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耳もぐり

 この手です。誰もが両腕の先に特段、不格好だとも不気味だとも思わずに平気でぶらさげている、まさにこれです。ほら、こうして目の前にかざしてじっと見ているでしょう? すると、ふとした瞬間を境に突然、見慣れたはずの自分の手がぬっと正体をき出しにしたようで気味が悪くなってきたりはしませんか? 何か物をつかむ以外の嫌らしい役割を与えられた特殊な器官のように見えてきたりはしませんか?
 ああ、中原なかはらさん、あなたの手はやっぱり繊細ですね。何も壊せない、何か小さな物でもつくるしかない小さな手です。でなければ学者の手です。とにかくああでもないこうでもないと知恵をしぼって生きるほかない人間の手ですよ。しかし肉体にむち打って生きるしかない人間とのう味噌みそに鞭打って生きるしかない人間とどちらがよりあわれでしょうね。どう思います?
 ああ、そう言えば、あなたは本当に学者でしたね。まだ非常勤講師だけれど、東京の私立大学で社会学だの英語だのを教えている。そう、初めてお会いしましたけどね、あなたについては色々と知っているんですよ。あなたが思っているよりずっと多くのことをね。中原こう、交際相手の香坂こうさか百合子ゆりこからは“光太君”と呼ばれている。三十七歳、神経質で慎重なA型、いくつもの大学を掛け持ちするどさ回りのような仕事から抜け出して専任の大学教員になれる日を待ちがれる疲れはてた知的労働者……。
 いや、違うな。会うのは初めてじゃない。一度だけ、たった一度だけですが、三年ほど前にこのアパートの廊下ですれちがったことがありますね。おぼえていますか? あなたは例によって私の隣人の香坂百合子と一緒でした。仲睦なかむつまじい二人が自然と笑みの浮かぶ口を押さえあうようにして孤独な私とすれちがい、隣の四〇五号室に入っていきましたよ。ええ、私にはひと目でわかりました、あなたたちの交際の長いことが。二人はそっくりに見えましたからね。何と言うかこう、同じ土からねあげられたような、そして大雨でも降ろうものならまた同じ土に戻ってやがてけあってしまうような、そんなお似合いの二人に見えました、私には……。
 それはまあいいでしょう。とにかく手です。私がいまから話そうとしているのは、人間の手が長いあいだ隠し持ってきた、知られざる能力のことなんです。つまりそれが“耳もぐり”なんです。もちろん初めて聞く言葉でしょうね。耳もぐり、耳もぐり……なんともすいな響きではありますけどね、私も昔、ある男からそう呼ぶよう教わったんです。だいいちほかに言いようがありますか? 無粋な行為、そしてそれを駆使する無粋なやからには無粋な呼び名がふさわしいということです。
 ああ、わかっていますとも。中原さん、あなたがなんのために私に会いに来たかは重々承知しています。香坂百合子のことでしょう? 聞きたいことは山ほどあると思います。しかしとにかくあなたは香坂百合子の行方ゆくえが知りたくて私のもとへやって来た。七年ものあいだ彼女の隣人だった私のもとへ。いや、ほこりに思っていいですよ。あなたは正しかった。香坂百合子の行方を私は確かに知っています。ほかの誰も知らなくとも私だけは知っています。そしてあなたに極めて重要な何事かを語ってあげられる。
 実を言いますとね、彼女がこのアパートから姿を消してからの三カ月間というもの、私はずっとあなたを待っていたんですよ。いや、本当です。いっそのことこちらから会いに行こうかと思ったことも一度や二度ではありません。しかし結局その勇気を持てなかった。怖かったんです。あなたとたいするのが。でも、彼女を捜すためにあなたのほうから会いに来てくれたら、と心のどこかでずっと願っていたのも本当なんです。そして、もしその恐ろしい願いが叶えられたなら包み隠さずすべてを話そう、そう思っていました。あなたと彼女は何しろ高校のころから二十年近くも交際してきたんですから、彼女がなぜどこへどんなふうに消えたのかを知る権利があるというものですよ。
 ええ、私はあなたについてもいくらか知っていますが、彼女についてはもっと多くのことを知っているんです。彼女とはこのアパートの廊下や階段で何度すれちがったことでしょうね。彼女は女の一人暮らしですから、男の私をどこか警戒した様子でいつも目を伏せ、曲がらぬものを曲げるような固いしゃくをしたものですよ。どうですか? 私を初めて見たとき、あなたはどんな印象を持ちました? いかにも何かをやらかしそうな危なっかしい男だと思いましたか? これでもつい先日までは作り笑いで顔を引きつらせながら真面目に保険の代理店に勤めていたんですよ。まあいずれにせよ、私と彼女とはただの隣人というだけの関係では終わりませんでした。私たちは、何と言いますか、あるきっかけがあって知りあうようになったんです。これ以上ないほど深く知りあうように。
 あなたがどう思っていたかはわかりませんが、彼女はあなたを本当に好きだったんですよ。もう何年も東京と大阪で別れて暮らし、たとえ月に一度しか会えなくとも、彼女はあなたを本当に好きだった。あなたもご存じのとおり彼女は器用な女じゃありませんでした。人生にわき道なんかないと思っているから、よっぽどのことがないとハンドルを切れないんです。あなたはあなたで自分が一人前になるのを長いあいだ待っていたんだろうと思いますが、彼女もあなたを待っていたんですよ、二十年もね。これは何十万年ものあいだ続いてきた、神話的なまでに古い、そして美しい物語じゃないでしょうか。男は狩りに出る。立派なものを手にするまで帰れない。女は待ちつづける。男が何かを持ち帰るのを。あるいは男があきらめるのを。そしてあなたはとうとう帰ってきた。いまだ獲物を手にしてはいないけれど、あなたは休みのたびに彼女を捜すために大阪へ戻り、そしてついに、何かを知っているかもしれない私に会いに来た。いちの望みをかけて、この四〇四号室の呼び鈴を押した。ある意味、隣人である私のほうがあなたよりもずっと長く彼女のそばにいたわけですからね。一枚の壁をへだててではありますが。
 いや、それにしても私はうれしいんです。あなたが来るのをずっと恐れていましたが、それでも嬉しいんですよ。率直に言って私は真っ当な人間ではありませんが、そういう気持ちまで失ってしまったわけではないんです。いや、それどころか私は男と女のそういうセンチメンタルな物語が好きなんですよ。なんてちんなんだろうと内心けなしつつそれでも泣けてくるんですから、ほとんど肉体的な感情でしょうね、これは……。

 ああ、あの窓際の猫が気になりますか? このアパートは本来ペットを飼ってはいけないんですがね、実際はみんな色々飼っているらしいですよ。うさぎやらハムスターやらフェレットやら、やかましく鳴き立てないやつをね。私も含めて孤独な人間は節操せっそうがありません。愛の蛇口がゆるんでいるとでも言いましょうか、少しずつであれどこかへ向けて垂れ流す必要があるんですよ。あの子はね、六年前でしたか、まだ子猫のときに拾ったんです。どうやって昇ったのか、すぐそこにある公園の藤棚の上でみいみい鳴いて近所の子供の注目を集めていました。でも誰もあの子のことを笑えませんよ。人生だってなんだって昇るより降りるほうが怖いものです。違いますか? ええ、子供に騒がれながら私も藤棚に昇りましたよ、あの子を助けるために必死になって。ほら、あの目を見てください。左右で色が違うんです。青い目と黄色い目、月と太陽を一個ずつめこんだみたいでしょう? 白猫に多く現れる特徴で、オッドアイと言うんです。あの不思議な目で切なげに見おろしてくるんですからたまりません。そしてあのきゅっと閉じた口。もし犬が口をけたらどんな秘密も守れないでしょうが、猫は違います。私が語って聞かせた多くのことをすべて墓場まで持っていきますよ。ああ、あの子の名前はアニエスと言うんです。私は女優のアニエス・リヴィエが好きでしてね、そこからとったんですよ。
 そう言えば、香坂百合子も私が猫を飼っていることを知っていました。私がアニエスをベランダに出したとき、彼女は手すりから少し乗り出すようにして、間仕切り越しにあの子を見たんです。あ、と声をらすのがかすかに向こうから聞こえましたよ。あの子の目に気づいたんです。彼女もまたあの子の目のとりこになったんですよ。私がはっとして見かえすと、彼女は頰笑みを浮かべていました。絶対に人間の私には向けないような無防備な頰笑みでしたよ。あの人も猫が好きなんだな、と思って私も胸が温かくなりました。言ってみれば、あの子が私と彼女を結びつけたようなものなんです。
 実は、私が最後に彼女を見たのもここのベランダでなんですよ。彼女は見ているこっちが冷やひやするぐらいに手すりから身を乗り出し、この子を抱く私をじっと見て手招きしてきたんです。そして世界が耳をそばだてているのだというふうに小声で話しかけてきました。何と言ったと思いますか? 意外なことを言ったんですよ、彼女は。私にとっては実に意外なことを。まあその話はまたあとでするとしましょうか。言ってしまえば、付け足しのデザートのような話に過ぎませんからね。
