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著者・早見和真氏コメント

 旧ジャニーズ事務所の性加害問題で批判を一身に浴びた、藤島ジュリー景子とはどんな人物なのか? 叔父・ジャニー喜多川との、母・メリー喜多川との関係は? 当時の所属タレントに何を感じているのか? 二人三脚で歩んできた「嵐」に対する思いとは? 何よりも一連の「出来事」を彼女はどう捉えているのか――
 これまで語られてこなかった事実を、ファンや読者に伝えられるのではないか。それが今回、40時間を超えるインタビューに臨んだ一番の理由です。
 ジュリー氏一人の声だけを記すという行為には恐怖心がつきまといました。それでも、この本には間違いなく彼女の目に映っていたものが、過去と未来が、そして贖罪への思いが記されています。
 読者のみなさまに、等身大の彼女が、その息遣いが伝わることを願っています。

本書の無断転載を禁じます。

以下、本書より

藤島ジュリー景子の手紙(二〇二三年十月二日の記者会見で井ノ原快彦により代読)

 この度、叔父ジャニー喜多川により性被害にあわれた方々に、あらためて心からお詫び申し上げます。
 五月二日に被害にあわれた方とはじめてお会いしました。その後も色々と実際にお話を伺う中で、この方々にどのように補償をしていくのが良いのか、加害者の親族としてやれることが何なのか考え続けております。
 そしてジャニーズ事務所は、名称を変えるだけではなく、廃業をする方針を決めました。
 これから、私は、被害にあわれた方々への補償や心のケアに引き続きしっかり対応させて頂きます。
 叔父ジャニー、母メリーが作ったものを閉じていくことが、加害者の親族として私ができる償いなのだと思っております。

 私は四年前に母親であるメリーからジャニーズ事務所を相続いたしました。
 ジャニーズ事務所は、ジャニーだけではなく、私の母であるメリーも権力を握っていたと思います。ジャニーはメリーからお小遣いをもらうという形でしたので、経営的なことは全てメリーが決めていたと思います。

 ジャニーと私は生まれてから一度も二人だけで食事をしたことがありません。会えば、普通に話をしていましたが、深い話をする関係ではありませんでした。
 ジャニーが裁判で負けた時も、メリーから「ジャニーは無実だからこちらから裁判を起こした。もしも有罪なら私たちから騒ぎ立てるはずがない。本人も最後まで無実だと言い切っている。負けてしまったのは弁護士のせい」と聞かされておりました。当時メリーの下で働いていた人達も同じような内容を聞かされてそれを信じていたと思います。
 そんなはずはないだろうと思われるかもしれないですが、ジャニーがある種、天才的に魅力的であり皆が洗脳されていたのかもしれません。私も含め良い面を信じたかったのだと思います。

 そして母メリーは、私が従順な時はとても優しいのですが、私が少しでも彼女と違う意見を言うと気が狂ったように怒り、叩き潰すようなことを平気でする人でした。
 二十代の時から、私は時々過呼吸になり倒れてしまうようになりました。当時病名はなかったのですが、今ではパニック障害と診断されています。

 私は、そんなメリーからの命令でジャニーズ事務所の取締役にされておりましたが、事実上、私には、経営に関する権限はありませんでした。そして、二〇〇八年春から新社屋が完成した二〇一八年まで、一度もジャニーズ事務所のオフィスには足を踏み入れておりません。
 これは、性加害とは全く違う話で、私が事務所の改革をしようとしたり、タレントや社員の環境を整えようとしたこと等で、二人を怒らせてしまったことが発端です。
 ジャニーとも、二〇〇八年頃から二〇一六年頃までライブ会場ですれ違うことがあっても会話はしておりませんでした。その後、ジャニーの稽古場に呼び出されて久しぶりに話しましたが、それ以降もジャニー本人に会ったのは数回です。その期間のJr.からのデビューや管轄外のグループの解散のプロセスにも関わっておりません。

 メリーからは私の娘である孫に会いたいと切望され、一年に数回、一緒に食事をすることや、お正月には孫と旅行をすることを決められておりましたが、私自身はメリーと話をすることを極力避けて生きてきた人生でした。
 このような説明をすると、󠄁噓だとか、親子で仲が良かったのを見たことがある等、またバッシングされる記事が大量に流れるのだと思いますが、近い関係者の皆様、タレントの方々、社員等であれば、こうした事情を知っていると思います。
 心療内科の先生に「メリーさんはライオンであなたは縞馬だから、パニック障害を起こさないようにするには、この状態から、逃げるしかない」と言われ、自分で小さな会社を立ち上げ、そこに慕ってくれるグループが何組か集まり、メリー、ジャニーとは全く関わることなく、長年仕事をしておりました。

 このような理由で、ジャニーがいる稽古場とは全く違う場所で働いており、Jr.の皆さんとの接点もなかったので、今回申し出てくださった中で、私がお会いしたことがあるのは九人です。それ以外の多くの方々とはお会いしたことがないのです。
 今から思えば、ジャニーの親族でもあり、女性である私に、Jr.の皆さんはもちろんのこと、タレントの皆さんも噂話をすることや相談もしにくかったのではないかと思います。
 今被害を申告されている方々の中で、私を含めて現在の役員が被害者の方々について直接知る情報は、在籍していたかどうか以外にほぼございません。
 そこで、ジャニーやJr.と私以上に近い距離で接していらした元役員、元社員そして外部スタッフの皆さまには被害者救済のご協力をぜひお願いできたらと思っております。
 ジャニーズ事務所は廃業に向かっておりますが、一人たりとも被害者を漏らすことなく、ケアしていきたいと思っております。
 知らなかったと言うことを言い訳にするつもりは全くありません。メリーが言うことを信じてしまっていたこと、そしてそれを放置してきた自分の鈍感さ、全て、私の責任です。

 また、今回、なぜ私が一〇〇%の株主で残るのかと多くの方々から批判されました。
 実は多くのファンドの方々や企業の方々から私個人に有利な条件で買収のお話も沢山頂いております。そのお金で相続税をお支払いし、株主としていなくなるのが、補償責任もなくなり一番楽な道だとも何度も何度も多くの専門家の方々からアドバイスされました。
 しかし一〇〇%株主として残る決心をしたのは、他の方々が株主で入られた場合、被害者の方々に法を超えた救済が事実上できなくなると伺ったからでした。
 そういう理由で、現在の会社には株主一〇〇%として残りますが、チーフコンプライアンスオフィサーを外部から招聘し、今後私は補償とタレントの心のケアに専念しそれ以外の業務には一切当たりません。
 また、今後私は全ての関係会社からも、代表取締役を降ります。またジャニーとメリーから相続をした時、ジャニーズ事務所を維持するために事業承継税制を活用しましたが、私は代表権を返上することでこれをやめて、速やかに納めるべき税金を全てお支払いし、会社を終わらせます。
 ジャニーズ事務所を廃業することが、私が加害者の親族として、やり切らねばならないことなのだと思っております。ジャニー喜多川の痕跡を、この世から一切、無くしたいと思います。

 最後に、ジャニーズ事務所に所属するタレントを、これまで応援してくださった世界中のファンの方々のお気持ちを考えると、本当に本当に申し訳なく、言葉にもなりません。
 また、関係各所の皆様、ご迷惑ご心配をおかけして大変申し訳ございません。
 今日、記者会見に出席せず、このようなお手紙を出すことで逃げた、卑怯だと言われることは重々承知です。
 今回初めて公にお話ししたメリーは、本当に酷い面も多くあったのですが、優しい時もあり、自分の母でもあり、皆様の前でお話ししたいことを過呼吸にならずにお伝えできる自信がなく、このようなお手紙にさせて頂きました。誠に申し訳ございません。
 改めて、被害者の皆様、ジャニーのしたことを私も許すことができません。
 心から申し訳ないと思っております。
 またタレント、社員の皆さんが、これから新しい道に思いっきり羽ばたき、皆が幸せになれるよう、私はそれを後押しできるような形になるよう、精一杯頑張っていきたいと思っております。
 どうか引き続きご指導ご鞭撻いただけますようどうぞよろしくお願い致します。

