新潮社

試し読み

はじめに 本を読んでいるときに、私たちが考えていること

「本を読む」とはどういうことか

「本って、どうやって読んでいいか分からなかった」と、家に遊びに来たある人が言った。けれど、あるとき、何かのポッドキャストを聴いて、本の読み方が少し分かったという。
 本の耳を折ったり、線を引いたりしていけばいい、分からないところはいちいち調べないで飛ばせばいい。そう教えてもらったらしい。実際にその技法を使って読み終えたという本を見せてもらうと、ごく控えめに黒の細いボールペンで線が引いてあり、小さくドッグイヤーがなされていた。その本は、私の書いた本だった(『物語化批判の哲学』という本である)。「ふだん読まないような、むずかしい本だった」と笑っていた。
 難しい本をどう適切に理解するか、それを指南するテキストは山程ある。大事だと思ったところには赤いマーカーを引きましょう。分からないところには青いマーカーを。あるいは、こういうアドバイスもある。問いを持って読みましょう。誰かに後で話すつもりで読みましょう。どれもいいアドバイスだと思う。とくに本を読めないと感じていたさきほどの人にとって、一冊の本を読み通せた、というのは、それは素敵な出来事だったのだろうな、と思う。きっと次の一冊も読めるようになるかもしれない。
 けれど、私は、そういうことを考える手前のことを考えたい。
 読書術なんか大事ではない、と言うつもりはない。けれど、読書術というのは、本を読むことに正解を持ち込むやり方だ。ちょうど、観光ガイドみたいなものだ。京都駅についたら、7号系統、四条河原町・銀閣寺行きのバスに乗って、銀閣寺の写真を撮ったら、この団子屋さんに寄って……。
 観光ガイドは効率的に観光地を進むやり方を教えてくれるし、とにかくも限られた時間の中で名所を(めぐ)るというのは、それはそれで京都の一つのいい楽しみ方だが、京都の唯一の楽しみ方ではない。暑くなければ鴨川でぼんやりと過ごしてもいいし、どこにでもあるマクドナルドに行って外国からの観光客とその子どもたちの聞き取れない会話を眺めてもいいし、思いつきで近くの喫茶店に寄って涼んでもいい。
 私が京都の街を歩いているとき、私は何かを感じて、考えている。家にいるときには感じないことを感じて、考えないようなことを考えている。どんなふうに外国人は京都を楽しんでいるのだろうか、あのカップルらしき二人はいったいどんな関係なのだろうか、浴衣姿が多いが何かあるのか、今日の路上パフォーマンスはいい感じだな、さっき嵐電で席を譲ってくれたあの好青年はどこから来たのだろうか、とか。きっと私だけではないと思う。京都にいる人は、みんながみんな、次の乗り換えに間に合うかどうかだけを考えているわけではない。他にも、いろんなことを感じたり、考えたりしていると思う。
 同じように、私たちが本を読んでいるとき、いろんなことを感じて、考えている。ページをめくるあいだに、目次に戻ってみているあいだに、本に栞を挟むときに、買ってきて、家に帰って、表紙を少し眺めているときに。何かを思い出そうとしたり、驚いたり、著者の人生についてふと思いを馳せたりしている。
 一冊の本は、小さな都市である。一応順路通りに進むことはできるが、立ち止まったり、同じところをぐるぐる回ったり、じっと聞き耳を立ててみたり、(もた)れたりすることができる。私たちが本を読むとき、正しく本を理解することだけではない、いろいろなことをしている。いろいろなことを感じて、考えている。そのいろいろさに、私はとても惹かれている。
 本を読んでいるとき、私たちは何を感じたり、考えたりしているのだろうか。何を感じたり、考えたりすることができるのか。これが今から本書で私が取り組みたいと思っているテーマだ。
『走ることについて語るときに僕の語ること』で、作家の村上春樹は雲と空の話をしている。

 走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空はあくまで空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。(村上 2010, 35)