 ところで、あの子の目を見ていると、いつもある映画を思い出すんです。『殺し屋、あるいはあいびょう』という題名の古いフランス映画でしてね、平気で人を殺す冷酷な殺し屋が大きな屋敷でたくさんの猫と暮らしているんです。主演を務めたルイ・カリエールがまた猫のような顔をした男なんですよ。いつも何かのすきから世界をのぞき見ているような、そんな目を持った二枚目で……。
 さて、その殺し屋ですが、おかしなことに、仕事をこなすたびにどこかから猫を一匹手に入れてきては、殺した相手の名前をつけて飼うんです。まるで自分が殺した人間はただ死んだわけではなく、すべて猫として生まれ変わったんだというように。誰一人殺してなどおらず、本来あるべき猫の姿に戻してやっただけだというように。でもそのせいで愛しはじめた女刑事に正体がばれてしまいます。そして最後は屋敷を警察に囲まれて、銃で全身を撃たれて死ぬんですがね。
 なんと言っても結末がいい。まみれになった殺し屋は最後の力を振り絞って、手にかけた者たちの魂を解放するかのように屋敷の扉を開けはなつんです。そして死者の名を受けついだ猫たちがどっと外にあふれ出てくる。息絶えた殺し屋の死体を乗り越えて現れる無数の猫、猫、猫……。フランスじゅうの人間をすべて猫に戻そうとたくらんでいたかのように、決して途切れないおびただしい猫のほんりゅうです。それを搔き分けるようにして殺し屋に近づいてゆく美しいブロンドの女刑事。それがさっき言ったアニエス・リヴィエです。しかもその場面こそが彼女の女優人生のなかでもっとも美しかった瞬間ですよ。そして不思議なことに、リヴィエ演ずるその女刑事の姿がいつのまにか真っ白な猫に変わるんです。誰が見ても、あっ、と思いますよ。ほかの猫はみな屋敷から出てくるというのに、その白猫一匹だけが帆のように大きなしっぽを立て、その流れに逆らって歩いてゆく。またその白猫が格別に美しい。愛されないというだけで死に至るような、そんな美しさです。と言うのも、その猫もまた夜と昼の境に生きつづけるかのように左目が青色で右目は黄金こがねいろなんです。そして女刑事だった白猫は、扉のところでむくりと立ちあがった黒猫に近づいてゆく。暗闇に目が付いたような真っ黒な黒猫です。殺し屋もまた猫に生まれ変わったんです。やがて白猫は黒猫のもとにたどり着き、二匹は猫の群れにまぎれて取り囲む警官たちのあいだをすり抜けると、パリの街へ出てゆく。いまや猫の楽園と化したパリへ。何度見ても私はその場面で泣いてしまうんですよ。でも本当は実にグロテスクな場面のはずなんです。猫の数だけ人が殺されたわけですから、死体が群れをなしてパリを徘徊はいかいしていると見なしてもいいぐらいのものです。しかし、ああ、まんというものは美しければゆるされるのでしょうか? わかってはいても、それでも、私の頰を涙が伝います。恐ろしいものです。罪深いものです。物語というやつは……。

 ああ、そうでした。耳もぐりの話でしたね。余談が過ぎました。私が初めて耳もぐりを目撃したのは二十六歳のとき、中原さん、あなたが生まれる以前の話です。昭和四十七年、あさ山荘さんそう事件が世間を騒がせた年でしたからよく憶えているんですよ。その当時、私は北大阪市のまちこうせん盤工ばんこうとして働いていました。父親のいない貧しい家、しかも四男でしたからね、ひめの中学を出てすぐ十五のときから働きはじめたんです。ちょうど集団就職の時代でしたが、泣く泣く夜行列車に詰めこまれて東京へ、などというわけではありませんでした。私の場合は、遠い親戚が尼崎あまがさきでやっていた町工場と母とのあいだにいつのまにか話がついていたんです。うじゃうじゃいる子犬のもらい手がまた一人見つかったとでもいうふうに。結局そこは三年ほどでやめましたが、嫌々ながらでもほうぼうの町工場で十年も旋盤を回していましたから、そこそこの腕だったと思いますよ。
 と言っても、私は旋盤にかじりつく油虫として一生を終えるつもりはありませんでした。いかにも若僧らしく、これといった計画も展望もない痛々しい野心家だったんです。無知と蒙昧もうまいに巣くった叶える当てのない野心、母に言わせればこれは遺伝ですよ。父のことはまったく記憶にありませんが、わしはこんなんでは終わらん、というのが口癖くちぐせだったそうです。実際には、こんなんで終わりましたけどね。父は小さな印刷所で版下はんした職人をしていたんですが、私が生まれてすぐのころ、首のところを大きくらせて、瘰癧るいれきか、がんか、それともまた別の病気かはわかりませんが、とにかく干物みたいにせ細って死んだらしいです。阿呆あほくさ、阿呆くさ、と何もかもを呪いながら。これもまさに遺伝ですよ。いつのころからか私も知らぬまに同じことを言っていましたからね。阿保くさ、阿呆くさ、と。実際、野心というのはたちの悪いものです。私に耳もぐりを教えてくれた男に言われたことがありますよ。お前と話してると、腐った野心のにおいがしてくるぞ、と。どきりとしました。実際、野心というのはいつまでも抱えつづけていると徐々に腐敗してくるものです。死体か何かみたいに。

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 あの日、夜遅く、私はうめから北大阪行きの電車に乗っていました。日曜か祝日か、とにかく休日でしたね。当時、恋人も友人もいなかった私は一人で映画を見に行くのだけが楽しみで、これも偶然と言えるんでしょうか、さっき話した『殺し屋、あるいは愛猫家』を最初に見たのもあの日だったんです。次から次へと虫けらのように人が殺されて、何かこう、自分も無情と感傷を両わきに抱えた存在になったような気がしましたよ。映画館を出たあと、その勢いで何軒か立ち飲みをハシゴしました。一人きりで誰と話すこともなく、カリエールのようなあいしゅう漂う自分の背中を想像しながら飲んだんです。たったいま標的を殺してきたという感じでね。そしてこれから生まれ変わりの猫を拾いに行くんだという感じで。帰りは終電だったかもしれません。とにかくすっかり暗かった。私の乗った車両は棺桶かんおけみたいにがらがらで、私と、何メートルか離れて向かいの席に若い女が一人だけ座っていました。女も酔っているのか、ぐったりと座席に沈みこんで眠りこけていましたね。やたらと化粧が濃くて、何かこう、だらしないぐらいに目鼻の大きい女でした。私は昔から顔の造りの大きな女が嫌いなんです。どうしても不潔な感じがしてしまう。きっと母の影響ですよ。ええ、私の母も目鼻や口をだるげに世間にどさりと投げ出しているような、だらしない顔立ちの女でした。だから寝ているからってじろじろとその女を視線でまさぐろうというよくも起きず、少しでも眠るべく私も目をつぶったんです。
 ここからが重要です。目を閉じてしばらくすると、誰かが隣の車両から移ってきたような足音が近づいてきました。コトン、コトン、という男物の硬い革靴のような足音でしたね。いや、実際は気配をぐっと押し殺して忍びよってくるような、普段なら聞き逃していたに違いないさいな足音だったんです。でもなぜでしょうね、運命にも足が生えているのだとしたら、そんな音を立てて近づいてくるのかもしれないというような、小さくても妙に輪郭の際立った音でした。その足音が私の前でぴたりと止まったんです。そのまま一歩も動かない。十秒っても二十秒経っても動かない。いずれそこらの座席に座るだろうと思っていましたが、そんな気配もありませんでした。足音のぬしはずっと私を見おろしているのかもしれない、そう思うと、だんだんと車内の空気が薄くなってくるようでした。私は目をつぶったままじりじりと考えました。ひょっとしたら、こいつは俺が正体もなく眠りこけてると踏んで、財布を狙っとるんと違うか? そのうちポケットを探ってくるんと違うか? それならそれでいいと思いました。どこかにちょっとでもさわってきよったら、すぐさまその手を引っつかんで指の一本でも二本でもへし折ったろ、そう思ったんです。何しろ、あの夜の私はまだ無情な殺し屋ルイ・カリエールでしたからね。そうでなくとも、むしゃくしゃして誰でもいいから他人を傷つける理由を探す、そんなときってあなたにもあるでしょう? 私はこの世に生まれてから四半世紀、ずっとそうでした。生まれてからずっと他人を傷つける理由を探しながら生きてきたようなものなんです。だから私はいつだって待っていましたよ。何者かが私のふところあさるのをね。