二〇二三年十月二日
藤島ジュリーK

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ラストインタビュー 
藤島ジュリー景子との47時間

目次

藤島ジュリー景子の手紙

序章――ファーストコンタクト

一章  「人生をどこからやり直したいですか?」
――二〇二四年六月十日

二章  「『家族』という単語から何を連想しますか?」
――二〇二四年七月二日

三章  「ジャニーズ事務所で働き始めた経緯を教えてください」
――二〇二四年七月二十六日

四章  「『嵐』との出会いについて」
――二〇二四年八月十九日

五章  「母・メリーさんはどんな人でしたか?」
――二〇二四年八月二十九日

六章  「結婚がもたらしたものは?」
――二〇二四年九月十八日

七章  「『事務所内に派閥がある』という意識はありましたか?」
――二〇二四年十月一日

八章  「あの『週刊文春』について。あの『SMAP×SMAP』について」
――二〇二四年十月十八日

九章  「ジャニー氏の亡骸を前に感じたことは?」
――二〇二四年十一月十八日

十章  「『知りませんでした』の言葉を信じることができません」
――二〇二四年十一月十九日

十一章 「性加害を認められた理由はなんですか?」
――二〇二四年十一月二十五日

十二章 「ジャニーズの看板が下りた日、感じたことは?」
――二〇二四年十二月十一日

終章――ラストインタビュー

追記――『嵐』活動終了の発表を受けて

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序章、一章 公開

序章――ファーストコンタクト

 かつて一度だけ食事をともにしたことのある女性が、カメラの前で深く頭を下げている。

「株式会社ジャニーズ事務所、代表取締役社長、藤島ジュリーでございます。
 このたびは創業者ジャニー喜多川の性加害問題について、世の中を大きくお騒がせしておりますこと、心よりお詫び申し上げます。何よりまず被害を訴えられている方々に対して、深く、深くお詫び申し上げます」

 二〇二三年五月十四日の夜――。旧ジャニーズ事務所の公式ホームページにアップされた一本の動画だ。
 黒いスーツに身を包んだ藤島ジュリー景子は、顔面蒼白で、いまにも泣き出しそうな顔をし、しかし力のない目をカメラから決して逸らさず、訥々と謝罪の言葉を口にしていた。
 わずか一分十秒ほどの動画で、ジュリーは計四回頭を下げた。

 そのおよそ九ヶ月前、まだ一連の性加害問題が表面化する前の二〇二二年八月四日に、僕はジュリーとはじめて対面している。場所は東京・赤坂の日本料理店だ。会を仕切ったのは彼女と新潮社執行役員の中瀬ゆかりで、他に事務所の所属タレントで作家の加藤シゲアキと、彼の新潮社の担当編集者など計六人で卓を囲んだ。
 中瀬から声をかけられたとき、本音を言えば、真っ先に胸を過ったのは「億劫」という気持ちだった。
 面識があるのは中瀬しかおらず、誰がどのように会を回していくのかイメージが湧かない。加藤の著作は読んでいたし、同業者としての彼と話してみたいという気持ちはあったが、きらびやかな芸能界のイメージが邪魔をし、そこで自分がどう振る舞えばいいのかと想像するだけで気が重かった。
 最初は断ることも考えた。それでも結局行くことを決めた一番の理由は、ジュリーの存在が大きかったからだと思う。
 あのジャニー喜多川の姪であり、メリー喜多川の実の娘。ジャニーが亡くなったあとはジャニーズ事務所の社長に就いていて、つまりは日本の芸能界のトップとも言える人間だ。しかも、その存在はずっとベールに包まれている。少なくともそれまでの僕はジュリーの動いている姿はおろか、写真を見たことさえほとんどなかった。
 あるいは彼女がよくメディアに顔を出し、雄弁にモノを語る女性だったら、あんなふうに興味を持つことはなかったかもしれない。大げさに言えば「実在しているかもよくわからない人」に対する「本当に週刊誌で書かれているような尊大な人間なのか」といった下世話な好奇心に導かれて、僕は赤坂に足を運んだ。
 事前の不安とは裏腹に、会自体は楽しかった。十畳ほどの個室の、三対三で向き合ったテーブル席の中央に加藤と僕が座り、お互いの作品の話題を中心に話は弾んだ。終始笑いの絶えない食事会だったと思う。
 そうしてみんなと話をする一方で、僕はなんとなくジュリーを観察していた。口数は決して多くない。むしろ無口と言っていい。聞かれたことには端的に答えるものの、感情の起伏を表には出さず、すべてにおいて「淡々と」といった表現がしっくりくる。
 ジュリーが時折こちらを見ていることにも気づいていたが、次第に緊張は解けていった。「べつに利害関係はないのだから」という開き直りもあり、途中からは知りたいことを図々しく尋ねていった。その一つひとつの質問に対しても、彼女は率直に答えてくれた。
 とくに印象に残っている話が二つある。ひとつは、世界中を飛び回ることが好きだという話。というよりも、飛行機が好きという話だ。
 食事会の最中もジュリーのスマホはひっきりなしに鳴っていた。日本にいるときは、もしくは地上にいるときはほとんどの時間を報告や問い合わせで忙殺される。空の上にいるときだけはそうした雑務から解放され、好きな本をゆっくり読める。休みが取れるときはなるべく海外に行くようにしていると言っていた。
 二つ目は、モノを生み出す人間に、とくに小説家という職業の人間に妙な畏怖を持っているということだ。
 これはきっとジュリーの父、藤島泰輔が作家だったことが影響しているという気がした。まだ中堅ともいえない僕程度の小説家の作品もよく読んでくれており、ジュリーがやけに気遣ってくれているのがなんとなく面映ゆく、印象的だった。

 こうして三時間ほどの食事会はつつがなく終わった。特別悪い印象を与えたとは思わなかったが、同様に歓心を得たという気もせず、定期的に会う関係になるイメージは持たなかった。
 しかし、僕たちの関係は細々とながら継続していく。
 翌日のお礼のメールのやり取りの中で、ジュリーは思ってもみないことを綴ってきた。『笑うマトリョーシカ』という僕の小説を、ジュリーがプロデューサーとしてドラマ化したいと申し出てくれたのだ。
 そのメールの中で、彼女は『(主人公格の清家一郎というキャラクターを、『嵐』の)櫻井翔にやらせていただきたい』とも記してきた。
 僕は小さく息をのんだ。映像化されることなど微塵も想定していなかった執筆前、清家一郎のキャラクターを構築するにあたり、櫻井の持つ「非の打ち所のないパブリックイメージ」といったものを参考にしていたからだ。
『決して櫻井さんをモデルにしたわけではありませんが』と前置きをしつつ、僕は素直にその旨を伝えた。
 ジュリーの気持ちが弾んだのがメールの文面からでも読み取れた。『良いご提案ができるようにしたいとより強く思いました』と、このときのやり取りは結ばれている。
 もちろん、映像化などそう簡単に実現するものではない。二、三十の提案があって一つでも成立すれば御の字といった感覚だ。
 それでも食事会での雰囲気や受け取ったメールの感じから、うまくハマれば実現するかもしれないという期待を抱いた。二、三十に一つという感覚がある一方で、本当に熱い思いを持つ一人の人間さえいれば映像化は突き進むという経験則もあったからだ。
 しかし、その淡い思いは早々に打ち破られることになる。

 それからわずか三ヶ月後の二〇二二年十一月、ジャニーズ事務所を立て続けに激震が襲った。
 まず当時副社長だった滝沢秀明の退社が発表され、続いて『King & Prince』の平野紫耀、岸優太、神宮寺勇太が翌年にグループを脱退、それぞれ事務所を離れることも明らかになった。どれだけジャニーズ事務所の事情に疎かったとしても、社長であるジュリーが混乱の渦中にいることは容易に想像できた。
 僕にとって決定的だったのは、ジャニーズ事務所とジュリーが原告となり、文藝春秋を提訴したことだ。内容は「週刊文春」十一月十七日号の『キンプリ 滝沢秀明を壊したジュリー社長 “冷血支配”』という記事による名誉毀損。両者は文藝春秋に対して計一億一千万円の支払いを求めている。
 このニュースを知ったとき、僕は少なくともジュリーが主導する『笑うマトリョーシカ』の映像化は実現しないことを悟った。作品の版元が文藝春秋であったからだ。
 ジュリーとの縁もこれで途絶えたものと思っていた。そうした中で、ジャニーズ事務所にとって激動の二〇二三年が幕を開けた。
 まず三月七日にイギリスBBCが、ジャニー喜多川の性加害問題を追及した『J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル』を放送。あとを追うように「週刊文春」が三月十六日号の誌面に元ジャニーズJr.三名による告発を掲載する。
 一気に熱を帯びた世の空気を決定づけたのは、かつてジャニーズJr.に所属していたカウアン・オカモトによる日本外国特派員協会での記者会見だ。四月十二日、オカモトは性的被害の実態を赤裸々に語っている。
 一連のニュースを、僕も世間の人たちと同じように心を痛めながら、しかしハッキリと他人事として眺めていた。

