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第一章 はじまりのスープ

1

 朝起きると、部屋の中はまだ薄暗かった。もうひと眠りしようかと思ったけど、お腹が空いてしかたない。
「よし、食べるか」
 そうつぶやいて体を起こした。
 節約のため昨晩は何も食べずに寝たけど、今日は食べていいだろう。きっとお金が手に入るはずだ。
 二ヶ月前、バイト先のイタリア料理店で、人員を削減したいという話が出た。
「パートさんの中でお一人辞めていただくことに……」
 と申し訳なさそうに言う店長に、
「私、辞めます」
 と申し出た。
 誰が辞めるのか。この店にいらないのは誰か。そんな相談をするのはごめんだった。私はみんなとそれほど打ち解けていない。話し合って決めるとしたら、仕事ができるできない以前に、私の名前が挙がるだろう。「ここにいてほしい」と選んでもらえる自信はなかったし、その事実を示されるのも嫌だった。
 新しいバイトを探さないといけないと思いながら、そのまま億劫で家にこもっていたら、お金はすぐになくなった。家賃も二ヶ月滞納している。
 高校卒業とともに実家を出てから八年経つが、私は定職に就かずバイトで暮らしている。いつでもやめることができる。いつでもその場から逃げられる。バイトは、正社員になるより私の性に合っていた。ただ、仕事がない時もあるし、時給が低い職場もあるから、お金はなかなかたまらない。贅沢をしているわけでもないのに、生活はいつもぎりぎりだ。
 冷蔵庫を開くと、白菜の漬物が入っているだけで、後は棚にパックご飯とフリーズドライの味噌汁しかなかった。
 勝負前に気合の入るものを食べたいと思ったが、やむをえない。私は小さな食器棚から深めの皿を取り出し、レンジで温めたパックご飯を入れ、その上に白菜の漬物とフリーズドライの味噌汁を載せて、ポットの湯を注いだ。
「いただきます」
 と手を合わせてから、漬物味噌汁ご飯を口に入れる。味噌汁の味はやっぱりほっとする。白菜の塩分も心地いい。そして、お腹が膨れると眠気がやってくる。まだまだ時間はある。少し寝ようかと、そのまま床に転がった。  

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2

 仮眠のつもりがしっかりと眠ってしまった。私は九時三十分に飛び起き、歯磨きを済ませ会場への道を急いだ。今日のコンテストは十時集合。四月のふわっと緩やかな日が差し、手でつかめそうな柔らかい風が吹いている。いいことがありそうな日だ。私は早足で進んだ。
 優勝賞金は十万円。審査員特別賞は高級鍋セット。家賃を二ヶ月滞納している今、優勝以外は価値がない。何としても勝たなくてはいけない戦いだ。
川端かわばた市春の料理コンテスト」の会場は、調理師専門学校の一室だ。二度寝のせいで到着が集合時間直前となってしまった。私が部屋に入るや否や、司会者らしき人物が「それでは全員集合しましたね。さっそくコンテストの説明をしたいと思います!」と甲高い声を出した。
 ルールは事前に配られていたプリントに書かれていた。三十分間で、春を感じさせる料理を一皿作る。和洋中ジャンルを問わず、用意された食材から何をどう使っても自由というものだった。
「続きまして、審査員の紹介です」
 司会者の声に合わせて、部屋の前方に設置された席に目をやる。
 審査委員長は、この専門学校の校長という八十歳は過ぎてそうな、すっかり頭の禿げあがったじいさん。そのほかに、JA職員という中年のおっさん、茶道の師匠を務めているという化粧の濃い着物のおばさん、地元のタウン誌の編集者。合計四名が審査をするようだ。
 地元の有名らしき人を集めただけで、プロの料理人や専門家はいないってことか。どういったものが好みだろうかと、審査員の顔を見回していると、「それでは、皆さん、この部屋を春のおいしい香りでいっぱいにしてください」と司会者が勢いよく言い、スタートが切られた。
 地方都市で行われる料理コンテストだから、参加者は少なく、私を含めて十人だけだ。新しい住宅地がすぐそばにあるせいか、若い主婦っぽい人が多い。受付順に審査されるということだから、私は十番目に試食をされる。
 さて、何を作ろうか。一人に一台ずつ与えられている調理台を確認する。磨きこまれたステンレスのシンクにガスコンロ。下の棚を開けると、鍋も包丁もきれいにそろっている。今日は日曜日で生徒がいないけれど、日ごろ動いているであろう彼らの姿が目に浮かぶ。