 しかし結局、足音の主は私にはれてきませんでした。こいつはまだ死ぬには早いと思いなおした死神のように、また、コトン、コトン、と用心深げな足音を立てて私の前を通りすぎていったんです。そしてまたぴたりと立ち止まった。さては向こうの女に狙いを移したな、と思い、私はそっと薄目を開けました。六、七メートルほど離れたところに上背うわぜいのある男の背中が見えました。案のじょう、眠りこんだ若い女の前に立ちつくし、その姿をじっと見おろしているようでした。背中しか見えませんでしたが、振りかえっても振りかえってもまだ背中なんじゃないかというような嫌な感じの後ろ姿でした。列車は揺れているのに男の体は小揺るぎもしない。ぬるりとした感じので肩で、頭がきゅっと小さくてうなじがコブラのように太い。黒いピカピカの革靴をき、細い縦縞たてじまの入った紺色の背広。油で撫でつけた髪には白いものが交じっていて、そう若くないことが見てとれました。普通の勤め人かとも思いましたが、しかし何かが気になりました。何かが足りない。これはあとから気づいたんですが、男は手ぶらだったんです。勤め人なら鞄の一つぐらい持ち歩いていてもよさそうなものでしょう? ええ、この手ぶらというのが肝腎かんじんなんですよ。耳もぐりをやるにはね。
 薄目を開けたまま、私は息を殺して待ちました。男が女に触れるのを。財布を盗られるのは何も自分でなくても構いません。男が女の鞄を漁ろうものなら、バネのように飛び出していって正義の名のもとに腕をひねりあげてやるつもりだったんです。でも男は女の鞄にはまったく興味がない様子でした。なかを探ってくれと言わんばかりに座席に投げ出された鞄にではなく、眠った女の顔のほうにそろそろと手を伸ばしていくんです。肩でも揺すって女を起こす気だろうか、と初めは思いました。なんのために? 眠らせておけばいいのに余計なことを、と。ええ、もちろん男は女を起こす気なんかなかったんです。ふと見ると、女の顔のほうにゆっくりと近づいてゆく男の手はなんとも奇妙な形をしていました。いえ、普通の手には違いないのですが、指の曲げ方がとにかく奇妙だったんです。眠った人を優しく揺り起こすと言うよりも、女の口に腕一本をまるごとこじ入れて内側から裂き殺すような不穏でいびつな手の形でした。しかし男が目指すのは口ではありませんでした。耳でした。男の怪しい手は女の耳に近づいていったんです。

 ところで話は変わりますが、猿とタイプライターの話はご存じですか? 猿がタイプライターの前に座ってでたらめに打ちつづければ、いつかはシェイクスピアの作品ができあがる、という有名な話です。いやいや、実際にはできあがりませんよ。死なない猿も壊れないタイプライターも存在しませんから、単なるじょうの空論に過ぎません。でも、耳もぐりを最初に発見した人間もそんな根気のある猿、あるいは飛び抜けて幸運な猿のような存在だったかもしれないと私は思うんです。その人間の目の前にあったのはタイプライターではなく、みずからの手であり、誰かの耳だった、という違いはありますけどね。
 まったくせきとしか言いようのないあの手の形は誰が発見したのでしょう? 自分の手のことなんかすみずみまで知りつくしているとあなたは思うかもしれませんが、人間の手というのは実に様ざまな形態を取り得るんです。あなたも昔、遊んだんじゃないですか? 手で狐をつくってみたり、蛙をつくってみたり、蝶々をつくってみたり……親指をこう曲げて、人さし指はこっちへこう、小指はこっちへ、といった具合にね。そしてその奇妙な形の手をさらに誰かの耳に突っこもうなんていったい誰が思いついたんでしょうか? 偶然としか言いようのない大いなる飛躍です。ちなみに耳もぐりの世界では、その手の形は“鍵”と呼ばれ、耳は“鍵穴”と呼ばれているんです。実際の鍵もその形が重要なように、耳もぐりにおいても手の形こそが重要なんですから。ええ、人間の手はものをつかむだけではなく、すべての人間の耳をこじ開ける鍵にもなるんですよ。
 もうおわかりでしょう? 男は“鍵”によって、“鍵穴”つまり女の耳をこじ開けました。私の見る前で、男は女の左耳に右手の中指を突っこんだかと思うと、ずるずるずるっと全身が吸いこまれてゆき、音もなく姿を消したんです。背広も革靴も残すことなく、頭のてっぺんから足の先まですっかり姿を消した。つまり、なんと言いますか、人間の形をした紙風船が中指の先からきつくしごかれて、つぶされながら小さな穴に吸いこまれてゆくような感じでした。時間にしてせいぜい二、三秒といったところでしょうか。それを目撃した私の驚きは想像がつくでしょう? 一人の人間が一人の人間の耳のなかに吸いこまれて消えたんです。その瞬間、女がびくりと身を震わせて目を覚ましました。何かこう、穴に落ちる夢でも見たような具合です。女は、やはり何か違和感を覚えたんでしょうね、男を吸いこんだ左耳にしきりに触れながら、どこか非難がましい視線を私のほうに向けてきました。離れたところに座る私が、ろくろ首のように耳朶みみたぶめあげたとでも言わんばかりに。もちろん何も後ろめたいことはありませんでしたが、私は思わず目をらしてしまいました。言えますか? 私は何もしていませんよ、たったいま怪しい男があなたの耳にそっくり入っていったんです、まるで蛇みたいに細くなって、なんてことを。だいいち女が目を覚まさなければ、そして女が耳を気にする様子さえ見せなければ、私は夢うつつに幻を見たんだと思ったことでしょう。それとも男のやった奇術だったのでしょうか? いや、女のほうがやったのかもしれない。観客もいないのに? それとも私一人に向けて? 本当に眠っているのかもしれないのに? 夜の電車に揺られながら、そしてちらちらと女を盗み見ながら、様ざまな考えが訪れては去りました。もちろん納得のいく説明だけは思い浮かびませんでしたが……。
 さて、これまた運命が私をいざなったのでしょう、女は偶然にも私と同じ駅で降りました。終点の北大阪です。山のふもとにある、どうということもない小さな駅ですよ。駅の西側には町工場がたくさん軒を連ね、私の働く工場の寮もその一角にありましたが、まっすぐ寮へは向かいませんでした。女が改札を出てから駅の東側へ歩いていったからです。なんとも恥ずかしい話ですが、私はあの夜、女のあとをそっとけていきました。女がこのあとどうなるのか知りたい、でなければ住むところを知りたい、と思ったんです。なぜそんなことを考えたのかと問われれば、何かが起きるような気がしたから、としか答えられません。とにかく、あんな信じがたいことが目の前で起きてこのまま終わるわけがない、俺の前で始まったこの物語にはまだ続きがあるはず、そう思ったんです。また、これこそが待ちに待った自分の転機なんじゃないか、そしていま見たことはそのしるしなんじゃないか、という不思議な思いもありました。いまだから言えるのかもしれませんが、そういうときというのはなぜだかわかるものです。これに喰らいつかねば、という理屈も何もない瞬間がね。そうではありませんか? ええ、もちろん私が言うこの感覚は、ある種の狂気です。狂気とは見なされない静かな狂気です。人間がわけもなく力強く歩いているとき、たいていはそんな狂気が背中を押しているものですよ。
 女の話を続けましょう。女は一人の男が丸ごと耳のなかに入っていることも知らぬげにひっそりと静まりかえった住宅街を歩いて行きました。ところどころにポツンポツンと肩身が狭そうに街灯が立っていて、弱々しい光で夜道を照らしていました。あたりを見まわしましたが、その道を歩いているのは私と女、二人きりです。女のほうもそれが気になったのか、一、二度後ろを振りかえり、離れてついてくる私にやや警戒しているようでした。なんの後ろめたいこともないときには男としてしゃくさわるものですが、実際にあとを尾けているのですから、まったくやむを得ないことです。それに、私は柔らかい運動靴を履いていたので、まるで獲物を狙う猫のように静かに歩けました。一方、女はかかとの高い靴を履いていたので、ひと足ごとに、カッ、コン、カッ、コン、というひづめにも似た高らかな足音を響かせました。肉食動物と草食動物の足音、その違いに気づいた瞬間、俺はいったいこの女をどうするつもりなんやろ、もし話をする機会を得たとしてもこの女は耳にもぐりこんだ男についてきっと何も知らんやろな、という隙間風のような正気の考えが束の間の狂気に吹きこんできました。私は生来、油紙のように火の着きやすい性分なのですが、頭が冷えるのもことのほか早いのです。こんな馬鹿げた追跡はもうやめよう、人間生きとったら一度や二度は説明のつかんことを目にするもんや、そんなもんは人生の転機でもなんでもない、珍しい犬のくそを踏むようなもんや、そう思いました。
 そのときです。突然、女がぴたっと立ち止まり、もう我慢がならないというふうにくるりとこちらを向きました。そして肩を怒らせ、巨大な目でまっすぐこちらをにらみつけてくるんです。だからと言って、私まで立ち止まるわけにはいきません。急に空気が冷たく重くなったような気がしましたが、息を詰めて歩きつづけました。女が振りかえったのはちょうど街灯の下でしたから、その派手派手しい顔立ちが舞台に立った女優のようにくっきりと浮かびあがりました。私と女の距離が縮まります。いわく言いがたい、割れ鏡に映したような、自分でも何をやらかすかわかっていないような、危なっかしく強張った女のぎょうそうでした。私はぞっとして、頭をぐいと押さえつけられたように思わず視線を落としました。いや、それどころか、ついに私は立ち止まってしまいました。私と女のあいだにはわき道もなかったので、かわすわけにもいかず、かと言って女の横を通りすぎて背中を見せるのもいっそう恐ろしいような気がしたのです。