 ジュリーとの縁が再び繫がったのは、オカモトの記者会見からわずか二日後、四月十四日のことだった。
 僕の文藝春秋の担当編集者から「TBSから『笑うマトリョーシカ』のドラマ化のオファーが来ています。実現の可能性は高いらしく、できれば早急にお返事をいただけますか」という連絡を受けたのだ。
 ジュリーとのやり取りは胸にあったが、とくに契約書を交わしているわけではなく、何より前年の八月以降、進捗状況の連絡さえもらっていない。
 義理立てする必要はないだろうと考え、一度は「進めてください」と返事をした。しかし、どうしてもモヤモヤした気持ちが拭えない。深夜になって担当編集者に「やっぱり二、三日だけ待ってください」と連絡し、自分の気持ちを晴らすためだけにジュリーにメールを送った。
『事務所が大変なこのタイミングでメールを差し上げるのは心苦しいですが、その後「笑うマトリョーシカ」の映像化は進んでいませんでしょうか。版元が版元であることも理解しており、成立は難しいだろうと思っています。その上で、某民放局から連ドラの提案がありました。成立する確度も高いとのことなのですが、ジュリーさんからいただいたご提案もあり、即答は避けています』
 夜遅くに、こちらの都合だけを一方的に綴った長文のメールだった。きっと返信が来ることもないだろうと思っていたが、そのわずか数時間後にジュリーもまた同じように長文のメールを返してきた。
 そこには文春に対する恨みつらみも、そんなことをしている場合じゃないといった状況も記されておらず、ただプロデューサーとしての自らの力不足を省み、その上で『今日までに企画を成立させられずに申し訳ない』『新たな企画を進めていただいて差し支えない』といった旨が淡々と綴られていた。
 ただ、最後の一文だけは、彼女の現状を想起させる言葉がそっと添えられていた。
『色々とお騒がせして申し訳ございません。今は信頼を回復出来るよう、日々努力するしかないと考えております』

 ジュリーが冒頭の動画を事務所のホームページにアップしたのは、ちょうどその一ヶ月後のことだった。
 同日に公開した書面の中で被害者と向き合っていくことを約束し、なんとか世の理解を得ようとしたものの、ジャニーズ事務所に対する批判は一向に収まる気配を見せない。
 その後、事務所が設置した「外部専門家による再発防止特別チーム」の調査報告書が二三年八月二十九日に発表され、それを受けて九月七日に記者会見を実施。
 ジュリーははじめて記者との対面でのやり取りに臨み、その中であらためて謝罪し、被害者への補償・救済を約束。また自身の社長退任、同席した東山紀之のタレント引退と新社長就任なども発表されたが、それをもってしても批判を抑えるには至らなかった。
 翌月、十月二日にも会見は開かれたものの、ジュリーは体調の不安を理由に欠席している。ただしジャニーズアイランド社長の井ノ原快彦によって彼女の手紙が代読され、また東山の口から六十一年続いてきたジャニーズ事務所の廃業と、被害者に対するケアと補償のみを行う「SMILE-UP.」に社名変更することも合わせて伝えられた。
 BBCの放送からわずか七ヶ月後の出来事だった。さらにその二ヶ月後の十二月八日には、タレントのマネジメント・エージェント業務を旧事務所とは切り離す形で行う新会社の名称が「STARTO ENTERTAINMENT」となることも発表されている。
 僕のもとにジュリーから唐突にメールが送られてきたのは、その発表からおよそ三週間後、二三年も押し詰まった十二月二十六日のことだった。
 この年、僕は『笑うマトリョーシカ』のドラマ制作チームとの打ち合わせの中で、清家一郎のキャラクター造形に櫻井のイメージを借りていると伝えていた。
 旧ジャニーズ事務所のタレントを局がどう起用していくのかということについての判断材料が僕にはなく、そもそもキャスティングに口出しする意図も権限もなくて、ただ尋ねられたから参考までに伝えただけだ。
 他にもいくつかの意見やアイディアと合わせてのことだったが、監督、プロデューサーはそのイメージを採用してくれ、晴れて櫻井が清家一郎を演じることが決まっていた。それを伝え聞いたというジュリーからお礼のメールが送られてきたのだ。
 数ヶ月ぶりにやり取りする中で、思っていたよりも元気そうだという印象を抱いた。ひとまず心配していたようなメンタルの不安はなさそうだ。
 そうして何往復かメールを交わす中で、ジュリーは唐突に自分の身に起きた一連の出来事を本にすることを考えていると伝えてきた。
 文面からは彼女がどれほど覚悟を有しているか計りかね、性加害という事件の特性もあり、うかつなことを伝えるべきではないと自制する気持ちはあった。
 それでも、僕は胸が騒ぐのを抑えることができなかった。『もし他に書く人がいないようなら』と伝えた上で、自分が書きたい気持ちもあると正直に綴り、すでに本のタイトル案まで記している。
 ジュリーもすぐに返信を送ってきた。そこに『本当に早見さんが書いてくれるならこんなことを伝えたい』と、いくつかのテーマを記していた。事務所内のいざこざ、自らの結婚と離婚、いくつもの手のひら返し、母・メリーとの確執……。
 一つひとつの文字が力を帯びているように見え、手が汗ばんだ。まさに僕が彼女を書きたいと直感的に思った理由は、井ノ原が会見で代読した手紙に記されていたメリーとジュリーの母娘関係にこそあったからだ。
 しかし、どこかくだけた調子の文面からジュリーの本心まで探りきることはできず、このときは『近くまた食事でもしましょう』と約束するに留め、やり取りを打ち切った。

 年が明け、二〇二四年に入ってからも、ジュリーからの『本にしたい』という話はずっと頭にあった。
 春先には実際に動き出そうとしたこともある。
 僕はもし本当に彼女がすべてを語ろうと思うなら、舞台は「週刊文春」しかないだろうと考えていた。長く敵対関係にあった雑誌での発表がもっとも公平性を担保でき、かつ大きなインパクトを与えられる。両者の雪解けに一役買えるという思いも少なからずあった。
 もう二十年以上のつき合いがある「週刊文春」の編集長、竹田聖にそれとなく相談を持ちかけたこともある。
「まだ雲をつかむような話ではあるけれど」
 そうエクスキューズした上で、仮にジュリーのインタビューを取れるとしたら誌面を空けられるかと尋ねた。
 竹田は「たとえ明日からスタートするとしてもページを準備します」と約束してくれた。その上で、「もし僕が出張ることで話が進みそうなら遠慮なくおっしゃってください」とも言ってくれた。
 これで外堀は埋まった。あとはジュリーに提案するだけだ。そう頭では理解しながら、僕はなかなか次の一歩を踏み出せなかった。正直に記せば、こわかったからだ。
 ジュリーと本気で向き合おうと思うなら、当然ジャニーの性加害問題にも突っ込まなければいけなくなる。これまで傍観者としてボンヤリと眺めていた渦の中に、自ら足を踏み入れることになる。
 ましてや今回寄りそうべきはジュリーではなく、何年、何十年という間、苦しい思いを強いられてきた被害者の側だという気持ちもあった。
 最初の動画に伴う文書にあった「(ジャニーの性加害を)知らなかったでは決してすまされない話だと思っておりますが、知りませんでした」というジュリーの言葉もずっと引っかかっている。
「知らない」などということが本当にあり得るのだろうか――
 もしもあれが批判を避けるためだけの言葉なのだとしたら、撤回させるのはかなり厳しい。だからといって、その部分をうやむやにしたインタビューなら意味がない。
 話を聞きたいという気持ちはますます大きくなっている。自分の想像も及ばない環境で生まれ育ち、ほとんどの人が経験したことのない状況に置かれた女性が、いま何を思い、どんな言葉を発するのか。
 それを一番に、誰より深く知れるチャンスがありながら、なかなか動き出すことができない。モタモタしている間に他の誰かに書かれてしまえば、自分はきっと後悔する。
 そう自覚しつつ、僕はどうしても一歩目を踏み出せずにいた。

