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はじめに&第三章冒頭公開

はじめに──あなたは象徴の力を知っているか?

 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 日本国憲法の第一章第一条には象徴という言葉が刻まれる。実に印象的な条文である。私たちの国家は、象徴をもって社会を統合することを目指しているのだ。とはいえ、象徴について真剣に考えを巡らせたことがある人はどれだけいるだろう。象徴とは何か。象徴はどう生まれるのか。象徴は人々をどう統合し、人々をどう動かすのか。天皇制に賛成であろうとなかろうと、これは価値ある問いである。
 本書は、象徴と社会について書かれた一冊であり、私が訴えたいのは次のことだ。

 象徴の力が働く時、人は論理ではなく情動により動く。善き社会を作ろうとするあゆみが社会の息吹を消していく。そんなことは誰も望まないだろう。善き社会を作りたいのなら、自らがどのような象徴に巻き込まれているかを内省しよう。社会が壊れるその前に。

 この主張は、文化人類学者の間で名は知られているものの、ほぼ等閑視されていると言ってよい一冊に支えられている。それが、イギリスの人類学者メアリ・ダグラスによって一九七〇年に記され、一九九六年に大幅な改訂が加えられた『ナチュラル・シンボル──宇宙観コスモロジーの探索』(Mary Douglas, Natural Symbols: Explorations in cosmology. Routledge, 1996)である。同書は、社会を読み解くための方法論を備えた予言の書とも言える一冊である。人間が象徴に縛られ、象徴に突き動かされる動物であることが記される。自由であろうとするのなら、まず私たちは「象徴からの逃れ難さ」を知るべきだ。『ナチュラル・シンボル』はそのことを私たちに繰り返し訴える。

 本書は四部構成となっている。第一部は助走であり、目的は二つだ。一つには、宗教という言葉にまとわりついたいかがわしさを外すこと、二つには、儀式を「意味がない」とか、「たかが」といった言葉で軽んじがちな現代人の姿勢に一石を投ずることである。ダグラスは、善い社会をつくろうという試みがむしろ積極的に社会を壊す結果となっていることに警鐘を鳴らす。その言葉を引き継ぎ私は、ダグラスが強い影響を受けたフランスの社会学者エミール・デュルケムを紹介しつつ、宗教と儀式がいかに社会の根幹となってきたのかを具体例とともに示していく。その結果、第一部は、文化人類学の基本的な内容を紹介する教科書的色合いが強い。このためすでに文化人類学に造詣が深い人は第二部から読み始めても構わない。
 第二部は『ナチュラル・シンボル』の真骨頂であるグリッド&グループ分析を紹介する。ダグラスはグリッドとグループという二つの参照項を使うと、社会を三つのタイプに分類することが可能であり、それぞれのタイプにおいて異なる象徴が立ち上がるとした。人々は、知らず知らずのうちに社会が立ち上げる象徴に巻き込まれ、それらに導かれながら、感じ、考え、行動する。第二部のキーワードは、複数の象徴の組み合わせにより構成される宇宙観である。宇宙観が何かについてはここで詳しく解説する。なお、グリッド&グループ分析を既知の読者に向け、あらかじめお伝えしておきたい。まず一般的に知られるグリッド&グループ分析は社会を四つの類型に分ける。ただこれは後期ヴァージョンであり、当初は三つだった。理由は第五章にて説明するが、私が紹介するのは初期ヴァージョンなので留意されたい。二つには邦題についてである。初版の『ナチュラル・シンボル』は邦訳されており、そのタイトルは『象徴としての身体──コスモロジーの探究』(メアリー・ダグラス、江河徹ほか訳、紀伊國屋書店、一九八三年)である。ただ私は、『ナチュラル・シンボル』と記した方が原著の意図が摑みやすいと考えるため、タイトル表記を『ナチュラル・シンボル』で統一している。この理由については問題提起5で述べる。
 第三部では、ダグラスの議論をよりいっそう現代社会に引き付けて展開するため、「能力資本主義」という新しい言葉を導入する。これは激化する競争社会へのダグラスの警句をより一層際立たせ、同書の意図をわかりやすくするために私が作り出した枠組みである。ダグラスは苛烈な競争社会、つまり私がいうところの能力資本主義下では、人々が救済を求めて熱狂し、その熱狂には二つの形があると述べた。一つがミレニアリズム、もう一つがカーゴカルトである。現代を予測していたかのようなダグラスの慧眼に、第三部まで辿り着いた読者はきっと驚くことになるだろう。
 続く第四部では、能力資本主義が暮らしの中にどのように現れるのかを示す。ここでは能力資本主義下で現れる二つの欲望としての自己礼賛と身体離脱が、「自己研鑽型」と「社会変革型」の二つに分岐した形で現れることを述べる。この二つも能力資本主義と同様に私が作り出した言葉である。第十章では、一見反目しあっているように見える、コスパやタイパを求める人々とそのような思想に反対する人々が、能力資本主義という身体を共有するヒドラ(ギリシア神話に出てくる多頭の怪物)であることを示す。第十一章では、推し活や、セカイ系といった多くの人に馴染み深い現象を象徴の観点から読み解く。最終章では人間の社会が形式と反形式の間を揺れ動くことを示し、本書を閉じる。