 食材は真ん中の広いテーブルにたくさん置かれていた。地元特産だという玉ねぎにキャベツにじゃがいも。それ以外にほうれん草やトマト、アーティチョークやモロヘイヤなど少し変わった野菜まである。魚介類や肉類に卵、食材はふんだんで、何でも作ることができそうだ。
 審査員をもう一度確認する。みんな真剣な顔を私たちのほうに向けているけれど、どうだろう。専門学校の校長はただ校長という立場にあるだけで、年を取ってるから奇抜な料理は好まなそうだ。それに紹介された時の話し方、あれはきっと入れ歯だ。隙間に入りこまないものがいい。
 JA職員は五十歳は過ぎている。あの体形からして脂っこいものが好きそうだけど、動いてもないのに額に脂汗がうっすら浮かんでいる。健康診断にひっかかっていそうだし、体に優しそうなものを作っておくほうがいいか。
 裏だか表だかのお茶のおばちゃんは、濃い化粧が崩れにくいように大きな口を開けなくても食べられるものがいいかな。着物を着てるから最後はお腹が苦しいだろうし軽いものがいいはずだ。
 タウン誌の編集者は三十歳になるかならないかの特徴のない男で、好みがわかりにくい。タウン誌はレストランやカフェを取材することが多いはずだ。ということは、盛り付けに工夫が必要か。
 私は中央のテーブルに置かれた食材から、新玉ねぎとアサリを選んで自分の台へと戻った。
 砂抜きの時間がないから、よく洗ってからアサリを熱めのお湯につける。その間に玉ねぎの皮をむき、十字に切れ目を入れ圧力鍋に入れる。圧力鍋は以前カレー屋でバイトしてた時によく使ったけど、本当に便利。新玉ねぎは水分が多くて柔らかいから、すぐに火が通る。
 アサリの砂抜きはまだ完全ではないが、身はつかわず出汁だけでスープにすればいいか。アサリを殻のままざっとフライパンに移しワインを入れ、ふたを閉めた。あとは少し待つだけだ。何かをしたくなるけど、動かないほうがいい。
 いくつか料理コンテストに出て、わかったことがある。素人とプロの違いはいくつかあるけれど、素人であればあるほど、いろんなものを入れたがり、調味料を加えたがる傾向があるということだ。そして過剰な盛り付け。これは逆効果だ。たくさんの料理を口にしなければいけない場では、あっさりとした料理が好まれるし、ごちゃごちゃと詰めこむより、余白のある盛り付けが大事だ。
 私以外の出場者たちは忙しく動いている。全員女性で、小ぎれいな服を着ておしゃれなエプロンを着けている。
 この人たちは、普段どんな生活を送っているのだろう。広い家のピカピカのキッチンでお菓子を焼き、紅茶を飲み、手の込んだ料理を作って旦那の帰りを待つ。まさかな。そんな優雅な日々を送っている人など現実にはほぼいないかもしれない。
 周囲を眺めていると審査員のお茶のおばちゃんと目が合った。ぼんやりしていてマイナス点になっては困る。もう一品作りたいところだけど、一皿で勝負すると決まっている。フライパンはまだ触らないほうがいい。やることがない私は、シンク下の包丁を出して、研ぐことにした。

 私は、高校を卒業してから、住んでいた町を離れて一人暮らしを始めた。この時だけは母親が一緒に来てくれ、アパートの保証人になってくれたり、部屋を整えるのを手伝ってくれたりした。
 それまでは、父親と二人で暮らしていた。もともと不規則な仕事をしていた父とは、顔を合わせることもほぼなく一人でいたようなものだから、特に生活が変わった感じはしなかった。それから、主に飲食店でバイトをしながら生活をしている。飲食店と言っても、接客ではなく、厨房での仕事だ。自分に愛嬌がないのはわかっている。
 料理は父と母が共働きだった小学生のころから、料理番組や本を見てやっていた。父も母も妹も、私が作ったものを「おいしい」と喜んだ。両親の仲がぎくしゃくしている時も、私が作った料理は、みんなで食卓を囲んで食べてくれた。それがうれしくて度々作るようになるうちに、自然と上達した。今ではたいていの物は作れる。
 飲食店で働き、自分の手際がいいことにも気が付いた。ただ、バイトだけでは収入が安定しない。何かないか。そこで見つけたのが料理コンテストだ。調べてみると、コンテストは意外とよく行われていた。賞金がいいとわかれば遠くても出向き、二、三ヶ月に一度は何らかのコンテストに出て、そこそこのお金をもらった。

