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夏帆─The Tale of KAHO─

村上春樹/著

2,860円(税込)

発売日:2026/07/03

  • 書籍

私はこの世界の出口を見つけなくてはならない──。女性を主人公にした初の長編小説。

「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」 26歳の絵本作家、夏帆は初対面の男にいきなりこう告げられた。とびきり美しくも賢くもなく、ただ少しばかり好奇心の強い彼女は、怒りよりもショックよりも、ただ純粋に驚いた。しかしそれから彼女の周りでは、実にさまざまな奇妙な出来事が起こりはじめる。

目次

第一章 夏帆とモーターサイクルの男
第二章 武蔵境のありくい
第三章 夏帆とシロアリの女王
第四章 守護天使、象の卵とスカーレット・ヨハンソン

書誌情報

読み仮名 カホザテイルオブカホ
装幀 新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 352ページ
ISBN 978-4-10-353440-2
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 2,860円

書評

夏帆が呼び寄せたもの

平松麻

 コロニーに一匹だけ存在するシロアリの女王は一日中出産する。種によっては一日、数千~数万個、産む。腹が極端に肥大して動けないから出産だけが責務だ。いっぽう、ありくいは一日に2~3万匹のシロアリを食べる。60cmの長い舌を1分間に150回ほども蟻塚の穴に出し入れしてシロアリを舐めとる。ルールは女王を殺さないこと。母である女王を殺してしまうと、プチプチして美味しいシロアリが今後産まれなくなる。しかし、女王も生産力が落ちると、若い女王候補によって追い出されることがあるそうだ。つまり自分が産んだ娘によって。
『夏帆─The Tale of KAHO─』では、ブラジルのジャングルから、シロアリやありくいなどの野生動物が何らかの境界線を密かに越えて夏帆の暮らしに闖入してきたようだ。夏帆の無意識が呼び寄せたのかもしれないし、彼らは夏帆を都合よく使えると感知したのかもしれない。
 シロアリの女王は夏帆の母に取り憑き、ありくいの子供を殺したジャガーは包丁研ぎ「とぎや」の主人に取り憑いた。子を亡くしたありくい夫婦は夏帆の自宅の床下に棲みついた。ありくいは棲まわせてもらう代わりに夏帆を危険から守ると言い、助言をするようになるが、どこか夏帆を利用するようでもある。実像と虚像を行き来しながら動物たちが夏帆に関わり始める。そのようすを遠くで見護ることとなるオフビートな守護天使・佐原と、夏帆はブラインド・デートで出会うが、守護天使は性欲を持たないらしいので、どうして実在するのか不思議だ。守護天使も人間に取り憑いているのかもしれない。それなりに自分自身に満足して暮らしていた夏帆に、どうしてこうも周りが関わってくるのか。現実を歪ませるのは夏帆なのか。それとも、夏帆もそれら全体に取り憑かれてしまったのだろうか。
 絵本作家である夏帆や私のように絵を必要として生きる者は、現実と非現実の間に引かれた境界線の真上で積極的に宙吊りになる好奇心がある。そこには独自の時間が流れ、独特な質感がある。夢であるわけがないほど異様な実在感がある。その時空そのものがすでに答えである感覚と言えばいいだろうか。しかし、油断していると自分の物語が何者かに乗っ取られそうになり、身の危険を覚えることもある。境界線を越えようと彷徨ういきものにとって、生身の存在は貴重だからだ。しかし、自分が語るべき物語を他の誰かに語られるわけにはいかない。
 主体性の希薄な夏帆は、まさにその危険の中にいる。磁石のような夏帆には、当然いろいろなものが集まってくるのだろう。夏帆が、存在を確かめなければそれらは不在となるのだが、自分の内的現実をゆるめたことでシロアリの女王が外に放たれてしまった。結果、自分の首を絞めるような物語が始まることとなる。
 ジャングルでお払い箱になったシロアリの女王は、自分のコピーを産み続けるだけの責務から逃れ、まるで、ジャングルへ仕返しをするように、人間の、それも女の体を棲家とした。皮肉にも、シロアリの女王の取り憑き行為が、夏帆を自分の深層心理へ向かわせることになる。母との関係への対峙だ。社会的階層のランクアップを回復であると言った野心家の母の期待を負担に思っていた夏帆は「母のことがそれほど好きではないかもしれない」とようやく吐露することができた。親子の関係は常に「薄紙が一枚はさまったような感覚」であるが、それは、親が子の「正確な記憶を所持している」からなのだろう。
 シロアリの女王やありくいが夏帆を越えて語るような存在になってしまった今、夏帆は自分の手でその物語を断ち切らなくてはならない。夏帆には、父がいて、叔父がいて、猫のホルがいて、「とぎや」の店主がいて、そして母がいる。非現実と現実の間の宙吊り状態を楽しむ間、現実から聞こえてくる他者の声は、きっと命綱になる。
 夏帆が存在する間、夏帆の内的世界もまた現実である。目に見えにくいことをなんとか描き出して見えるものにしたい私にとって、『夏帆─The Tale of KAHO─』は画家の主観的現実を肯定してくれる物語だ。そして、言葉で語る必要のない絵という存在を、著者もどこか希求しているような気がしている。