 あなたがランニング好きでないとしても、学校や部活で、同じような体験をしたことがあるだろうと思う。走っていると、雲が現れて、去っていき、空だけが残る。
 走っているときに考えられることがある。料理をしているときに考えられることがある。電車に乗っているときに考えられることがある。誰かを愛するときに考えられることがある。眠りに落ちる前に考えられることがある。
 同様に、本を読んでいるときに感じることができること、考えられることがある。私たちはもう、本を「適切に理解する」という話をしていない。私たちが、本をどのように用いて考えているのか。どんなことが考えられるのか、本の使用法に関わることに話題は移り変わっている。本を読んでいるときに、私たちが感じて、考えていること。それは何だろうか。
 私の本を読んでくれた人は、私の本で、何を感じ、考えてくれたのだろうか。

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それを考えて何がうれしいのか

 この本では、本を読んでいるときに、私たちが感じて、考えていることを考える、と言った。なぜそれを考えるのか、いま少し、理由をはっきりさせておこう。
 実は、この本を書くに至った経緯は、書店員の方と話したことがきっかけだ。デビュー作の本の挨拶に書店さんを周っていた。そこで、売れ行きやどんな人が買ってくれたのかについてお話を聞いた後に「どんな本が読みたいですか」と訊ねた。すると、別の書店で働いている二人の書店員の方が同じことを言ったのだ。
「本を売っている身だけれど、読書ってそんなにえらいのか疑っています」
「読書の素晴らしさばっかり言う本に飽きてきたんですよね」
 我が意を得たり、と思った。自分も、ずっと「物語を読むと人間理解が深まるっていうけれど、ちょっと周りを見たら噓ではないか」と思ったり「専門家は、自分の専門で分かることには興味があるけれど、分野を一歩出た時、なぜあんなにも人間の不思議や世界の謎に興味がないのだろうか」とか「人文書を読めば読むほど、人は愚かになることもあるのではないか」とか「本読みを自負する人を観察していると、本を読まない人をちょいちょい小馬鹿にしているのが許せない」「ちょっと本を読んでいるくらいで仲間意識を作ったりして、へんじゃなかろうか」と考えていたのだ。
 読書のポジティブキャンペーンばかりの現代だが、私は本を読むことにはネガティブな側面もあるのではないか、と考えてきた。良いところばかりではなく、悪いところも認識してはじめてちゃんと本を愛することになる。全肯定は愛ではない。
 読書の効用をいろいろな人が言っているけれども、実は「本を読むとは何か」を誰もが語り飛ばしている。本を読むとは、結局どういうことなのか、読書しているとき、私たちはいったい何をしているのか、という根本的なことをすっ飛ばしている。
 しかも、本を読むことがいいことなのかどうかは、そもそも本を読むことがどういうことなのかが分からない限り根拠のないものになりかねない。だから、本を読むのがいいことだ(あるいは悪いことだ)と言いたいときにこそ「でも、そもそも、本を読むってどういうことなんだっけ」と、根本に立ち返ることが必要だ。
 この本では、本を読むこととはどういうことかを考えていく。ちなみに、哲学というのは、ものごとのそもそもを考える態度なので、この本は「読書の哲学」ということになる。では、もし、「読書の哲学という学問の分野があるのですか」と訊かれたら、私は、あまりない、と答えることになる。どうも、哲学者というのは、本しか読んでいないような人々なのに、肝心の読書については見逃しているようだ。ということで、ありそうであまりなさそうな読書の哲学に取り組んでいこうと思う。
 この本では、本を読んでいるときに、どんなことを私たちが感じて、考えているのかを考えるにあたって、いろいろな本を取り上げたい。本屋さんに置いてあるたいていの種類の本を扱うつもりだ。
 なぜこんなにもいろいろな本を扱うのか。本を読むことの良し悪しを言うとき、人は自分の知っている本のことしか念頭に置かないから、話がよくすれ違う。そもそも何を「本」だと考えているかの時点で話が嚙み合っていないことがよくある。その危険を避けるために、いろいろな本を、それぞれの章ではっきりとイメージすることが重要だ。
 では、本とは何かについて、読書を哲学していこう。

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