 暴力的な言葉が飛び交い、戦火はじわじわと世界に広がり、多くの人がすでに命を落としている。半世紀前にダグラスが残した警告に満ちた予言を今ほど必要とする時代はない。人間の知性が善い社会を作り出すために使われて欲しいと祈り、自分もその一員として具体的に関わりたいと願って動く人に向け、私は本書を記した。ダグラスの冷静な理論と切迫感を込めた警句を今にひらき、届けることができれば幸いである。

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第三章 儀式──「たかが」では済まされない経験を作り出す力

 儀式という言葉は、いつから中身のない空疎な人間の行動を指すようになったのだろう。例えば二〇二二年四月二一日の朝日新聞の社説には、「もはや投開票は中国の決定を追認する儀式に過ぎない(傍点筆者)とある。香港で同年五月に行われる選挙において、香港民主派への過激な弾圧を指揮した強硬派の人物が選出される見通しになった状況を受けての記事である。中国政府の弾圧により香港の民主派は徹底的に押さえつけられた。加えて制度の改変により、立候補することもままならなくなった。このような状況で選挙が実施されるため「儀式に過ぎない」というわけである。
 次は、二〇二五年一月七日の日本経済新聞掲載の一節である。

 大統領選での敗北を覆そうとしたトランプ氏支持者らが議会を襲撃し、民主主義を脅かした事件から4年。大統領選の最終手続きである合同会議での結果認定は通常は儀式に過ぎないが、選挙での民意を尊重し、平和的な権力移行を進める節目として今回は大きな注目を浴びた。(傍点筆者)

 二〇二四年大統領選でのトランプ当選を受け、上院議長であるハリス副大統領(当時)が彼の当選を宣言した際のニュースである。こちらでは通常は意味を持たない実践が一転して意味を帯びるようになったというニュアンスが読み取れる。
 似た言葉として儀礼がある。例えば一九九七年四月三日の読売新聞には、愛媛県が靖国神社に公金を用いて玉串料等を奉納し、それが最高裁で違憲とされたことについての記事がある。玉串料奉納は「慣習化した社会的儀礼に過ぎないとはいえない(傍点筆者)ことが理由である。玉串料の奉納は宗教活動と考えられるため、これは政教分離の原則に反する。すなわち違憲というわけだ。
 これらの事例が儀式/儀礼について共有する前提と価値観は明らかで、それは次のようなものである。

 私たちの振る舞いには、中身のぎっしり詰まった「意味ある行為」と、形だけの空疎な儀礼的行為が存在する。

 しかし、儀礼あるいは儀式とは、そんなに空疎なものだろうか。儀礼と儀式を取り去れば、実質的で、中身のあるコミュニケーションが現れる。そんなことがあるのだろうか。宗教にまとわりつくいかがわしいイメージがもたらす弊害を私は第一章で指摘した。それと同様の警告を儀式/儀礼についても発したい。「たかが儀式」といった言葉を、振る舞いの空疎さを指す言葉として、それこそ「儀礼的」に当てる私たちの身振りそのものが、儀礼と儀式の「中身」を見えなくさせている、と。