 そんな悶々とした思いを抱いていたある日、二〇二四年もすでに五月に入っていた。新潮社の中瀬から『折り入ってご相談が』というメールが送られてきた。その件名を見た時点でピンと来た。
 超がつくほどの長文メールには、かいつまむと以下のようなことが記されていた。
 ジュリーから「思うことがあり、やっぱり本を出したいので相談に乗ってほしい」と連絡を受けたこと。数日前にすでに顔を合わせたこと。自分や家族、ジャニーズ事務所について洗いざらい話したいと言っていること。とくにメリー、ジャニーとの関係をしっかり書いてもらいたいと言っていること……。
 中瀬の方からその場で何人かの作家の名前を挙げたという。いずれも力のある大家であり、僕など足もとにも及ばないベテラン作家ばかりだが、ジュリーは「早見さんが『書きたい』と言ったことが忘れられない。忙しいのは承知しているけれど、お願いできないだろうか」と答えたそうだ。
 中瀬のメールはこう締めくくられていた。
『ジュリーさんからのお願いではありますが、断られても仕方ないという気持ちもあります。まずは早見さんの率直な気持ちを聞かせてください』

 憂鬱がすべて取り払われたわけではなかったが、胸は昂ぶった。すぐに中瀬に電話を入れ、直接会って話し合うことにした。
 急遽取られた新潮社の小さな会議室に顔をそろえたのは、中瀬を除くと、僕の担当編集者二人だけだ。デリケートな話ゆえ、この時点ではまだ新潮社内でも一人の役員にしか共有されていないとのことだった。
 この場で僕が伝えたことはひとつしかなかった。
「基本的に引き受けたいと思っているけれど、どうしても拭えない疑問がある。とりあえずジュリーさんと顔を合わせて、率直にその思いをぶつけたい。もし、その点が解決できないと感じたらその時点で降りたいと思うが、いいだろうか」
 新潮社に向かうまでの車の中でいくらか冷静さを取り戻し、すると釈然としない点が二つ浮かんだ。
 ひとつは、なぜ「いま」かということ。おそらく被害者への補償作業をしている最中のこの段階で、インタビューの内容いかんによってはさらに彼らを傷つけることになりかねない。その点をどう捉えているのか。
 二つ目は、なぜ「本」なのかということ。世間に対して伝えたいことがあるのならば、あらためて記者会見を開けばいいのではないだろうか。
 中瀬がすべてを引き受けるようにうなずいた。
「とりあえず先方と会ってみましょう。そこでざっくばらんに伝えたいことを伝えたらいいと思います」

 顔合わせの日は約一ヶ月後の六月十日に決まった。
 その日に向け、僕は二人の担当編集者に、可能な限り『藤島景子』『ジュリー藤島』『藤島ジュリー景子』『藤島ジュリー』という言葉で引っかかる記事を集めてほしいとお願いした。
 ゴシップ誌の記事も含めてという注文だったが、大宅壮一文庫で引っかかったのは六十九件と想像していたよりもずっと少ない。これまでジュリーがいかに表舞台に出てこなかったかということの証明だろう。
 メリーやジャニーの関連記事も含め、ほどなくして届いた大量の資料を読み込み、会食までの間に質問を準備した。加えて二人の担当編集者とやり取りを重ね、一連の問題に関する疑問点の洗い出しも進めた。
 こうして瞬く間に一ヶ月が過ぎていった。
 前夜にも担当編集者二人と入念に打ち合わせをし、迎えた当日、僕は広尾のイタリア料理店に覚悟を決めて足を運んだ。
 約束した十八時半きっかりに、ジュリーは一人でやって来た。
 初回だけ中瀬の立ち会いのもと、藤島ジュリー景子との長い対話が始まった。

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一章「人生をどこからやり直したいですか?」
――二〇二四年六月十日