「あと十分です」と言う声が聞こえ、私はフライパンのアサリスープを目の細かなざるでし、玉ねぎのスープに加えた。玉ねぎの甘さとアサリの塩味。一口味見をしただけで胃が落ち着く。素材そのものの味は何でこんなに穏やかで体に染みいるのだろう。ほんの少しの塩コショウで味を調ととのえ、余った時間で小さなフライパンにベーコンを入れ、弱火でカリカリになるまで焼いた。
 皿は大きめのものを選ぶ。皿いっぱいに盛り付けるより、空間があったほうが美しい。
 スプーンだけで崩すことができるほど柔らかく煮た玉ねぎを丸ごと真ん中に置き、スープを流し込み、上にカリカリになったベーコンを載せよう。あ、そうだ、入れ歯ではベーコンは嚙みきりにくいだろう。細かく砕いて振りかけることにした。何のスープかあえてわからなくするためにアサリの身も殻も入れなかった。
 ただ捨てるのはもったいないから、殻を外してアサリの身を小さい鍋でショウガと一緒に醤油で甘辛く煮て、置いてあったラップにくるんだ。どうせ捨てるんだから責められないだろう。冷めたら鞄に入れて持って帰ろう。今日は十万円を手に入れ、家に帰って久しぶりにゆっくり自分で作ったごはんを食べたい。

 審査が始まった。一番に受付をした人から順に料理を提供する。最初の参加者はロールキャベツのグラタン。見た目はかわいいおしゃれな料理だけど、それ自体食べにくいロールキャベツにチーズまで載せてしまうのはどうだろう。入れ歯のじいさんや厚化粧のおばさんにとっては天敵だ。JA職員はがっついていたけど、ほかの審査員は箸が進んでいない。トップバッターだったからよかったものの、これは胃に来る料理だろうな。
 二番は春野菜たっぷりハンバーグのバーニャカウダソース。ひき肉にしいたけ、たけのこ、人参そのほかもろもろの春野菜を入れたハンバーグらしい。ひき肉にいろんなものを入れたいのなら、スパイスを利かせてオーブンで焼くミートローフにしたほうが味にまとまりが出ておいしい。バーニャカウダソースのせいで、さらに味のバランスが崩れてしまいそうだ。これにはさっきまでがっついていたJA職員も微妙な顔をしていた。
 勝ったな。その後の料理も、見ただけで味がだいたい想像できた。四番目以降は四人とも完食できていない。これで、十万円はもらったも同然。家賃二ヶ月分が払える。私はそう確信して料理を運んだ。「新玉ねぎのスープです」と紹介すると、審査員はほっとした顔をしていた。これ以上お腹にたまるものはつらいと思っていたはずだ。四人ともきれいに食べきった。
 今日はこの後すぐにアパートに帰り、二ヶ月分の家賃を払いに行こう。一階に住む大家は八十三歳のばあさんで、一ヶ月は見逃してくれるのに、二ヶ月家賃を溜めると、顔を見る度に、「早く払え」と怒ってくる。大家は毎日アパートの前をほうきで掃いているから、度々出くわしては叱られる。ばあさんは強くてかなわない。早いところ家賃を払ってしまいたい。
 結果発表を待つ間、私は調理台を片付けた。また清掃の人がきれいにするだろうけど、なるべく手間にならないよう、水分を残さず拭き、使用前と同じ状態に戻した。
「いよいよ結果発表です」
 司会の声にみんなが息をのむ。いや、みんなもわかってるかもしれない。四人全員が残さず食べたのは、一番最後に出た私の料理だけだ。
「まず、審査員特別賞は、新玉ねぎのスープです」
「え!?」
 優勝じゃないことに驚いた私は、思わず声をもらした。
「そして、優勝は! 春野菜たっぷりハンバーグバーニャカウダソースです」
 パラパラと拍手が聞こえたけど、納得いかなかった。
「中森さんのスープも、素材を生かしてすごく良かったんだけど、もうひとひねりかな」
 入れ歯の校長がそう言った。
 よく言うよ。バーニャカウダソースよけながらハンバーグ食ってたくせに。ついでにハンバーグの中に入ってたエノキが歯に詰まって困ってただろう。そう言いそうになったけど、苦笑いするだけにとどめておいた。
 優勝したかわいらしい女性は満面の笑みで賞状と金一封を受け取って、周りは温かい拍手を送っていた。結果発表後もみんなで連絡先を交換したり、スマホで写真を撮ったりして盛り上がっている。誰もそこまで勝ち負けにこだわってはいなかったようだ。
 私も勝敗はどうでもいい。おかしな審査だとは思うけど、料理人ではないから、プライドが傷つくわけではない。困るのは、今私が手にしているのがお金じゃなく鍋セットだということだ。これでは家賃にはならない。大家の苦々しい顔を見るのは、もうこりごりだ。とにかくお金に換えなくては。