 街灯の下、五メートルほどの距離でしたでしょうか、私と女はしばし無言で向かいあいました。女の厚ぼったいくちびるがときおりぴくぴくと動くので、とうの言葉か何かを投げてくるかと思い身がまえていましたが、その言葉は出かけては呑みこまれ、出かけては呑みこまれするようでした。この口から言葉が出るときは言葉だけではすまないのだというふうに。その異様なせいじゃくに私は息苦しくなってとうとう二、三歩後じさり、そのままくるりと振りかえって駅のほうへと足を向けました。あのときの背中の凍りつくようだったことと言ったらありません。もちろん何度も何度も振りかえりました。しばらくのあいだ女は立ちつくしたまま私の後ろ姿を睨みつけていましたが、あるとき振りかえると、こつぜんと街灯の下から姿を消していました。あの蹄のような足音が聞こえなかったのにもかかわらず。私はそれがまた恐ろしくなってますます足を速めました。ほとんど小走りと言ってもいいほどです。もちろん後悔していました。あれが並の女であったなら、夜道で背後を警戒することはあっても、立ち止まって睨みつけてくることはなかったでしょう。しかしなんと言っても、女の頭のなかには得体の知れない男が一人入りこんでいたんですからね。結局のところ、黙って通りすぎなければならない世界の裂け目に、かつにも手を突っこんでしまったんです。ええ、もちろん手遅れでした。私の手はもう握りかえされていたんです。向こう側からしっかりと。

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 どんなふうに握りかえされたか、それをお話ししましょう。夜が背後から押しよせてくるような心持ちのままどうにか工場の寮の近くまでたどり着き、ほっと胸を撫でおろしたときでした。私はぎょっとして立ちすくみました。なぜか前方に、道の先に、さっきの女がいるんです。夜道をこっちに向かってふらふらと歩いてくるんですよ。しかも裸足はだしで、左手に真っ赤なハイヒールを片っぽだけ、自分の心臓か何かのように握りしめて。逃げるうちに小さな惑星を一周してしまったようでした。いや、ほかにも道はありましたから、きっとわき道に逸れてから必死に走って先回りをしたんでしょう。そこまでするだろうかとも思いましたが、実際、目の前にいたんですから、そうとしか考えられません。そしてやはり様子がおかしいんです。さっき向かいあったときも女は明らかにおかしかったんですが、今度はまた違うふうにおかしい。ついさっきはあれほど激しく睨みつけてきたのに、しかも裸足になってまで追いかけてきたはずなのに、今度はよろよろと視線が泳いでいて私のことなんかろくに見ていないんです。いや、ちらちらと見るには見るんですが、なんと言いますか、あんたやない、という感じでした。私が恐るおそる道端によけると、女はそのままふらふらと私の前を通りすぎて行き、ときおりひどくおびえた様子でこちらを振りかえるのですが、やはり、あんたやない、という感じでした。私は呆気あっけに取られてその後ろ姿を見つめていました。すっかり女が見えなくなるまで。
 そのときです。背後からあの男に声をかけられたのは。四十年も昔のことですが、いまだに耳のなかからそのしつこい残響を引っぱり出せそうですよ。男はこう言ったんです。
「見たんだろう」
 私はびくりとして、本当にびくりとして、瞬時に振りかえりました。電車のなかで後ろ姿を見た男が立っていました。すぐそこに。手を伸ばせば届くところに。ぬるりとした撫で肩と背広姿ですぐにこいつだとわかりました。五十がらみのなんとも不快な顔立ちの男。べこんとこけた頰、さめのようにとがった鼻、そしてトカゲのように厚ぼったいうわまぶたのせいでしょう、世界の下半分しか見てこなかったというふうな嫌らしい視線が私の目玉をぐいぐいと押してくるようでした。男はまた言いました。
「おまえ、見たんだろう。これを……」
 あっ、なんとかしなくては、と一瞬考えたのですが、もう手遅れでした。男は左手で私の左手首をぐっとつかみ、右手をすっと伸ばして、私の左耳に指を突き立ててきたんです。他人の指を耳に突っこまれるというのはどこかくつじょく的でおぞましい感覚のはずなのに、それらしい衝撃は感じませんでした。反射的にのけぞりながら首を捻って逃れようとしましたが、男が薄い唇でにやりと笑うのを視界の片隅に捉えたかと思うと、その笑みがぐにゃりとゆがんで細くなり、あっと言うまにずるずるずるっと左耳に入りこまれてしまいました。このに及んで、不思議なことに、と言っておきましょう、何かが強引に入りこんでくる、という耳が裂けるような痛みはまったくありませんでした。そして、頭に何かが入っている、という違和感も。そっと息を吹きこまれたみたいに一瞬耳がくすぐったくなったかと思うと、目の前で男がくしゃくしゃっと細くなりながら姿を消した、ただそれだけです。電車で女が入りこまれるのを見ていなかったら、よもや一人の男に耳にもぐられたとは思わなかったでしょう。もし男が私にひと言も声をかけずに背後から耳にもぐってきたならば、きっと大きなか何かが耳をかすめたぐらいにしか考えなかったでしょうね。
 どれぐらいの時間その場にいたかはっきりしません。一分か十分か、それとも三十分か一時間か、それすら言えない。とにかく気が動転していたんです。何度も左耳に自分の指を突っこみ、男を穿ほじくり出そうとしましたが、なんの取っかかりもない。いつもの耳の穴です。しきりに頭を振ってみても、がいのなかを小さな男が転がってごろごろと音を立てるわけでもない。どうにかしなければと思いましたが、自分の影を足の裏から引きがすようなもので、何をどうしたらいいのか見当もつきません。私は取りあえず寮に戻ることにしました。頭のなかに爆弾でも抱えているような心持ちでしたが、差しあたってほかにできることもなかったんです。あなたならどうします? 病院にでも駆けこみますか? 先生、耳に人が! 耳に人が! それとも精神病院に? ええ、行けるでしょうね。そう言いつづければ。耳に人が! 耳に人が!
 寮は木造の二階建てで、私の部屋は二階の奥でした。三畳ひと間に押入一つ、独房のように狭い部屋です。暗い裸電球、り切れた畳、雨染みの広がる天井板、穴のあいたふすま、砂の剝がれ落ちた薄い土壁。湿っぽい万年床がぐたっと脱ぎ捨てられ、家具らしい家具もありません。目を引くものと言えば、買ったばかりのテレビぐらいでした。それでもまだましというものですよ。私が中学を出て働きはじめたすぐのころなんて、工場の社長の自宅に下宿させられて四畳半に四人も押しこめられていたんですからね。とにかく一人になれる時間がもっともありがたい財産だったんですよ、私たちの時代は。
 私は自分の部屋に飛びこむと、真っ先に鏡を手に取りました。鏡と言ってもメラミンののついた安っぽい手鏡でしたが、男が入りこんだことによって何かしら自分の外見に変化が現れているんじゃないかと不安になったんです。しかし無駄でした。顔色も異常なし、入りこまれたはずの左耳も異常なし、どこからどう見てもいつものうだつのあがらない自分の姿です。しばらく鏡を眺めているうちに、こう考えるようになりました。あんな男には会わなかったというのはどうだろう。俺の耳には何も入りこまなかったというのはどうだろう。実際、何もおかしな感覚はないし、差しさわりもないやないか。俺は何かうしのうたか? いや、何も。酒に酔うとったんや。調子に乗って飲みすぎたんや。俺もいよいよヤキが回って、酔っぱらいのじじいが記憶をなくすみたいに妙な酔い方をするようになってきたんや。時間が経つうちに、だんだんとその考え方で支障がないような気がしてきました。ひと晩ぐっすり眠れば、世界のちょっとしたほつれなんか神様がちょちょいとってしまうだろうという感じでね。

 しかしそう甘くはなかったんです。本番はそこからでした。突然、私の右手がぐいっと持ちあがり、手鏡を頭上に高だかとかかげたかと思うと、つまらない顔をつまらないままに映し出した罰だとでも言うように、それをテレビの角に思いっきり叩きつけたんです。私の手が、勝手に! もちろん鏡は砕け散りました。必死にふくらませた楽観とともに粉ごなに。そしてさらに私の口がぼそりとつぶやいたんです。
俺はここにいる
 一瞬、私は自分がひとり言を言ったんだと思いました。話し相手が少ないせいか、普段から独り言が癖になっていたものですから。しかし違いました。私の口がまたもごもごと勝手に動き、今度こそはっきりと言ったんです。
俺はここにいると言ってるんだいないことになんかできねえよ
 恐ろしいことです。たとえようもなく恐ろしいことです。思いどおりにならない肉体に生き埋めにされるというのは。私は瞬時にさとりました。なぜさっきの女が夜道で決然と振り向いたのかを。そして私と向きあいながら、なぜあんな壊れた表情を浮かべていたのかを。そしてなぜ裸足になってまで追いかけてきたのかを。あの女やない。こいつや。いま俺の頭のなかにおるこいつが、あの女を内側から操ったんや。あれほど怯えとったんは俺にやなく、こいつにやったんや!