「席、そっちでいいですかね。店員さんに顔を見られても平気ですか?」
「はい。大丈夫です。最近は顔を指されることもほとんどなくなりました。去年のいま頃は外にも出られませんでしたけど」
「やっぱり人の目はこわかったですか?」
「こわかったです。とにかく取材の方がたくさんいらっしゃったので。去年は四月中旬くらいから家に帰ることができなくなりました。二ヶ月くらいホテルに閉じこもっていて、そのあとはサービスアパートを転々と」
「ちなみにいまさらなんですけど、こういうときって『ジュリーさん』と呼んでもいいものなんですかね」
「もちろんです。『ジュリー』の方が気楽です」
「なら良かった。今日はいろいろ聞きたいことを用意してきたんですけど、最初の質問はそれだろうなって。そもそも『ジュリー』というのは何なんですか? ミドルネーム?」
「あ、そっちの方がファーストネームなんですよ。『景子』がミドルネームです。小さい頃からずっと『ジュリー』と呼ばれてきたので、この名前以外はないという感じです」
「わかりました。では、あらためましてジュリーさん、今日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。よろしくお願いいたします」
「質問を始めるにあたって、まずどういうスタイルで書くかということからお伝えしたいんですけど、これについては正直まだ決めきれていません。最終的に小説という形を採るかもしれませんが、取材自体はノンフィクションを前提にするのがいいだろうと考えています。それと、いずれはジャニーズ事務所や芸能界のことも深掘りしていくことになると思いますが、それよりも僕はお母さまのことも含め、あきらかに人と違った環境で生まれ育ったジュリーさんの人となりに興味を持っています」
「ありがとうございます」
「ちなみにこの時点でそちらからの要望はありますか?」
「いえ。ですが、ノンフィクションといってもどれだけ正確にお答えできるかわかりません。過去の資料などはなるべく引っ張り出しますけど」
「大丈夫です。ただ、ひとつお伝えしておかなければならないのは、今回、僕はジュリーさんの話の裏取りをしようとは思っていません。あくまでジュリーさんの側から見た事実、いまのジュリーさんが考えていることこそが重要だと思っていて。なので、記憶が曖昧なら曖昧だと伝えてください。ちゃんとその旨も原稿に記します」
「はい」
「それと初稿を書き上げた段階ですべてお見せするつもりでいます。勝手に刊行するようなことは絶対にしないので、まずはなんでも話してくださるとうれしいです」
「もちろんです」
「ジュリーさんの胸の中には、いつ頃から『自分の体験を本にしたい』という気持ちがあったんですか?」
「最初は周囲から言われていたんです。出版社の方ではなく、外部アドバイザーのみなさんに」
「外部アドバイザーとは?」
「会社の危機管理を中心に経営全般の相談に乗ってくれている方々です。私から何かを発信しようとしても、その声はどうしても埋もれてしまいますので。本にすればきちんと形に残るじゃないですか。そういうものを出しておかなければならないよと」
「埋もれてしまうというのはどういう意味ですか?」
「たとえば会見で話したことも、手紙も、そのときは納得してくださる方がいたとしても、時間が過ぎると忘れられてしまうんです。なので、今後また何かが起きたときに『ここにこう書いてあります』と言えるものが必要だと。外部アドバイザーのその意見に納得はいったのですが、当時はまだまだ風当たりの厳しい時期だったので、『いまはそんな気分じゃありません』と答えていました。その気持ちが少しずつ変わっていったのは、二〇二四年の年明け頃ですかね。世の中の空気が少しだけ変化しているのを肌で感じて、ヤフコメなんかでも私を応援してくれる声が増えているのがわかりました。なので、いまだったらいいのかなと」
「ヤフコメなんて見るんですね」
「一番ひどかった時期は見られなかったですよ。テレビはいまでも見られないですし、雑誌も読めないです」
「当時の記憶がよみがえるから?」
「急に何が出てくるかわからないから」
「いまのジュリーさんが心を許せる人ってどれくらいいるんですか?」
「会社に二人と娘、合わせて三人くらいですかね」
「これはまた追って聞いていきますけど、人が離れていったという意味で、一番ショックだった出来事ってどういうものですか? 山ほどあると思うんですけど」
「そうですね。山ほどあるのと同時に、私は母を本当に信用していなかったので、昔から人を信頼しないクセがついていたと思うんです。だから、ダメージは普通の人よりは少なかったという気がします。本当に弱っていたときもあったんですけど、いまは結構元気なので。元気が出てきたいまは『断捨離できて良かったな』くらいに思っています」
「本当に書き手は僕でいいんですか?」
「はい。とてもうれしいです」
「あえて深く聞くんですけど、ジュリーさんには作家の友人や、言い方は悪いですけどお抱えライターみたいな知り合いもたくさんいると思うんです。僕とは一度しか会ったことがないわけじゃないですか。どうして信じられるんですか?」
「やっぱり書かれているものを読んできたからじゃないですかね」
「でも、ジュリーさんが以前から好きだと言ってくれている『八月の母』も『イノセント・デイズ』も、どちらかと言うと容赦のない作品ですよね。甘やかしてくれないと読み取ることもできると思うんです。その覚悟がジュリーさんの中にあるということですか?」
「それはもう絶対にそうで、私自身、特定の誰かがモデルになった小説やノンフィクションを読んでいるとき、あまりにも主人公が美化されすぎているとすごく引いちゃうんです。そうじゃない作品の方が私にはずっと伝わってくるので」
「ジュリーさんが傷つく可能性もありますよ」
「すごく深く傷つかなければいいです」
「わかりました。ただ、本当に答えたくない質問は素直にそう言ってください。その上で、可能なら『どうして答えたくないのか』ということも言葉にしてもらえるとうれしいです。それともうひとつ、ウソだけは吐かないでほしいと思っています」
「もちろんです」
「僕からお願いしたいのはこれだけです。さっきも言った通り、質問の答えに対して今回は裏取りをしませんので」
「わかっています」
「ちなみにいまの段階で『あの件は話せないな』ということってありますか?」
「うーん、ないかな……。ありません」
「ひとつも?」
「本当にないんですけど、傷つく人がいる場合は、自分じゃなく、その人のために書かないでいただけるとうれしいです」
「想像していたよりずっと肚が据わっていますね」
「この件に限らず、そう言ってくださる方は多いです。久しぶりに会った方には、ほぼみなさんから『元気そうでびっくりした』と言われます。逆に去年は死んだような顔をしていたと思うんですけど」
「『いまの自分、危ういな』と感じたことはありましたか?」
「去年の五月から六月にかけてですね。動画を公開したあとです。先ほども申し上げた通り、その頃はホテルに缶詰になっていたんです。娘が一緒にいてくれたので変な気は起こさないで済みましたが、彼女がいてくれなかったら……と思ったことはありました」
「過去にそういう思いにとらわれたことってありました?」
「いえ、ありません。ただ私は若い頃にパニック障害が本当にひどかったので。当時は過呼吸と診断されていましたけど」
「最初に発症したのは?」
「たぶん二十代に入ってすぐだったと思います。飛行機に乗って、ドアが閉まった瞬間に『もう降りたい』って。フライト中、ずっと胸がドキドキしていました」
「いまは飛行機の中が一番落ち着くとおっしゃっていましたよね」
「一番ひどかったときは、三、四年は乗れなかったです」
「それはやっぱり母親のことが原因なんですか?」
「それからしばらくして、いいお医者さまと巡り合えて、たぶんそうでしょうと」
「井ノ原さんが記者会見で読まれた手紙にもその話がありましたね」
「はい。まさにそのお医者さまが『あなたはシマウマで、お母さまはライオンなんだからもう逃げなさい』と、『歯向かっても違う生き物なのだから』と言ってくださったんです。それからは行く場所もわける、住む場所もわけるというふうに何もかも切り離しました。そうしたら症状が少しずつ軽くなっていきました」
「ちなみにあの手紙にはライターがついていたんですか」
「すべて自分で書いて、添削だけお願いしました」
「あの手紙はかなりインパクトがありました。とくにメリーさんとの箇所は本当に胸を抉られました。十月のあの会見のときは入院されていたんですか?」
「いえ、あのときは入院はしていなかったんですが……、そうですね、順を追って説明しなくちゃいけませんね」
「お願いします」
「私、自分が出た九月の会見の直前にRSウイルスに感染して、その後、肺炎になってしまったんです。一般的に重症化するのは子どもが多いらしいのですが、熱が四〇度くらいから下がらなくなってしまい、そのときは入院しました。ほとんど動けなくなり、でも会見には出なきゃいけないと思っていて。そのときは鬱症状もあったりして」
「はい」
「ついでにひどい歯痛まで出てしまったんです。すぐにでも抜かなきゃいけないということになったのですが、もし腫れてしまったら大変じゃないですか。先生に『私は九月七日にどうしても人前に出ないといけない』と申し上げたら、『とにかく腫れないようにする』とおっしゃってくださって。それまで私はどんな精神安定剤を飲んでも効かなかったんですけど、歯の手術後に先生が投与してくれたステロイドがとんでもなく効いてしまったんです。それが会見の一週間前のことでした。かかっていた内科の先生にステロイドの量をお伝えしたら、『内科では絶対に処方しない量だけど、それで正気が保てるなら会見の日まで飲み続けろ』と。それで一応人前に出られたという状況でした」
「じゃあ、九月のあの会見時は、変な言い方ですが『ステロイド・ハイ』のような状態だったということですか?」
「自分が出たときはそうでした。薬がなかったら話すこともできなかったと思います」
「あの会見の記憶はあるんですか?」
「それはあります。四時間以上話したんですから」
「四時間以上やったからこそ、曖昧になってそうじゃないですか」
「でも、ちゃんと覚えていますよ。ただ、やっぱりトラウマにはなりました。もう二度と同じことはできないなって」
「何が一番こわかったですか?」
「話を聞いてもらえないことですね。一方的に記者の方の主張を言われてしまうので、どんなに丁寧に対応しようとしても会話が成立しなかった」
「すごく冷静に状況を把握できていたんですね」
「薬ってすごいんだなと他人事のように思っていました。直前までは本当に普通の受け答えもできない状況だったので」
「薬によって思ってもないことをしゃべっちゃったみたいなことは?」
「それは大丈夫だったと思います」
「あとからVTRを見返しましたか?」
「すみません。それはしてないです。これからも絶対に見られない」
「わかりました。その上で、いま一度ちゃんと言葉にしてください。ジュリーさんはなぜいま声を上げようとされているんですか? どうして『いま』なのか、教えてください」
「ひとつには、被害者のみなさんに対する補償の枠組みが整ってきたということがあります。同時に私自身、心と頭の整理ができてきたことも大きいです。ようやく冷静になったら、いろいろなことを理不尽に感じるようになりました。それが何かというと、私がいろいろ言われるのは認められるんです。でも、うちの娘とか、タレントとか、私が株を持っている会社の社員がいじめられるのは違うんじゃないかと思い始めて。私以外に声を上げられる人間はいないんじゃないかとも」