 まだ話に盛り上がっている部屋を後にして、私はスマホでリサイクルショップを探し、会場から一番近い店へと向かった。
「そうだなあ。三点で三千円かな」
 眼鏡をかけたおじさんは、箱から中身を出してすぐに値をつけた。
「三千円? 未使用の新品なんですけど。ネットで見たら、ほら五万八千円です」
 三千円ではどうしようもない。私はスマホの画面を見せた。
「鍋なんてそうそう売れないんだよね。新しいのを安く売ってるんだから。ま、どこ持って行っても三千円以上にはならないよ」
 とおじさんは言った。
「そうですか? 高級鍋なのに?」
「そう。どうする? うちはどっちでもいいけど」
 この重い鍋を持ってまた違うリサイクルショップを探すのはかなり面倒だ。鍋じゃなくてせめて商品券にしてくれよ。と愚痴が出そうになるのをこらえて、私はしぶしぶ三千円で手を打った。
 貯金は五万あるが、二ヶ月分の家賃八万にあと三万円足りない。次の月の家賃に、スマホ代、食費も入れるとまだお金が必要だ。何だっていいから急いでバイトを探すしかない。どれがいいかなど言ってられない。もともと私は選べる立場ではない。小学校を卒業した春休みのあの日、私は誰にも選ばれなかった。目の前にあるもの、それに向かうしかない。

「売ったの? 鍋?」
 ついてないとため息をつきながら店を出ると、声が聞こえた。驚いて顔を向けると、さっきの審査員の一人、タウン誌の編集者がいた。
 賞品の売却は禁止だったのだろうか、と窺うように相手の顔を見た。すると、男は、
「そりゃそうだよね。中森さんみたいに料理上手な人だったら、鍋、もう気に入ったのあるよな」
 と言った。
「ああ、そう、そうなんです」
 なんていい解釈をしてくれるんだ。私はひやっとしたのを悟られないように、にこりと笑って見せてから、
「で、何でしょう」
 と聞いた。
 リサイクルショップで出くわすなんて偶然はない。私の後をつけてきたはずだ。
「あ、あのさ、中森さんの作ったスープ、食べ終わってしばらく経ってから、もう一回食べたくなって。で、一度そう思ったら、我慢できなくなったんだよな。あのスープをもう食べられないなんて無理だと思って、中森さんを追いかけてしまった」
「スープ……?」
「さっき、中森さんが作った玉ねぎのスープ。また食べたいってずっと印象に残る味だよね。いや、もう心にこびりついてる」
「ということは、おいしかったんですよね?」
 私は男の顔を見上げた。私より十センチ以上背が高くひょろっとしている。
「うん。すごく」
「だったら、どうして、バーニャカウダまみれハンバーグが優勝したんですか? あれ、そんなにおいしかったんですか?」
「ああ、あの子、校長のお孫さんの奥さんだから」
 おっと。口が軽すぎるだろう。平然と言う男に、私はめまいを起こしそうになった。出来レースだとは思った。私の料理が一位じゃなかったとしても、ハンバーグよりおいしそうなものが他にもあったから。でも、審査員側がそれをばらしちゃだめだろう。
「茶番ですね」
「うん。ごめん。でも、一番おいしかった人に審査員特別賞を渡そうって話にはなってたから、実質、中森さんが優勝だよ」
 何なんだそれ。実質とか事実上優勝であっても、何の慰めにもならない。優勝の十万円と鍋では全然違う。ついでに、あの鍋、高級とか言いながら三千円の価値しかなかった。
「あなた、インチキに加担したんですよね?」
 私はちょっと強気に出てみた。もしかしたら、審査がひっくり返りはしなくても、優勝賞金の半分の五万円くらいもらえるかもしれない。
「インチキってほどでもないけど」
 男は口を滑らしたことに気づいたのか、首を横にぶんぶん振った。
「すっごいインチキですよ。私は十万円もらってないし、私の次においしかった人、審査員特別賞取るはずなのにもらえてないですよね」
「でも、中森さんのスープ以外、あとは全部同じに感じたから、そこは校長の親戚でも誰でもいい感じかな」
「そんな味覚の人が審査してるっていうのが、間違いです」
「だよな。人選おかしかったよな。って、ここで立ち話もなんだから場所変えようよ」
 気づけばリサイクルショップの駐車場で私たちは討論していた。これでは持ってきた品が思いどおりの価格で売れずにもめてるみたいだ。