 私は割れた手鏡を握りしめたまま呆然ぼうぜんと立ちつくしていました。どこかに逃げ出すわけにもいきませんし、見えない相手に暴れるわけにもいきません。敵はここに、私のなかにいたんですから。しかしまだ希望はありました。あの女から出てきたということは、私からもいつか出てゆくだろう、そう思ったんです。そして、得体の知れぬ如意にょいに囚われながら、ふと奇妙な考えが浮かびました。本当に奇妙な考えが。しかしその考えは奇妙と言うよりも、生まれてこの方ずっと腹の下で温めていた卵のごとく馴染なじみ深く大切なものに感じられました。それはこういう考えでした。俺にも一緒のことができへんやろか。さっき見たこいつは化け物のようには見えんかった。ちゃんと目鼻もあり、れいな服を着、二本の足を生やし、しっかりと大地を歩いとった。人間なんや。こいつも人間なんや。ほんなら俺にも一緒のことができへんやろか。できると思いました。できないはずがないと思いました。私は恐るおそる自分の口を動かしました。まるで他人の声をこっそり借りるかのように。
「教えてくれ。それを俺にも教えてくれ」
 私は、いや、私のなかの彼は笑いました。声もなく、大口を開け、のどをひくつかせ、のけぞるようにして笑いました。いったいどれぐらい笑っていたことでしょう。私のなかの彼は手鏡を落とし、腹を抱え、畳にひざを突き、涙を浮かべ、蒲団ふとんに転がり、どこか芝居じみたおお袈裟げさな笑い方で、天井を見あげたまま笑いつづけました。私はいつ終わるとも知れない彼の笑いに肉体を奪われながら、彼のことをほんの少しだけ理解したように思いました。世界で最後に生き残った道化師のような、笑うのも笑われるのも自分一人しかいないような、巨大な孤独を飼い慣らした人間の笑い方でした。そして少しずつ笑いの発作が治まってくると、彼は一転、今度はそのツケを払うかのように重たく押し黙り、横になったまま狭苦しい部屋のなかをゆっくりと見まわし、やがて言いました。
「ここから出ていきたいってわけか? この牢獄から?」
 この牢獄、その言葉は彼が口にしたのですが、まるで私の魂に釣り糸を垂らして引きあげてきたかのようにしっくりと響きました。私は何も答えず、ただうなずきました。彼は、はっ、ともう一度だけ鋭く切るように笑い、言いました。
「牢獄の外は隣の牢獄……」
 私の右手がおもむろに動きはじめたかと思うと、見たこともないような妙な形をつくり、その中指が右耳に突き立てられました。これはあとから知ったことですが、入るときの手の形とはまた違うんです。似ているようですが、確かに違う。これを間違うと大変なことになる、と彼からのちに教わりました。耳もぐりの第一のタブー、自分の耳にもぐってはならない、と。彼は“かぎ”と“かぎ”と呼んでいました。そして彼はその“出鍵”を使って私の耳から自分自身をずるずると引き出したんです。まるでつま楊枝ようじでもってサザエのお化けでも穿ほじくり出すように。入ったときもそうでしたが、耳から何かが引きずり出されるという感覚はほとんどありませんでした。そして彼が蒲団に寝転ぶ私の横にごろりとその姿を現したんです。背の高い彼はぬっと立ちあがり、何かのいただきにいるかのように、つやのない暗い瞳で私を見おろしました。私は男を見あげました。私たちはしばし無言で視線を交わし、何かを確かめあったんです。信じがたい秘密を共有するのに必要な何かを。孤独な目と、孤独な目で。そして彼は私のほうへひょろりと長い手を伸ばしてきました。その手を取れば悪魔との契約が成立するとでも言うように。そう、私は確かにその筋張った手を取り、蒲団の上から引き起こしてもらったんです。私はあの場面を思い起こすたびに、我が事ながら象徴的なものを感じるんですよ。みずからの汗でじっとりと重たくなった万年床の上から起こしてもらったということに。
 さて、彼は私を引き起こすなり、いぶかしげに部屋を見わたして言いました。
「ここは誰の頭のなかだ?」
 これは彼の冗談なんです。彼だけに、でなければ耳もぐりをする人間にだけ通じる冗談なんです。実際、私がなおもまどっていると、彼は誰にも笑われなかった憐れな冗談への手向たむけだというふうに、ははっ、と小さな声で冷たく笑いましたからね。そして芝居じみた仕草で手を広げて続けました。
「お前じゃないとしたら、俺なんだろうな。え?」
 そこで彼は私を見おろし、おどけたように片方の眉をひょいとあげ、そして自分の頭を人さし指でこつんこつんと叩きながら言いました。
「そんなことより……猫が見えた。大きな屋敷からたくさんの猫が……」
 私は内心ぎくりとしました。彼が言った猫というのはもちろん夕方に見たばかりの映画のことです。私は耳もぐりがどんなものか独り決めしてはいませんでしたが、そういうものだとは思っていませんでした。もぐった相手の記憶にまで、そして心にまで触れるものだとは。しかしそのことについてはのちほどもう少し詳しく話すとしましょう。

 彼は鈴木と名乗りました。もちろん偽名でしょうね。もっとも本当の名前がなんであれ偽名のほうがよほど似合うようなさんくさい男でした。普段の彼がどこでどういうふうに暮らしていたのか私はまったく知らないんです。実はどこかに大きな屋敷を構える大金持ちだったのかもしれないし、あるいはただひたすらに他人のなかを渡り歩くだけのふうらいじんだったのかもしれません。年齢は、そうですね、もし父が生きていれば、鈴木と同い年ぐらいだったと思います。と言っても、もちろん鈴木と父は似ても似つきません。父は首の回らないいのししのような不器用な男だったそうですが、鈴木は背広にもぐりこんだ蛇のような男でした。父のように無駄口を叩いたりせず、そっと欲しいものに近づいて丸呑みにする、そんなひやりと冷たい空気をまとっていたんです。
 実際、鈴木は口数の少ない男でした。と言っても決して口下手というのではなく、かつて言葉がもっと正確に無駄なく使われていた輝かしい時代があったのだとでも言いたげに、ひと言ひと言を相手の胸に言葉を押しこんでいくように話すんです。抜き身の言葉とでも言いましょうか、実際に聞くとひどく不愉快なものですよ。鈴木にそう何度も何度も会ったわけではありませんが、いまでもあの独特の確信に満ちた語り口を忘れられません。いささか恥ずかしくもありますが、ちょっと真似まねをしてみましょうか。
「耳もぐりをうまく使えば多くのつまらないものを手に入れられるが、お前が本当に欲しがっているものは何一つ手に入らない。俺たちは通りすぎるだけ。誰かの頭のなかを右から左へ、あるいは左から右へ、ただ通りすぎるだけ。本当の人生なんか俺たちにはないんだ」
 終始こんな調子です。恐ろしく不自然でしょう? まともな人間の口調じゃない。こうも言っていました。
「明るいところへ出ようなんて思うなよ。俺たちは影みたいなもんだ。少しのあいだなら誰の影にだってなれるが、所詮、影は影だ」
 何を話しても鈴木の口から出ると一切が結論じみていて、私はただそれを黙って聞くしかありませんでした。途中で何か異論を差し挟もうものなら、彼は巨大な沈黙を後ろ盾にじっと私を見かえしてくるんです。言葉で説明してわからないようならあとは沈黙と時間にまかせるだけだとでも言わんばかりに。だからでしょうね、私が鈴木を憎むようになったのは。いや、それだけじゃないな。この際、正直になりましょう。いったん誰かを憎むようになると、それは黒い雪玉を転がすようなものです。ありとあらゆるものが憎しみを引き起こす原因としてまとわりついてくる。私は結局、あの最初の出会いからすでに鈴木のことを深く憎んでいたんです。理屈ではなく、何かこう、肌のようなもので。
 最初に会った夜以来、彼はときおり私の部屋にふらりと現れるようになりました。たずねてくるのは決まって夜更よふけで、私の顔を見るなり、手で耳もぐりの鍵の形をつくってうっすらと頰笑みを浮かべるんです。つまり私がいつどんなふうに誰にもぐったか近況報告を求めるのです。と言うより、弟子が無茶なことをして日陰の道を踏み外してはいないか確認していたのでしょうね。彼は耳もぐりについて日陰者の美学とでも言うような暗い優越心を抱えこんでいましたから。

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 私にとって鈴木の訪問はいつも重苦しいものでした。狭い三畳間で無口な男二人が膝を突きあわせて酒を飲みながらぼそりぼそりと話すのです。鈴木の青黒い顔はほのかに赤みを帯び、その目はだんだんとわってくるのですが、勿体もったいぶったあの口調だけはまるで変わらない。そしてときおり発作的に見せるからからと空虚な笑い。私は鈴木の口調よりも沈黙よりも、あの空っぽの笑いにこそ徐々に我慢がならなくなっていきました。なんと言いましょうか、本当はいつだって笑っているのだ、というふうなずるりと剝けた笑いなのです。あの声になるかならないかの壊れかけた笑いを聞くたびに、私は何か汚らしいものを頭から浴びせかけられたような気がしたものですよ。もちろん一緒になって笑ったことなんて一度もありません。私はただ静かに見ていたんです。彼が笑うのを。笑いつづけるのを。そしてずっと考えていました。こいつはいつになったら俺につきまとうのをやめるんやろ、と。いつまでも消えてくれんようならどうにかせなあかん、と。
 ところで私が初めて耳もぐりをした相手は誰だと思いますか? 少し考えればわかることですよ。そう、もちろん鈴木です。私はあの最初の晩に初めて鈴木の耳にもぐったんです。彼は手短に私に“入り鍵”の形を教えると、子供をくすぐり殺すような薄ら笑いを浮かべて言いました。
