺して行った。若い刺青師のこころは墨汁の中に溶けて、皮膚ににじんだ。しょうちゅうに交ぜて刺り込むりゅうきゅうしゅの一滴々々は、彼の命のしたたりであった。彼は其処に我が魂の色を見た。
いつしかひるも過ぎて、のどかな春の日はようやく暮れかかったが、清吉の手は少しも休まず、女の眠りも破れなかった。娘の帰りの遅きを案じて迎いに出た箱屋迄が、
「あのならもううに帰って行きましたよ」
と云われて追い返された。月が対岸のしゅう屋敷の上にかかって、夢のような光が沿岸一帯の家々の座敷に流れ込む頃には、刺青はまだ半分も出来上らず、清吉は一心にろうそくしんき立てて居た。
一点の色を注ぎ込むのも、彼に取っては容易な業でなかった。さす針、ぬく針のたびごとに深い吐息をついて、自分の心が刺されるように感じた。針のあとは次第々々に巨大なじょろう形象かたちそなえ始めて、再び夜がしらしらと白みめた時分には、この不思議な魔性の動物は、八本のあしを伸ばしつつ、背一面にわだかまった。
春の夜は、上り下りのかわふねごえに明け放れて、朝風をはらんで下る白帆の頂から薄らぎ初めるかすみの中に、なか、箱崎、れいがんじまの家々のいらかがきらめく頃、清吉は漸く絵筆をいて、娘の背に刺り込まれた蜘蛛のかたちを眺めて居た。その刺青こそは彼が生命のすべてであった。その仕事をなし終えた後の彼の心は空虚うつろであった。
二つの人影はそのまま暫く動かなかった。そうして、低く、かすれた声が部屋の四壁にふるえて聞えた。
「己はお前をほんとうの美しい女にする為めに、刺青の中へ己の魂をうち込んだのだ、もう今からは日本国中に、お前にまさる女は居ない。お前はもう今迄のようなおくびょうな心は持って居ないのだ。男と云う男は、皆なお前の肥料こやしになるのだ。………」
その言葉が通じたか、かすかに、糸のような呻き声が女の唇にのぼった。娘は次第々々に知覚をかいふくして来た。重く引き入れては、重く引き出す肩息に、蜘蛛の肢は生けるが如くぜんどうした。
「苦しかろう。体を蜘蛛が抱きしめて居るのだから」
こう云われて娘は細く無意味な眼を開いた。その瞳は夕月の光を増すように、だんだんと輝いて男の顔に照った。
「親方、早く私にせなかの刺青を見せておくれ、お前さんの命を貰った代りに、私はさぞ美しくなったろうねえ」
娘の言葉は夢のようであったが、しかしその調子にはか鋭い力がこもって居た。
「まあ、これから湯殿へ行って色上げをするのだ。苦しかろうがちッと我慢をしな」
と、清吉は耳元へ口を寄せて、いたわるようにささやいた。
「美しくさえなるのなら、どんなにでも辛抱して見せましょうよ」
と、娘はうちの痛みを抑えて、いて微笑ほほえんだ。
 
「ああ、湯がみて苦しいこと。………親方、後生だから私をちゃって、二階へ行って待って居てお呉れ、私はこんな悲惨みじめざまを男に見られるのがしいから」
娘は湯上りの体をぬぐいもあえず、いたわる清吉の手をつきのけて、激しい苦痛に流しの板の間へ身を投げたまま、うなされる如くに呻いた。気狂きちがいじみた髪が悩ましげにその頰へ乱れた。女の背後には鏡台が立てかけてあった。真っ白な足の裏が二つ、その面へ映って居た。
昨日とは打って変った女の態度に、清吉はかたならず驚いたが、云われるままに独り二階に待って居ると、およそ半時ばかりって、女は洗い髪を両肩へすべらせ、身じまいを整えて上って来た。そうして苦痛くるしみのかげもとまらぬ晴れやかな眉を張って、欄干にもたれながらおぼろにかすむ大空を仰いだ。
「この絵は刺青と一緒にお前にやるから、それを持ってもう帰るがいい」
こう云って清吉は巻物を女の前にさし置いた。
「親方、私はもう今迄のような臆病な心を、さらりと捨ててしまいました。───お前さんは真先に私の肥料こやしになったんだねえ」
と、女はつるぎのような瞳を輝かした。その耳には凱歌の声がひびいて居た。
「帰る前にもう一遍、その刺青を見せてくれ」
清吉はこう云った。
女は黙ってうなずいて肌を脱いた。折から朝日が刺青のおもてにさして、女のせなかさんらんとした。

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