「あ、そうだ! おいしいパフェの店がここの近くにあるんだ。そこ行こうよ」
 男はご機嫌に言うと歩きはじめた。
 おいしいパフェ? この人、今のこの状況わかっているのだろうか。まあいいか。お腹もすいている。パフェじゃなく、お腹にたまるものを食べてやろうと私は後をついていった。

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3

 パフェと言うからおしゃれなお店を想像していたけど、連れていかれた店内は、簡素な造りで飾りも何もなく、テーブルと椅子を置いただけでこざっぱりしていた。
「やった。まだある! 三月下旬くらいまでが旬なんだけど、今年はまだあるなんてラッキー。えっと、はるかのパフェとあったかい紅茶二つずつで。このはるかっていう柑橘がすっごいうまいんだよな」
 男はメニューを手にすることもなく、私の分まで勝手に注文した。せめてサンドイッチとかボリュームのあるものを食べたかったのに。
「あ、そうだ。料理コンテストの時に紹介されたけど覚えてないだろうし。改めまして、下倉友成しもくらともなりです」
 男は名刺を差し出した。「RE-BING川端 編集兼カメラマン兼営業 下倉友成」と書いてある。リビング川端。郵便受けにたまに入っているし、よくショッピングモールでご自由にお持ち帰りくださいと置いてあるフリーペーパーだ。そこの編集者なのか。
「時々いてもたってもいられないくらい食べたくなるものってあるじゃん?」
 リビング川端は名刺を渡し終えるとすぐ話し始めた。コンテストの件について詰め寄るすきもない。
「思い出すだけで口の中に味が広がって胸の奥までじんわりするような味。中森さんだって、あれだけ料理が上手だったらあるだろう?」
「ないですね」
 私は料理が上手い。それは自分でも確信している。でも、自分の作るものが好きかと言えば違う。自分の料理は飽きる。中学生からずっと料理をしてきた。今二十六歳だから、十三歳から十年以上。さすがに食べ飽きている。それに作る過程を知っているから味が想像できる。調理している時点で、食べ終えた気分になってしまう。
「あんなにおいしいもの作れるのに? ぼくは今日の中森さんのスープ食べた時、これはもう一度食べないと絶対にだめだって思った」
「へえ……」
 いかにも手が込んでる料理が並んだ今日のラストで、さっぱりしたスープがおいしかったのだろう。それでも、褒められると悪い気はしなかった。
「あ、パフェ来た。食べて食べて。これも、ぼく一年に一回食べないと死んでしまうやつ」
 リビング川端は、パフェが運ばれてくるとそう言った。料理を食べないだけで、だめになったり死んだり忙しい男だ。
 パフェは、淡い黄色の実が器の半分以上にぎっしり載せられ、下の方はその果実で作ったのであろう黄色の透明なゼリーとシャーベット、底に砕いたクッキーが入っていて、深呼吸したくなるようなさわやかな香りが漂っている。
「いただきます」
 私は手を合わせてから、一番上の果実を口に入れた。外の皮は剥かれ、カットされた実には皮と果肉の間の白い部分が残っている。口に入れて、
「あ、おいしい」
 と思わず声に出てしまった。
「だろ?」
 リビング川端は自慢げに言うと、自分も食べ始めた。
「はるか」という果物は想像以上においしかった。新しい柑橘はいろいろ出ているが、甘さを追求しているものが多い。でも、これは甘みが強調されているわけではなく、柑橘類の特徴であるさわやかさが押し出されている。私は次々にはるかをほおばった。
「この薄皮があるおかげで食べごたえも出て、しっかりと味わえるのがいいですね。苦みが口の中に余韻を残してくれます」
 これは、感想を言いたくなる味だ。
「ゼリーも最高です。ゆるめに固められているから、はるかのいい部分だけが違う形になって味わえて。シャーベットのほのかな苦みもおいしい。ただ、このまま口をさっぱりさせて終わらせたいから、底のクッキーはいらなかったな。シャーベットでしめっちゃっててサクサク感もないし。クッキーは別添えにすべきかな」
「中森さん、めっちゃ食べるし、めっちゃしゃべるね」
 リビング川端に言われ、私は「いや、まあ」とうつむいた。おいしさの勢いで言葉がついつい出すぎたようだ。一方、リビング川端はまだ果実部分を食べている。私は食べ物の形状や温度が変わるのが嫌で、急いで食べてしまう。食べ終わってスプーンを置くと、