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「ジュリーさんが口を開けば、必ず『言い訳するな』という刃が返ってきますよ」
「理解しています」
「それでも、僕も主張すべきところはするべきだと思っているんですけどね。その手伝いをしたいと言うつもりはないんですけど、なるべく消費されない、将来に残るものを書かせてもらいたいとは思っています。という上で、これもさっき答えを聞いているんですけど、なぜ『本』という形なのか、もう一度教えてください」
「はい。これまで自分が出た記者会見でも、手紙を託した会見でも、どんな質問にも誠実にお答えしようとしてきたのは間違いありません。ですが、必ずそれらは忘れられて、何事もなかったようにまた同じ質問状が届くんです。この一年、延々とそれを繰り返してきました。こちらの言い分をしっかりと残したい、『ここにこう書いてあります』と言えるものが欲しいんです」
「もし僕がジュリーさんなら『もう言ってもしょうがないな』と諦めてしまう気がするんですよね。どうせ伝わらないんだからって」
「自分だけのことだったら私もそうだったと思います。ですが、さっきも言ったように、関連会社にも三〇〇人以上の社員がいますし、少なくとも今回のことは娘には絶対に関係ないと思うので」
「娘さんに対していま思うことは?」
「彼女は高校までアメリカンスクールに通っていたんですけど、思うところがあり、必死に勉強して慶應義塾大学の法学部に入りました。彼女のいたアメリカンスクールからは前例もなかったくらいで、本当によくがんばったんです」
「外部受験なんですね。幼稚舎からかと思っていました」
「ですが、彼女が大学に入学したばかりの去年の五月頃が私たちにとってもっとも苦しかった時期で、あるとき、電車のドアの上のモニターに私の顔が出てきてしまったそうなんです。彼女はそれが本当にショックだったようで、『私はもう学校に通えない。もう無理だ』と言い出して。その前から心療内科に通わせたりはしていたんですけど」
「いまはどうされているんですか?」
「実は慶應以外にも、もう一校だけアメリカの大学を受験していました。その学校の合格発表がたまたま慶應の入学式と同じ四月一日にあって、合格していたんです。それでも慶應に通い続けるつもりでいたのですが、そんな矢先に電車内での出来事が起きてしまい……。結果的にいまはアメリカの大学に通っています。彼女の人生設計を狂わせてしまったという気持ちがあるので、いまはただ平穏に過ごしてほしいと願っています」
「娘さんはその選択というか、そうせざるを得なかったことをどう捉えているんですか?」
「いまの我が家の座右の銘は『人間万事塞翁が馬』で、結果的に良かったと思えるようになるといいねと、そんな話ができるようにはなりました」
「娘さんは間違いなく被害者の一人ですよね」
「そうだと思います。彼女は本当に関係ない。それなのに暴露系ユーチューバーにあることないことをあげつらわれたり、実名を晒されたり、写真をアップされたりして。かなりひどい目にあったので」
「そんなことがあったんですか?」
「本当にかわいそうでした。普段は強い子なんですが、さすがに気が沈んでいました。それなのに母である私も弱りきっていたので、娘は何も言ってきませんでした。吐き出せる場所がどこにもなかったので、しばらくして心療内科に通うようになったんです」
「一連の出来事が起きる前の母娘関係、ジュリーさんと娘さんの関係ってどういうものだったんですか?」
「父親がおらず、ずっと二人きりだったので。悪くなかったとは思ってます」
「その娘さんはジュリーさんとメリーさんの、母と祖母の関係性の歪さみたいなものを感じ取っていたのでしょうか?」
「よく知っていたと思います」
「仮に一連の出来事が表面化せず、ジュリーさん体制のジャニーズ事務所が盤石なものとして存続していたとしたら、いつか娘さんに会社を継がせるというイメージはありましたか?」
「私個人としては、娘には絶対に違う仕事をしてほしいと思っていました。私自身も事務所の仕事はしたくなかった。ずっとお嫁さんになりたいと思っていたくらいなので」
「それ、何かのインタビューで読みました。専業主婦が憧れだったんですよね。娘さん自身にも事務所に関わっていくという気持ちはなかったんでしょうか?」
「さぁ、どうなんでしょう。彼女はすごくエンタメが好きで、一方で私が法律に弱すぎるということに不満があるようでした。なので『その部分で私がママを支えてあげる』といったことをよく言っていましたね。本当に強い子なので」
「先ほども出てきたその『強い』というのは、どういう意味の強さなのでしょうか? 気が強いということ?」
「小さい頃から、ああ言えばこう言う子だったんです。だから彼女がまだ小さい頃に、冗談で『人を論破してお金を稼げる職業があるよ。弁護士という仕事』と教えてあげたら、『そんな素敵な仕事があるの!』と言うような子でした。とにかく負けず嫌いで、だからいま起きていることに対しても、彼女は私に “You should fight!” と言ってきます」
「戦うべきだと」
「もちろんそれは被害者の方に対してということではなく、主張すべきことはするべきという意味です。それを踏まえた上でも、私は『ファイトするべきときとそうでないときがある』と諭しているのですが」
「これ、嫌な質問かもしれないんですけど、娘さんのその強さの質とメリーさんの強さの質って似ているわけじゃないんですか?」
「よく笑い話で『隔世遺伝』とは言いますけど、娘は意地悪ではないですね。言うなればアメリカの女性的な主張の強さ」
「逆に言うと、メリーさんの本質は意地悪さ?」
「うーん……。自分に良くしてくれる人にはやさしいんです。でも、少しでも歯向かおうとしてくる相手には意地悪だったと思います。それがたとえ実の娘に対してであっても」
「さっきの『なぜいまか?』という質問なんですけど、僕の方にもいまやりたいと思う理由があって、人間って過去をどんどん美化していく生き物だと思うんです。ひょっとしたらジュリーさんがいま抱えているメリーさんへの思いやわだかまりが、どこかの瞬間に美しく塗り替えられてしまうかもしれないなって」
「そんな日が来るんですかね?」
「でも、最後まで憎むことの方が難しくないですか? 生前はすごく恨んでいた夫を、亡くなったあとに『あの人はいい人だった』と言っているおばあちゃんを僕は何人か知っています」
「いまの私は『自分にもそんな日が来るといいなぁ』という気持ちです」
「好きだった時期はあるんですか?」
「小さいときはそんなに嫌いじゃなかったかもしれません」
「わかりました。ここはゆっくりやっていきましょう。それで、これからの流れなんですが、どんなに少なくても三十時間程度のインタビューは必要になると思っています。お互いの集中力がもつのが一回につき二、三時間だとして、最低でも十回くらいですかね。大丈夫ですか?」
「もちろんです」
「なんとか二〇二四年のうちにインタビューだけでも終わらせられたらと思っています。ちなみにいまのジュリーさんの生活スタイルってどういうものなんですか?」
「月曜から金曜はだいたい十一時くらいに出社して、十八時くらいまでは会社にいます。朝は毎日八時半からZOOMで会議があるので、夜はそんなに遅くまで出歩くことはありません。基本的には会社にいますし、毎日みっちり会議が入っているというわけでもないので、もし乃木坂の事務所にいらしていただけるようでしたら基本的には大丈夫です」
「僕はまだその部分をよく理解していないんですが、被害者との面会はジュリーさんも立ち会っているんですよね?」
「一応、指名制……というのも変なんですけど、そういうものを採用しています。『ジュリーに会いたい』とおっしゃる方には私がお目にかかりますし、東山を希望されるときは彼が会うという流れです」
「そのどちらでもなく、弁護士のみのときもあるんですか?」
「対話希望という場合は私たちのどちらかで、対話を希望されずに弁護士さんとの手続きだけという方もいらっしゃいます」
「最近の平均だとどれくらい会うものなんですか? 一日何人に会うかとか、週に何人とか」
「いまはもう全然。ほとんどありません」
「補償をする、しないの基準はどういったものなんですか?」
「ここはしっかりとお伝えしておきたいのですが、ひとつたしかなのは、いま私たちは、加害者は亡くなっている、証拠はない、警察には行かれていない、そんな状況であったとしても、相手方のおっしゃっていることをまず信じるというスタンスに立っているということです」
「はい」
「たとえば『過去に在籍していた』というだけで『それはもう基本的に信じます』と。でも、その在籍確認が取れるのもいまのところ約一〇〇〇名の申告者のうち五〇〇名くらいなんです。七十歳の方とかになるともうわからなくなってしまうのですが、そういう方にもお支払いはしていて。ただ、たとえば『被害を受けた』とおっしゃる場所が、その時期にはすでにジャニーが住んでいなかった家であるとか、そういったケースも多々あるんです。なので、そういう方については『法廷で解決しましょう』と考えています」
「補償をすべて終えるまでの道筋は見えているということですか?」
「先方の弁護士さんとの間で面談時間の調整が残っている程度で、二四年のうちにはこちらからご案内している方の補償はほとんど終わっていると思います。たぶんこのあとは、在籍した形跡のない方に『補償不可通知』というものを出していくことになると思うのですが、そこからもうひと山あるとは思います」
「なるほど。わかりました。となると、ジュリーさんはいま会社でどういった仕事をされているのでしょうか」
「いまでも私がいくつかの会社の代表をしていると報道されることがありますが、そうした会社の新しい代表探しだとか、仕事の引き継ぎだとかですね。あとは社団法人を立ち上げたので、そこのスタッフを任命したり、整理したりということをやっています」
「つい最近『三つの会社の代表を降りられる』といったニュースを目にしましたけど、あれは本当なんですか?」
「本当です。ただ、会社を任せられる人なんてそう簡単に見つかりません。見つけられた会社はとっくに引き継ぎを済ませていますし、見つけられていなかったところが三社残っていたというだけです。あんなふうに『まだ居座っている』といった批判をされるのは心外です」
「たしかに。僕も記事を読んで『居座っていたんだ』という捉え方をしていました」
「他にも『株を持っていることで実質的に会社をコントロールしている』といった批判も釈然としません。ニュースでそんなことを言っている方がいると聞いているのですが」
「そういった批判も含め、本の刊行は補償がすべて終わってからじゃなくていいんですか?」
「それは大丈夫です」
「本当に? 世間からどう見られてもかまわない?」 
「いまはタレントを STARTO 社に送り出したあとですし、私とあの会社とはいっさい関係がないので。こうなったら自分と、いまも自分の近くにいてくれている人の名誉のために戦いたいと思っています。タレントを応援してくださっているファンのみなさまにも事実をお伝えしたいという気持ちもあります」
「被害者の気持ちを逆なでするという不安はないですか?」
「当然それはあります。ですが、みなさまとはこれからも真摯に向き合い続けていきますし、可能な限り補償できるようにと思っています。それとこれとはべつだと思うので」
「タレントが離れたことはやっぱり大きいですか?」
「大きいですね。彼らには本当に迷惑をかけてしまったので」
「ちなみにジュリーさん、本当にいまの STARTO 社とは関わりがないんですよね? いっさいないと言い切っちゃっていいんですよね?」
「はい。社長の福田淳さんはもちろん知っていますし、お話はしますけど、何か疑われるのも嫌なので関わらないようにしています」
「またタレントをプロデュースしたいとか、マネジメントしてみたいといった気持ちは湧いてきませんか?」
「いつか遠くから支えるようなことはしたいですが……。芸能界に戻るのは本当にこわいです」
「いまから十年後って何をしているイメージですか?」
「私の夢は七十歳でピンピンコロリです」
「それはちょっと早くないですか? 七十歳?」
「うん。七十歳がいい」
「なぜ?」
「歳をとっても素敵と思える身内が自分の周りに少なかったからですかね。老害になる前に死にたいなって思うんです」
「それまでは働いている?」
「お金を稼ぎたいということではなく、退屈が人を良くなくするとは思っているので。社団法人みたいなものだとしても、誰かのためにできることがあったらいいなと思っています」