「まず俺の耳にもぐってみろ」
 私はぜんとしてしまいました。そういう言葉をまったく予期していなかったんです。のっけから見知らぬ他人に背後からそっと忍びより……というような無茶で安易なことを考えていたのでしょうか。いや、わかりません。きっと深く考えていなかったのでしょうね。そして、よほど私が頼りない表情を浮かべたのでしょう、鈴木は笑いをみ殺して続けました。
「大丈夫だ。すぐに引っぱり出してやるさ」
 正直、余計にぞっとしました。自分から言い出したことなのですが、本当に本当にもぐるんか、この俺がこいつのなかに、と考えると、すうっと血の気が引くように感じたのです。しかも相手は会ったばかりのいかにもろんな男。すぐに引っぱり出してやる、というその言葉が落とし穴の向こうで手招きをするようにまったく不気味に響きました。それでも信じるしかなかったんです。人生には一度や二度はあるもんですよ。まったく信用ならない誰かを信用するしかない瞬間が。私の場合、あの夜がまさにそうでした。
 しかし標的が進んで耳を貸してくれるとは言え、これがなかなか容易にはいきませんでした。瞬時に正確な手の形をつくり、ちゅうちょなくすっと耳に指を入れなければならない。素人にはその手の形がまず難しいんですよ。鈴木の耳に中指を突っこんだまま、どうにか入り鍵の形をつくろうともぞもぞと手を動かすんですが、あとから考えると何とも失笑の込みあげてくる光景ですよ。狭い三畳間に二人の男、一人の男がもう一方の男の耳に指を突き立てて、ああでもないこうでもないと真顔でやりあっているんですから。
 などと言いつつも、とうとうその瞬間が不意にやって来ました。初めて人の耳にもぐる瞬間が。どう表現したらいいでしょう、あの不思議な感覚を。ひと言で言えば、墜落感、とでもなるんでしょうか。意外なことに、相手の耳のなかに、落ちていく、という感覚なんです。まず、ふわっと体が持ちあげられるような浮遊感に襲われるんですが、次の瞬間にはもう相手の耳の穴と自分の入り鍵がはるか下に見え、それがまた巨大な井戸に細腕を引っぱりこまれるようにすら感じられるんです。ええ、はっきり言って恐ろしいですよ。慣れるまでに二、三十回はもぐらねばならなかったんじゃないでしょうか。はたから見るとほんの一瞬の出来事ですが、もぐる側からすると、時間がぐうっと引き延ばされたような感覚におちいって、ひどく長い時間をかけてぬるぬると落っこちていくように感じられるんです。しかし妙なことに、余裕が出てくると、そこにある種の快感が生まれてくる。いまにも漏れそうで漏れない、長ったらしい射精にも似た快感が。
 そう言えば、鈴木はもぐる相手のことを“耳主”と呼んでいました。いかにも鈴木らしい慇懃いんぎんれいな言葉ですが、どこか滑稽こっけいさもあって私も気に入っています。ええ、そう呼ぶことにしましょう。すっかり耳主のなかに入りきってしまうと、墜落感こそ消えるものの、まず感じるのはやはり激しい眩暈めまいです。上も下もないような眩暈に襲われて、何かにつかまったり、その場に座りこんだりしたくなりますが、そこをぐっとこらえなくてはなりません。あくまでもぐった人間の精神的な眩暈、魂のよろめきに過ぎませんから、まず倒れることなんかないんです。そして自分の精神が耳主の肉体にじわじわと馴染んでくるのを静かに待つ。すると少しずつ耳主の五感が私自身のものにもなってくるわけです。相手の見ているものが見え、聞こえている音が聞こえ、いでいる匂いを嗅げ、味わっている味を味わえ、そして肉体の存在が感じられます。自分の肉体ではありませんから、もちろん違和感はありますよ。なんと言いますか、何かの拍子に他人の靴に足を突っこんでしまったような、どこか生温かいような気持ち悪さです。あ、自分の形じゃないな、と心がわかるんですよ。
 言っておきますが、耳主の体を操るというのはたやすいことではありません。私もすぐに自由に動かせると思いこんでいたんですが、鈴木の腕を一本あげるだけでひどく骨が折れました。全身がすっかりえきったような具合で、とにかく力が入らないんですよ。耳主に抵抗されたら、最初のうちはタクシーだって停められません。私がもぐっているあいだじゅう鈴木はずっと笑っていましたよ。いつもこれがたまらないんだ、だから素人に教えるのをやめられないんだ、というふうに。まあ、いずれにせよ、時間が経つにつれて徐々に主導権を握れるようになるんですがね。
 しかし始めたばかりのころは、もぐってから何時間もろくろく動けませんでした。出鍵を使って出るのに、夜になって耳主が眠るのを待っていたものですよ。ええ、相手が眠ってしまうともうこっちのものです。起こさないようにそっと耳主から出て、家じゅうを荒らしまわることだって朝飯前ですよ。実際にそれを生業なりわいにしていた耳もぐりだっていたはずです。いや、いまもいるはずです。実を言いますと、私も工場をやめてからは相当やったものですよ。いや、こそ泥で小銭を搔き集めるだけじゃなく、胸を張るわけではありませんが、しばらく遊んで暮らせるようなカネをひと晩で手に入れたことも一度や二度ではありません。そのおかげでいまではもうカネに困ることはなくなりました。もしかしたら鈴木も同じような手管で汚い財産を築きあげて、相当にいい暮らしをしていたのかもしれません。いつ見ても、どこか浮ついたような、いいなりをしていましたから。
 まあ、自分で言うのもなんですが、私もいまではもうこの道の玄人くろうとということになるのでしょうね。四十年近くも耳もぐりを続けているわけですから。実際、鈴木がそうであったように、もぐってからほとんど間を置かずに耳主から主導権を奪うことができますよ。つまり女にハイヒールを脱がせて夜道を死ぬ気で走らせることもできますし、お高くとまった大女優にもぐってスクランブル交差点のまんなかでストリップをやらせることも、総理大臣のSPにもぐって首相の頭を後ろから撃ちぬくこともできるわけです。まあ、この歳になると、それを実行に移すほどの軽率さも情熱もありませんが。

 そう言えば、鈴木が結局どうなったのかをまだ話していませんでしたね。ひょっとしてあなたは私が鈴木を殺したと思ってはいませんか? いやいや、殺してはいませんよ。いや、どうでしょうね。私は彼を殺してしまったんでしょうかね。実を言うと、ずっと考えつづけているんです。彼がどうなってしまったのかを。まあ私の話を聞いてください。そしてあなたが判断をくだしてください。私が彼を殺してしまったのかどうか。
 ある晩のことです。また鈴木が私の部屋を訪ねてきました。例によって、二人で酒を飲みながら、ぼそぼそと襤褸切ぼろきれでも千切るように話すんです。私はあの夜、鈴木と話しているあいだにひどい睡魔に襲われました。ろくにさかなもつままずに酒を飲みつづけ、夜更けまで語りあうわけですから毎度のことなんです。しかしあんな面白味のない気づまりな男といったい何を話していたんでしょうね。いまとなってはほとんど思い出せませんよ。眠くなると私は遠慮なく蒲団にごろりと横になったもんです。鈴木はそれを見て、どこか嬉しそうに「もう駄目か」とつぶやくんです。酔いつぶれたときだけはいくらか可愛げがあるとでもいうように。そして私が目を覚ますといつも鈴木の姿は消えている。私も弱くはありませんでしたが、鈴木は恐ろしく酒に強かった。日本酒やらしょうちゅうやらを水のように飲むくせに、ろくに便所にも立たない。まさに蟒蛇うわばみです。
 私は夜中にはっと目を覚ましました。時計を見ると、明け方の四時になろうとしている。しかしあの夜はいたんです。鈴木がまだ私の部屋にいた。姿を消していなかった。私の横に、畳の上に、あおけになって眠っていたんです。口をぽこーんと開けて、かすかにいびきまでかいていましたよ。ぎょっとしました。鈴木が眠るところを初めて見たんです。と言うより、何とはなしに鈴木が昼も夜もない化け物のような気がしていたんでしょうね。咄嗟とっさに、こいつも眠るのか、と思いましたから。しかしさすがと言いましょうか、眠ったままでも鈴木の右手は鍵の形をつくっているんです。入り鍵の形を。思わず苦笑しました。そして苦笑のあと、その笑いがぱたっと私のなかで裏返り、鈴木がしつこくくりかえしていた言葉が浮かんできました。
「耳もぐりでいちばんやってはならないこと。それは自分の耳にもぐることだ。自分の耳に入り鍵を突っこむことだ」
 もちろん私はたずねました。やってしまうとどうなるのか、と。鈴木は手を広げ、肩をすくめて言いました。
「さてね。知りたければ自分でやってみろ。それが嫌なら自分の爪先に喰らいついて、少しずつ全身を呑みこんでいくんだ。意地汚いわにみたいに。できたら俺にも教えてくれ。どうなるか知りたいからな」
 入り鍵をつくって眠りこける鈴木を見おろしたとき、何も自分で試すことはないのだと気づきました。誰かにやらせればいい。いや、こいつにやらせればいい。やはり一種の狂気に駆られていたのでしょうね。何かこう、思いついたたんに、おのれに課された避けがたい試練のような気がしました。やらせればいい、ではなく、この俺がやらせなければならない、そのためにこそこいつは都合よく眠りこけとるんや、そう思いました。