「食べるの早すぎない?」
 とリビング川端は目を丸くした。
「冷たいものは冷たいうちにです」
「なるほど。ぼく、ゆっくり食べちゃうんだよな。いつまでも味わいたくて」
「シャーベットが解けてべしゃべしゃになって、クッキーがどろってなりますよ」
 私のアドバイスにリビング川端は、
「中森さん、めっちゃ食べるの好きな人じゃん」
 と笑いながら、口に運ぶ速度を上げた。
 取材などで食べる機会が多いからだろうか、リビング川端は食べ方がとてもきれいだ。目鼻立ちもすっきりしていて、唇が薄い。その特徴のない顔も食べ物の邪魔にならなくていい。指が長くきれいな手が細長いスプーンと合っている。と眺めながらはっとした。パフェのおいしさに忘れていたけど、コンテストの出来レースのことを詰めるんだった。
「今日のコンテストのことですけど」
 と私は切り出した。
 単純そうな男だから、ごねたら審査を覆せるかもしれない。
「ああ。そうだよなあ。許せない? 訴える感じ?」
 リビング川端はのん気にシャーベットを食べながら言った。
「いえ。訴えるのは面倒なので。でも、私優勝したいというより、お金が必要だったんです」
「そうだったんだ。お金目的で料理コンテスト出るって変わってるよね」
「家賃を滞納してて。あと三万円いるんです。だから、実質優勝ならせめて半分の五万円でも欲しいかなと」
「家賃滞納?」
「私、定職についてなくてバイトで生活してるんですよね。そのバイトも二ヶ月前にやめてて、お金ないんです」
「それなら、十万渡すよ。中森さんの料理が一番おいしかったし」
 リビング川端はあっさりと言った。こいつ金持ちなんだろうか。「RE-BING川端」はキッズ情報や新装開店のお店も詳しく出ていて、よく読まれてそうなタウン誌ではあるけど、さっきの名刺には肩書がいっぱい書いてあった。小さな会社に違いない。
「本当ですか?」
「うん。十万払うし、その代わりさ」
「その代わり?」
 出来レースを黙っておくことだろうか? 私が首をかしげると、
「今日のスープ作ってよ。それでお互い得して解決、でいいかな」
 とリビング川端は言った。
「スープ」
「うん。だからあれ、もう一回食べたいんだよね」
「まあ……いいですけど」
 たかがスープに十万円を払う。いくらなんでも怪しくないだろうか。私はリビング川端をじっと見てみた。あっさりとした顔で目が穏やかだから悪い人には見えない。いや、見た目でわかるわけない。
「あっさり十万も払えるって怖いんですが……」
 私が言うと、リビング川端は、
「ぼく、今の仕事について八年になるんだけど、家にもほとんど帰らず職場で寝泊まりしてるんだ」
 と答えた。
「ブラックですね」
「いやいや、面倒で帰ってないだけ。自由度高いし、楽しいから仕事は気に入ってる。ただ、取材であちこち行ってると休みだからってどこかに行こうと思わないし、帰らない家にお金をかけようとも思わないから、お金がたまる一方なんだよね」
「はあ……」
 贅沢な話だ。というか、お金がたまる一方だなんて初対面の人間に話すなんてどうかしてる。
「だから、欲しいと思うものが見つかった時はいくらでも出そうと思ってて」
「それがスープ?」
「うん。三年くらい前に靴を買って、それ以来かな。欲しいものが見つかったの」
「そっか……。怪しくないならスープくらい作りますけど」
「よかった。もし怪しいって感じたら、すぐに警察に電話してくれていいから」
「わかりました」
 ここまで言うのなら信じてもいいだろうか。今はお金が必要なのだ。でも、ふと会場にいた参加者の姿が頭をよぎった。みんなこの日のために何回も試行錯誤したであろうし、真剣だった。
「私はお金もらえてよかったですけど、だけど、今日のコンテストが出来レースなのはよくないですよね。みんなは何も知らずがっかりしたままで」
「だよな。けど、楽しめたんじゃないかな。中森さん以外の人、連絡先交換したり、一緒に写真撮ったり盛り上がってたよ」
 私以外の人ね。私がまるで中に入っていけてないみたいじゃないか。事実だけど。
「皆さんレシピを考えて、家で数回は練習したはずです」
「中森さんもそうなの?」
「私は、食べる人を見て料理を考えようと思ってたので」
「じゃあ、いいじゃん」
「まあ……そうですね」
 私が騒いだとして、何もできないだろう。参加者たちは少なくとも私より生活が安定しているだろうし、鍋や十万円がほしいわけではなかったのかもしれない。すっきりはしないけれど、もう終わったことだ。それに、人のことを考えていられるような余裕はない。