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「その『誰かのため』という気持ちって、この一、二年で大きくなったりしましたか? していなければしていないでいいんですけど」
「ああ……。でも、大きくなったと思います。これだけたくさん痛い目に遭うと、それでも良くしてくださる方にはなんとかお返ししたいという気持ちが芽生えるものです」
「櫻井さんのことだって、本当に僕にキャスティングの権限があったわけでもないのに、やたらと感謝されましたもんね」
「あれは本当にうれしかったです。それこそ四月一日にあった慶應の入学式に、私がとても行ける状態じゃなかったので、櫻井が娘と日吉まで行ってくれたんです。一緒に電車に乗って。入学式に付き添ってくれたんです」
「えっ、すごい話ですね。でも、小さいときから知ってる間柄ではあるんですよね。娘さんと櫻井さんは」
「彼女が慶應という大学を知ったきっかけも櫻井だったはずです」
「ああ、そうか。一瞬とはいえ、先輩、後輩の関係になったんですね。それは櫻井さんもうれしかったでしょうね。ちなみに櫻井さんはこのインタビューのことを知っているんですか?」
「私からはまだ言ってません」
「どうしましょう? 『笑うマトリョーシカ』の現場で会っても言わない方がいいですか」
「言っても問題ないと思います。あの人は絶対に口外しないので」
「それなら、ジュリーさんから伝えてください。その方が正しいと思います」
「わかりました。あとで知らされると嫌かもしれないので、櫻井にだけは伝えておきます」
「あえてここでうかがうんですけど、ジュリーさんと『嵐』のメンバーって、みなさん櫻井さんと同じように近い距離感なんですか?」
「いや、そんなことないですよ。櫻井、松本(潤)、相葉(雅紀)は対等に近いところにいますけど、二宮(和也)とは近年少し距離があります。大野(智)は仙人みたいな人なので、会ったら仲良しですけど、なかなか会えなくて」
「へぇ、少し意外です。二宮さんが出演した『硫黄島からの手紙』が大きな賞を獲ったときのジュリーさんのインタビュー、たしか『キネマ旬報』だったと思うんですけど、すごく喜ばれていて。とても良かったんですよね」
「そんな古い記事まで読んでいただいて」
「ちなみに赤坂ではじめてお目にかかったときのジュリーさんの印象に、『マネジメントとか経営より、作品のプロデュースをしていたい人なんだろう』というのがありました」
「たしかにモノを作るのは大好きです」
「僕みたいな書き手までリスペクトしてくれて」
「いやいや、作家さんはみなさんすごいと思っていますよ」
「それってお父さまの職業と関係ありますか?」
「それはどうなんですかね。ただ小さいときから『本にはいくら使ってもいい』と言われていました。大人になってからも本はよく読んでいたのですが、一連の出来事があってからはその習慣が止まってしまって」
「読めなくなってしまった?」
「はい。アメリカのコメディドラマくらいしか見られなくなってしまいました。とにかく深刻なことが手につかない。本は目が滑ります」
「ジュリーさんはご自身を気分の浮き沈みとか、メンタルの波がある方だと思いますか?」
「ない方だと思います」
「僕もジュリーさんっていつも安定してると思うんです」
「一度怒ると絶対に許さないタイプだと思うんですが、そうなるまで時間がかかる。普通は怒るでしょというようなことでもあまり怒らないみたいです。でも、それが積み重なると、急に『もうムリ!』となってしまって、そうなると二度と許さなくなります」
「そのなかなか怒らない部分こそが、娘さんの目には歯がゆく映るんでしょうね」
「そうそう。『もっと戦え』って」
「普段は何時くらいに寝てますか?」
「十二時くらいかな」
「そんなに早いんだ。起きるのは?」
「基本的には六時くらいです。どんなに遅くても七時には」
「昔からですか?」
「そうですね。娘が高三のときまでは絶対に朝は起きていたので。私が仕事で遅くなることが多く、帰ったら娘は寝ているということがほとんどだったので、せめて朝くらいはと。彼女がアメリカに行ってからもその習慣は変わりません。何年もかけて染みついたものなので。夜もほとんど出歩きません」
「意外という気もしないですね」
「私、本当に社交的じゃないので。パーティとかも嫌いだし、人見知りだと思いますし」
「わかりました。そうしたら、これはちょっと宿題みたいなもので、次回のインタビューをいまからする質問から始めたいと思うんですけど、いいですか?」
「もちろん」
「では、うかがいます。もしいまここに神さまみたいな人が現れて、ジュリーさんに『どこかのタイミングから人生をやり直させてあげる』と言ったとします。ジュリーさん、どこからやり直しますか? という質問から次のインタビューを始められたらと思っています」
「わかりました。でも、その答えなら明確にありますよ」
「え、本当に?」
「うん」
「すごいですね。間髪入れずに。一応、僕も四つくらい回答を想定してきたんですけど」
「一連の問題が表面化してからずっとそれを考えていましたから」
「そうなんだ。じゃあ、いま聞いちゃおうかな。いきなりブレて申し訳ないですが、聞かせてください」
「少し長くなってしまうんですけど、いいですか?」
「もちろん」
「一九九九年に『嵐』がデビューしたときって、ポニーキャニオンというレコード会社に所属していたんです。ですが、そのときの『嵐』は本当に売れていなかったので、レコード会社内でのプライオリティはあきらかに低いし、どうしたらいいのかなって。それで、自分でレコード会社を作ることにしたんです」
「はい。J Storm ですよね。二〇〇一年に設立されています」
「たしか最初は社員三人で始めたのかな。一方でその頃の私は個人的にも母や叔父とうまくいかなくなり始めた時期でもあったので、ジャニーズ事務所本体から離れたところでその J Storm を運営していたんです」
「はい」
「で、その後また紆余曲折があり、二〇〇八年頃から一六年のお正月に『SMAP』の元マネージャーが辞める、辞めないということで揉めるときまでジャニーとは口も利いていませんでした。ジャニーズの本社にも一八年までは一度も行っていないんです」
「井ノ原さんが代読された手紙にもそんな話がありました」
「J Storm が少しずつ大きくなっていって、自分の拠点となる場所ができて、そこでやるべきすべての仕事が完結していた。もし人生をやり直すことができるのだとしたら、絶対にジャニーズ事務所には戻らず、あのまま J Storm にい続けたかったと思うんです」
「そうなんだ。ちょっと思ってもみない答えでした」
「J Storm はレコード会社ではあったのですが、『嵐』のマネジメントも何もかも手がけることができていたので。そこに途中から『TOKIO』や『関ジャニ∞(現 SUPER EIGHT)』が加わり、タレントもスタッフもどんどん増えていったのですが、完全にジャニーとメリーから線引きされた世界だったんです。あのとき戻らなければ良かったというのは、この問題が起きてからずっと思っていることです」
「その『戻る』『戻らされる』というのは、どういう流れから起きたことなんですか?」
「たぶんなんですけど、自分たちが重宝していた人があまり言うことを聞かなくなったからだと思います」
「ええと、つまり『SMAP』の元マネージャーの方?」
「その方は結局会社を辞めていくわけですよね。そうなると誰かが代わりに『SMAP』のことをやらなきゃいけない。その他にもいろいろな問題が社内で生じていて、私以外にもう誰もやる人がいなかったというのが正直なところです。会社に行っていない期間もさすがにメリーとは話す機会がありましたが、ジャニーとはいっさいありませんでした。呼び出されたときに、七、八年ぶりに口を利いたという感じです。まさに『SMAP』の出来事があったときです」