 鈴木の右手は完璧な入り鍵をつくったまま何かの祈りのように胸に置かれていました。私はその手をそっと持ちあげ、息を殺し、少しずつ少しずつ彼の頭のほうへずらしていきました。緊張のあまり、どくりどくりと自分の鼓動が聞こえたほどです。途中で目を覚ましたら、鈴木はきっと私の企みに気づいたことでしょう。抜け目のない、ひどく察しのいい男でしたから。
 しかし結論から言えば、私は成功しました。彼の右手の中指を彼の右耳に押しこんだ瞬間、鈴木はばかっと大きく目を見ひらきました。そして私を見あげ、「おまえ!」と声を発しました。いまでも私の頭蓋のなかを木霊こだましているような気がしますよ。あの「おまえ!」という、ありったけの呪詛じゅそめた三文字の言葉が。きっと鈴木は即座に悟ったのでしょう。私が何をやったのかを。しかしもう手遅れでした。耳もぐりはもう始まっていたんです。私の目の前で、鈴木は輪を描くようにして自分の右耳に吸いこまれていきました。ほんの一瞬のことでしたが、鈴木が最後の最後に耳だけの存在になった光景が脳裏にまざまざと焼きついています。擦り切れた畳の上に片方の耳だけがころんと転がり、次の瞬間には耳のへりや耳たぶがぐるんと内側に引きこまれ、ついに鈴木の姿はくうに消え去ってしまいました。跡形もなく、指一本、髪の毛一本残さずに。いったいどこへ消えたのでしょう? ただ単に死んだのでしょうか? それともどこかで猫にでも生まれ変わったのでしょうか? 私にもわかりませんし、もちろんあなたにもわからないでしょうね。しかしあのとき私は笑っていました。なぜか可笑おかしくて可笑しくて仕方がなかったんです。滑稽に思えて仕方がなかったんです。一人の人間がちり一つ残さずに消え去ってしまったことが。いや、一人の人間と言うよりも、鈴木という男が消え去ったことが。そして師匠然とした鈴木がいなくなったことで、私の上に垂れこめていた分厚い雲がさっと晴れわたり、光が射してきたんです。鈴木とはわずか半年ほどのつきあいでしたが、それにしてもあの男はいったい何者だったんでしょうね。ときどきこう考えるんですよ。彼は自分のなかにもぐりこんでしまったんじゃなく、世界のほうが丸ごと彼のなかにもぐりこんでしまったんじゃないかと。空を見あげると巨大な穴が二つあいていて、それが鈴木の耳の穴なんじゃないかと。まあたわいもない空想に過ぎませんがね。

 ああ、あなたはこう考えていますね? 香坂百合子もまた同じようにして消えたのではないかと。私が彼女に耳もぐりを教え、私のあくらつな誘導によるものか、はたまた彼女自身の過失によるものか、とにかく彼女は自分自身のなかにもぐりこんで消えてしまったのではないかと。いやいや、はやてんしないでください。私は鈴木以外の人間をそうやって消したことはないんです。彼女はそんなふうに消えたわけではありません。では、どうやってどこへ消えてしまったのか。それを語るには、耳もぐりにまつわるあと二つのタブー、第二、第三のタブーについて話さねばなりません。鈴木は言いました。
「連続してもぐってはならない。つまり一人の人間にもぐって、その肉体のまま別の人間にもぐるなってことだ」
 どうなると思いますか? マトリョーシカ人形のように入れ子状に次々と耳もぐりをつないでゆく。一つの肉体にいくつもいくつも魂が入りこんでゆく。きっとそこらじゅうにいくつもハンドルのついた車に分別のかけらもない若者が大勢で乗りこむようなもので、さぞかし冷やひやすることでしょうね。さすがの私もそんな危なっかしい真似はしたことがありません。しかしそれに近いことならずっと続けてきましたよ。そこまで危なっかしくはないけれども、それに近いことを、若者のように性急にではなく、もっとゆっくりと四十年をかけて続けてきたんです。
 そして三つ目のタブー。これが肝腎です。
「一人の人間に長くもぐるな。三日ももぐりつづけていると、だんだん混ざってくるぞ。自分と耳主の記憶が、感情が、何もかもが。そうなるともう、お前じゃなくなる。いや、お前でもあるが、結局は別の誰かだ。もう絶対に自分を引っぱり出せない。耳主の体はもうお前の体になってしまうんだ」
 鈴木の言葉は完全に事実です。実を言うと、もぐった最初からそのきざしは仄かにあるんですが、三日を過ぎたぐらいから急激に不安定になってくるんです。まずは新しい記憶から混ざりはじめます。耳主と私の記憶のあいだにあるはずの仕切り板が徐々に引っぱりあげられてゆくような感覚とでも言いましょうか。ふっとどこかに旅行に行ったような記憶が浮かぶけれども、耳主が行ったものか自分が行ったものかがすぐには考え分けがつかない。そこから一週間も経つと、もう引きかえせません。そもそも自分を引っぱり出そうなんて気分にはならないんです。私の言うことはわかりにくいでしょうが、中原さん、試しにこう考えてみてください。いまのあなたの心を二つに分けてみようと。どうです? そんなことをうまく想像できますか? いったいどこに分け目を入れると言うんです? つまりはそういうことです。

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 しかしこれはある種の快楽なんです。いやそれどころか、人間精神が抱える根源的な快楽、もっとも人間らしい至高の快楽とすら言えるものなんです、他人と一つになるということは。中原さん、あなたは自分が自分でしかないことをきゅうくつだと感じたことはないですか? せっかくこの世に存在しているというのに、百も千もの人生を生きられないことに怒りを覚えたことはないですか? 七十億の人間ではなく、一人の人間でしかないことに絶望を感じたことはないですか? 世界がこうやって丸ごと眼前にぶらさげられているというのに、舌先でちょんちょんと舐めるようにしか味わえないことを不当な仕打ちだとうらんだことはないですか? あるはずです。誰にだってあるはずです。だからこそ快楽となり得るんです、他人の心と混じりあってゆくのは。言うなればそれは、自分の心に次から次へと新たな窓が無数にひらいてゆき、見知らぬ風景と鮮やかな風が猛然と吹きこんでくるようなくるめく快楽なんです。一つの人間精神はまさに一つの世界にほかならないのですから、それを取りこめば世界はそれだけ濃密になり、奥行きが増し、鮮やかさも増し、意味も深まるというわけです。この比類なき素晴らしさを言葉で伝えられないのがもどかしくてなりませんよ。
 私が最初に溶けあってしまったのは一人の女でした。どこか堅いつぼみを思わせるような若くてせいな女でしたよ。町工場の近くに小さな食堂があって、彼女はそこで働いていたんです。ろくに言葉を交わしたこともありませんでしたが、あのころの私は彼女を目当てに毎日のように昼飯を食べに行っていました。そこの料理が好きなんだという顔をして。とは言え、そういう下心を持った客は私だけではありませんでした。彼女はみんなからチヨちゃんチヨちゃんと呼ばれて愛されていた看板娘、つまりたかの花だったんです。
 しかしあるとき、夜道でばったり彼女に出くわしました。私は咄嗟に目を伏せそうになりましたが、彼女は、あ、と言って会釈してくれたんです。表情にこそ出しませんでしたが、喜びのあまり胸がとろけてゆくようでした。そして、もうこんな機会はないのではないか、この偶然の出会いはやれという徴ではないのか、そう思ったんです。となると、やはり我慢できませんでした。そのころにはもう何十回も耳もぐりを成功させていましたから、奥手の私もきっと大胆になっていたんでしょうね。チヨちゃんを呼び止め、出し抜けに耳に手を伸ばし、もぐってしまいました。そしてそのまま二日経ち、三日経ち、彼女の心が少しずつ染みとおってきたとき、もう出ていきたくない、このまま彼女と一つになりたい、そう思ったんです。誰かにもぐっていて、そんな気持ちになったのは初めてのことでした。もぐりすぎると自分が自分でなくなると鈴木から教わっていましたから、それまでは長くもぐってもせいぜい丸一日といったところでしたが、何日もかけて少しずつ彼女と溶けあってゆくのは、どんな快楽も遠く及ばないような比類なき経験でした。そして確かに私は別の人間として、まったく新しい両性具有の精神として生まれ変わったんです。しかし人間とはどこまでも足ることを知らないものですね、ひと月ほども経つと、精神に厚みを増した私は新たな肉体のなかでふたたび飢えを覚えはじめました。さらに新たな人間と融合したいという激しい飢えです。もう一度あの過程を経験したいという、ほかでは満たすことのできない飢えです。私はまた獲物を物色しはじめました。もはや、誰にもぐろうか、ではなく、誰と一つになろうか、と考えながら。そしていまここに至る私の長い遍歴が始まったんです。もぐっては溶けあい、もぐっては溶けあい、そのたびに肉体を変えつづけ、あたかも蛇が次から次へと脱皮をくりかえし、そのたびに精神のみがえ太ってゆくような、四十年にもわたる異形の遍歴が。
 私がいままで主に語ってきたのは、言ってみれば心の最下層に横たわっている、しがない旋盤工だった私の記憶です。いや、実際はいくらか間違っているかもしれませんね。『殺し屋、あるいは愛猫家』を映画館で見たのはまた別の私だったかもしれない。姫路で生まれたのも、物心つく以前に父親を失ったのも、本当は別の私だったかもしれない。奇妙に思われるかもしれませんが、いまとなってはこれがなかなか骨が折れるんですよ。たった一人の人間の記憶をほかから正確にり分けてくるというのが。試しに私という存在を一本の巨樹だと考えてみてください。たくさんの精神を太ぶとと束ねあわせた幹を持ち、無数の記憶の根を地中に張りめぐらせた一本の巨樹だと。その根の一本一本が私と溶けあう以前のそれぞれの孤立した人生なんです。私の心の底で、その至るところで、その無数の根は、無数の人生は、複雑にからまりあい、ときには溶けあい、もはや厳密にほどき分けることはできません。
