第一章 夏帆とモーターサイクルの男
「これまでいろんな女性とデートのようなことをしてきたが」とその男は言った。「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」
それはデザートを食べ終え、コーヒーが運ばれてくるのを待つ間に起こったことだった。
彼が口にした言葉の意味を飲み込むまでに少し時間がかかった。三秒か四秒というところだろう。あまりに唐突な発言だったし、その意図が
そのような場合、自分がとるべき態度として、夏帆の頭にまず浮かんだのは、膝の上のナプキンをとってテーブルに置き、隣の椅子に置いたパースを
しかし夏帆にはそのとき、なぜかそれができなかった。彼女がそうしなかったのは──あとになって考えてみればということだが──ひとつには純粋な驚きのためであり、もうひとつは好奇心だった。もちろん腹は立った。腹が立たないわけはない。しかしそれよりはむしろ知りたかったのだ。この男はいったい何を私に告げようとしているのだろう? 私は本当にそれほど醜いのだろうか? そしてこれには何かこの先があるのだろうか?
「いちばん醜いというのは、ちょっと言い過ぎかもしれない」と男は少し間を置いて、補足するように続けた。「しかしいちばん不美人だというのは、まず間違いないところだね」
夏帆は唇を一直線に結び、目を逸らすことなく黙って男の顔を見ていた。
どうしてそんなことを、わざわざ口にしなくてはならないのだろう? ブラインド・デート(みたいなこと)をして、初対面の相手がそれほど気に入らなかった場合、そのあと連絡を取らなければいいだけのことだ。簡単な話だ。面と向かって相手を侮辱する必要がどこにあるだろう。
男は夏帆よりもおそらく十歳は年上で、身なりも清潔でそつなく、ハンサムだった。とくに夏帆の好みというのではないが、いかにも育ちがよさそうな整った顔立ち、写真うつりの良さそうな顔、というのが適切な表現かもしれない。もう少し身長があれば、あるいは俳優にだってなれたかもしれない。彼が指定したレストランもこぢんまりと洒落ていて、出てくる料理もおいしく上品だった。饒舌というほどではないが、話が巧みで、会話が途切れて居心地悪くなるようなこともなかった(あとになってみると、そこでどんな話が出たのか、不思議なほど思い出せなかったが)。そして彼女は食事のあいだ、彼に対して穏やかな好感のようなものさえ抱くようになっていた。それは認めなくてはならない。そしてそれが突然──このありさまだ。いったい何ごとが持ち上がったのだろう?
「君はあるいは不思議に思っているかもしれない」
エスプレッソのカップがふたつ運ばれてきたあと、男は穏やかな声でそう言った。まるで夏帆の心の動きを読み取ったみたいに。そしてコーヒーに小さな角砂糖をひとつ入れ、スプーンで静かにかき回した。
「じゃあ、どうしてそんな醜い相手と、というか顔立ちが気に入らない相手と、最後まで食事を共にしたのか? 最初のグラス・ワインだけ飲んで、適当に軽く切り上げることもできたはずなのに。一時間半もかけてコース・ディナーをとるなんて、どう考えたって時間の無駄じゃないか。そしてまた、どうして最後の最後になって、こんな話をわざわざ持ち出さなくてはならなかったのか?」
夏帆はただ黙ってテーブル越しに男の顔を見ていた。その両手は膝の上のナプキンをぎゅっと握りしめていた。
「好奇心が抑えられなかったのだと思う」
男はそう言った。「君のような不器量な女性がどんなことを考えているか、不器量だという事実が君の人生にいかなる影響を与えているか、たぶん僕はそういうことを知りたかったのだろう」
その好奇心は満たされたのかしら、と夏帆は心に思った。もちろん声には出さなかったけれど。
「そしてその好奇心は満たされたか?」、男はコーヒーを一口飲んで、少し顔をしかめてそう言った。
間違いない。この男は夏帆の心の動きを瞬時に残らず読み取っている。まるでありくいがその細長い舌の先で、シロアリの巣をきれいに舐め尽くすみたいに。そして彼女は反射的に、実物のありくいの姿を思い浮かべた。まったく無関係な事物に目を向けることで、少しの間でもいいから今ここにある奇妙な現実から身を引くために。彼女が思い浮かべたのは黒くて大きな雌のありくいだった。ありくいも顔を上げ、その大きな黒い目で彼女の方を見やった。その瞳には明らかに好奇の色が浮かんでいた。あなたはこんなところで何をしているの?