「あの手紙の内容はこの部分に通じてくるわけですね。おどろきました。どういう流れで呼び出されたか覚えていますか? 電話があったとか、誰かが間をつないだとか」
「人を通じてジャニーのいる渋谷のビルに呼び出されたんです。ジャニーもメリーも幹部も、みんなそこにそろっていました」
「声がかかった時点でピンとは来ていたんですか?」
「そうですね。『SMAP』の解散報道はすでに出ていましたし、私自身も『これから会社はどうなっていくのだろう』と感じてはいたので。でも、いきなり呼び出されて、当たり前のように会議に参加させられて、まるでそれまでもずっと私が彼らの近くにいたかのように話を進められていったのは不気味でした。何年かぶりに話してる人に『それで? ジュリーはどう思う?』みたいに話を振られるんです。私自身もそれに普通に答えたりしていて……。すごく変な感じだったのを覚えています」
「そこに加わらないでいられた世界線ってあったんですか? その呼び出しに応じないことはあり得た?」
「いえ、だから私の言う『あのときに戻りたい』は、その日だけのことではなく、メリーやジャニーに対して『本当に申し訳ないけれど、他に何もいらないから、いまうちに所属している子たちだけ連れて私を独立させてほしい』とお願いできたんじゃないかということなんです。絶対に揉めたはずですけど、その選択肢はあったと思う」
「なるほど。実現の可能性は百に一つだったかもしれないけれど……」
「うん。母は私に対しても平気で訴訟を起こしていたと思うんですけどね。だとしても、私が動くことはできたはずです。なぜかというと、その頃はたぶんスタッフもタレントも気持ちがひとつだったから。もし仮にあの時期に動くことができていたら、今回のことに私は関わらずにいられたのかもしれないという気持ちは正直あります」
「実際そうだったのかもしれませんね」
「ジャニーズ事務所の取締役としての責任は生じていたんでしょうけどね。でも、これはおいおいしっかりお伝えしますが、肩書きは与えられていましたけど、会社には行ってなかったですし、仕事もしてなかったので」
「株も与えられていなかった」
「ジャニーが亡くなるまで一株たりともなかったです」
「もし本当にそんなことが実現していたとしたら、ジャニーズ事務所はその後どういうふうに引き継がれていったと思われますか?」
「株を誰にも渡していなかったということも含め、あの二人は最後まで自分たちがトップにいることしか考えていなかったと思うんです。その時々で二人の寵愛を受けていた人はいたのでしょうが、いざトップにという段階ではハシゴを外されたんじゃないかと思います」
「となると、どうなるんですか? 最後、本当にお二人が亡くなったときに、棚ぼた的に誰かが会社を継ぐという形しかなかったということ?」
「そうですね。それしかなかったと思います」
「一般論に落とし込むつもりはないですけど、ワンマン経営者ってのし上がってくる人間に対して恐怖心を抱きますよね」
「あの二人にもそういう傾向はありました。年を取るほど顕著だったと思います」
「その怯えをメリーさんから感じたことはありましたか?」
「とにかく言ってること、やってることがハチャメチャな人でした。自分の権限、権力を周囲に見せつけずにはいられなかったのだろうと思います」
「あの、すみません。これは今日聞くつもりもなかったんですが、メリーさんが『SMAP』の飯島三智マネージャーを呼びつけた、いつかの『週刊文春』って読まれましたか? 二〇一五年の一月二十九日号にある『ジャニーズ女帝メリー喜多川 怒りの独白5時間』という記事です」
「読みました」
「当時?」
「うん」
「どう感じました?」
「正気じゃないと感じました。記者がいる場に社員を呼び出して吊し上げるなんてあきらかにおかしいことだし、そこで口にしていた言葉もめちゃくちゃだし」
「どの言葉にそう感じましたか?」
「記事の中で、母が『ジュリーが跡継ぎよ!』みたいなことを言っていたじゃないですか。あれだって、本心ではそんなことを思っていなかったはずなんです。単に私がその場にいないから言っているだけなんだろうって、私は冷めた気持ちで読んでいました」
「でも、あの記事にはやっぱり相応の凄みがありましたよ。メリーさんの本質が描かれていると思いましたし、僕ははじめてメリーさんの息吹を感じました」
「絶対に揺るぎのない、信念の人ではありました。それは間違いありません。そしてジャニーはメリーにとって実際は弟ですが、息子のような存在で、特殊な間柄だったと思います」
「ジュリーさんの目から見ても、その特殊性って垣間見えるものでしたか?」
「当然見えていました。おそらく旧ジャニーズ事務所のタレントさんたち、誰に聞いても同じように答えると思います。母親のようなメリーと、息子のようなジャニー」
「全然関係ないんですけど、母親を『メリー』って呼ぶその感じ、少し不思議です」
「そうですかね? ふふふ」
「実際に向き合っているときは『お母さん』だったんですか? 『ママ』?」
「『ママ』っていうのは、最後にいつ呼んだかもわかりません。晩年は本当に距離が遠かったので、呼びかけてもいなかった気がします。どうしても必要なときは『あの』とか『ねぇ』とかでごまかしていました」
「長年の積み重ねでそうなっていったんですか? 決定的な出来事があってのこと?」
「たぶん一番は私の結婚ですね」
「そうなんだ。だとしたら、後日じっくりうかがうテーマですね」
「長くなると思います」
「また追ってきちんとうかがいます。ああ、でもすごいな。今日だけでもこれから深く聞いていかなきゃというポイントがたくさんありました」
「本当ですか? だったら良かったです」
「あとはこの本を誰に向けて、どう書くかというところですね」
「誰に向けてとは?」
「いろいろな人が読む本じゃないですか。いま会社にいるスタッフも、かつていた方も、芸能関係者も、ジャーナリストも、活動を続けているタレントも、おそらくは被害を受けた方も……。そうした中に、旧ジャニーズ事務所を支えていたファンのみなさんもたくさんいると思うんです」
「それは……。うん。そうですね」
「僕、今年たまたま自分の小説が二本ドラマ化されているんです。TBSの『笑うマトリョーシカ』と、もうひとつ、テレビ東京で『95』という作品が。そちらの主演は『King & Prince』の髙橋海人さんで、髙橋さんと櫻井さんのおかげで僕のXのフォロワーが爆増したんです」
「なんかにぎわってますもんね。私の方にもどんどん流れてきています」
「櫻井さんはともかく、髙橋さんが出てくれたのなんて本当に偶然じゃないですか。でも、どうせそれだって『ジャニーズに近い作家』みたいな言い方をする人も出てくるんだろうな、嫌だなって思っていたんですけど、はじめてファンの方たちと触れ合ってみて、そんなことどうでもいいなって思い直したんです。なんていうか、すごくピュアじゃないですか。とくに髙橋さんのファンの方たちが『海ちゃんをありがとう』とか『海ちゃんをよろしくお願いします』とか伝えてきてくれるんです。原作者でしかない僕にまで。あえて言うと、そんなファンの “子” たちを傷つけるものは書きたくないなって」
「それは、はい……。ありがとうございます。そう思っていただけるのはうれしいです」
「もちろん被害者の方がいるわけで、だから何かに迎合したり、手加減したりすることはしませんが。すみません、ダラダラと」
「とんでもない。本当にうれしいです」
「では、今日はここまでにしておきましょう。これから半年間、よろしくお願いいたします」