 しかし私はなかなか優秀だとは思いませんか? いくらか正確さを欠くとは言え、四十年をかけて一つひとつりあわせてきた二一三もの私の人生を語ることができるんですから。ええ、そうです。二一三人です。ああ、もしまだ物足りなければ、ほかの人生の話をしましょうか? 北大阪の食堂で働いていたころの私の記憶をあなたに語ることもできますよ。どうです? 聞きたいですか? それとも五カ国語を操るビジネスマンだった私の話をしましょうか? それとも福岡で風俗嬢をしていた私の話をしましょうか? どれを聞きたいですか? ああ、そう言えば、香坂百合子の高校時代からの友人だったいまなつを憶えていますか? あなたも何度か会ったことがありますね? 彼女の人生の話をしましょうか? ええ、そうです。すでに私になっていた今井夏子が、まだ私ではなかった香坂百合子の耳にもぐったんです。四カ月ほど前のことですよ。ひさしぶりに二人で飲みに行き、帰りに二人で駅のトイレに入り、出てきたときにはもう香坂百合子一人でした。彼女はひどく取り乱していましたよ。友人にいきなり耳に触れられたかと思ったせつ、いくらか酔っていたとは言え、その姿を完全に見失ってしまったんですから。ええ、たとえそう見えたとしても、普通は自分の耳に人間が丸ごともぐりこんだとは考えないものです。しかし一週間ほどが過ぎると、香坂百合子もまた別の私と同じように私とすっかり溶けあってしまいました。いや、むしろ巨大な私に塗りこめられたと表現するほうが正しいのかもしれません。いずれにせよ、彼女は巨大な私を形づくる二一二番目の私となったんです。

 最後になりますが、やはりあなたがわざわざ会いにきた二一三番目の私の話をすべきでしょうね。香坂百合子の隣人だった、この私の話を。もはやどうでもいいことかもしれませんが、二一三番目の私の名はふじゆうすけと言うんです。四十四歳の独身の会社員で、これと言って取り柄もない、孤独に慣れきった猫好きの男でした。私は、いや、藤田雄介は腋臭わきがを気にするあまり女と話すのがずっと苦手でしたから、隣人である香坂百合子ともろくに話したことがなかったんです。
 しかしあの日、香坂百合子を私が最後に目にした日ですが、私は私とベランダで初めてはっきりと言葉を交わしました。ああ、何だか話しているうちにひどく混乱してきました。こういうことがいまでもときどき特にもぐったばかりのころに起こるんです。自分の意識が波打ちながらもつれていくとでも言いましょうか、もつれながらずれていくとでも言いましょうか、ずれながら散らばっていくとでも言おうか、何しろいまやどちらも私でありすべては私なんですから私は。ああ、すでに私だった私は手すりから身を乗り出し、猫を抱いた私に手招きしました。私は思いがけない私の大胆な行動にぎょっとしたんだ。手招きした私は猫を抱いた私にわざと小声で言うたんよ。猫を抱いた私はその言葉がよく聞きとれず、え? と言って私に顔を近づけた。私は私と薄い間仕切り越しにベランダで肩を寄せあったんです。あのときの私たちをどこかから見ていた人がいたとしたら、陳腐な恋愛ドラマのようにお隣さん同士で恋が芽生えつつあるとかんったかもしれん。手招きした私は猫を抱いた私にもう一度はっきりと言うた。「いまからそっちへ行きます!」。ええ、あの猫が欲しかったんよ。ベランダで初めてあの目を見たとき、あの映画の白猫の目だ、女刑事の目だ、アニエス・リヴィエの目だ、そう思ったんだ。私の悪い癖です。昔からそうやってなんでもかんでも徴だと思ってしまうんですよ。運命の徴だと。だから私は私にもぐらなあかんと思たんよ。私は私と一つにならなければと思ったんだ。ずっとそうやって私はいまの私になってきたんですから。
 猫を抱いた私は突然の奇妙な宣言に戸惑ってしまい、思わず私に聞きかえしたんだ。「どうやって?」。普通なら玄関から訪ねてくるだろうと考えるところです。しかし頭にふと浮かんだのは、ベランダの手すりにあがって間仕切りをまたぐか、間仕切りのパネルをぶち破るか、そんな馬鹿げた手口でした。とにかくそんな勢いだったんだ、私の「いまからそっちへ行きます」は。私はとっておきの贈り物でも隠し持つように頰笑み、猫を抱いたままうろたえる私に答えたんよ。「知りたいですか? なら、もっとこっちに耳を近づけてください」。私は一瞬、私が手すりを乗り越えて飛び降りたのだと思いました。それで、あっ、と声をあげてしまったんだ。でも私は、私が端っこをつかんだあまごろものように細くなり、私のほうへ優雅とすら言える弧を描いてひらりと舞ってくるのを見た。そして私は念願の白猫を抱き、私の声を耳にしました。「素敵な猫ですね。アニエスと呼んでいいですか?」
 ああ、ほら、当のアニエスが私たちのほうをまたじっと見ています。金目と銀目をこれ以上ないほどにぴんと張りつめて私たちを見ていますよ。六年もともに暮らした主人がふっと姿を消したかと思うと、今度は見知らぬ男が主人のソファに居座って、ぶつぶつと独り言を言いつづける。それがよっぽど不気味なんやろな。
 しかし中原さん、先ほどは大変失礼いたしました。部屋に招き入れるなり、突然あなたの耳に指を突き立てるような真似をして。私が自分の耳のほうへ姿を消したのを見て、さぞかし驚いたことだろうね。ああ、本当のことを言うと、あなたの耳にもぐるのではなく、まずあなたを抱きしめたかったんよ。香坂百合子として、あなたをきつく抱きしめたかったんよ。しかし私が、この私こそが香坂百合子なんだと、この私こそがあなたの捜している私なんだと、そう主張してもあなたは決して信じなかっただろうね。だからこれは必要なことだったんです。やむを得ないことやったんです。こうでもせんかったら、あなたは耳もぐりの話なんか狂人のたわ言と一蹴したに違いありませんから。でもこうなってしまうと、あなたは受け入れざるを得ない。どんな気分やろ? こうやって何者かがあなたの肉体を支配し、あなたの口を使って長々と話しつづけるんは。初めは恐ろしいことやろうね。私もときどき思い出すんだよ。初めて鈴木にもぐられたときのことを。初めて私にもぐられた、たくさんの驚愕の瞬間のことを。
 そう言えば、いつのころからかふと思うようになったんよ。鈴木もまたいまの私のような存在やったんかもしれんと。いくつもの人間精神を太ぶとと束ねた巨樹のような存在やったんかもしれんと。それを私が殺してしもたんかもしれん。消してしもたんかもしれん。鈴木一人ではなく、何十人も何百人もの人間を同時に消してしもたんかもしれん。そう思うと、さすがの私も胸がきりきりと痛むんよ。いや、もちろんわかりませんよ。これはただの想像に過ぎへんから。でもそれが事実やったとしたら、彼らはいったいどうなってしもたんやろ? それを考えはじめると、いつも思い浮かぶんよ。映画のなかでルイ・カリエールふんする殺し屋が屋敷の扉を開けはなつ場面が。猫という猫がすべてパリの街へと溢れ出してゆく場面が。そしてあんなふうやったらええのにって思うんよ。ただ消えてしもたんやなく、みんな見えへん猫んなって仲よう街じゅうを歩きまわっとったらええのにって思うんよ。
 ああ中原さん、光太君怯えんといてくれ私は消えるつもりもないしあんたを傷つけるつもりもないんだから、それどころかあんたはこれから素晴らしい経験をするんだあなたはこれから私と出会う私のなかの香坂百合子とも出会う二一三の私と出会うそしてあなたは二一四番目の私となる、ああ光太君ほんまに会いたかったずっと会いたかったでもこれで私たちずっと一緒になれるんよ光太君に早く教えたりたいねんこれがどんなに素晴らしいことかでも教えられない言葉では絶対に教えられないんだよだから感じてほしいこれから起こることのすべてを隅から隅まで心のひだで味わいつくしてほしいんです、ああたったいま光太君の記憶がほんの少し私に流れこんできたほら私が見えた光太君に寄り添う私の姿が見えた私の瞳に映る光太君も見えた光太君が私におおいかぶさって私の首すじに顔をうずめるそして私を抱きしめるでももっともっときつく抱きしめてほしいねん私きのう怖い夢を見たんよ世界で最後の人間になる夢を見たんよ何十億もの何百億もの人間の耳にもぐりつづけてもぐりつづけてついにすべての人間を束ねてたった一人の人間になってしまう夢を見たんよ私におるんは猫のアニエスだけなんや神様になったみたいな気がした誰がどんなふうに死んでも少しも悲しまへんたった一人の神様になったみたいな気がしたんよすごく満たされとったでも孤独やったああなんで光太君にもぐってしもたんやろ光太君なんでここに来てしもたんやろ光太君が来てしもたからもうすぐ光太君がおらんようなるもうすぐ光太君が私になってしまうでも光太君を失うくらいやったらこのほうがええねんずっとええねんいつか光太君が死んで私だけが永遠に生きるなんて耐えられへん私だけが耳から耳へと永遠にさまよいつづけるなんて耐えられへんもんせやからこれでよかってんこれでよかってんよでも淋しい淋しいんよ悲しいんよああもっと抱きしめて思い出のなかで心のなかでもっともっと抱きしめて光太君が私になってしまう前に私が光太君になってしまう前にもっともっと……

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