「まとめると、スープを作ってくれて、ぼくが十万円を払うってことでいいよね?」
 パフェを食べ終えたリビング川端はそう言った。
「あ、はい」
「ここ出たら、ATMでお金おろして、十一万払うね。一万は材料代」
「どこで作ればいいですか?」
「ぼくの家は?」
「作るところ見るんですか?」
「いや、ぼくの家のキッチン、普段使ってないからきれいなままだし」
 リビング川端はそう言った。
「いつ作りましょうか?」
「いつでも。よかったらこの後、ぼくの家に泊まってくれたらいいし。それで、中森さんの気が向いたら作ってよ」
「川端さんはどこかに泊まられるんですか?」
 私が聞くと、リビング川端は眉をひそめた。
「その人、誰?」
「え? その人って、川端さんです」
 あ、違ったっけ。リビング川端はタウン誌の名前か。
「ぼくの名前は下倉。ぼくは普段どおり会社で寝泊まりする。会社の近くにスーパー銭湯あるからそこで風呂入って、仕事する。家に帰るより楽」
「それ、いい職場なんですかね」
「たぶんね。ただ、うちの会社、社員はぼくを入れて二名で他はバイト」
 リビング川端こと下倉はそう言って笑った。
「RE-BING川端」は下手な雑誌より読みごたえがある。紹介されるお店がフリーペーパーにありがちな美容室や飲食店だけでなく、町の書店や手芸店などもあり、情報が丁寧なのだ。お金を持ってない私は、有料の雑誌でなくフリーペーパーをよく読むが、他とは一線を画している。そんな地域誌の編集兼カメラマン兼営業なら忙しいのだろう。
 これは優勝するよりラッキーだ。十万円もらえて、家も使える。十万円あれば滞納分の家賃も来月の家賃も支払える。いや。ちょっと待てよ。私のスープに十万円の価値があるだろうか。初めて食べる時には驚きがあるからよりおいしく感じる。二度目になると、感動は薄れてしまうし、期待値が下倉の中で上がってるから評価が厳しくなる。食べた後、これじゃないんだよなと言われても困る。
「あのスープ、どこがおいしかったんですか?」
 参考にいくつか聞いておくことにした。
「全部がちょうどよかったのかな」
「玉ねぎやアサリが好き?」
「どうだろう。玉ねぎはそれほど好きなわけじゃ……、あ、あのスープ飲んだ時、思い出したんだよね」
「何をですか?」
「ばあちゃんとじいちゃんが海に近くてさ、子どものころ潮干狩りに行ったことや、みんなで夕飯を食べたことを。なんだか懐かしかった」
「なるほど」
「作れそう?」
「大丈夫です」
「じゃあさ、名刺にメールもLINEも電話番号も載ってるから、スープができた時連絡してよ」
「はい」
 私は最後に紅茶を飲んで、はっとした。何で飲み物まで勝手に注文するのだと思ったが、はるかの香りが残るテーブルで飲むには、紅茶が合う。冷めてぬるいのに紅茶がみずみずしい。私は最後まで残さず飲み切った。
 店を出ると、下倉はすぐにコンビニで十一万円を下ろして私にくれ、自分の家まで案内してくれた。
 駅から徒歩十五分はかかる二階建てのハイツで、まだ新しく部屋が広い。台所、リビングダイニング、そのほかに一部屋ある。
「部屋は好きに使って。ほとんど帰ってないから何もないけど、その分きれいだから。風呂もベッドも好きにしてくれたらいいし。電化製品も消耗品も何でも」
「はい」
「洗濯機はここで、掃除機はこっち。冷蔵庫の中も、タオルとかも自由に使ってね」
 下倉は丁寧に物のある場所を説明し、遠慮しないようにと何度も言ってくれた。
「じゃあ、仕事に戻らないとだし、行くね。できるの楽しみにしてる」
「わかりました」
 私は下倉が家を出たのを確認すると、まず洗濯機に汚れた服とエプロンを入れた。洗濯機は乾燥機能までついているから、放っておけばでき上がる。その後ベッドに寝転んだ。ああ、最高だとそのまま目を閉じた。

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 目を覚ますと夜の七時だった。完全に乾いた洗濯物を取り出し、日は暮れてはいるが窓を開け放し、空気を入れ替え、ゆっくりと家の中を見て回った。私の借りているアパートよりはるかに広くて清潔だ。私の部屋は古くて狭くて今まで住んできたであろう人の匂いがしみついている。それがここにはない。ただ、必要なもの以外何もなく殺風景だ。
