たとえば、街を歩くとします。
すると、いろんな情報が視界に飛び込んできます。
空の青さ、人々の足音、見かけない地名の車のナンバー。色、音、文字、なんでもいいです。ただ歩いているだけで、視界はさまざまな情報でいっぱいになります。
昔は、その情報のひとつひとつが独立していました。たとえば、電車の壁にずらりと並んでいる、英会話を学ぼうとかダイエットをして健康になろうとか、そういう前向きな雰囲気のメッセージたち。子どものころ、それらはあくまで、「英会話を学ぼう」「健康になろう」と、各々が独立した主張をしているように見えていました。場所を、たとえば商店街に変えてみても同じです。今イチオシの商品とか期間限定の割引セールとか、そういう派手なデザインの看板やチラシも、それぞれが独立した主張をしていると思っていました。あのころは、街を歩くだけで飛び込んでくるあらゆる種類の情報を、あくまで、あらゆる種類の情報だな、と思うまででした。
だけど、私は少しずつ気付いていきました。一見独立しているように見えていたメッセージは、そうではなかったということに。世の中に溢れている情報はほぼすべて、小さな河川が合流を繰り返しながら大きな海を成すように、この世界全体がいつの間にか設定している大きなゴールへと収斂されていくことに。
その“大きなゴール”というものを端的に表現すると、「明日死なないこと」です。
目に入ってくる情報のほとんどは、最終的にはそのゴールに辿り着くための足場です。語学を習得し能力を上げることは人間関係の拡張や収入の向上に繋がります。健康になることはまさに明日死なないことに繋がります。他にも、人との出会いや異性との関係の向上を促すもの、節約を促すもの……その全ては、「明日死なないこと」という海に成る前の河川です。私たちはいつしか、この街には、明日(歌詞みたいに、「みらい」と読み仮名がふられているイメージの明日、です)死にたくない人たちのために必要な情報が細かく分裂して散らばっていたのだと気づかされます。
それはつまり、この世界が、【誰もが「明日、死にたくない」と感じている】という大前提のもとに成り立っていると思われている、ということでもあります。
そもそも「明日、死にたくない」とは、どういう状態なのでしょうか。
明日、ひいてはこれから先の長い未来、すすんでは死にたくない人たち。最も典型的なのは、人生を共にする人がいる人、でしょう。パートナーや子どもなどがいる人。他にも、両親、きょうだい、友人、恋人、ペットなどを含めた、自分以外の命と共生している人たち。自分の命が存在していなければ生命活動が止まってしまう恐れのある生命体が存在する場合、「明日、死にたくない」と思う可能性は高いでしょう。思う、というか、無意識的にそういう状態である、というほうが近いでしょうか。そして、「明日、死にたくない」状態に該当している人は、自分がそういう状態であることに自覚的でない場合がほとんどです。なので、どうして人間は生きているのか、生きる意味とは何なのか等という疑問を呈したとて、去年の夏は暑かったとでもいうように、「自分にもそういう時期があったけれど」なんて語ってきたりします。
クソみたいな返答です。
「そういうこと、若いころはよく考えたなあ」「そんなこと考えたって仕方ない。毎日を生きるだけ」「人生の意味は、死ぬときにわかるんじゃないかな」「むしろ、そんなことに悩めて羨ましいよ。目の前の家事や仕事で精いっぱい」。
これらはすべて、人生に、自然と他者が現れてくれた人たちの言葉です。「明日、死にたくない」人たちが、その日常を問題なく進めていくための盾として磨く言葉たちです。
そういう人たちが世の中の大多数を占めているため、そういう人たちを基にこの世界のゴールが形作られることは、自然なことだと思います。
また、この数年の間に、幸せには色んな形があるよね、という風潮も強まってきました。家庭や子どもを持たない人生。結婚ではなく事実婚、同性婚、ポリアモリー、アセクシャル、ノンセクシャル、三人以上またはひとりで生きることを選ぶ人生。多様性という言葉が市民権を得て、人それぞれの歓びを堂々と表明し、認め合う流れが定着しつつあります。ゴールはそれぞれだよね、時代は変わったよね、昔と今は違うよね、常識や価値観は変わったよね。高らかにそう宣言するような情報に触れる機会がぐっと増えました。
この文章を読んでいるということは、あなたもこう思っていると思います。
うるせえ黙れ、と。
多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。
自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。
清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる“自分と違う”にしか向けられていない言葉です。
想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。
私はずっと、この星に留学しているような感覚なんです。
いるべきではない場所にいる。そういう心地です。
生まれ持った自分らしさに対して堂々としていたいなんて、これっぽっちも思っていないんです。
私は私がきちんと気持ち悪い。そして、そんな自分を決して覗き込まれることのないよう他者を拒みながらも、そのせいでいつまでも自分のことについて考え続けざるを得ないこの人生が、あまりにも虚しい。
だから、おめでたい顔で「みんな違ってみんないい」なんて両手を広げられても、困るんです。
自分という人間は、社会から、しっかり線を引かれるべきだと思っているので。
ほっといてほしいんです。
ほっといてもらえれば、勝手に生きるので。
でもどうしてか、社会というものは、人をほっといてくれません。
特に組織の中で働いていると、本当にそう感じます。人は詮索が大好きです。生まれ持ったもので人間をジャッジしてはいけないと言いつつ、生まれてからその人が手に入れたものや手に入れていないもの、手に入れようとしなかったものの情報を総動員しては、容赦なくその人をジャッジしていきます。
最近、わかったことがあります。
それは、社会からほっとかれるためには社会の一員になることが最も手っ取り早いということです。皮肉ですよね。でも真実です。ちなみに、社会の一員になるとはつまり、この世界が設定している大きなゴールに辿り着く流れに乗るということです。川のひとつとなり、海を目指すこと。そうすれば、他人からの詮索なんてたかが知れたレベルで収まります。自分の命が存在していなければ生命活動の止まってしまう恐れのある生命体の隣で「明日、死にたくない」と思いながら生きることができれば、社会からほっといてもらえる可能性は高くなります。
最後にひとつだけ。
たとえば、街を歩くとします。
「明日、死にたくない」と思いながら。
世の中に溢れる情報のひとつひとつが収斂されていく大きなゴールを、疑いなく目指しながら。
そのとき、歩き慣れたこの世界がどう見えるようになるのか、私は知りたい。
本当は、ただそれだけなのかもしれません。
ここまで読んだら、これを私に返してください。
そのあとのことは、実際の声で、直接伝えようと思います。
続きは本書でお楽しみください。
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