私はここでいったい何をしているのだろう、と夏帆は思った。
「そしてその好奇心は満たされたか?」、男はもう一度繰り返した。そして首を小さく振って、エスプレッソのカップを受け皿に戻した。それから自らの質問に自ら答えた。「いや、満たされてはいない」
そう言うと男は手を上げてウェイターを呼び、カードで手短に勘定を済ませた。そして夏帆に向かって軽く会釈をして立ち上がり、そのまま歩いて店を出て行った。後ろを振り返りもしなかった。あとには夏帆と、比喩としての雌のありくいだけが残された。
実のところ、夏帆は幼い頃から、自分の容姿にとりたてて興味を抱いたことがなかった。鏡に映った自分の顔を見て、とくに美しいと思ったこともなく、またとくに醜いと思ったこともなかった。嬉しく思ったこともないし、がっかりしたこともない。彼女が自分の顔に興味を抱かなかったのは、容貌のせいで自分の人生がなんらかの影響を受けているという意識がなかったからだ。そういう意識を持つ機会がなかった、というべきかもしれない。一人っ子だったから、兄弟姉妹と評価を張り合ったり、コンプレックスを持ったりする必要もなかったし、両親が彼女の容貌について何か意見を述べるようなこともとくにはなかった。
夏帆の母親は顔立ちがきれいに整っていて、顔もほっそりして、よく美人だと言われた。そして実際の年齢よりはずっと若く見えた。夏帆は残念ながら(というか)その顔立ちを受け継いではいない。どちらかと言えば父親のDNAを引き継いでいた。しかしそのことを──美人に生まれつかなかったことを──とくに残念だとは思ったことはない。正直なところ(もちろんそんなこと口には出さなかったけれど)、彼女は母親の顔立ちがあまり好きではなかったからだ。どことなく無骨で正直そうな父親の顔の方が、深みがあって好きだった。ファン・ゴッホなら、父親をモデルにして素敵な肖像画を描いてくれるかもしれない。「浦和のある小児科医の肖像」とか。
思春期を迎えてからも、夏帆のそのような自分の容貌に対する無関心さ、無頓着さに変化はなかった。彼女の女友だちの多くは、自分の顔立ちについて深く思い悩んだり、手を尽くして化粧をしたりしていたが、そういう気持ちは彼女にはよく理解できなかった。彼女が鏡の前に座る時間もきわめて短いものだった。身体や顔を当たり前に清潔に保っておく──それだけが彼女の心がけることだった。そしてそれはとくに困難を伴う作業ではない。
男女共学の公立校に通い、そこで何人かのボーイフレンドができた。彼女は、たとえばクラスの男子による女子生徒人気投票で、多くの票を集めるというタイプではない。しかしなぜか、どのクラスにも必ず一人か二人、彼女に異性としての関心を抱いて近寄ってくる男子がいた。彼らが自分のどんなところに興味を持ったのか、それは夏帆にもわからない。
高校を卒業し、都内の美術大学に通うようになってからも、交際する男性がまわりにいない時期はほとんどなかった。だから自分の容貌の美醜について思い悩んだりする必要もなかった。その点はラッキーだったと言えるだろう。いずれにせよ彼女には不思議でたまらなかった。どう考えても自分より遥かに顔立ちの優れた女性の友人たちが、容貌について実は真剣に思い悩んでおり、場合によっては高額な費用のかかる整形手術を受けたりしていることが。それは彼女の理解の範囲を超えたことだった。
そのようなわけで二十六歳の誕生日を過ぎて、その初対面の男に夕食の席で「醜い」とあからさまに指摘されたとき、夏帆は真剣に戸惑ってしまうことになった。その無礼さに怒りを感じるよりは、あるいはショックを受けるよりは、ただ純粋にびっくりしてしまったのだ。
男との出会いをセッティングしてくれたのは、
男に会った三日後に、町田さんが電話をかけてきた。
「それで、デートの具合はどうだったの?」、開口一番、彼女はそう尋ねた。
夏帆はただ曖昧に唸って、直接の返答を避けた。そして逆に質問をした。「そうね、というか、うーん、あの人はいったいどういう人なのかしら?」
町田さんは言った。「実を言うと、私も彼についてあまり詳しいことは知らないのよ。知り合いの知り合いというくらいだから。おそらくは四十歳近くで独身、証券関係の仕事をしているみたい。身元は確か、仕事もよくできる。たぶん犯罪歴もない。一度だけ顔を合わせて、短く話をしたことがあるけど、ハンサムでなかなか感じの良さそうな人だった。背はまあ、少し低いかもしれないけどね。でもトム・クルーズだって決して背は高くないでしょう。まあ、実際にトムさんをこの目で見たわけじゃないけど」
「しかし、そんなにハンサムで、感じが良くて、仕事のできる人が、どうしてブラインド・デートなんて面倒なことをいちいちしなくちゃいけないのかしら?」と夏帆は言った。「そういう人なら、おつきあいする女性には事欠かないでしょうに?」
町田さんは少し迷ってから言った。「うーん、そうね、頭はかなり切れるし、仕事的には有能なんだけど、性格的にちょっとひとクセあるかもしれない、みたいな話は耳にした。どんなひとクセかまでは聞かなかったけど。まあいずれにせよ、実際に会う前に先入観を植え付けるのはいやだから、そういうことはあえて言わずにおいたんだけど」
「ちょっとひとクセあるかもしれない」と夏帆は相手の言葉を機械的に反復した。そしてあきれたように電話の前で小さく首を振った。あれが「ちょっとひとクセ」と呼んで済ませるような種類のものなのか?
「それで」と町田さんは言った。「電話番号とか交換したわけ?」
夏帆は受話器を握ったまま一瞬間を置いた。電話番号の交換? それから言った。「いいえ、していない」