「本当に家に帰ってないんだな」
 冷蔵庫には飲み物と醤油しかない。台所も風呂場も水垢ひとつなく、きれいに洗濯されたタオルが五枚ほどあるだけだ。いつ引っ越して来たのかわからないが、生活感がほとんどない。この様子だと一ヶ月もこの部屋で過ごしていないんじゃないだろうか。
 テレビもないし、本もない。あるのは数ヶ月分のフリーペーパー「RE-BING川端」だけだ。私もスマホや財布など、必要なものしか持ってきていない。暇つぶしに「RE-BING川端」を読むことにした。
 フリーペーパーは広告収入で成り立っているだろうから広告ページが多い。それでも、宣伝とはいえお店の特徴がしっかりと書かれている。写真もきれいで店の情報も通り一遍なものでなく、読むだけで行きたくなる。
 地域のイベントの様子は生き生きと書かれており、幼稚園や保育園の紹介は一日の様子に加え通っている保護者の声もあり詳しい。毎号、市議会議員を一人ピックアップして、実績を書いてあるのもいい。この市に住む人は読んだほうがいい一冊だ。読みごたえがあると感心しつつ冊子をめくり、最後のページに目が留まった。他のフリーペーパーとの差別化だろうか、「子ども生まれました」や「我が家のペット自慢」などのよくあるページの代わりに、「最愛なるブラザー&シスター」というコーナーがあった。
 二組のきょうだいを半ページずつ使い紹介している。一番新しい号では、幼稚園年長の弟が描いたお兄ちゃんの似顔絵と兄弟の写真が載っていた。「早くお兄ちゃんと同じ年になりたいなー」と弟の言葉が書かれている。なんていじらしい発言だろうか。子どももいないのに、体のどこかがきゅっとなる。
 下半分は、兄と妹の写真に「大好きな妹へ」とお兄ちゃんからの手紙が載せられている。年の離れた妹がかわいくて仕方ない。早くおしゃべりしたい、一緒に遊びたいと書かれた小学二年生のお兄ちゃんの手紙は率直で温かい。
 他の号は「喧嘩するけど本当に仲良し。二人がいてくれて幸せです」とお母さんからのメッセージと姉妹の赤ちゃんの時と小学生になった現在の写真が載ったものや、愛犬を家族のように思っている女の子が「私の妹だよ」と犬と一緒に出かけた先で撮った写真が掲載されていた。
 よくある写真がずらっと並ぶだけのコーナーとは違い、他人なのにその背景までが伝わるようで切ないようなたまらないような心地がする。忘れかけた時間や過ぎ去った日を思い出させる。きょうだいは時と共に関係が変化し、元に戻ることがないからだろうか。私はもっとこのページが読みたくなって、「RE-BING川端」を手にとっては最後のページばかりを見た。
 終わりに手に取った一年前の号には、
「中学生になってあんまり話さなくなったけど、お姉ちゃんのことずっと大好きだよ。幼稚園のころに描いた絵が見つかった(笑)。またこんなふうに遊びたいなー」という妹からのメッセージと、姉妹で空を飛んでいる絵が載せられていた。
 りんは、私のことをどう思っていただろうか。二歳違いの妹の花梨は、生まれた時からとてもかわいかった。近所の人もこんなかわいい子どもなかなかいないねと褒めてくれて、私までうれしかった。喧嘩もしたけど、小学校までは「あんたたちはどれだけひっついているのよ」と親にまでよく言われていた。
 一緒に暮らせていたら、今も仲良くしていただろうか。私が中学三年生になった時、同じ中学に入学してきた花梨は、苗字が違ってしまった私と校内ですれちがう度にぎこちない笑顔を見せた。
 ああ、嫌なことを思い出してしまった。私は読み散らかした「RE-BING川端」を元の場所に戻し、お茶を淹れダイニングに腰かけた。
「RE-BING川端」を読めば、下倉は仕事ができるのがわかる。大事に楽しみながら作られた雑誌だ。会社で寝てもかまわないくらい、この雑誌に思いが込められている。忙しい日々で食事もおざなりになっているのかもしれない。それで、玉ねぎのスープでおばあちゃんの味を思い出したのかも。
 よし。本気出して作ってやろう。懐かしのおばあちゃんの味を。コンテストのスープよりももっと下倉の心を揺らすものを作ってみるか。
 私はしたことがないけど、潮干狩りのアサリはスーパーのとはきっと違う。十一万ももらったし、海に行ってみてもいいかもな。
 スマホで潮干狩りのできるところを調べると、明日に備え、いつもより早く私は眠りについた。

続きは本書でお楽しみください。