 人間は儀式を行う動物である
 本題に移る前に用語整理を行う。文化人類学では、宗教的要素を含むものを「儀礼」(ritual)、入学式など宗教的な要素を含まないものを「儀式」(ceremony)と呼んで区別することがある。しかし無宗教の人が喪主を務める葬式は、儀礼だろうか、儀式だろうか。キリスト教と縁のない人が、牧師のいる教会で結婚式を行ったらそれは宗教的だろうか。宗教的要素の有無で儀礼と儀式を切り分けようとすると判断に迷うものが大量に現れ、ここに拘泥すると議論が進まない。従って本章では、この二つを互いに置き換えられる言葉と捉え、それが宗教的か否かには着目しないこととする。
 その上で改めて考えたい。儀式とはなんだろう。「たかが」と言われがちな儀式であるが、世界有数の百科事典であるブリタニカには、むしろ真逆のことが書かれている。まずブリタニカは、儀式を伝統や聖職者の導きによって行われる観察可能な形式だった行為と定義する。その上で、すべての既知の社会に儀式が見られることを指摘し、儀式を行うことをもって、人間を描き、定義することも可能だろうと述べる。
 この定義だけでも儀式の重要性を実感するには十分である。しかし「伝統や聖職者の導きによって行われる観察可能な形式だった行為」という説明は、かなり大雑把である。初詣とか、結婚式とか、成人式とかであれば、それを儀式として認識することは容易たやすいが、鍵で扉を開けるとか、料理をするとかいった行為はどうか。これらも観察可能な一連の形式だった行為であるし、長きにわたって行われてきたという点で、伝統的に受け継がれてきたと言えなくもない。
 本章の目的は、私たちにとっての儀式の意味と役割を改めて捉え直すことである。その観点から考えるとブリタニカの定義は少々緩すぎる。したがってもう少しだけ定義を狭めておこう。そのために導入したいのが、イギリスの人類学者エドマンド・リーチが導入した人間の振る舞いに関する三つのカテゴリである。リーチは学部生向けに書かれた人類学の教科書である『文化とコミュニケーション──構造人類学入門』において人間の行為を次の三つに分けた。

(一)人体の自然的生物学的活動──呼吸、心搏、新陳代謝過程など。
(二)技術的行為、すなわち外界の物理的状態を変える働きをもつ行為──地面に穴を掘るとか、卵をゆでることなど。
(三)表現的行為、すなわち、あるがままの世界の状態について何ごとかを単に述べる行為、 もしくは、形而上的手段によって世界の状態を変えることを目的とする行為。

 (一)と(二)は書いてある通りであるが、(三)はどのようなことか。まず表現的行為の最たるものは言語である。「外は暑い」という表現をとってみよう。「外(ソト)」は自分を取り囲む環境の一定の場所を指す際に当てられた、記号と音声である。「暑い(アツイ)」は温度計が示す数値や、体感的な感覚を通じて知覚できる環境の状態を指す。このように言語は世界の状態を説明する。ただ表現的行為が言語にとどまらないことも知っておく必要がある。例えば目を背けるとか、声のトーンといったものも表現的行為である。なぜならそれらにより嫌悪感とか、恐怖心とか、喜びとかいったものが表現されるからである。
 それでは(三)の後半、「形而上的手段によって世界の状態を変えることを目的とする行為」はどういう意味だろう。これは厄除けを想像するとわかりやすい。寺に行って祈禱をしてもらったり、祈りを捧げたりする行為は、火を用いて食材を変化させようとする技術的行為とは異なる。それはやってきてほしい未来を、言葉、身振り、道具を用いて表現することによって未来を操作しようとする行為である。つまり厄除けは、形而上的手段によって、世界の状態を変えることを狙っているのだ。

 かくも複雑な人間の行為
 本書はこの三分類を儀式の定義に用いるが、人間の行為を三つにきれいに分けることはほぼ不可能であることを前もって述べておきたい。これはリーチ自身も留保をつけている。
 分類が難しい理由は明白である。なぜなら人は、ただ立っているだけでも何かを表現してしまうからだ。例えば駅前に立ってスマホをいじっていれば、誰かを待っているのだろうと多くの人は想像する。調理のような純粋に技術的行為に思えるものも同様である。キッチンに立つ男性の姿を見た人は「この人は子どものいる父親かもしれない」と想像したり、「時間がない中ご飯を作っているんだろう」と考えたりするかもしれない。本人の意図や現実とは必ずしも関わりなく、その姿は何かを表現してしまうのだ。
 さらにこのことは、リーチのいう(一)の行為、すなわち人間の生物的働きにも当てはまる。走って息が切れることは生物的新陳代謝である。しかしこの状態ですら、「遅刻したのだろうか」といった想像を他者に抱かせるため、表現的行為に容易に転換する。
 このように人間の振る舞いは多面的であるため、三つにきれいに分けることなどできない。しかし、その複雑さを踏まえた上であれば、リーチの三分類は儀式の輪郭を捉えるための有用な武器となる。なぜならこの分類を使えば、ある目的を持ち、形式化された表現的行為の連なりを儀式であると見なすことが可能になり、鍵で扉を開けたり、調理をしたりといった技術的行為を儀式から外すことができるからだ。
 前置きが長くなったがこれで本書における儀式を定義することができた。次節より空疎と見なされがちな儀式の「中身」を捉え直すこととしよう。