(ひらまつ・あさ 画家)

波 2026年8月号より
単行本刊行時掲載

目が眩むほど眩しい、ゆえに

池澤春菜

 最初に告白する。
 わたしは怠惰な読み手で、村上春樹をずっと「いつか読むリスト」に入れたままにしていた。村上春樹はおそらく新刊が出れば日本で一番話題になる作家だ。ハルキストと呼ばれる熱烈なファンが、新刊発売時には徹夜で並ぶ。
 翻訳の、それもSFやミステリーやファンタジーという、どちらかというとマイナージャンルを好むわたしからすると、直視してはいけない太陽のような存在だった。太陽は何もしなくても輝いている、だったらわたしは太陽に隠れてしまうかもしれない、小さな、でも美しい星があることを伝える側に回ろう、と思っていた。
 それがなぜ『夏帆─The Tale of KAHO─』に限って手を伸ばしたのか。これだけキャリアの長い、そして様々な作品を書いてきた作者の、初の女性主人公(長編では、単独では、といろいろ但し書きがつくが)という点が気になった。
 主人公夏帆は二〇代の絵本作家。第一章、知人の紹介で出会った男性に容姿の醜さを指摘されるところから物語は始まる。第二章、夢のお告げで引っ越した先にありくいの夫婦が住み着き、夏帆を巻き込んでいく。第三章、母親が何ものかに入れ替わっていることに気づく。それはブラジルのジャングルから逃げたシロアリの女王だという。最終章、夏帆は実家に戻り母と対峙する。
 村上春樹は主人公を女性にしたのは「母親が抱える問題と向き合う」ためだとインタビューで語っている。確かに物語はモチーフを反復させながら、母親との対峙というクライマックスに向かっていく。
 しかしそれだけだろうか。
 夏帆が女性でなければならなかった理由は。
 容姿を指摘される流れは男性主人公では成立しない。作中「女性の尊厳を踏みにじる許しがたく侮蔑的な発言だ」とあるように、女性だからこそ容姿を貶す効果があるとされる。
 夏帆を導くのはほぼ男性性だ。メンター役の叔父、いざという時だけ現れるありくいの夫、守護天使を名乗る男、母を屠る刃物を打つ研ぎ屋、闇サイトを調べる友人。夏帆の担当編集は女性だが、物語を進める装置に過ぎない。
 物静かで知的な父親を夏帆は慕うが、母親とはよそよそしい。この母親の描写がひどい。「つんと取り澄ましているようないくぶん冷ややかな雰囲気があったから、親密な友だちはそれほどできなかったはず」「世俗的に見栄っ張りなところとか、負けず嫌いなところとか(夏帆の目から見ればほとんどどうでもいいようなことに関して)、何かひとつを思い込んだら融通がきかなくなるところ」。
 その母との対話は曖昧で、母という個人ではなく役割が喋っているようだ。母がお洒落をし、外に出るようになったのは性的活動なしには生きていくことができないシロアリの女王に取り憑かれたからだ。彼女自身の欲望としてではなく気味悪い存在に乗っ取られた結果として。不倫云々の是非は置いておいて、五〇代の女性には、性的主体はないのだろうか。それは本人の意志ではなく、醜悪な何かに乗っ取られた状態なのだろうか。
 村上作品で度々言及される、鏡のように周囲を映す透明な主人公像は夏帆にも見られる。強烈な意志を持つ人物たちに煽られるように、夏帆は台詞を反復し、進んでいく。これは男性においては個性だ、だが女性においては、作者の意図とは関係なく、従順な女というジェンダーステレオタイプにも読めてしまう。
 もちろん意識的な仕掛け、老獪な筆の可能性もある。
 村上作品に繰り返し使われるモチーフ、「あるいは」「かもしれない」と曖昧さを含む語り、「やれやれ」と受容する姿勢、あちら側とこちら側、動物や超自然的な導き手、責務や使命、『夏帆』にもその全てがある。
『夏帆』は売れるだろう。約束された安心感があり、心地よい謎があり、深読みの面白さがあり、読み手それぞれの収穫がある。
 わたしは村上春樹の挑戦をハルキストほど熱く語ることはできそうにない。ただ一つ確かなのは、この小説を読み終えたあと、あなた自身の中の「夏帆」が、あなた自身の答えを持って現れるだろうということだ。それだけは、太陽のような作家にしかできない芸当なのかもしれない。

(いけざわ・はるな 声優・作家)

波 2026年8月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

村上春樹

ムラカミ・ハルキ

1949年京都府生まれ。『風の歌を聴け』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『東京奇譚集』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』『夏帆─The Tale of KAHO─』などの小説の他、『レイモンド・カーヴァー全集』、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『フラニーとズーイ』、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』、トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』『遠い声、遠い部屋』『草の竪琴』など訳書多数。

村上春樹 Haruki Murakami 新潮社公式サイト

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