 メアリ・ダグラス──「たかが儀式」に警告を発した人類学者
「儀式」を空疎な行為として見下す風潮を、一九六〇年代に鋭く警告した人類学者がメアリ・ダグラスであった。ダグラスは、一九六六年に出版された初作『汚穢と禁忌』で、次のように言い切る。

 儀式がなければ経験のしようがないものもあるのだ。

 儀式を形だけとする見方とは完全に対立するが、この一文は何を伝えようとしているのか。ダグラスはまず、「規則正しい順序に従って生起する事象」が形式であると解説する。例としてあげられるのは「一週間」である。ダグラスの眼差しは意外に思えるかもしれないが、一週間は月曜から日曜までの七つのカテゴリで分類されており、それぞれの曜日が規則正しい順序で生起する。一週間は、反復される形式そのものだ。
 その上でダグラスは、この形式が私たちにどのような経験をさせるのかと問う。私たちは、平日なしに週末を経験することはできるだろうか。月曜の記憶を逸したまま、火曜を経験することはできるだろうか。
 当然と言えば当然であるが、こんなことは不可能である。月曜の経験は、その前の日曜の経験により形作られ、月曜を経験するということは、その翌日の火曜を経験する準備が整ったということだ。さらにこの一週間が四回経験されると、それは一ヶ月の経験となり、一ヶ月の経験が一二回繰り返されると、それは一年の経験となる。
 私たちの時間の経験は、ある形式を潜り抜けることで作り出される。一年一二ヶ月という形式なしに、心だけで一年を感じ取ることはできない。全体を経験するためには、全体の一部を経験しなければならず、その一部の経験は全体を細分化する分類の形式によって可能になっている。
 そればかりではない。一年という時間の形式だった全体は、私たちの暮らしの中に落とし込まれる。平日朝の通勤・通学で駅が人だかりになること、金曜日の夜には楽しそうな人々が街に増えること、週末の朝はいつも混み合っているカフェに空席が多いこと。時間の形式は、このように暮らしの風景の中に取り込まれ、それとともに生きることで私たちは時間を体験する。私たちの生活リズムは形式が作り出している。

 友情は形式なくして成立しない
 さらにダグラスは、「友情は友情の儀式がなければ存在し得ない」とも述べる。時間ばかりでなく、人間関係も形式を欲すると言うのである。友情に儀式など不要であると直感的に思う読者も多いのではないだろうか。
 しかし実はそうではない。友達とは、親子でも、恋人でも、雇用関係でもないといった関係性の残余から理解することができる。つまり親子、恋人同士、雇用関係のうちで特徴的にみられる形式を回避しながら親密な関係を結ぶ関係性が友人という間柄だ。だからこそ、友人同士で性的関係を持ったり、会っている時間に応じて時間給が発生していたりしたら、途端に二人が友人であるという事実には疑問符がつく。これらは恋人、雇用関係では違和感なく起こる状況であるが、友人関係の枠内では起こらないことになっている人間関係の型、すなわち形式だからである。だからこそ、その形式からはみ出ると私たちは居心地が悪くなり、その関係を名づけ直したくなってしまう。これが恋愛ドラマでよくみられる、「私たちは友達なの? 恋人同士なの?」と主人公が抱く葛藤の正体だ。気が合うといった直感によって友情が始まることはあるだろう。しかしその継続のためには、友人の形式を反復しなければならない。つまり「一線を越える」とは、あるべき形式が崩れたことを意味するのである。

続きは本書でお楽しみください。